356『自然と人間の歴史・世界篇』国際連盟
さて、第一次世界大戦も押し詰まっての頃、アメリカのウィルソン大統領が、戦後の国際平和をめぐっての枠組に関する、提案を行う。
第1条として秘密外交の廃止、第2条として海洋の自由、第3条として経済障壁の撤廃、
第4条として軍備の縮小、第5条として植民地問題の公正解決、とある。
第6条からは個別の課題に移り、ロシアの回復、第7条としてベルギーの回復、第8条としてフランス領の回復、第9条としてイタリア国境の調整、第10条としてオーストリア・ハンガリー帝国の自治、第11条としてバルカン諸国の回復、第12条としてトルコ少数民族の保護、第13条としてポーランドの独立と続く。
さらに締めくくりとして、第14条に国際平和機構の設立を充てる。
これが契機となって、戦後の1920年に創立されたのが、国際連盟なのである。本部をスイスのジュネーブに置いた。アメリカは、議会の承認が得られずに、不参加であった。後には、ファシズムに傾いた日本、ドイツ、イタリアが脱退する。さらにソ連も除名されるなどして有名無実となっていく。
これらのうち、1933年の日本の国際連盟脱退については、こうある。
「本年二月二十四日臨時総会の採択せる報告書は、帝国か東洋の平和を確保せんとする外何等意図なきの精神を顧みさると同時に、事実の認定及之に基く論断に於て甚しき誤謬に陥り、就中九月十八日事件当時及其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非すと臆断し、又同事件前の緊張及事件後に於ける事態の悪化か支那側の全責任に属するを看過し、為に東洋の政局に新なる紛糾の因をつくれる一方、満州国成立の真相を無視し、且同国を承認せる帝国の立場を否認し、東洋に於ける事態安定の基礎を破壊せんとするものなり。(中略)
帝国政府は平和維持の方策殊に東洋平和確立の根本方針に付、連盟と全然其の所信を異にすることを確認せり。 仍て帝国政府は此の上連盟と協力するの余地なきを信し、連盟規約第一条第三項に基き帝国か国際連盟より、脱退することを通告するものなり」(「日本外交年表並主要文書」)
これの手続き面では、同年3月24日の国際連盟総会では、中国の国民政府の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1、棄権1で可決したのであったが、反対票を投じた日本代表が、同議場から退場する。日本側に一切の反省はなく、3月27日には国際連盟脱退に関する「詔書」を発表し、連盟に脱退を通告するのであった。
第二次世界大戦後の1946年には解散し、その後は国際連合が結成され、現在に至っている。
(続く)
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110『自然と人間の歴史・世界篇』マケドニアの覇権(コリント同盟)
ギリシアの北方にあって、ギリシア全体が衰退した時期に頭角をあらわしてきたのが、マケドニア王国である。ギリシア北方に、ドーリア系と考えられているギリシア人たちがこの国を建てた。紀元前338年、マケドニア王フィリッポス2世(在位は紀元前359~同336)は、アテネ・テーベの連合軍をカイロネイアの戦いで破る。マケドニアは全ポリスを制圧してギリシア全土を支配するまでに至った。
紀元前337年、そのフィリッポス2世は、スパルタ以外のギリシア全都市をコリント同盟(別名ヘラス同盟。盟主は、フィリッポス2世。紀元前337~同301)を結成し、ペルシア軍との戦争に備えた。本拠地はペロポネソス半島の商業都市コリントであった。
「誓約。私はゼウス、ガイア、ヘリオス、ポセイドン、アテナ、アレス、すべての神と女神に誓う。私は平和を守り、マケドニアのフィリッポスに対する誓約を破らず、誓いを守る者たちの誰に対しても、陸上であれ海上であれ、敵意をもって武器を取らない。私は和平に参加している者たちのどのポリスも要塞も港も、いかなる手段方法によってであれ、戦争のために奪うことをしない。
私はフィリッポスとその子孫たちの王権を破壊せず、諸ポリスが平和に関する誓いを立てた時に各々にあった国制を破壊しない。私自身がこの条約に反することを行わず、他の者がそうすることも可能なかぎり許さない。もし何人(なんびと)かがこの条約を侵害するなら、私は不正を受けた者たちの求めに従ってこれを援助し、評議会の決議と総帥(そうすい)の命令に従って普遍平和の侵害者と戦うであろう。」(森谷公俊「アレクサンドロスの征服と神話」講談社学術文庫、2007)
マケドニアはこの同盟を巧みに利用し、ギリシア世界を支配するとともに、東方へ進出する力を蓄えていったのである。
しかし、ペルシア遠征計画途中に、フィリッポス2世が部下の貴族に暗殺され、彼の遺志は子アレクサンドロス3世(むしろ「アレキサンダー大王」と呼ばれることの方が多い。紀元前336~同323)に引き継がれた。
そのアレクサンドロス大王は13歳の時、父が家庭教師として招いた哲学者アリストテレス(紀元前384~同322)に学び、20歳で王位に就いた。紀元前335年には、北方バルカン半島の諸民族を平定することで、ギリシアにあったマケドニア反対勢力を制圧し、ドナウ川を渡る。それに、マケドニアに対し反乱を起こしたテーベを徹底して破壊する。
(続く)
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66の2『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの階級差別(アテネとスパルタの場合)
アテネでの自由人が誇るべきものとしては、市民権があった。これは、主として、政治活動に参加する権利とみなされていた。ここに市民とは、元々はすでに市民である父親をもつ成人男子出なければならなかった。あるいはアテネでは紀元前451年から同450年にかけての改革によって、市民である父と、アテネ人である母の間に生まれた成人男子をいう。したがって、女性や子供は市民からは除外されていた。
その男子も、一種の兵役義務(エフェビアと呼ばれる一種の軍事訓練)に応じた中から、通常18歳を迎えた者が完全な権利をもった市民となることができたという。もっとも、市民の間においても、「五世紀においてなお市民のあいだに富におうじた四つの階級があり、その富はかつてのようにコムギの収穫量や牛馬の所有能力によってではなく、ドラクマの年収額によって計算されるようになった」(ジャン・ジャック・マッフル著、幸田礼雅訳「ペリクレスの世紀」文庫クセジュ、2014)ともいわれる。
このようなアテネとは別に、ギリシアにはもう一つ、有力なポリスが存在した。ここにスパルタというのは、実はペロポンネソス半島にあったラケダイモンという国の支配階級の名称なのであった。こちらの階級制はアテネの場合より相当厳格で、明確であった。一種の兵役義務(ゴーゲーと呼ばれる一種の軍事訓練)に応じることが必要だが、それよりも、次に紹介される軍制の方が極めつけであった。
「すなわち平等者(ホセイオイ)と呼ばれる少数の軍人貴族のみが市民手あり、二〇歳から六十歳までのごく少人数の彼らの活動は、国家により厳密に組織された軍務だけであった。平等者がつくる共同体の活動で最も実践的な形式は共同食事(シユンテイア)で、そこでは各人が応分の負担を負って共同で食事をとるが、負わない者は不名誉の罰として劣等市民(ヒユポメイオン)に降格される。この降格は卑怯者(トレサンテス、戦闘において震えた者)にも適用される。」(同)
スパルタの下にはヘイロータイと呼ばれる被支配階級がいて、歴史的にはスパルタに征服されて奴隷になっていた部族の総称と成り立っていた。
その社会だが、かなり殺伐としていたのではないか。それというのも、階級による差別が大きかったらしい。毎年スパルタがヘイロータイに対し、形式的な宣戦布告を行い、ヘイロータイを辱め、反抗する者があれば殺すことも、おおっぴらに行われていたというから、驚きだ。スパルタの子弟においても、まだ幼い子供男子に対し身体検査などを行い、体力の劣る者を穴に埋めたり谷底に投棄するなりして、選別していたとのこと。強者だけによる国造りを目指して手段を選ばなかったのが伝わる。
(続く)
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86『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ社会(職業に対する偏見)
共和制末期頃の古代ローマに、キケロ(マルクス・トゥリウス・キケロ:Marcus Tullius Cicero、紀元前106~同43)という雄弁な政治家にして思想家がいた。ちなみにこの名前の意味あいだが、個人名、氏族名それに家名の順になる。より細かくは、彼の場合これに「マルクスの息子、コルネリア地区所属」が加わる。
当時のローマ市南東方のアルピヌムの貴族の家に生まれる。まずは、若くして法廷弁論家として登場し、その後東方に遊学し、アテネ、小アジア、ロードスで先学の教えを受けたという。
紀元前75年には、クワエストル(財務官)としてシチリアに赴任する。紀元前69年にアエディリス(按察(あんさつ)官)、同66年にプラエトル(法務官)に就任する。元老院議員から紀元前63年にコンスル(統領)に上り詰めていた。その彼は、貧民の不満を利用して反乱を起こそうとしたカティリナ一派の陰謀を鎮圧する。その功績で、「国父」の称を得たというから、驚きだ。
けれども、彼の民衆を下におく姿勢は民衆派政治家の攻撃の的となる。紀元前58~同57年にかけてはローマから追放される。紀元前49年からのカエサルとポンペイウスとが覇を競った内乱においては、カエサルの側につく。ポンペイウスの敗死後はカエサルに許され、ローマに戻る。
紀元前44年の政変でカエサルが暗殺されて後は、元老院の重鎮として、オクタウィアヌスと手を組む。アントニウスと「アントニウス弾劾演説(フィリッピカ)」(現存14編)などで闘うのであったが、紀元前43年にはアントニウスの部下によって殺される。その彼が、当時の色々な職業について品定めしている文章が残っていて、その一節にはこうある。
「税吏や高利貸のように、人々の嫌悪する職業は非難に値する。技術ではなく労働を得る賃金労働者の職業も、自由人にはふさわしくない。この職業においては、賃金が隷従に対する報酬と見なされるからである。小売商人たちもいやしいものと考えられる。この世において不正直ほど恥ずべきものはないのであるが、小売商人たちは不正直であることによって利益をあげている。職人はすべて下劣な仕事しかしない。仕事場に高尚なものが何一つとして存在しない。
あらゆる職業の中で、もっとも称賛しがたいのは、テレンチウスも指摘しているように、魚屋・建築家・肉屋・ソーセージ屋・漁師など、快楽につかえるものである。これに香水屋・舞踏家そしてある種の芸人を加えてもよい。」
なお、これらの職業のうち職人や雇われ人は、自由民であるか、解放奴隷であるかを問わず、ときに同業者組合を組織しており、政治的な意思表示も行う社会集団を形成していた。
このように、キケロは「自由人」たる者の道を大っぴらに説いて止まない。その道すがら、彼自身は支配階級の有力な一員であることを誇りこそすれ、その逆では全くなかった。その生涯を通じ、上から目線の姿勢は微動だにしなかったという。すなわち、一方には「名誉ある人」(honestiores)のグループがあり、自由人の中でも貴族や官僚、地主などがそれに属している。その対極には、「卑賤なる人」(humiliores)のグループがあって、彼らはいってみれば三角錐の底辺への途上に身をおく諸階級をなす者なのであって、職人や商売人、農民、奴隷などがそれに属していると。
これら二つの異なるグループは、異なる権利をもち、異なる義務を科せられ、そして法にたがう行いをした場合は異なる刑罰を課せられるものとする。キケロのような当代最高レベルとされる頭の中も、こういう社会の仕組みの中でつくられた、職業に対する偏見に凝り固まっていたのが窺える。
(続く)
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112『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの外征(さらに東方へ)
大国ペルシアを滅ぼした後も、大王は、さらに東征を実行するべく、ギリシア同盟軍を解散させ、ペルシア軍も使用して新たに軍隊を再編成した。そして、バビロン・スサなど有力都市を次々と占領していく。
バクトリア地方やソグディアナ地方などを征服し、西北インドのパンジャーブ地方まで進み、要地に次々と「アレクサンドリア市」と呼ばれるギリシア風の都市を建設していく。これより後の東征完了までのそれらの都市の数は、およそ70とも言われる。
紀元前326~同325年にかけて、アレクサンドロスの軍は西北インドに侵入する。しかし、インド侵入の同326年にインダス川を越え、ヒュファシス(現在のベアス)川にいたったその時、彼の部下たちはこれ以上の進軍を拒み、やむなくこれ以上の遠征を中止する。
やむをえず、そこからは反転を決意し、インダス川を下ってアラビア海に至る。さらに西へ進んで、紀元前324年にはバビロンのスサ(スーサ、現在のイランとイラクの境あたりか)に帰着し、この年が東征の完了となっている。それからほどなくの紀元前323年、アレクサンドロスは熱病に罹って急死を遂げるのであった。
この頃になると、大王の統治も変わりつつあった。なにしろ、広大無辺化する領土なのであった。そのことを考慮して、征服地の統治を旧ペルシア要人や土着民族たちに任せる。彼はもはやマケドニア王だけではなくなっており、オリエント専制君主・ペルシア王としても振る舞わねばならなくなった。政治感覚の鋭い彼は、征服した領地の統治にペルシアの制度を取り入れる。
ギリシアとオリエントの東西文化の融合を試みて、大王自身がバクトリア王女やダレイオス3世の皇女との結婚、部下のマケドニア人男性とペルシア人女性の集団婚礼なども奨励した。経済においても、宏大な領土での交易を奨励した。金貨・銀貨の鋳造で貨幣経済が普及し、東西貿易が発展した。
(続く)
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