183『自然と人間の歴史・世界篇』ネーデルランド独立戦争(16世紀)
さて、ここにネーデルラントとは、低い土地という意味にして、現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの地域のことをいう。
この地域の特色としては、かなり古くから商工業が盛んである。特に、南部はフランドル地方と呼ばれ、中世以来毛織物工業が発達し、ガン・ブリュージュ・アントワープなどの都市が繁栄していた。
この地域の領有をめぐっては、1477年、マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国の継承者マリーと結婚して、領有権を相続した形であった。以来、ネーデルラントは、彼の出身であるハプスブルク家所領となる。
それから約70年が経った1556年には、スペインの王室は、カルロス1世から息子のフェリペ2世(在位は1556~1598)に引き継がれ、ネーデルランドもその支配下におかれる。
一方、ネーデルラントにおいては、スペインからの独立の気運が高まっていく。プロテスタントのルター派が広まっている上に、スイスで始まったカルヴァン派が広がり始める。
こうなるに従い、フェリペ2世は、スペイン国王カルロス1世からのプロテスタント弾圧政策をさらに強化していく。それとともに、都市の自治権を制限し、重税を課す。
これらの政策により、中小貴族たちを中心とする住民の反発が強まると、スペインの将軍アルバ公に1万もの部隊をつけ、この地域に派遣する。現地での総督は、「血の審判所」と呼ばれた異端審問機関を設けるなど、恐怖政治をしく。
1568年、こうしたスペインの圧政に対抗して、オランダ独立戦争が始まる。その途中で、元々カトリック教会の勢力が多数の南部10州はスペインに屈し、戦争から脱落する。なお、ここでの南部10州だが、後に北部と異なる道を辿る。1714年のラシュタット条約で1815年のウィーン議定書でオランダ領となり、さらに七月革命後の1830年にベルギーとして独立を宣言をするのに繋がっていく。
北部7州に話を戻すと、彼らはユトレヒト同盟なる軍事同盟を結成して抵抗を続ける。その指導者は、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、後のウィレム一世(在位1579~1584))であった。
1581年7月、「ネーデルラント連邦共和国」として独立宣言を発す。その具体的な名称としては「統治権否認令」というもので、7月26日のネーデルラントの全国議会(連邦議会)の発議によりハーグで開かれた集会で可決された。その中での結論としては、スペイン王フェリペ2世たる者が暴政によりネーデルラントを統治する国王としての資格を失ったとしている。
これに参加したのはホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、フリースラント、フロニンゲン、オーヴァーエイセル、メヘレン、フランドル、ブラバントの諸州であった。
この宣言のもう少し詳しい内容だが、まだ共和国としての独立を打ち出したわけではなく、フランスの王子アンジュー公の保護下に入る、としていたという。それというのも、この段階では南部ネーデルラントから離れてのオランダという単位が構想されているわけではなかったから。メヘレン、フランドル、ブラバントといった南部諸州も入っていたのだという。
1584年、戦いの渦中のウィレム1世はカトリックの刺客に暗殺されてしまう。この独立陣営の難局に際して、その子マウリッツはオルデンバルネフェルトと協力してスペインへの徹底抗戦を継続するのであった。
1588年には、スペイン軍はアントウェルベン(現在はベルギー)を破壊した。また、スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊より大敗北を喫すると、スペインの国際的地位は大いに傾き始める。また当時のフランスは、ユグノー戦争(1562~1598)の最中にあった。
(続く)
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205『自然と人間の歴史・世界篇』三十年戦争
ここに三〇年戦争というのは、1618年から1648年にかけてヨーロッパのかなり広い地域を巻き込んで戦われた、キリスト教の新旧両派による一連の戦争のことをいう。当時のドイツのベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)でのプロテスタント諸侯・住民の反乱から始まった。
事の発端は、神聖ローマ帝国皇帝のフェルディナンド2世がかれらをカトリックに改宗させようとした。そこのカトリック系諸侯・住民との間で小競り合いから、しだいに内戦状態へと発展していく。1623年には、カトリック系がひとまずの勝利をものにする。
ところが、これで収まらなかった。1625~29年、デンマーク王クリスチャン4世が、イギリスとオランダの資金援助を受け、ドイツのプロテスタント側の軍事的支援に動く。ドイツの施政者側は、旧教徒同盟軍やヴァレンシュタインの傭兵部隊を動員して、コこれを封じる動きに出る、そしてプロテスタント連合軍を撃退する。
さらに1630~35年、今度はスウェーデン王グスタフ・アドルフの軍が、フランスの資金援助を得て、神聖ローマ帝国内のプロテスタント擁護のため、ドイツに進出してくる。フランスが、これを間接的に支援する。神聖ローマ皇帝の北上阻止を唱え、政治色が濃くなっていく。神聖ローマ帝国側にはスペインが、これまた間接支援にまわっている。
そして迎えた1631年のリュッツェンの戦いでは、スウェーデン軍は勝利したものの、グスタフ・アドルフ自身が戦死を遂げる。ここで、両軍による停戦と和議が成立する。
それでも戦いは吹き返してくる。1635から48年にかけて、3回目の戦いが繰り広げられる。今度は、フランスのルイ13世の軍がドイツのプロテスタント側の劣勢を挽回するためドイツに進撃、これにスウェーデンも同調する。これに対し、カトリック側を支援するスペイン軍も直接介入してくる。1643年には、フランス北部ロクロワの戦いでフランス軍とスペイン軍が交戦する。もはや、自らの戦いに成り代わった形だが、両軍ともに宗教上の対義名分は捨てなかったと見える。
このように、ヨーロッパ各地に飛び火した、始は宗教戦争、しだいに政治の戦いに発展していった戦争であったのだが、両軍入り乱れて戦ううちに戦局は膠着状態になっていく。それに両者ともに疲れたのであろうか。1644年から和平へと動いていく。1648年のウェストファリア条約(ネーデルラントに接した地域の名をとった)により、ようやく講和が成立するのであった。
この会議に参加したのは、神聖ローマ皇帝とドイツの66もの諸侯、そしてフランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの面々がいた。世界で最初の大規模な国際会議であった。その内容とは、次にあるように、それまでのヨーロッパの政治的な勢力地図をある程度に塗り替えることになっている。
まずは、1555年9月に神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会において下されていた決議「アウクスブルクの和議」の内容を再確認した。なお、この決議では、ドイツ・中欧地域における新教(プロテスタント)を容認した。また、その由来だが、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世が、新教諸侯のシュマルカルデン同盟との戦争に勝利したものの、ザクセン公モーリッツの離反を招いたことが契機となり、帝国側がプロテスタント側に立つ諸侯・都市の立場に歩み寄る形で、同国内でかれらが新教側かカトリック教会側かを選択できることとしたもの。
ついては、この和議のあることに鑑み、それから90年余を経て結ばれたこのウェストファリア条約においても、かかる和議において個人の信教の自由を認めていないのを踏襲するとともに、この条約によりルター派と並んでカルヴァン派の信仰も認められる。
その2として、この条約によりドイツは、約300の諸侯が独立した領邦となる。具体的には、神聖ローマ帝国は皇帝、八選挙侯、九六諸侯、六一自由都市で構成される。各領邦そして都市のそれぞれが立法権、課税権、外交権を持つ、大方の主権を認められる。これにより、神聖ローマ帝国は実質的解体に向かう。
その3として、フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とロレーヌの「三司教領」の領有を認められる。
その4として、スウェーデンは北ドイツのポンメルン、「ブレーメン大三司教領」などの領有を認められる。
5番目として、オランダの独立が承認され、積年のオランダ独立戦争は終結する。また、スイスの独立の承認があった。
そして6番目、ドイツ内部では、ブランデンブルクが、東ポンメルン、「マグデブルク大三司教領」などの領有を、バイエルンが南ファルツの領有と選挙侯の資格を与えられ、ファルツも旧領土の大部分の領有と選挙侯の資格を与えられる。
ただし、フランスとスペイン間の戦争は継続され、両国は1659年のピレネー条約で講和に漕ぎ着ける。イギリスは、清教徒革命の最中であったことなどにより、この条約には関わっていない。
(続く)
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882の2『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2017~2018現在)
国連人道問題調整事務所の2017年1月時点の報告によると、2011年3月以降、シリアでは死者約25万人、負傷者は100万人を超過している。国外へ逃れた人々は490万人、国内避難民は650万人に上る。また、シリア国内では1350万人が人道支援を必要としている旨。
2017年2月には、国連安保理がアサド政権の化学兵器使用に対する制裁決議案なるものを採決に持ち込むが、ロシアと中国が拒否権を行使して不成立となる。
2017年4月、シリア北西部のイドリブ県で空爆がある。住民80人以上が死亡したと伝えられる。アメリカは、化学兵器使用とみられると発表する。シリアのアサド政権は、そなんことはやっていないと否定する。これに対し、アメリカが、地中海に展開の空母からシリアに数十発の巡航ミサイルを発射する。政権軍の空軍施設などを狙った。
6月には、OPCWがイドリブ県で使われたのは猛毒のサリンを用いた化学兵器であったとの見解を調査報告書にして発表するも、使用者は特定しなかった。
この年の2017年10月になると、アメリカ軍が支援するクルド系のシリア民主軍(SDF、「人民防衛隊」)が、ISの首都とされる北部の都市ラッカの解放を表明する。ここにSDFとは、ISの掃討作戦を行ってきた少数民族クルド人勢力中心の部隊であり、自らの大義のため命を惜しまず、頑強に戦うことで知られる。
追い出された側のISは2014年にラッカを占拠し、一方的に「首都」と宣言し、以来、この地を死守してきたのだが、ついに落城となった。
SDFは米軍の支援を受け、2017年6月から市内で軍事作戦を展開していた。激しい戦闘により、推計3000人もの兵士が死亡したとされる。SDFは17日に大規模な戦闘の終結を宣言し、残る戦闘員の掃討や地雷除去などを行ってきた。SDFは、ラッカは「地方分権が進んだ民主的なシリア」の一部を構成するとして、シリア北部に広がるクルドの勢力圏に組み込みたい考えをにじませている。より俯瞰して言うと、ISから街を奪還したことで、クルド人自身による国づくりを視野に入れたい。
そして迎えた2017年12月、ロシアのプーチン大統領が、シリアからのロシア軍の撤退開始を命令する。同12月時点のダマスカスと周辺の支配図(12月22日付け毎日新聞)によると、市の北東部の一角を反体制派が占め、旧市街の南にあるスペイナ地区には、反体制派地域とIS地域が混在する。アサド政権が全体的に優勢であるものの、反政府勢力との和平の見込みは立っていないし、ISの抵抗も散発的だが残っている。
2018年1月、アメリカのティラーソン国務長官が、IS掃討後もアメリカ軍のシリア駐留を継続する考えを示す。2月、シリア首都ダマスカス近郊の反体制派支配地域「東グータ地区」をアサド政権軍が攻撃する。これにより、反体制派の在英NGO「シリア人権監視団」によると、18日から22日朝までに少なくとも市民335人が死亡、1700人以上が負傷したと発表される。
また、2月21日のシリアの少数民族クルド人勢力主体の武装組織「シリア民主軍」(SDF)は、同組織が支援を受けるアサド政権側の民兵部隊が、シリア北西部アフリンにおいてトルコ軍による砲撃を受けたと発表する。これに対しドルコの大統領報道官は、「政権軍であろうが別の部隊であろうが、クルド人に加勢する者は重大な結果を被る」と警告する。
2018年4月3日、アメリカのトランプ大統領がアメリカ軍のシリアからの早期撤収につき、「すぐに判断する。撤収させたい」と表明する。4月7日、東グータ地区とドゥーマ地区へ空爆が行われる。救助組織などは、49人の住民が呼吸困難の症状で死亡、化学兵器が使われたのではないかと指摘した。10日、国連安保理において、化学兵器使用の調査チーム設立案を採決したところ、ロシアが拒否権を行使して廃案となる。13日、これをアサド政権側が仕掛けたと判断したアメリカ、イギリス、フランスの軍による、シリア政府軍軍事施設へのミサイル攻撃が1回にかぎり実施された。
(続く)
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882の1『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2011~2016)
シリアは、北をトルコ、西を地中海とイスラエル、南をヨルダン、東をイラクと接する。宗教面では、首都ダマスカスの旧市街には、715年に完成の世界最古のモスク(イスラム教礼拝所)があり、イスラムの聖地の一つでもある。ゆえに、ここでの政治情勢の変化はとたんに近隣諸国に影響を及ぼす。
このシリアでの内戦は、2011年に始まる。まずは、これより前の2010年12月、チュニジアで反政府デモが起こる。これが中東各地に広がり、「アラブの春」と呼ばれる。その本質は民主化運動だといえよう。
その波はシリアにも及び、2011年2月にダルアーで小規模なデモが起こると、3月には、反政府デモが開始される。国内各地に政権打倒を叫ぶ大規模デモが広がっていく。やがて、民主化運動は内戦へと変化していく。内戦は、かたや政府軍に対し、反政府勢力というのが主な構図だが、その他多くの武装勢力も参加していく。それらの対立によって泥沼化していく。
明けて2012年7月、北部の都市アレッポでアサド政権と反体制派の戦闘が本格化する。
2013年8月、首都ダマスクスの近郊の東ゴータ地区にて、反体制派が「政府軍の猛毒ガスで1350人が死亡」と発表する。ダマスカス近郊でアサド政権軍による化学兵器使用が取り沙汰されたのだ。
9月には、アメリカとロシアとがシリアの化学兵器を国際管理下におくことで合意し、アメリカのオバマ大統領はシリアへの軍事介入を見送る。
2014年6月、イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」(IS)が、北部の都市ラッカを首都とする国家樹立を宣言する。この同じ月、アサド政権が保有しているとみられる化学兵器の原料となる物質につき、化学兵器禁止機関(OPCW)が国外搬出を終えたと発表する。
9月には、アメリカ軍を中心とする「有志連合」の軍が、がシリアでISへの空爆を開始する。2015年9月、アサド政権を支援するロシアがシリアで空爆を開始する。
2016年8月、国連が2014年4月と2015年3月における、アサド政権によるシリア北西部イドリブ県の反体制派拠点への化学兵器の使用を裏付けるとした、調査報告書を発表する。
2016年12月、アサド政権・政府軍が反体制派の拠点アレッポを制圧する。ロシア・トルコ主導の停戦が全土で発効する。しかし、この間も戦闘は続く。つまりは、停戦は合意されたものの根本的な解決に向かって動くことなくいるうちに、その合意は順守されることなく、戦闘がぶり返している。
(続く)
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