♦️80『自然と人間の歴史・世界篇』エトルリア

2018-04-14 21:33:40 | Weblog

80『自然と人間の歴史・世界篇』エトルリア

 紀元前9世紀世紀以降、紀元前1世紀頃にかけてのイタリア半島中部には、総括してエトルリアと呼ばれる都市国家があった。それらの小国家は、現在のイタリアのトスカーナ州にあたる地域を核に蝟集(いしゅう)していた。そうでありながらも、最盛期の紀元前750~500年にかけては、北はアペニン山脈を超えてポー平原に、南はカンパニア州(州都ナポリ)に至るまで広がっていたとも伝わる。
 エトルリア語を用いる人々がこれらの小国家をつくっており、一説には、各都市国家は宗教・言語などをほぼ共通にしながらも、緩い国家連合ということで政治的な独自性をもっていたのではないかと考えられている。
 その起源については、実は未だに定まっていない。小アジアのリュディアからイタリアへ渡来した民族であるというヘロドトスの東方起源説と、元々イタリアのその地域にいた先住民であるとの説とが、対立している。前説の代表は、古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前485年頃~同420年頃)によるものだ。
 その彼によると、エトルリア人が小アジアの国家、リュディア(現トルコ西部)からやって来たという伝説の通りだとなる。また後者の流れの中には、トスカーナ地方においてエトルリア文明に先立つヴィッラノーヴァ文明(紀元前12世紀)から分岐したという説があったりするものの、はっきりしたことは分かっていないようだ。
 そんな中でも注目されているのが、民族としての特性であり、例えば、こういわれる。
 「それでも確実にこう答える。すなわちエトルリア人は民族的一体性を表明するような連合をその歴史の幕開けから形成した。そしてこの民族的一体性は一二連合の形をとり、連合は一柱の神への礼拝を共同で行うために集合し、こうして神は重要性をまして「ノーメン・エトルスクム」を指し示す語となったと。この(一二単位からなる)連合の規模は、軍事・政治面にはほとんど結果を及ぼさなかったにせよ、理念的にはきわめて重要だったので、現存する史料には一二都市に組織される同じ構造がー間違いであれ、正しいにせよーエトルリアの外縁部にも存在し、ある期間にポー川流域地方とカンパニアがそうであったと伝えている。」(ドミニク・ブリケル著、平田隆一監修、斎藤かぐみ訳「エトルリア人ーローマの先住民族。起源・文明・言語」白水社新書、2009)
 やがては、ローマとの関係がのっぴきならぬものになっていくの。だが、これの過程もよくわかっていない。というのも、一説には、紀元前8世紀から同3世紀にかけてのローマは、まだエトルリアの諸国家同様の、単なる都市国家の一つだったからだという。
 また一説には、王制ローマの王はエトルリア人であったといい、それから異民族の王を追放することによってローマは初期の共和制に移行したとも言われる。さらに後者の亜流の立場からは、ローマは当時、エトルリアの一都市に過ぎなかった、エトルリア出身の王がローマにいたとの説もあるところだ。こちらの方の話は、初期のローマがどのようにしてつくられたかにも関連しうるものの、その確証は得られていないようだ。
 それが、ローマがイタリア半島において力を奮い出してからは、エトルリアは揺さぶられ、圧迫されていく。それは、紀元前396年の都市国家の一つウェイーの陥落をもって本格化し、紀元前264年のウォルシニイの陥落をもって終わる。この約150年足らずの間に、エトルリア諸国家へのローマの支配が定まる。ローマは、トスカーナのぼぼすべて、12都市連合なるものを解体し、各都市の独立性を形式的に尊重しながら、自らの支配に組み込んでいくのであった。
    
(続く)

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♦️719『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの市場経済化(1991~1995の農業民営化)

2018-04-14 10:10:07 | Weblog

719『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの市場経済化(1991~1995の農業民営化)

 それでは、農業ではどうであったのか。農業の私有化のプロセスの進捗については、さしあたり幾つもの情報をつないだり、空白部分は空想をたくましくして関連情報をかき集め、できるだけ線につないで全体状況を表現してみるのを有効なアプローチとする他はありません。
 ロシアでは、1991年12月に個別農家(自営農)を創設することを目的とし、集団農場や国営農場を解体に向かわせることを規定したエリツィン大統領による大統領令を布告しました。
 とはいえ、この大統領令では、各々の集団農場、国営農場はメンバーの集会を開いて、個人農からはては農業株式会社への改組まで、多様な非集団化、非国営化への道をさぐっていかなければならなかったわけで、中には右往左往かるところも多くあったに違いありません。ただし、コルホーズ形態の維持という現状維持の経営形態でいくことも選択肢の一つとしてありましたし、赤字企業についてはそのままでの存続は許されないとのことでした。
 この非集団化・非国営化の経営形態への移行は、1991年12月から数えて2、3ヶ月の間の短期決戦でなんとか仕上げたいというのが新生ロシア政府のもくろみでした。1992年当初からこれらの集団的経営を行ってきた農場の再登録が進められていきました。当時の全農場が訳2万5千あった中で、1993年6月末までに約2万3千の農場(全農場の約91%)が再登録を終了したようです。ただし、従来から効率的な黒字経営を行ってきた農場には従来の経営形態のままで再登録したところが約8千農場(再登録数の約34%だけあれました。それ以外の農場の大方は、経営形態を変更して再登録したことになったようです。というのも、赤字のところがロシアの全農場の約10分の1にあたる約2600程度はあったとされていて、これらの行く先については、これまで必ずしもつまびらかな報告は見あたりません。
 その内訳としては、株式会社形態をえらんだところが約300、企業・組織の副業経営体が約400、協同組合等その他の組織となったところが約2000、自営農への道(分割)を選んだところが約6万2千、等々となったようです。これにより、自営農は1991年末に約4万9千戸であったものが、1992年末には約18万4千戸、さらに1993年6月末には約25万8千戸に増加したことで、自作農家1戸当たりの農地面積は平均で約42ヘクタールとなった、と伝えられているところです。
 また、自営農の生産に自留地や自家菜園の生産を加えた「小規模農業生産」の状況をみると、「1992年にはジャガイモの80%、野菜の55%、肉の36%、ミルクの31%卵の26%が小規模農業生産によるものとなっている。また、小規楳農業生産者の家畜保有高の割合は1991年末から1992年末にかけて、肉牛は19%から22%へ、乳牛は28%から31%へ、豚は22%から25%へ、羊及び山羊は31%から36%へと高まっていることになっています」(経済企画庁「年次世界経済報告1993年版」より引用)。
 これらをもって、国有及び集団所有の下での大規模農場の生産から、農地の私有を基礎とした小規模農業生産への転換がうまく行われたとし、かかる農業の私有化は軌道に乗りつつあると見ている論考が多いですが、これは楽観的過ぎる途中経過の報告であったと言わざるをえません。というのも、1991年から1992年にかけてはロシアの農業経済が困難に直面していた時期で、その困難とは①穀物収穫、肥料・飼料の供給不足と食糧輸入問題②集団農場からの改組の過程で経営が行き詰まるところの顕在化、中でも経営基盤の脆弱な自営農は困難に陥っており,自営農を放棄せざるを得ない農家も出始めている、③農民が農産物を政府に売りたがらない傾向、④農業機械の高騰,機械用燃料の不足と高騰、⑤農業生産物の収穫上の諸々の遅れや損失、輸送の障害など、多々あった、というのが、1993年6月末時点での非集団化、非国有化の状況でした。

(続く)

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♦️718『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの市場経済化(1991~1995、工業における民営化)

2018-04-14 10:05:16 | Weblog

718『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの市場経済化(1991~1995、工業における民営化)

 1991年11月、ロシア燃料エネルギー省のイニシアチブで国内初の石油コンツェルン「ランゲパス・ウライ・コガルムイチ」が登録されました。社長にはソ連石油ガス産業省の官僚が就任しました。
 1992年、さらに「スルグトネフチェガス」と「ユコス」の2社が登録されました。
 同年半ばになると、石油産業の株式会社化が施行され、3社において49%までの民間の株式所有が認められました。1993年末になると、3社
以外の「ロスネフチ」の中から30近くの独立系石油企業が相次いで設立されました。
 1994年8月、政府は「チュメネフチェガス」など3社を合同して「チュメニ石油」を発足させました。
 1995年3月、「オネクシムバンク」のポターニンが銀行界の「総意」として、政府保有の株式の管理権と引き換えに国家に対し融資を行う用意があることを提案しました。当時の政府財政は、国内企業からの税金支払いが
滞っていて、財政は著しく資金不足に陥っていましたから、まさに誘いの水
となりました。
 政府の民営化当局である国家資産委員会は、さっそく政府持ち株を委託管理に移す方法として「オークション方式」を採用しました。これは、一番多額の融資を申し出た者がそれぞれの所有株式を落札するというもので、それまで70年以上にわたり営々と築き上げられてきた国民共有の財産は、ここに解体され、新興の独占ブルジョアジーたちの手に一つ、また一つと渡っていったのでした。
 これにより、同年11月には「スルグトネフチェガス」の株式40%が同社の年金基金の管理となりました。12月、「オネクシムバンク」が「シダンコ」の支配株を1億3000万ドルで手に入れました。ユコス株の78%は1億5900万ドルで「メナテップ銀行」のダミー会社の手に渡りました。また、「シブネフチ」の株式の51%が「石油金融会社」を中心とする面々に落札されていきました。
(この部分の情報は、江藤寛「プチーンの帝国」草思社、2004年刊などから入手したもの。)

(続く)

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♦️717『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの市場経済化(1991~1995の概観)

2018-04-14 09:56:09 | Weblog

717『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの市場経済化(1991~1995の概観)

 自然発生的な民営化は1980年代後半から続いていた。ロシアの民営化の歩みは1992年1月2日のガイダル政権による価格自由化、貿易自由化から開始されました。その前のロシアの経済状況は、ソ連およびソ連肝いりのコメコン経済圏の崩壊によりさまざまな経済困難が横たわっていました。ここに民営化の第一幕が上がります。
 1992年夏になると、ガイダル路線に対する批判が強まって、1992年12月に解任、穏健派のチェルムイディンが首相になりました。新首相の
下で、国営独占企業の民営化が急ピッチで進みます。
 1992年8月14日、大統領令「ロシア連邦における民営化小切手システムの導入について」、1992年10月14日付け「ロシア連邦における
民営化小切手システムの発展について」が出されました。これによって、政府は1994年7月1日までに民営化に出される企業の株式を取得できるようにすることを約束しました。
 これと前後して民営化の手続きが始まりました。1992年10月、民営化小切手他(バーチャル)の配布が始まります。
 国有企業の所有権を私的部門に売却する場合、実際には国家資産管理委員会から資産を譲渡された国家資産基金が売り手となって買い手を探すことになっていました。
 国有企業の民営化では、競売、公募入札、入札、株式会社への改組を通じた株式の売却・譲渡といったものであるが、これらをたばねて完了や新興財閥がのし上がってきました。70年余にわたりソビエト国民が営々と築き上げてきた共有財産がいとも簡単に私有化されていくのは瞠目に値します。
 旧国営企業の連合が進展していて、いくつかのコングロマリットが形成されてきた。国営企業の合併は1990年ころから一部認められていた。具体的にいうと、1990年1月にできた「企業と企業活動における法律」により、企業の独立採算や生産目販売の自由裁量権が一部認められるなど、企業同士の横の連携が強まった。企業グループの形成は、経営ノウハウに乏しい当時のみ国営企業が域の頃生き残るための方法でもあった。いわば生き残りの手段と言えます。
 しかし、当時は中央管理の体制からは脱却することはできせんでした。しかし、ソ連法の崩壊でたがが緩んで、大きな影響をもたらすようになりました。
 このことについて、ロシア最高会議は1991年10月になって国営企業の連合に対する法規制を審議しましたが、一部代議員の反対、国有企業連合・中核は「産業・企業家同盟」の圧力で廃案を余儀なくされました。1992年1月時点で、ロシアに数十のグループが形成されました。
 これらは国民経済の中核としてありつつ、純粋な民間企業の発展を妨げていました、組織内に銀行や保険を抱え、流通から運輸も束ねていることが多かったのです。
 1992年半ばの国家統計局による企業所有構造はつぎのように伝えられています。
 国営と地方自治体経営企業は34万9381社、資産規模は総額で356億ルーブルと見積もられていました。
 連邦関係所有は8万809か所であって、総資産額は241億ルーブル。
 政府が意図する民営化の規模は、総資産の25%を禁止。53%に相当する資産企業の民営化については政府の許可が必要というものでした。ここから民営化が始まっていきました。
 1993年には物価上昇がさらに跳ね上がりました。価格の自由化がその背景にありました。価格の自由化を受け入れる前に、企業の民営化を進めることにはなっていませんでした。
 1994年からは政府が進める市場経済の道筋が見えてきます。1995年から1996年にかけて、生産活動は疲弊したままであったとはいえ、急激な物価上昇は収まっていきました。
1995年3月31日になると、「オネクシムバンク」のボターニン、ホドルコフスキー、スモレンスキーの財界人、彼らはのちに「新興財閥:オリガルヒ」と呼ばれますが、政府に株式担保型による公有企業の民営化を提案しました。
 その結果、かれら新興財閥グループは、油田を初めとする鉱物資源などロシアの最も有益な資産の一部を、エリツィン政権への支持と引き換えにただ同然の安値で手に入れたのでした。

(続く)

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♦️71『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア神話

2018-04-14 09:31:09 | Weblog

71『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア神話

 ギリシア神話というのは、どのように受け取ったらよいのだろうか。そもそも、この神話は長い時を経る間に作られていった。紀元前2000年頃には、彼らはゼウス神を奉じてギリシアに侵入したのではないかと。その頃には、インド=ヨーロッパ系の言語としてのギリシア語をものにしていたのだろうか。その神話が作られていく過程においては、彼らが古いものから新しいものへと順に加え、あるいは塗り替えていった固有のものを中核に、先住民族や近隣民族のものなどを付け足したり、合せたりして、長い消長変化、千変万化を経て発展していったものと想像されよう。
 私たちが今日知る「ギリシア神話」とは、そうした神話伝説を互いに矛盾のないように束ねた、いわば編集された総称をいう。だが、それらの全てを現実の歴史に基づかない空想や幻想の類であるというのは、およそ正しい認識ではあるまい。確かに、そういう要素も多少あるいは相当程度混じっていると考えられるものの、かといって全部が人為的につくられた架空の物語であるかどうかは、慎重に見ていく必要がある。また、その中の一つもしくは幾つかの話の束が想像だけでつくられることもあろう。そうであるにしても、そこには作る者からの某かの論理なり事情が入れ込まれているに違いあるまい。
 さて、ここでの話が時代を下っていく、その話の道筋をしばらく辿ることにしよう。それによると、極々大まかに、この世界の元々はカオス(chaos)の状態だった。カオスとは「虚空」あるいは「混沌」のこと。さしずめ、無の世界のことであろうか。
 かかるカオスから、自然発生的にガイア(大地の女神)、タルタロス(冥界を司る)、それにエロス(愛の神)がうまれた。これら3人のうちのガイアは、成人して天を司るウラノスと結ばれる。そして、地上に山や木、花、鳥や獣を、また天には星をちりばめる。やがてウラノスが降らせた雨によって海ができた。二人はまさらに、残りの同様にして天と地のすべてを創造した。
 ガイアはまた、天空の神ウラノスや海洋神ポントスを産んだ。海の神オケアノス(oceanの語源)や大地の神クロノス、レア、ムネモシュネなどのティタン神族の神々を産んだ。
 さらに、ガイアは、目が一つのキュクロプス族、100の手と50の頭を持つヘカトンケイル族を産んだ。ところが、ウラノスはこれらの子供を嫌い、生まれるとすぐにタルタロス(冥界・地獄)に閉じ込めたというから、ガイアとの仲はよろしくなかったようなのだが。
 さて大地の神として産み落とされたクロノスは、成長して妹レアを妻にする。レアは、ヘスティア、デメテル、ヘラの三姉妹とハデス、ポセイドンを産んだ。ところが、父親たるクロノスは、「将来お前も自分の子供に殺されるだろう」という祖父ウラノスの呪いを信じ、産まれた子供を全て呑み込んでしまう。レアはこれに驚き、悩む。そして、レアは秘かにクレタ島に渡り、そこで6番目の子ゼウスを産んだ。
 ゼウスは、クレタ島で女神アマルテイア(やぎ座)の乳を飲んですくすくと育っていく。
やがてゼウスが成人すると、ペルセウスの孫のアルクメネを誘惑して産ませる、その子のま名前をヘラクレスという。ヘラは、何を思ったのか、ヘラクレスを嫌い乳を与えなかった。ゼウスは何とか乳を飲まそうとヘルメスに命じ、ヘラクレスをヘラの寝室に連れて行かせた。そして、ぐっすり眠るヘラの乳を吸わせる。
 ところが、ヘラクレスがあまりに強く吸ったため、ヘラは痛さに眼をさましヘラクレスをはねのけた。こぼれ落ちたヘラの乳は、みるみるうちに広がって、天の川(Milky Way)になった。ヘラクレスはヘラの乳を飲んだため不死身となるのであった。
 ヘラのいやがらせはその後も続く。ヘラクレスが眠っているところに毒蛇を投げ入れて殺そうとしたりもするのだが。しかし、小さいにもかかわらず強くなっていたヘラクレスは、その蛇を手でつかんで殺してしまった。さらに、時が流れていく。今や成長したヘラクレスは妻や子供と平穏に暮らしていた。これが気に入らないヘラは、ヘラクレスを狂わせて、妻や子供を殺させた。やがて正気を取り戻したヘラクレスは、罪を自覚するのであった。ついては、それを償うためにと、ミケーネのエウリュステウス王に指示された、つごう12の冒険を行う旅へと出るのである、云々。それからも、物語は「野山を駆け回る」とでも形容しようか、なおも延々と続いていく。
 これらの話の人々による語り継ぎが、彼らの間でいつの頃からであろうか、吟唱とか、叙事詩風にて広く朗読されていたであろうことは、例えば、次に紹介する「イーリアス」の一節からも、そんな臨場感の一コマが伝わってくるように感じられるのだが。
 「諸神はいまやゼウスのもとに会議をもよおし、黄金を延べた床の上に、おのおの座に就く。間をめぐって女神ヘーベーがネクタルを注いでまわれば、神々は黄金の高杯(たかつき)をとって酌(さ)しかわしていた。トロイエー人らの城市(しろまち)を見下ろしながら。」(ホメーロス、呉茂一訳「イーリアス」上、第四書、誓約の破棄、アガメムノーンの閲軍、岩波文庫、1953)
 さて、ここにギリシアの名をかぶせられた「神話」というのは、ギリシア語のmythos(ミュトス)をもってする。これの意味するところは、「権威のある、預言(予言ではないところの)的な、聖なる言葉」であるという。このミュトスと似たものにlogs(ロゴス)という言葉があるものの、こちらは「理解にかなった、説得的な言葉」だとされ、どちらも同じ神の道(ことば)でありながらも、重点の置き方が異なっている。
 さらに遠くを俯瞰すれば、一切の淵源としての人類の祖先の「出アフリカ」があったのだと。すなわち、今日、諸民族の伝説なり、神話なりと呼ばれているものの総体、なかんづくその淵源を辿ると、少なくとも、ホモ・サピエンス(現世人類)として在った時代からの記憶がそれらにたたみ込まれているものと考えられるのではないか。
   
(続く)

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