351『自然と人間の歴史・世界篇』辛亥革命(1911)と五・四運動
1911年には、中国で辛亥革命(しんがいかくめい、命名はこの年の干支(えと)からのもの)が勃発する。これより前の1894年、中国では興中会が結成される。この結社は、清朝を倒し、漢民族主体の国家をつくろうとする。その後、1895年に広州(こうしゅう)武装蜂起を試みるも、失敗し、指導者の孫文(そんぶん、1866~1925)らはちりぢりになる。
1905年には、東京で中国革命同盟会を結成し、「三民主義」を綱領とする。この三民主義というのは、国内諸民族の平等と帝国主義の圧迫からの独立(民族主義)、民主制(共和制)(民権主義)、平均地権・節制資本の考えによる国民生活の安定(民生主義)の三つから成る。
そして迎えた1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起を起こす。こうなると、革命の炎はもはやとどまることを知らない。各省がこれに呼応して独立を訴えるという、全国的な闘いへ発展していく。
当時、指導者の孫文はアメリカにいた。独立した各省の代表は、清朝を打倒した後の国家を相談する。俗に武昌派と上海派に分かれ、革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争うのであったが。しかし、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、大同団結を誓う。
そんな中、翌1912年1月1日を期して、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京(なんきん)に成立する。2月に入り、清朝を倒すため軍閥の袁世凱(えんせいがい)の力を借りる。そして迎えた2月12日、清朝の宣統帝(溥儀(ふぎ))が退位し、清朝が終幕する。
その後、孫文は政権の実権を実力者の袁世凱に譲る。しかし、その独裁政治に抗して第二革命を開始するのを決意するのであった。いまさらながら、「こんな筈ではなかった、もう一度」というところであったろうか。
1919年5月4日からの、いわゆる「五・四運動」の盛り上がりをまのあたりにしてからは、大衆的な運動をめざして、それまでの中華革命党を中国国民党と改組し、再出発するにいたる。そこでこの五・四運動だが、日本で伝えた新聞記事に、こうある。
「北京に排日の暴動起り、親日派と目され居る曹交通総長初め前駐日公使陸宗輿氏及び最近帰国の章公使等の邸宅を襲撃し、章氏は負傷したりとの報あり。如何に公憤の発露なりとするも奇禍に罹れる諸氏に対しては気の毒の感に堪へず。
支那人は平常温和の如きも悲歌慷慨の士乏しからず、とくに南方人士中に熱烈の人多く、加ふるに雷同性に富めるより、最初は理路整然たる討論も動ともすれば激越に流れ演壇に立つ弁士の如きも声涙共に下るは珍らしからず。(中略)
今回の暴動其ものは巡警、兵士等の実力を有するものの加入し居らざるより暴動自身は直ちに鎮定すべきも、支那人一般に日本に対し非常なる反感を有する国辱記念日なる五月七日、即ち大隈内閣当時所謂二十一箇条の要求を貫徹する為め最後通諜を送りたる日近寄り、其際に前述の国民外交協会は大会を五月七日中央公園に開催し、山東問題に関して全国輿論の喚起を画策し居りたる際とて、今回暴動の余波が若し北京政府にて完全に抑圧されざるに於ては、再び同様の挙を繰り返さずとも限らず。又右暴動は巡警、兵士を以て抑へ得るとするも、支那一流の激烈な排日檄文電報の全国各要地に発せらるるは勿論なるべく、又中央政府も此際に言論の自由まで束縛し得る事も容易ならざる事とて、決して楽観は出来ざる可し。
殊に今回は巴里会議に於て日本の主張多く容れられず、山東問題の如き漸く通過したる状況にて、恰も日本は国際間に孤立の状態にある如く表面よりは観察せられ、支那委員の報告も動もすれば日本を軽侮し、英米委員の前にては日本委員は何事も為し得ざる如く報じ、又在支英米人は自己の利害より打算して陰に陽に排日思想を鼓吹し居れるより、世界の事情に暗き学生は此の機会に於て日本の勢力を打破するは易易たりと誤解したる点もある可しと思はる。要するに後報を待つに非ざれば何人も今後の成行に就て確言し難かるべし。」(東京朝日新聞、1919年5月6日付け)
これにも窺えるように、中国では1919年のパリ講和会議において、列強による21ヶ条要求の取り消し、それに山東(さんとう、現在の山東省)におけるドイツ利権の返還を提訴するのであったが、列国はこれらを認めない。帝国主義者にとっては、そもそも反省などはなく、あるのはますますその相手国を食いちぎることなのであった。中国の民衆たるものは、これに激しい衝撃を受け、同年5月4日、北京大学の学生を中心に立ち上がったのであると。
そんな中でも、北京大学の学生代表が、「われわれは、パリのベルサイユ講和会議で決定された山東省の日本への割譲に断固反対する」などと宣言する。ここに、第一次大戦後のパリ講和会議で、山東半島の利権返還などの中国の要求が通らず、また、日本の対華21か条要求に対する不満と怒りがまさに爆発したのである。かかる学生デモを契機として全国的規模に発展する。これに押される形で、中華民国政府はベルサイユ条約調印を拒否せざるをえなくなった。これはこそは、状況に応じて、対外面で力を得てのことだったのであろうか。
1924年には、中華民国政府は、中国共産党との間に、国共合作を実現する。当時5億といわれる中国人民をまとめ、民族を統一し、封建勢力を倒そうとするのであった。だが、孫文らは革命推進のため広東から北京に入ったものの、彼自身は「革命いまだならず」の言葉を残して病死した。孫文自身は、中国共産党のマルクス主義思想について、これといった書き物や演説の類は残していないものの、大方は親和的な態度をとっていたやに伝わるものの、これといったマルクス主義文献を読み込んでいたかどうかはわかっていない。孫文の後は、政治力にたけ、軍事も握っていた蒋介石が引き継いでいく。
(続く)
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330『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義と南アフリカ
1852年には、欧州から南アフリカを中心に移民が始まる。主にはオランダ系の人びとであった。1867年には、現在の南アフリカ共和国キンバレー付近にてダイヤモンドの鉱脈が発見される。さらに、1886年にはその東方のウイットウォーターラントにおいて、金の新鉱脈が発見される。その金の鉱脈は当時、世界最大級のものであった。
遅れて、イギリスからの移民が南アフリカに進出してくる。白人の鉱業資本家が生まれる。これは、先住民たる黒人から土地を奪うものであり、伝統的な黒人社会の農業は根こそぎにされていく。
1890年、イギリスは、セシル・ローズの指揮にて、パイオニア・コラムとして知られる多数の入植民部隊を南ローデシア(現在のジンバブエ)に送る。そのイギリスは、1871年にはグリカランド・ウエストを、1877年にトランスバール共和国を併合、着々と勢力を拡張してきていた。
1893年には、イギリスの第二次セシル・ローズ内閣が南アフリカ原住民を抑圧する基本方針をうち立てる。1895年には、トランスバール政府転覆計画(ジェームソン侵攻事件)を試みるが、これは失敗する。
このセシル・ローズがどんな政治思想をもっていたかについて、レーニンによる興味深いスクープがある。
「セシル・ローズは、彼の親友でジャーナリストであるステッドの語るところによれば、1895年に、帝国主義的思想についてステッドにつぎのように述べた。
「私はきのうロンドンのイースト・エンド(労働者街)にいき、失業者のある集会をたずねた。そして、そこでいくつかの荒っぽい演説をきき、ー演説と言っても、じつは、パンを、パンを、というたえまない叫びだけだったのだがー、家に帰る途中でその場の光景についてよく考えてみたとき、私は以前にもまして帝国主義の重要さを確信した。(中略)私の心からの理論は社会問題の解決である。
つまり、連合王国の400万の住民を血なまぐさい内乱から救うためには、われわれ植民政策家は、過剰人口の収容、工場や鉱山で生産される商品の新しい販売領域の獲得のために、新しい土地を領有しなければならない。私のつねづね言ってきたことだが、帝国とは胃の腑の問題である。諸君が内乱を欲しないなら、諸君は帝国主義者にならなければならない。」(ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957:「レーニン全集第22巻に所収)
その後1899年から1902年にかけて、イギリスのケープ総督ミルナーは二つのボーア人国家と戦い、これに勝利する。トランスバールとオレンジ川植民地(自由国)はイギリス王領地に組み込まれる。これに対しボーア人の方も、団結を強めていく。
1910年になると、新たな動きがある。ケープ、ナタール、トランスバール、オレンジの4州は、南アフリカ連邦を結成する。その結果、「リンポポ川の南では、スワジランドとバストランド(現レフト)がイギリス保護領として命脈を保ったものの、実質的に南アフリカ全土でアフリカ人は独立を失い、イギリスの支配が完成することになった。」(宮本正興・松田素二編「新書アフリカ史」講談社新書)
1910年には、イギリスとの同盟関係を維持しつつ、イギリスが一時占領していたトランスバールおよびオレンジ州を譲り受け、アフリカーナ系(オランダ系白人(アフリカーナと呼ぶ))のSANP(South African National Party:南アフリカ国民党)がこれらの地を基盤して南アフリカ連邦を樹立する。これに対し、1934年にはUP(United Party:統一党)が結成される。
(続く)
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337『自然と人間の歴史・世界篇』義和団の乱(1899~1900)
義和団の乱というのは、1899年から1900年の世紀の変わり目に起こった、中国の民衆の排外主義に基づく一連の闘争をいう。始は、西洋列強や日本といった帝国主義勢力に対する自然発生的な反発であったものが、やがて広まるにつれ、山東(現在の山東省)にみる如く、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げるにいたる。
これに集まったのは、宗教的秘密結社である義和団が中核であるが、列強の横暴に業を煮やしていた民衆の不満のはけ口ともなっていく。ここに義和団とは、義和拳という武術をマスターすれば鉄砲も刀も怖くないという迷信を持った人々の集団なのであって、かかるスローガンがなぜ採用されるに至ったのかは、そして彼らがこの民衆蜂起にどれくらいの指導力を発揮したかは、よくわからない。
1900年に入ってからは、彼らは山東省時代からの、キリスト教徒を悪者呼ばわりする姿勢を強める。これには、1860年の北京条約でキリスト教の布教が自由になって外国人宣教師が奥地に入るようになった。そして、治外法権を利用した横暴なふるまいによって中国民衆との紛争が頻発するようになっていたこともあろう。
やり場のない不満や怒りを抱く大衆の暴動は、華北一帯に波及していく。そして、彼らは清朝の首都・北京へ向かって進軍を開始する。一方、清国政府としては、これを鎮圧するか、それとも利用して列強を牽制し、全面的植民地化を免れるべく体制を立て直するか。とにかく、どうにかしなければならない。一説には、紫禁城の中では後者の思惑が働いた、とされるのだが。
そて迎えた1900年4月、民衆は北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、これに驚いた日本・イギリス・アメリカ・ロシア・ドイツ・フランス・イタリアそしてオーストリア・ハンガリーの8か国がこぞって参加しての連合軍の出兵を決意するにいたる。彼らが救おうとしたこの区域には、一説には4000人もが脱出できなくなっていたというから、驚きだ。総司令官にはドイツ人のガスリーが就任し、戦いが繰り広げられ、約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は首都北京及び紫禁城を制圧し、さしもの暴動も鎮圧されるのであった。
(続く)
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252『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(北京条約、1860)
続いての1860年10月24日、清国は、賠償金の増額、天津の開港、九龍半島南部のイギリスへの割譲など、さらに過酷な内容の北京条約を結ぶ羽目に陥る。その第6条には、こうある。
「清国皇帝陛下は香港の港湾内及びその付近における法律及び秩序を維持する為、大ブリテンアイルランド女皇陛下及びその継承者に対し、広東省内九竜地方の市街地にして英国政府の為、…その永代借地権を付与せる部分を、英国女皇陛下の香港植民地の付属地として保有せしむる為割譲することを約す。」(「支那関係条約集」)
続いての25日にフランス、11月14日にロシア帝国と同様の条約を締結する。
これらを受けて、清国内に西洋列強による新たな出先が出来ていく。1861年には、清朝政府に外交を管掌する官庁として総理各国事務衙門が設けられる。また、1862年からのアヘン輸入税は一担あたり350両にも引き上げられる。いよいよ清国の財政の中に深く食い込んでいく訳だ。
そればかりではない。その後のインドの対中国・香港輸出商品は、アヘンが主役になっていく。綿花の輸出は、対中総輸出の30%程度から激減の一途を辿る。それに替わって、1870年頃からインドからの綿糸輸出が急ピッチで伸び続け、1880年には綿糸がアヘンを抜いて対中輸出のトップに躍り出る。
1863年6月になると、やや遅れて上海にやってきたアメリカが、清朝政府から上海に新たな地を与えられる。彼らは、「アメリカ租界」を開設する。11月になると、上海におけるイギリス租界とアメリカ租界は合併し、「上海共同租界」が生まれる。それから20年位が経った1885年、清仏戦争の結果として清とフランスの間で締結された条約も天津条約、また同年、甲申政変を受けて日本と清で締結したもの天津条約と呼ばれる。さらに1898年になると、イギリスが九竜半島北部(新界)と付属する島嶼(とうしょ)を99年間の租借とすることを清国に認めさせる。
(続く)
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251『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(天津条約、1858)
アロー号事件を契機とする戦争は、イギリス側が仕掛けた戦争なのだが、かねてから中国進出の野望を持っていたナポレオン3世が、兵を発して英国と力を合わせることを約す。それからは、英仏の連合軍対清国の戦いとなる。1858年6月になると、清国政府は軍事的に追いつめられる。イギリス・フランスの連合軍にもはや対抗できないと判断する。
そして迎えた1858年6月、双方の代表が天津条約に署名する。清がその批准を拒否したため、英仏が北京を攻撃する。1860年10月に天津条約の批准書交換が行われ、条約が発効する。
それには、こうある。
「第3条:清国皇帝陛下は大ブリテン女皇陛下の任命せる大使、公使その他の外交官が、英国政府の意志に従いその家族及び従者と共に首府に常住し、又は随時首府に来往し得べきことを約す。
第8条:キリスト教は新教徒又はカトリック教徒の何れの信仰する所たるを問わず、共に徳義の実行を奨め、己の欲する所を他に施すべきを人に教うるものなり。従ってその宣教者又は信仰者は、清国官憲の保護を受くるの権利を有す。
第11条:南京条約に於て開放せられたる広州、厦門、福州、寧波、上海の市邑に加うるに、英国臣民には牛荘、登州、台南、潮州および海南の市邑及び港に来往することを得べし。(「支那関係条約集」)
清は、このような条約を、フランス、ロシア、アメリカとも結ぶ。
その中でも、公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金・阿片の輸入の公認化が盛り込まれたのは、大きい。
これにより、以後、外国公使(外交官)が北京に駐在する。
(続く)
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250『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争後の中国(アロー号事件)
1843年11月、上海がイギリスに向けて開港した。その前の1842年には、南京条約が結ばれていた。香港島のイギリスへの割譲、賠償金支払い(銀での支払い)、広州・厦門・福州・寧波・上海の5つの港の開港、公行の廃止、対等の国交と領事駐在の承認。清国が西洋に屈した第一歩である。翌年この条約に対する追加事項を盛り込んだ虎門寨追加条約が締結される。その中では、領事裁判権(治外法権)の承認や関税自主権の喪失が含まれる、「不平等条約」となっていた。1845年11月、イギリスとの間で上海でのイギリス租界設置に関する第一次の協定「土地章程」が締結される。
続いて上海にやってきたフランスも、1849年4月には負けじとフランス租界の設置に漕ぎ着けた。そのフランスは、南京条約の2年後の1844年に、イギリスとほぼ同様の望厦(ぼうか)条約を、清朝政府と結んでいた。ここに租界というのは、ある区域としての「界」を「租」ということで借りるという意味合いがある。イメージとしては、清国の特定の土地を、ある特定の国が借り、その土地を自国民に貸し出す行為(コンセッション)に近い。
この戦争後のアヘン貿易については、戦争集結とを境に中国はイギリスからアメリカ、ロシアまで複数の国に門戸を開かざるを得なくなる。中でも、戦勝国のイギリスは、賠償取立てによる2100万銀元(清朝政府の1842年歳入の約3分の1)に始まり、中国の輸出入の部署である海関の総税務司にイギリス人を就任させたり、清国内でのアヘン貿易の合法化を獲得したりで権益を拡大していく。一国への強要とはいえ、アヘンの合法化は、清国とっての関税収入に寄与する面もあった。具体的には、これを「洋薬」と改名し、当初は一担(ピクル、約50キログラム)につき銀30両のアヘン輸入税を徴収していた。
1856年10月には、「アロー号戦争」(「第二次アヘン戦争」ともいう)が勃発する。清国の役人が、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行う。清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した。これに対し当時の広州領事ハリー・パークスは、清国政府に対しイギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張した。イギリスはまた、清国の官憲がイギリスの国旗を引き摺(ず)り下ろした事を咎めた。
(続く)
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253『自然と人間の歴史・世界篇』太平天国の乱(1853~1860)
1850年には、広西省でキリスト教系の宗教結社・上帝会(またの名を拝上帝会)が結成される。この数年前、教祖の洪秀全(こうしゅうぜん、1813~1864)は、自分をキリストの弟と称して、天父=神の意向を伝えるという形で信仰を広げていく。1850年になると、広西省で蜂起した洪秀全は、みずから「天王」に即位して、新たな国家を目指す。
1853年3月には、この太平天国が南京(なんきん)を占領して、ここにかれらの首都「天京」(てんけい)と定める。これを「太平天国の乱」(~1864)と呼ぶ。さらに同年の9月、乱の余波はイギリスやフランス、そしてアメリカの租界もある上海(シャンハイ)にもおよんでいく。
これになだれ込んだのは、太平天国の一派の小刀会(しょうとうかい)であって、彼らは上海城を占拠する。これに押された中国人たちは租界地に逃げ込んだ。3国が作った上海義勇軍が同会の猛者(もさ)たちの侵入を防いだ。それから1860年にこの乱が鎮圧されるまでの間、清国は大いなる「内憂外患」に直面する。
そんな怒濤の勢いであった乱であったのだが、1855年には、精鋭を集めて北伐軍を作り、黄河を渡って天津付近まで迫ったものの、その北伐軍は各個撃破され敗退する。それからは太平天国自体も守勢に向かうことになり、1864年にいたって鎮圧される。
この乱がもたらしたものは、何であったのか。13年間にわたる内乱で、一説には、死亡者数は推定でおよそ5000万人、当時の支那全人口の5分の1位とも言われる。また、一時南京を占領したいたことでの治世に触れると、彼らは天朝田畝制度というものを考えた。その内容だが、小島晋治氏の説明には、こうある。
「およそ天下の田畑は天下の人がみんなで耕すべきものであって、ここの耕地が不足するならかしこに移って耕し、かしこの耕地が不足するならここに移って耕すようにすべきだ。天下の田は豊凶互いに融通すべきであって、ここが凶作なら、かしこの豊作をもって救い、かしこが凶作なら、ここの豊作をもって救う。
こうして天下の人々をしてみなともに天父上主皇上帝の大いなる福を享受できるようにする。田があればみんなで耕し、食物があればみんなで食い、衣服があればみんなで着用し、銭があればみんなで使い、いずこの人もみな均等にし、一人のこらず暖衣飽食できるようにする。」
「天下の人々はすべて天父上主皇上帝の一大家族である。天下の人々がなにものをも私有せず、あらゆるものを上主(上帝)のものとすれば、主(天王=洪秀全)がこれらを運用して、天下の一大家族のあらゆるところの人々を平均にし、すべての人々を暖衣飽食させる。」(小島晋治「洪秀全と太平天国」岩波現代文庫、2001)
とはいえ、この制度の実際は、彼らの理想とするところにはなっていかない。触れは出されたものの、見掛け倒れと化していく。自らの政府を維持するためには税の徴収を行なわなければならなかった。そのため地主を保護し佃戸の抗租闘争を弾圧するなど、かえって民衆を弾圧するのに回る。これでは清朝政府となんら変わるところがなくなり、しだいに農民の支持を失っていくのであった。
(続く)
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350『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(ネップ期の経済と内戦の終結)
ネップについて、レーニンはつぎのように述べている。
「旧社会経済システム-取引、小生産、小所有制、資本主義-を打倒することではなく、取引、小所有制、資本主義を復活させ、他方で慎重にかつ自徐々にそれらに対する優位を獲得するか、あるいはそれらが復活する程度まで国家的規制に従わせるようにする。」
(引用:S.ブルカン著・菊井禮次訳「東欧からみたペレストロイカ」ミネルヴァ書房、1989)(出所:V.I.Lenin,“Our Revolution” in The Lenin Anthology,Robert Tucker,ed.(New York:Norton,1971)
また、こうも述べる。
「新経済政策は、統一された国家経済計画を変えるものでもなければ、その仕組みを越えるものでもなく、それを実現する手段を変更するのである。」
これらから類推すると、この時期の彼は、生産物が商品という形態規定性を失っていく過程と、それが新しい形態規定性を具備していく過程との2側面があり、後者が確立するまでは両者の矛盾が存在すると考えていたのではないか。同時に、当時の状況では、新たな経済は、真っ直ぐに進んでいくものではなく、国民経済の力を付けながら迂回路を通じて近づいていく、という認識に切り替わっているようだ。
この新政策の意義を、後年(1991年)の経済学者のアベル・アガンベギャンは次のようにいう。
「指令・命令型経済から経済的な管理方式を持つ経済への転換をはっきり浮き彫りにして見せた前例としては、「戦時共産主義」に代わる「新経済政策(ネップ)」の導入(1921年)が挙げられる。その前の「戦時共産主義」のもとでは、農民の生産物のかなりの部分が、支払いも補償もなしに強制的に徴発されていた。それは食糧徴発制と呼ばれ、農家には生存ラインぎりぎりの量しか残さなかった。
レーニンが導入した新経済政策への移行とともに、この食糧徴発制の代わりに食糧税が導入された。農民が国家に納入する農産物は従来より少なくて済むようになった。重要なことは、国家納入後には、その分を上回る量の農産物が農民の手元に残され、市場で市場価格で販売できるようになったことだ。この制度は労働刺激を大幅に強めた。収穫量は増え、農業は顕著に高揚し、ひいては工業の活動を活性化させていく。今や工業側は見返りに食糧を手に入れるために、農民向けの製品を生産せざるをえなくなった。その結果、都市と農村との間の商品流通は活発化し、ネップ期間中には経済全体の成長がもたらされた。
今や農民が余剰生産物を抱え、それを市場で販売することを許されたたため、広大な市場が形成され、商品・通貨関係全体を活性化させた。その場合、都市と農村との間の商品流通は対等な関係に基づいて行われ、農民も労働者も各々の労働の効率的向上をともに図りたくなるだけの刺激を生み出す。
このように、十月革命後の数年間に新しい市場が形成される一方で、企業やトラスト(企業連合)が独立採算制に移された。つまり、企業は所要経費を自分の収益から捻出するようになったわけだ。また、賃金が生産を刺激するようにするには、どうしたらよいか、という問題も論議されるようになる。
国家は、その計画立案・実施と財政・信用政策の助けを借りて、市場をコントロールしながら、市場を一歩一歩「支配する」すべを学び取っていた。革命直後の国内戦期間中は、経済封鎖を課され、外部世界との経済関係が徐々に復活していた。その方向への第一歩は、レーニンの指導下に踏み出され、レーニンはこの対外経済関係の発展を歓迎していた。」(アベル・アガンベギャン著・大つき人一訳「ソ連経済開放への道」読売新聞社、1991)
要するに、このネップの性格とは、それまでの「戦時共産主義」の放棄を含意するとともに、社会主義の公的所有原則を一時部分的に棚上げすることを志し、国民経済に私的経済を部分的に復帰させるものであった、といえる。
また、この間の政治体制については、内戦が収束し、革命政府が安定に向かう時期であった。1922年12月30日、ソビエト社会主義共和国連邦(略して「ソ連」)創立の宣言が行われる。この連邦創立時点の構成国メンバーは、ロシア連邦、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカース連邦の4共和国であった。
1922年4月2日、レ-ニンが脳疾患で倒れたのを受け、共産党の中央委員会総会が開かれ、スターリンがロシア共産党書記長に選ばれる。また、同年には金融面で第一次の平価切下げがあり、1923年にも第二次の平価切下げがあった。国立銀行が新政府としての兌換銀行券の発行を始める。
1923年1月21日、さきに脳疾患で倒れ、治療と静養(療養)していたレーニンが死去する。眠るための時間の一部も犠牲にして、生まれたばかりの国家の存続に力を尽くした無理が影響したのは、間違いあるまい。1924年2月には、旧通貨の新通貨への切替えが実施される。
1924年から1928年、ウズベクとトルクメニスタンがロシア連邦から切り出されてソ連邦に加盟する。さらに、1929年にはタジクがウズヘクから分離する。1936年憲法で、ザカフカース連邦が廃止され、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンが加盟国となり、またロシア連邦からカザフとキルギスが連邦を構成する共和国として切り出され、さらに1940年にリトアニア、エストニア、ラトビアのバルト3国が加盟するに至り、ここにソ連邦を構成する15の共和国が出そろう。
(続く)
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348『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(内戦時の経済)
1919年、レーニンらはコミンテルンを結成して、ロシア革命の世界革命への波及に全力を挙げる方向性を内外に宣言した。1920年には、第9回共産党大会が開かれた。この大会では、経済建設における党活動に関する指導原則が決められた。
その翌年、第10回共産党大会が開かれた。この大会では、レーニンの提唱した新経済政策と、「党の統一について」という二つの決議が採択された。この大会でのレーニンの発言の中には、1919年のロシア共産党綱領への次の見解表明も含まれる。
「われわれのこれまでの綱領は理論的には正しかったが、実践的には破綻した。」
この見解では、ロシアは上部構造としての社会主義革命は達成したものの、経済全般に目を向けたときまだ「社会主義への過渡期」の域を出ていない。
レーニンはブハーリンの「過渡期経済」(1920年刊)に寄せて、「商品・資本主義的制度の均衡の範疇としての価値は、商品生産が著しく消滅して均衡が存在しない過渡期には殆ど役に立たない」と書いている。その一方で、「自然成長性にかわって意識的な社会的規制者があらわれるならば、商品は生産物に転嫁してその商品的性格を失う」としつつ、なおかつ「不正確。生産物にではなくなにか別のもの、たとえば、市場を通らないで社会的消費に入っていく生産物に転化する」と脚注している。
この点は、レーニンがロシア革命ののち、ひき続いて世界革命が起こるような世界史の展開を予想し、革命ロシアが生き残れるかどうかは、それに大きく依存すると考えていたであろう、からにほかなりません。私たちは、マルクス・エンゲルスの切り開いた理論上の地平と、ソビエト・ロシアの状況という現実、したがって現実的対応の必要との大きなギャップを埋めることに苦慮する彼の姿を見てとることができるのではないか。
さて、1921年の経済について述べれば、国中には至る所で飢饉が蔓延していた。1921年3月に開催の第10回党大会は、レーニンの「食料税について」の提案を採択する。食糧割当徴発制(食糧徴発制ともいう。)をやめ、食糧税を取り入れる。
この税は、作柄、被扶養者数、家畜を考慮して、農家生産物の一部を現物税として徴収するものであった。併せて、農産物の交換、売買の自由が認められた。農民はこの措置によって、食料税を納入した後の残余の食糧を市場で自由に売買してよいこととなった。
そればかりではない。農業についてのレーニンの報告「モスクワ市とモスクワ県のロシア共産党(ボ)細胞書記および責任代表者の集会での、食糧税についての報告」(1921年4月9日)には、こうある。
「いま農民経済に最大の注意がはらわれるのはなぜか。それは、われわれがそこからしかわれわれに必要な食糧と燃料を入手できないからである。支配階級として、独裁を実現している階級として、経済をただしく運営していきたければ、労働者階級は、つぎのようにいわなければならない。--そこにこそ、農民経済の危機にこそ、最大の弱点があるのだ。これをただして、もういちど大工業の復興に取りかかり、同じこのイヴァノヴォ-ヴォズネセンスク地方で、22の工場ではなく70の工場全部を操業させるようにならなければならない、と。
そのときには生産物は農民から税としてではなく、労働者階級が彼らにあたえる工業製品との交換という形で手にはいるであろう。ここにこそ、残存する工場をも、白衛軍に抵抗するための軍隊をも維持することに欠くことのできない人々を、全国民の空腹という代価をはらってすくうために、窮乏と飢餓を分けあわなければならない、現在の過渡期の意味がある。」(「レーニン全集」第32巻、大月書店、1959年、312ページ)
1921年7月、大衆消費財生産の零細経営に対し、私的な生産が許可され、一連の小企業が非国有化される。流通部門でも、一部私的経営が認められる。その中で、労働者20人以下の小企業の設立が認められ、8月11日、新経済政策(ネップ)の採用が発表される。1921年12月には国有企業のうち労働者5人以下、動力機が無い場合には20人以下の企業が再私有化が認められる。それに、再私有化が認められなかった中小企業についても賃貸経営が認められる。
(続く)
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