♦️272『自然人間の歴史・世界篇』農奴解放令

2018-04-07 22:52:05 | Weblog

272『自然人間の歴史・世界篇』農奴解放令

 農奴解放令(皇帝や国王による勅令の形)といわれるものには、1781年に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が発布したものと、1861年3月にロシア帝国のアレクサンドル2世(在位1855~1881)が発布したものがある。
 後者については、それまでの封建制下で、少数の地主が多数の農奴をかかえていたのをやめさせる。そうなると、それまで農奴には国家から地主に対し人頭税(じんとうぜい)をがしていたのをやめる。その代わりに、国家が直接に農民たちを支配する道が開けると考えた。時代背景には、クリミア戦争での敗北があったという。
 一つには、これによって農民は人格的に自由の身となったが、なにしろ土地の分与が有償となっていた。かれらが分与地を手に入れるには、地主に一定額の買戻金を支払わねばならず、その金額の80%を政府が払ったとしても、その残りについて、農民は例えば49年賦でいうと、6.5%の利子とともに毎年返済しなければならなかったから。
 二番目は、かかる分与地は農民個人に別々に与えられたのではなくて、かれらが所属するミール(農村共同体)に共有地となる。ついては、そのミールが買戻金の支払いにくょう同で責任を負う、そして各人はかかる分余地の割当てを受けるということで、新たな規制に束縛されることになっていく。
 おまけに、これに関連しての次なる事情、すなわち、土地が狭いため、多くの農民は引き続いて地主の土地を小作しなければならず、経済的従属は続く。また、国家の収税がこの共同地の経営にのしかかる、そのことで、国家による搾取強化にもなっていくのであった。
 ともあれこの改革は、不十分さを抱えていたにも関わらず、ロシアの近代社会を確立するうえで大きな第一歩となった。さらに、これをもって一説には、かかる農奴解放は土地を奪われた農村プロレタリアートを作り出すことによって、将来のロシアにおける資本主義発展への道を開くのに繋がった、といわれる。 

(続く)

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♦️365『自然と人間の歴史・世界篇』量子力学の発展(アインシュタイン・ボーア論争)

2018-04-07 21:49:47 | Weblog

365『自然と人間の歴史・世界篇』量子力学の発展(アインシュタイン・ボーア論争)

 私たちが肉眼で見ることのできない、およそ1ミリメートルの1千万分の1よりもっと小さなミクロの世界での出来事を述べるのが、量子力学の世界だといわれる。そうなると、どのようになるかをめぐって、アインシュタインとボーアは対照的であった。実際のそれは、「思考実験」なるものを見立てて、議論の正当性を闘わせた。
 その手始の議論が二人の間で行われた際、アインシュタインが問題としたものに量子力学では「実在」というものの理解がよろしくないということがあった。それというのも、それまでの物理学の伝統的な解釈では、実在とは人間が介在ないところに既に成立している。そればかりでなく、彼は、量子力学が確率でものの実在性や性格、運動の在り方までとりしきろうとしているのに反発し、例えば、友人宛にこんな手紙をしたためている。
 「確かに量子力学は重視するに値するでしょう。しかし、私の内なる声が言うのです。これは真のヤコブではない。この理論から沢山のものが得られるでしょうが、しかしこれによって神の秘密に近づくことは、ほとんど不可能です。いずれにせよ、私は神がサイコロを振ったりしないと確信しています。」(1926年12月14日付け、ボルン宛て書簡より)
 なお、ここに「ヤコブ」(ヘブライ語起源の人名ヤアコブの日本での慣用表記)というのは、「旧約聖書」の創世記に登場する当時のヘブライ人社会の族長たる者をいう。その別名をイスラエルといい、その民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。アインシュタインは、ここでユダヤ教もしくはキリスト教を比喩に持ち出している。
 これに対し、デンマークにいたボーアは、常識では考えられないような理屈を提示するのであった。かれによると、量子的レベルでの対象は、予め何らかの性質をもっていない。例えば電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるまでは、どこに存在するともいえないし、そもそも実在というに値しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、人間により測定されるまでは物理的な属性をもたないのだという。
 では、どうやって実在のものとなるかというと、それに向けて測定という人間の行為がなされたときにのみ、その電子は「実在物」になる、つまりその限りにおいて人間から見えるもの、理解可能なものになると。ついては、ひとつの測定が行われてから次の測定が行われるまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたのか、と問うことには意味がないとされる。量子力学は、測定装置とは独立して存在するような物理的実在については何も語らないし、そもそも語ることができないのだという。
 この両者の議論のどちらが正しいのかは、未だに決着がついていないようだ。

(続く)

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