537の2『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(アイルランド、20世紀から)
1913年、アイルランド自治法案がイギリス上院で3度目の否決にあう。1914年、第1次世界大戦の勃発により、アイルランド議会の復活と、アイルランドの権利拡大に関する法の制定が遅れる。1916年、アイルランドの民族主義勢力が主要な建物を占拠する。これを「イースター蜂起」という。そして、アイルランド共和国の独立を宣言する。しかし、イギリス軍によって鎮圧される。
1919年、前年の選挙に勝ったシン・フェイン党がアイルランド国民議会(ドイル)をつくり、ふたたびイギリスからの独立を宣言。シン・フェインとは、「われわれ自身で」という意味だとのこと。イギリスと国民議会支持勢力とのあいだで戦闘が起きる。1920年、イギリス議会でアイルランド統治法が成立する。北アイルランドの6州にひとつの議会、それ以外のアイルランドにひとつの議会がそれぞれつくられる。
1921年からは、北アイルランド6州はイギリス統治下にとどまろうと動く。1922年、イギリスからの完全独立をもとめる民族主義勢力の反対を押し切り、国民議会がイギリス・アイルランド条約を承認する。それでは収まらず、条約支持派と反対派との1年におよぶ内戦が勃発する。北アイルランドのアルスター地方は、この独立の際にイギリス領に留まり、その後プロテスタント系住民と、独立を求めるカトリック系の住民の対立が続く。
1937年、アイルランド自由国を廃止し、独立民主国家エールの樹立を宣言する新憲法が、国民の投票により承認される。1949年、前のイースター蜂起を記念して、4月、エールが共和制国家アイルランドとなり、イギリス連邦を脱退する。
1949年、英連邦を離脱し,アイルランド共和国となる。1955年、国連に加盟する。1955年、国際連合に加盟。1959年、エーモン・デ・ヴァレラが大統領に就任する。1973年、EEC(ヨーロッパ経済共同体)に加盟する。アイルランド共和軍 (IRA)が北アイルランドでの攻撃を再開する。1973年、アイルランドはEC(欧州共同体)に加盟する。
1985年、アイルランドとイギリスとの間に、ようやく和解の気運が盛り上がり、イギリス・アイルランド協定がむすばれる。これによりアイルランドは、北アイルランド統治に関して提言する役割をあたえられる。1991年、EU(ヨーロッパ連合)に加盟する。1993年、イギリス・アイルランド両首相が、テロ行為が集結すれば北アイルランド和平交渉を提案するという共同宣言(ダウニング街宣言)に署名する。1998年、アイルランドと英国間で北アイルランドに係る和平合意(通称:「ベルファスト合意」)がなされる。
1998年、アイルランドと北アイルランドでの投票により、ベルファスト合意(聖金曜日協定)のしめす北アイルランド問題の政治的解決が承認される。ようやく歴史的和解のまで漕ぎ着けた訳だ。1999年には、欧州共通通貨としてのユーロを導入、ちなみにアイルランドはユーロ創設メンバー。2004年、ヨーロッパ最大の経済成長を達成する。
2005年、IRAが武力闘争の終結を宣言する。2007年、バーティ・アハーンが3期目の首相に選出される。
(続く)
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537の1『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(アイルランド、19世紀まで)
アイルランド共和国は、北大西洋のアイルランド島に位置する。北東に英国の北アイルランドと接する。首都はアイルランド島中東部の都市ダブリン。
紀元前7000年頃、スコットランドから最初の人々が陸地をつたわってアイルランドに来て住む。紀元前5000年以前であったろうか、精巧な石組みでつくられた古墳群が見つかっている。場所は、ダブリンから北西、ボイン川流域ニューグレンジ、ノウス、ダウスである。3つの大型古墳と、40以上の古代墓が点在しているという。
そんな中でも圧巻なのは、石室を囲むように配置されたストーン・サークルに刻まれた渦巻き文様が特徴。石室内は雨をも通さないほどの綿密さ、精巧さでつくられており、どのようにして可能になったのだろうか。しかも、
冬至のの日には、入り口から墓室まで真っ直ぐ日光が届くような造りになっているというから、驚きであり、1986年にユネスコの遺産に登録される。
紀元前3200年頃、ボイン川流域に墳墓がつくられる。紀元前700年頃、ケルト人がアイルランドにやってくる。432年頃、聖パトリックがアイルランドに来て、この国の大半をキリスト教に改宗させたという。アイルランド南西岸沖少しのところに絶壁の島に、7世紀に建てられたという「スケリッグ・マイケル」と呼ばれる修道院の遺跡があり、1996年ユネスコの世界遺産に登録される。
795年、最初のバイキングがダブリン近くの島ランベイに上陸し、入植地を作る。1014年頃、アイルランドの王ブライアン・ボルーがアイルランド全土を統一する。クロンターフの戦いでバイキングを破る。しかし戦いの直後に王は死亡。
1170年、「ストロングボウ」ことペンブローク泊がアイルランドに侵攻する。ノルマン人のアイルランド侵略が始まる。1年後、ストロングボウがレンスターの王になる。1171年、イングランド国王ヘンリー2世がアイルランドの大部分を支配下におさめる。これが、イングランドによる植民地支配の開始となる。
1366年、アイルランドに入植したノルマン人の勢力をおさえるため、イングランドが「キルケニー法」を制定する。1494年、イングランド国王ヘンリー7世がアイルランド議会をイングランド枢密院の支配下に置く。1601年、イングランド女王エリザベス1世がアイルランドに軍を送る。ティロン伯ヒュー・オニールおよび同盟軍をキンセールの戦いで破る。1603年、イングランドがアイルランド全土を征服する。
1641年、カトリック系アイルランド人が、プロテスタント系イングランド人入植者に奪われた土地を取り戻すべく立ち上がり、数百人のプロテスタントを殺害する。1649年、イングランドの護国卿オリバー・クロムウェル率いる軍が、イルランドのドローエダとウェクスフォードで数千人を虐殺する。やられたら、やり返せということであったろうか。カトリックのアイルランド人の土地をプロテスタントの入植者にあたえる。これにより現地では、宗教戦争の様相を呈していく。
1690年、オレンジ公ウィリアムがボイン川の戦いでジェイムズ2世の軍を破り,北部アイルランドのプロテスタント居住地を守る。1782年、アイルランド議会が独自の法律を制定する権利を得る、1798年年、アイルランドの独立を求め、統一アイルランド人協会などの勢力が反乱をおこす。しかし、失敗に終わり、数万人が死亡したとも。
1801年、イギリスががアイルランドを併合する。そのことで、イギリス本国の連合法により、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立する。
1845年、ジャガイモに疫病が発生する。これを「ジャガイモ飢饉(Potato Famine)」という。西ヨーロッパ全体が被害を受け高、とくにアイルランドの被害が大きかった。4~5年におよぶ飢饉となる。そもそも、イギリスの支配によって小麦の取れる肥沃な大地をすべて接収されていた訳であり、その人々の唯一とも言える主食はじゃがいもであった。その被害は甚大であったらしい。一説には、死者約百万人、さらに百万人以上の国外流出者を出したという。
波多野裕造氏による説明には、こうある。
「1845年の夏、アイルランドは長雨と冷害に祟られ、それだけならまだしも、この年の8月、イングランド南部に奇妙な病害が発生した。それは三年前に北アメリカの東岸一帯を荒らしたウィルスによる立ち枯れ病の一種であった。しかもヨーロッパにはなかったこのジャガイモに取りつく菌は、9月に(中略)アイルランドに上陸するや、またたく間に全土に拡がり、その被害は三年間にも及んだのであった。」(波多野裕造「物語アイルランドの歴史」中公新書、1994)
かなりの数のアイルランド人が、新天地を求める移民となってアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに渡る。その数は、一説には150万~200万人もがやむにやまれずに祖国をみかぎって海外へ去った、とも言われるのだが。
1870年、ウィリアム・グラッドストーン首相がアイルランド人の小作農の法的権利を強め、土地所有を認める新しい法を成立させる。
(続く)
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108『自然と人間の歴史・世界篇』古代の奴隷制(古代ローマ)
古代ローマの社会には、どれくらいの奴隷がいたのであろうか。およそ定説らしきものはないようなのだが、ここではローマ人自身に語ってもらおう。橋明美氏のラテン語からの訳にて登場するのは、マルクス・シドニウス・ファルクス、彼は2世紀頃に生きていた。貴族にして元元老院議員、執政官(コンスル)の経験もある大立て者であるからして、述べるところには、なかなかに説得力がある。
「帝国全体を見れば、わが国の総人口は優に6000万、あるいは7000万にも達するだろうか。その8人に1人程度が奴隷ではないだろうか。しかも奴隷は農村地帯だけにいるわけではない。首都ローマにも奴隷があふれ、あるいは活動を担っている。この都の人口は100万人ほどになるようだが、少なくともその3分の1は奴隷だといわれている。(中略)すなわち、奴隷なくしてローマは成り立たない。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、橋明美訳『奴隷のしつけ方』太田出版、2015)
また、彼はこうもいう。
「どうすれば奴隷がよく働くか、奴隷をどう扱うのが最適か、奴隷という資産から最大の喜びを得るにはどうすべきかがわかっているだろう。奴隷に自由への道を歩ませ、あなたのよきワリエンテス(被護者)とするのはいつがいいかもわかっているだろう。」(同)
たしかに、ここでの奴隷というのは、ローマという広い空間のいたるところ、農村や鉱山、都市の工房やあらゆる作業所、貴族や宮廷の現場のどこにおいても、日常不断に、広く見られたことであろう。
そういえば、古代ローマでは奴隷の反乱が絶えなかった。大きなものでは3度あり、一度目は紀元前135年に発生し、同132年まで続いた。当時のローマは共和制であったが、この体制にシキリア属州(現在のシチリア)のエンナの奴隷の反乱をきっかけに、全土に広がる。元奴隷で自身を預言者と称したエウヌスとキリキア出身で軍事指揮官としてエウヌスを支えたクレオンを指導者とし、戦う。
二度目のものは、紀元前104年から同100年にかけての共和政ローマ期に、これまたシチリアで起きた奴隷による反乱であったのだが。いずれも、奴隷に対する搾取を強めつつあった貴族らの大土地所有の進展に対し、反旗を翻したものとしてあったのだが、この両方にローマから大軍が送り込まれて鎮圧された。
そして3度目のものがやってくるのだが、時は紀元前73~同71年、同じく共和制下でのものだった。今度は、剣闘士奴隷が持ち場を脱走し、主力をつくってのものであり、それまでとは異なる展開を辿る。ここに剣闘士奴隷というのは、数ある奴隷の種類中でも、異色の出身者で大方占められていたといわれるのだが。前述のマルクス・シドニウス・ファルクスは、別のところでこう語る。
「剣闘士の多くは奴隷や死刑囚など、もともといちばん卑しい身分の者たちである。(中略)死刑囚が死に値することはいうまでもない。つまるところ彼らは盗人や殺人者なのだから。だが、野獣と人間を戦わせるからには、死の恐怖に耐えながら機転と技能と創造性を示すものでなければならない。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、ジェリー・トナー解説、北綾子訳、『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017)
もう一度、先ほどの3度目の大規模奴隷反乱の話を進めよう、その概略はこうだ。脱走者仲間の中心人物のスパルタクスは、仲間とともに南イタリアのカプアの剣闘士養成所を脱走する。その足で向かったのはヴェスヴィウス山で、ここに立て籠もり、討伐隊を撃退したのである。
その後、近隣の奴隷たちが反乱に加わって、軍勢は数万から十数万人の軍衆に膨れ上がる。その隊列の中には、剣闘士たちの家族もあったのではないか。紀元前72年には、ローマの執政官(コンスル)の率いるローマ軍団を数度にわたって打ち破って、アルプスを越えて解散帰郷の方針を立てる。しかし、仲間の意見はまちまちであり、一本化することはついにできなかった。 そこで、当面イタリアにとどまることとし、一時はローマに迫ったという。
ひとまず体制を立て直したローマ元老院が切り札として送ったローマの正規軍団であり、それが迫ると、反戦軍はじりじりと後退を余儀なくされていく。一説には、スパルタクスらは向こうの正規軍との激突は不利とみてこれを避け、南進してシチリアに向かい、そこからアフリカへ逃れようとする。
イタリア半島の南進を続ける。彼らの脳裏には、そろそろ新天地をどうしたらよいかが浮かんでは泡となって消えていく、それを繰り返していたことだろう。そして迎えた紀元前71年、元老院が兵の増派に動く中、反乱軍は反転してクラッススの率いる軍団との決戦を決意するに至る。そして激戦の到来により、さしもの奴隷反乱も鎮圧される。
この「スパルタクスの蜂起」と称される奴隷反乱の掲げたものは、世直しというよりは
かなり違っていたのかもしれない。
(続く)
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107の2『自然と人間の歴史・世界篇』古代社会の階級制(ギリシア)
古代ギリシア社会が階級によって仕切られ、それぞれの人生がその制約なりを陰に日向に、強くあるいは弱く受けていたであろうことは、様々なエピソードとともに、今日に生きる者に伝わる。例えば、その頃に生きた一人であるところのクセノフォンは、ソクラテスと(ソクラーテス)とアリスティッポスのやりとりの一端を、こう紹介している。
「そこでソクラーテスが言った。
「では、治める者と治められる者と、どちらが愉快な生涯か、これを考えてみようか。
「ええ、考えてみましょう。」と彼が言った。
「第一にまず、われわれの知ってる国民からいうと、アジアではペルシア人が治める者でシュリア人、フリュギア人、リューディア人が治められる人間だ。そしてヨーロッパでは、スハュリティア人が治めて、マイオーティフ人が治められている。リビュアではカルタゴ人が治めて、リビュア人が治められている。この両極の民のどちらが愉快な生涯であると君は思う。
あるいはまた、君自身もその一人であるギリシャ人にも、支配階級と被支配階級と、どちらが楽しく暮らしていると君は思うかね。
「いや、私は」とアリスティッポスが言った。
「決して奴隷の部類にも自分を入れはしません。それよりも、その両方の中間の道があるように私は思います。ここを私は歩いて行こうと思うのです。それは支配をも奴隷をも通らないで、自由を通っているものであって、これが幸福に至る最上の道です。」
「なるほど、この道が支配および隷属の中も通らぬとひとしく、人間の世界も通っていないのであったら、あるいは君の言うことにも幾分の意議があろう。しかしながら、もし人の世に住んでいる以上、もし君が治めることも仕えることもいやだというなら、君は見るであろうと思う。いかに強者は弱い者を公(おおやけ)ならびに私の生活において泣かせ、奴隷同様に扱う術を心得ているかということを。」(クセノフォン著、佐々木理訳「ソクラーテスの思い出」岩波文庫、1952)
(続く)
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107の1『自然と人間の歴史・世界篇』古代ギリシアの奴隷制
古代社会にあっては、奴隷制が広く行われていたのであろうか。また、そうであったなら、それはどのようなものとしてあったのかを、ほんのしばらくながらも振り返ってみたい。
顧みるに、古代ギリシア文明は、「ポリス」と呼ばれる都市国家の連合体により営まれていたことがわかっている。古代の民主社会とも言われる。ところが、そのギリシア社会の中で民主の恩恵に浴していたのは、オイコス(家産)の家長とその家族、親族らであった。
オイコス同士については、基本的に平等であったという。彼等は、お互いに家産の運営に就き干渉しないことになっていた、少なくとも、そうであるべきことが社会的に尊重されていた。しかし、オイコスに共通する問題、例えば戦争の開始や他国家との協定の締結などについては、各単位毎に分散的に決定するのでは解決できない。それゆえ、これらの問題は家長たちがアゴラ(広場)に集まり、衆人が観ている前で議論し、最終的には投票で事を決着する慣習が通用していた。
では、かれらは日々の生活を成り立たせるために、どのような日常を送っていたのだろうか。例えば、戦ったり、議論したり、芸術にいそしむばかりでは、社会は存続できなかった。家内労働や手工業の発達も色々とあったしても、農業が主体であったことは、疑いあるまい。おまけに生産性がまだ低かったであろうから、日がな一日、戦ったり、議論したり、芸術にいそしむばかりでは、社会は存続できなかった筈なのだ。
その答えとは、この社会では、奴隷の使用が不可欠とされていた。奴隷とは、自分たちの共同体を失い、家族をもつことも許されない、人格も認められない存在なのであった。
それでは、奴隷とされた人たちは、一体どんな生活を強いられていたのだろうか。つづめていうと、古代ギリシアの奴隷には、奴隷のなかには公共の仕事につくものもいたが、少数であった。主として家内奴隷と、それ以外の奴隷とがいた。農業や工業などの労働に従事させられる奴隷も、かなりの数いたであろうと推測される。
では、それらの奴隷たちの供給源は、何であったのか、彼等はどこから来たのであろうか。その途には、幾つかもあったことがわかっている。ざっというならば、「捕虜や借財のために奴隷としてみずからを売り転落した市民、奴隷として輸入された小アジアや東方・北方の異民族が、奴隷商人によって売買された。デロス島などには大きな奴隷市場があった」(木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究』山川出版社)より)とされる。
では、そのギリシア社会において奴隷の数は、どれくらいであったのだろうか。同書によれば、「とくにアテネではきわめて多くの奴隷が用いられ、前5世紀には奴隷が人口の3分の1を占めたといわれる」(同)。
とはいうものの、「ギリシアではのちのローマにみられるような大規模な奴隷農場は見られず、わずかに鉱山で大量に使役された程度であった。普通の市民は奴隷とともに農業や建築労働をおこなった。富裕な市民は手工業の作業所で奴隷を働かせたが、人数は、古典期のアテネでもひとつの作業所に20~100人程度であった。また自分の所有する多数の奴隷を、作業所や高山に貸して利益をえる市民もいた」(同)という。
その当時、奴隷を使う側はどんな風に奴隷をみていたのかを伝えるものに、万能人と評されていたらしい、かのアリストテレスに次の言葉がある。
「奴隷は生ある所有物である。そして凡て下働人はいわばその他の道具に先きだつ優れた道具といったようなものである。
何故ならもし道具がいずれも人に命じられてか、或は人の意を察してか自分の為すべき仕事を完成することが出来るなら、例えば人のいうダイダロス作の彫像や詩人が「ひとりでに神の集いに入り来りぬ」と言っているヘパイストスの三脚架が自ら動くように、梭(ひ)が自ら布を織り琴(キタラー)の撥(ばち)が自ら弾ずるなら、職人の親方は下働人を必要とせず、また主人は奴隷を必要としないであろう。」(アリストテレス著・山本光雄訳「政治学」岩波文庫)
もう一つ、奴隷たる人は生涯、その身分から抜け出すことはではなかったのだろうか。奴隷は解放されることも珍しくなかったが、解放奴隷には市民権は与えられず、在留外人と同じ身分におかれたらしい。
このように奴隷が厳しい状況に置かれていたのには、「ギリシアにとっては周辺・辺境の異民族から供給されることが当然のことと思われて、ギリシア人たちの異民族への軽蔑の念がいっそう強まり、また農業以外の労働を重要視しない傾向が生まれたのである」(木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究』(山川出版社)より)とされる。
(続く)
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