♦️44の4『自然と人間の歴史・世界篇』中世ヨーロッパにおける都市化と都市人口

2018-04-15 22:09:00 | Weblog
44の4『自然と人間の歴史・世界篇』中世ヨーロッパにおける都市化と都市人口

 はたして、11世紀から13世紀にかけてのヨーロッパにおける都市化の進展には、眼を見張るものがあったという。そのプロセスは、北西ヨーロッパと北イタリアを中心に進んでいく。
 まずは、そこそこでの人口規模について、どうなっていたのかをみよう。
 「中世中期までのヨーロッパが基本的に荘園を中心とする農村社会であり、働く者のうち農民が多数を占めていたことは確かであるが、一四世紀初頭までには、大陸ヨーロッパの人口七五〇〇万人の約二〇パーセントにあたる一五〇〇万人以上が都市に居住していたと見積もられる。
 ヨーロッパの個別の都市の人口規模も、同時代の中国やイスラーム世界の諸都市に比べれば小さかった。それでも、一三〇〇~五〇年に、推計ではあるが、一〇万人以上の人口をもつ「特大都市」としてパリ(二〇万)、ミラノ(一〇~一五万)、フィレンツェ(一〇~一二万)、ヴェネツィア(一二万)、ジェノヴァ(一〇万)など、また四万以上のインターローカルな「大都市」としてロンドン、ケルン、ヘント、ブルッヘ、ピサなどを挙げることができる。
 いずれの大都市も毛織物・金属加工業や遠隔地商業・金融業など商工業の拠点として形成されたのであった。」(河原温・堀越宏一「図説・中世ヨーロッパの暮らし」河出書房新社、2015)
 参考までに、その後のヨーロッパ世界においてはペストの流行があった。そして、そのまた後の人口数の推計によると、一説には、1500年頃のフランスの人口が1640万人、同じ頃のドイツは1200万人、イギリスは1570年頃410万人位であったという。また、ヨーロッパの総人口としては、1500年頃8180万人位であったという(米田治・東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶応義塾大学通信講座教材、1988)。都市部の推計もなされていて、「人口10万以上の都市は1500年頃にはコンスタンチノープル、ナポリ、ヴェニス、ミラノ、パリの五市を数えた」(同)といわれるのだが。
 
(続く)

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♦️33の4『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの外征(帝国の分裂)

2018-04-15 11:10:06 | Weblog
33の4『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの外征(帝国の分裂)

 ところが、アレクサンドロスは、紀元前323年、アラビア遠征の途中のバビロンで、熱病に罹って急死した。残されたのは、なにしろ大帝国である。大王につき従っていた武将たちの跡目相続の争いがあった。紀元前301年にはイプソスの戦いが起こり帝国の分裂が始まった。主な戦いとしては、小アジア西部のイプソスの戦い(紀元前301年)があった。やがて紀元前3世紀前半にもなると、プトレマイオス朝エジプト(紀元前304~同30。首都はアレクサンドリア)、セレウコス朝シリア(紀元前312~同63。首都は前半セレウキア、後半はアンティオキアに移転)、アンティゴノス朝マケドニア(紀元前306~同168。首都はペラ)の3国が並び立っていく。
 しかし、それでもこれら地域での勢力地図は落ち着かず、セレウコス朝からは、小アジアにギリシア系のアッタロス朝ペルガモン王国(紀元前241~同133)がのし上がてくる。中央アジアについては、同じくギリシア系のバクトリア王国(紀元前255頃~同130頃)が、さらにイラン東北部にはイラン系のアルサケス朝パルティア王国(紀元前248頃~紀元後226)らが次々と独立していった。
 これらの諸国家のうちバクトリア地方は、大王の残したギリシャ人に依って暫くの間バクトリア王国となって統治される。モンゴルを追われた月氏(げっし)は天山山脈の裏手に逃げ、大月氏として勢力を蓄えていた。紀元前2世紀、その大月氏(だいげっし)が南に下りて来た。
 紀元前139年頃には、そのバクトリア王国も、中央アジアから南下してきたスキタイ系民族サカ族に滅ぼされた。後者は、トハラ王国(中国の文献では「大夏」という)を建設する。一方、プトレマイオス朝エジプト(~紀元前30)、セレウコス朝シリア(紀元前312~同63)、アンティゴノス朝マケドニア、アッタロス朝ペルガモン王国も、その後ローマに占領・併合されていった。さらに時代は下る。
 トハラ王国に代わって、バクトリア地方(中央アジア)を支配するようになったのが、大月氏である。紀元前1世紀にもなる頃、大月氏の有力豪族の一つが台頭し、大月氏を引き継いでクシャーナ(クシャン)王朝となって、支配地域を拡大していく。この王朝は、カニシカ王が即位した2世紀の中頃から最盛期を迎える。首都であるプルシャプラを中心に、ガンジス河中流域やバルティアの東部も領有するに至る。しかし、3世紀に入る頃からの同王国は、しだいに国力を減じていく。その間も、ギリシア人はその地に留まり、引き続いてギリシア文化の継承に努
めた。

(続く)

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