113『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの遠征(帝国の分裂)
ところが、アレクサンドロスは、紀元前323年、アラビア遠征の途中のバビロンで、熱病に罹って急死した。残されたのは、なにしろ大帝国である。大王につき従っていた武将たちの跡目相続の争いがあった。
果たして、アレクサンドロスが後継者を決めずに急死した後には、各将軍たちとこれに従う兵隊たち、そして東方の「太守領」などが残された。
最初には、将軍のペルディッカスがマケドニア王の摂政権と軍隊の指揮権を掌握し、大王が遺したオリエントの領土の継承、支配に務める。これに対抗するアンティパトロスとクラテロスは財政を握りに行く、そして彼らはヨーロッパ領を支配の拠点におく。また、プトレマイオスはエジプトに、アンティゴノスは小アジアに、リュシマコスはトラキアを我がものとしていこうというのであった。
ところが、その最有力のペルディッカスが他の将軍たちの標的にマークされる中、新興のセレウコスにより殺される。そこで、その後のことを「ディアドコイ」と呼ばれる後継の各将軍の間で話合うことになる。紀元前321年には、遺領分割のための会合をもつ。
そこで結ばれた協定においては、アンティパトロスが大王の故国のマケドニアとギリシアを獲得し、名目と化しつつあるとはいえ帝国の摂政役を担う。あとは、プトレマイオスはエジプトを、アンティゴノスを小アジアに、リュシマコスはトラキアを手中に収め、さらにセレウコスはバビロニアを獲得する。
そして迎えた紀元前306年と次の年に、先に結ばれた分割の協定の同盟は決定的な破綻に向かう。大王の後継者たちのそれぞれが王を称したのである。それからの王たちの治世には、もはや大王の帝国であったその一翼を受け継いでいこうという統治理念は失われていた。
その後しばらくの紀元前301年にはフリュギアのイプソスの戦いが起こり、勢力拡張に動いてきたアンティゴノスは戦いに敗れて自殺する。息子のデメトリウスがその後を継ぎ、アテネ、ギリシア本土そしてエーゲ海を征服するのだが、紀元前289年の戦いで敗れる。ここに帝国の本格的な分裂が始まった。最後に残っていたセレウコスは、小アジアやトラキアをも手中に収めるのであったが、紀元前280年に暗殺される。
これらのうちに、かのディアドコイ(後継者)と呼ばれたアレクサンドロス大王の部将のすべてが世を去った。まずは、二代目のプトレマイオス2世フィラデルフォスは、エジプトに根をおろしていた。アンティゴノスの息子デメトリウスは紀元前281年のマグネシアの近くの黒部ディオンの戦いで敗死していたが、その息子のアンティゴノス・ゴナタスがギリシアとマケドニアを支配する。そして迎えた紀元前279年、アンティゴノス・ゴナタスの軍はケルト人を破り、紀元前276年には王朝を確立する。さらに、セレウコスの息子のアンティオコス1世は、地中海東部からイランまでの地域を支配下に置く。
およそこのようにして、アレクサンドロス大王の築いた帝国は、3つのマケドニア系王朝の下に分裂を遂げていくのである。
なお、東方の太守領をめぐっては、大王の死後早くから独立を果たす。それらは、ギリシア系バクトリア人の王たちの手中に握られていた。一方、その西のインドでは、チャンドラグプタが台頭する。さらに、西方のイランから黒海にかけての北方周辺地域については、中ば独立した土着の系譜をもつ太守たちの支配に組み入れられた。
(続く)
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240『自然と人間の歴史・世界篇』革命歌「ラ・マルセイエーズ」
20世紀の自由フランスの歴史家ジョルジュ・ルフェーブル(1874~1959)は、「革命的群集」という言葉を持ち出し、こんな批評をしている。
「それゆえわれわれは次のように結論できる。すなわち、それに相応しい集合心性があらかじめ醸成されていないならば、「革命的結集体」ーー常識的であいまいな意味合いになるが、「群集」という言葉を使いたければ「革命的群集」と言ってもよいーーはありえないのだと。」(ジョルジュ・ルフェーブル著(1932)、二宮宏之訳「革命的群集」岩波文庫、2007))
これにある「それに相応しい集合心性があらかじめ醸成されていないならば」、それは「革命的群集」とはなりえないという下りは、その「集合心性」なるものが在ったればこそ、フランスの人民は人類初の民衆の意思による革命まで進み得たことになろうか。
そのことを体感とともに考える素材として、ある歌がある。その発端としては、大いなるエピソードが伝わる。1792年4月、フランス政府はオーストリアに対して宣戦布告する。フランス革命にプロイセンとオーストラリアの連合が反対したのだ。戦争が勃発すると、始めはプロイセン軍が優勢であった。彼らがフランス国境内に侵入すると、革命政府は祖国の危機を全土に訴える。
その頃のフランス北東部のストラスブールでのことである。工兵大尉のルージェ・ド・リール(17601836)らが部隊を統率しているところへ、へストラスブール市長が表敬訪問してくる。ライン方面軍の士気向上のために、音楽的素養のあったリールに行進歌を作るよう依頼する。
リールはこれを引き受け、その興奮の醒めやらぬ中であったのだろうか、一夜にして勇壮な行進曲を作詞・作曲する。そのタイトルを『ライン軍のための軍歌』 (Chant de guerre pour l'armee du Rhin)といい、当時のライン方面軍司令官ニコラ・リュクネール元帥に献呈されたという。
おりしも、フランス各地で組織された義勇兵達が続々と集結してくる。そんな中、マルセイユからの連盟兵が、この歌を歌いながらパリに入城してくる。それから、人々の間に広まっていく。
この歌の歌詞は全部で7つあるというから、驚きだ。そんな中で、どのあたりが通常歌われているのであろうか、ここではさしあたり1番と2番の訳(中央合唱団によるもの)だけを紹介しよう。
「1.起て祖国の子等よ栄えある日は来ぬ
ぼうぎゃくのとりでに
見よ旗は血にそみぬ
見よ旗は血にそみぬ
聞け我等が野山を
ふみにじるとどろきを
わがはらからは
けがれし手にくびられる
とれ武器を組め隊伍を
進め進め我が祖国の自由を守れ
2.彼等何するものぞおごれる地獄の犬
裏切りとさく取の手もて
わが敵はせまりきぬ
わが敵はせまりきぬ
フランス人よ何たる恥ぞ
憎しみを火ともやし
圧制をくだきて
きたえよ我がかちどき
とれ武器を組め隊伍を
進め進め我が祖国の自由を守れ」
この歌のその後だが、1795年7月14日には、今日のタイトル「ラ・マルセイエーズ」( La Marseillaise)の名で正式にフランス国歌として採用されるにいたる。そして今日へと受け継がれる中で、有名なアレンジとしては、『幻想交響曲』で知られるフランスの作曲家ベルリオーズによる独唱者と二重合唱、オーケストラのための編曲版(1830)もある。
以来、二百数十年の時を経て、今に生きる私たちがいう「人の時を知る」とは、歴史の不可逆性の側にある後代の人間がその時代、その時、その現場に肉薄したいとの思いを込め、言われるものとあろう。だからこそ、その作業は簡単なものではない。元々、革命時のような高揚した精神は、一朝一夕で出来上がるものではなく、そこまでして現れるものは、人が時代が抑えようとしても抑えきれない、少なくとも過去幾百年もの間、その社会に醸成されてきた大いなる精神が下地なり背景にあってのことなのではないだろうか。
(続く)
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281『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(二月革命など)
そして迎えた1848年2月22~24日、「二月革命」が起こる。これの鎮圧のために政府より仕向けられた軍隊は、革命に同情的で政府の命令に従わなかった。そのため、この革命は成功し、ギゾー内閣は倒れ、共和制臨時政府が成立する。そして、ルイ・フィリップは国外に亡命する。
かかる市民革命の革命成功後に政府が設けられ、共和政が宣言される。これ以後、1852年のルイ・ナポレオンがナポレオン3世を名乗っての帝政樹立までを、「第二共和政」と呼ぶ。
臨時政府は、労働者よりの政策を立案する。その一つの「国立工場」を巡っては、ブルジョア共和派が冷淡であった。そのこともあって、創設された国立工場は、労働者に供給できたのは非定期的な、しかも少数の土木工事位に留まる。大部分の労働者は日給1.5フランを支給されたものの、満足な仕事にありつけない。このような国立工場の失敗は、社会主義に対する国民の期待を裏切るものであった(米田治、東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶應義塾大学通信教育教材、1988など)。
4月23日には、総選挙が実施される。その結果は、ブルジョア共和派の圧勝であり、社会主義者は惨敗であった。後者は政府を締め出される。ブラン機らの急進派の社会主義者は、5月15日に放棄するが、失敗する。この5月の暴動の後は、それまでの空気が一変する。社会主義者は例外なく弾圧され、国立工場は減す差されてしまう。
これに対して、6月22~26日、パリで民衆暴動が起こる、これを「六月事件」という。しかし、これも6月23日から3日間続いた市街戦で、民衆の蜂起は鎮圧される。
(続く)
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280『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(七月革命など)
1830年7月25日には、「七月勅令」が発布される。これには、7月の総選挙で自由主義派(反政府派)がさらに増加した未召集の議会を解散すること、次回の選挙を9月に行うこと、地主以外の有権者の選挙権を奪うこと、言論・出版の統制を強化することが盛り込まれる。
これに対して、1830年7月27日から29日にかけて、パリで民衆が蜂起、これを「七月革命」と呼ぶ。具体的には、まずは7月27日、パリの民衆、これには学生・小市民・労働者らが合わさっていた、その彼らが市内のあちこちにバリケードを作り始める。翌28日には市街戦が激しくなる。さらに29日には、民衆がルーヴル宮・テュイルリー宮殿やノートルダム寺院などを占領するのであった。
この「栄光の三日間」の市街戦の一端は、後にドラクロワ(1798~1863)により「民衆を導く自由の女神」(1831年出品)として描かれる。この作品では、三色旗を掲げる自由の女神が革命軍の志士を率いているのが象徴的だ。
この下からの運動に対し、万策尽きたシャルル10世は、8月2日に退位宣言を行う。そしてイギリスへの亡命に追い込まれる。続いての8月9日には、オルレアン家のルイ・フィリップが即位するにいたる。彼は、事態の沈静化をねらって自由主義者を装い、「フランス人民の王」を装う。そして15日には新憲法が制定される。これが「七月王政」と呼ばれるもので、1848年まで続く。
この時、政府を支配したのは、金融ブルジョアジーの面々であり、彼らの念頭には人民の暮らしを良くしようとの思いはない。ルイ・フィリップの下で政権の中心には歴史家でるあるギゾーが座る。そのギゾーは、選挙権拡大の要求に反対したりで、産業ブルジョアジーの離反を招く。彼はまた、対外的にイギリスとの融和政策をとるが、かなりの国民はナポレオン時代の栄光の夢醒めやらぬかなり多くのフランスの国民は、これを屈辱外交と感じていたらしい。
フランスにおいては、1845~1846年の凶作に、1847年に起こった経済恐慌が重なる。これらは、国民の暮らしを直撃する。フランス全土で、内閣の退陣を求める学生や労働者を中心とする大衆運動が頻発する。
(続く)
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279『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」など)
1799年11月9日(フランス革命暦における月日であることから、「ブリュメール18日」と言い習わす)の軍事クーデターで統領(執政)政府が成立する。その後、ナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒し、彼は執政政府の第一執政となって権力を奮う。
1804年、ナポレオン法典がつくられる。同年5月、ナポレオンが皇帝となり、ナポレオン1世と名乗る。1806年11月、その彼が大陸封鎖令で周辺国に圧力をかける。その余勢をかって1812年にはロシアの遠征を敢行するも、モスクワ占領中の「冬将軍」に苦しみ、やがて敗退する。
1813年の3月20日から6月29日にかけて、そのナポレオンの「百日天下」がある。しかし、1814年になってからナポレオン1世は退位し、エルバ島に流される。1814年5月には、ルイ・ナポレオンがルイ18世として即位し王制を復活させる。彼は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)と同時に国外へ逃亡していた。それが、ナポレオン1世の没落を幸いに帰国して王位についたという意味で、「第二帝政」とか「ブルボン復古王朝」(1830年の七月革命の民衆蜂起まで続く)と呼ぶ。
それでも、ナポレオン1世はエルバ島を脱出し、勢力を盛り返す。そして迎えた1815年6月、彼の率いるフランス軍はワーテルロー(当時はオランダ、現在はベルギーにある)の戦いで敗北を喫す。ここに、当時のヨーロッパ列強の第六次対仏大同盟がナポレオン1世を破って第一帝政が名実ともに終わる。
これに至る一連のフランスの「ドタバタ」な動きにつき、マルクスはこう述べる。
「ヘーゲルがどこかで述べている、すべての世界史的な事件や人物は二度あらわれるものだということを。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、かれはそう付け加えるのを忘れている。
ダントンに代ってコーシディエールが、ロベスピエールに代ってルイ・ブランが、1793年から1795年の山岳党に代って1848年から1851年の山岳党が、伯父のナポレオンに代って甥のナポレオンが現われた。そして二度目の「ブリュメール18日」が行なわれた時、まさにこの茶番劇が演じられた。
人間は自分の歴史を作るが、自由に作るのではなく、目の前にある与えられた条件、過去とつながりのある条件のもとで作る。その条件は自分では選べない。いま生きている人間の頭には、過去の死せる世代の伝統が悪夢のように重くのしかかっている。
だから、自己と社会を変革しようとする時や、これまで存在しなかったものを作り出そうとする時など、まさに革命の危機の只中においてさえ、人は過去の亡霊を呼び寄せ、彼らの名前とスローガンと衣装を借用し、歴史の権威ある服装に着替え、借り物のせりふを使い、新しい世界史の場面を演じようとする。」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
ナポレオン1世の退場によって息を吹き返した形のルイ18世の治世であったが、人民には冷たかった。厳しい制限による差別選挙に基づく立憲君主制を敷くのであった。1824年のルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世して即位し、尚更強権政治に動いていく。
そのシャルル10世だが、亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出する。1827年11月には議会を解散して総選挙を行う。その結果、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめる。これに不満なシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャックを首相に任命したことから、国王と議会の対立が深まっていく。
1830年5月には、シャルル10世は再び議会を解散したが、7月の選挙では自由主義派(反政府派)がさらに増加するのであった。
(続く)
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