44の4『自然と人間の歴史・世界篇』中世ヨーロッパにおける都市化と都市人口
はたして、11世紀から13世紀にかけてのヨーロッパにおける都市化の進展には、眼を見張るものがあったという。そのプロセスは、北西ヨーロッパと北イタリアを中心に進んでいく。
まずは、そこそこでの人口規模について、どうなっていたのかをみよう。
「中世中期までのヨーロッパが基本的に荘園を中心とする農村社会であり、働く者のうち農民が多数を占めていたことは確かであるが、一四世紀初頭までには、大陸ヨーロッパの人口七五〇〇万人の約二〇パーセントにあたる一五〇〇万人以上が都市に居住していたと見積もられる。
ヨーロッパの個別の都市の人口規模も、同時代の中国やイスラーム世界の諸都市に比べれば小さかった。それでも、一三〇〇~五〇年に、推計ではあるが、一〇万人以上の人口をもつ「特大都市」としてパリ(二〇万)、ミラノ(一〇~一五万)、フィレンツェ(一〇~一二万)、ヴェネツィア(一二万)、ジェノヴァ(一〇万)など、また四万以上のインターローカルな「大都市」としてロンドン、ケルン、ヘント、ブルッヘ、ピサなどを挙げることができる。
いずれの大都市も毛織物・金属加工業や遠隔地商業・金融業など商工業の拠点として形成されたのであった。」(河原温・堀越宏一「図説・中世ヨーロッパの暮らし」河出書房新社、2015)
参考までに、その後のヨーロッパ世界においてはペストの流行があった。そして、そのまた後の人口数の推計によると、一説には、1500年頃のフランスの人口が1640万人、同じ頃のドイツは1200万人、イギリスは1570年頃410万人位であったという。また、ヨーロッパの総人口としては、1500年頃8180万人位であったという(米田治・東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶応義塾大学通信講座教材、1988)。都市部の推計もなされていて、「人口10万以上の都市は1500年頃にはコンスタンチノープル、ナポリ、ヴェニス、ミラノ、パリの五市を数えた」(同)といわれるのだが。
(続く)
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