♦️368『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルの発見を受けて)

2018-04-18 08:41:46 | Weblog

368『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルの発見を受けて)

 ハッブルのこの発見は、人びとに大きな衝撃を与えた。この宇宙膨張の動きは、それまでの「宇宙が膨張しているはずはない」と考えられていたからである。つまり私たちのいる銀河から見て、遠方にある銀河ほど早いスピードで地球から遠ざかっていることなのである。そのイメージとしては、例えばボールをゴムひもで結んで引っ張ったとき、ゴムひも(宇宙)が広がるほど、一つひとつのボール(銀河)間の距離も広がる、つまりお互いが遠ざかっているのである。
 1931年(昭和6年)、アルバート・アインシュタインはウィルソン天文台にハッブルを訪問し、銀河が光のドップラー偏移を捉えたスペクトル写真を見せてもらった。すると、そこには彼の思惑とは異なって、宇宙がじっとしておらず、膨脹しているという事実が「赤色偏移」となって確認されたのである。それまで、膨脹なんてことはありえないとして、定常的な「止まった宇宙」を前提に話しをしていたアインシュタインがびっくり仰天したことは疑うべくもない。もっとも、アインシュタインがハッブルの発見まで考えていたのは、膨脹も収縮もしないという意味での定常的な宇宙に限られる。アインシュタインの、当初の理論では、星や銀河などの重力に引っ張られて、宇宙は最終的には収縮する。最終的には一点に戻って潰れてしまう。これを「ビッグクランチ」という。これでは宇宙を定常に保てないと思って、彼は宇宙をビッグクランチから救い、定常を保つための「宇宙項」を自分の方程式に追加していた(前掲)。
 ところが、ハッブルの宇宙膨張に接し、それが揺らぎのない真実だということになる。そこでアインシュタインは、この「宇宙項」を破棄したのである。彼はこれを「人生最大の不覚」とみなしたのだが、皮肉にもアインシュタインの死後21世紀になってからの、ダーク(暗黒)エネルギーの登場(2003年)によって、宇宙の加速膨張を説明するために、この項は再び必要となっていく。
 そこで、テレビ画面上のクラウス教授は、宇宙がこれから先もずっと膨張を続けるのか、それともある時点で収縮に転じるのかを問いかける。それは、宇宙に存在するこの二つのエネルギーの和がプラスなのか、マイナスなのかがわかれば、宇宙が永遠に膨脹するのか、収縮に転じるのかがわかるというのが、この議論のそもそもの出発点になっている。
 1933年、スイスの天文学者フリッツ・ツヴィッキーが論文を発表し、銀河の観測から後の「暗黒物質」の存在を予言した。彼は、かみのけ座にある「銀河団」(銀河が約100個から1000個程度重力を介して群れ集まっている集団をいう)を観測する。物質の発する光の量はその質量によって変わることを利用して、その総質量を、まず光の量から算出した。それぞれの銀河は重力によって動いている。ニュートンが発見した「重力の逆二乗法則」を使い速度を調べることで重力の大きさがわかり、重力がわかれば質量も求まる。そこで次にはこの法則を使って、銀河団に属する、つまりその銀河団の中に残っている銀河の動き(速度)から逆に、その銀河団が閉じ込めることのできる重力の大きさ、ひいてはその銀河団の総質量を算出した。
 ところが、これら二つの方法で算出した質量の間に、400倍もの開きがあった。後者の運動速度から求めた値の方が、前者の光の量から測った値の方、つまりその銀河団の明るさ(それは個々のメンバー銀河の明るさの単純な和とされる)から予想される質量値を大きく上回っていたのだ。すると、このかみのけ座銀河団にはそれだけの差分だけ、つまり光っている物質以外に、目には見えない(光を発していない)、けれども質量のある物質が大量に存在して銀河を動かしていることになるのではないかと考えた。
 1947年、宇宙の出発点が「ビッグバン」にあったとする「ビッグバン宇宙論」を、アメリカの理論物理学者のジョージ・ガモフが提唱した。これによると、宇宙がハッブルの法則に従って今もなや膨脹しているのであれば、過去に遡って考えると、宇宙の最初は超高密度の状態の一点に集約されるだろう。それを時間でいえば、宇宙は約137億年前に誕生したと見積もられることになる。つまり、宇宙の最初は超高温、超高密度のいわば「火の玉」が大爆発を起こして誕生した。その時の温度は、「10の27乗(10億の3乗)度」もの高温であったと言われる。これは、それまで主流であったアメリカの天文学者フレッド・ホイルの「定常宇宙論」、つまり、「ハッブルが発見した宇宙の膨張は認めつつも、次々に銀河が生まれることで、結局、宇宙の物質の密度は保たれ、永遠に不変だとする考え方」を打ち砕こうとするものであった。ホイルにとっての宇宙には、始まりもなければ終わりもない。この考えに凝り固まっていた彼にして、ガモフの理論を「あいつらは、宇宙がビッグバン(大爆発)で始まったといっている」と挑戦的な調子で述べたのは、科学の世界でもよくあることなのだろうか。

(続く)

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♦️109の5の4『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルなど)

2018-04-18 08:40:22 | Weblog
109の5の4『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルなど)

 1915年から16年にかけて、物理学者のアルバート・アインシュタインは、次の重力方程式を世の中に提出する。
 {Rμv-1/2(gμvR)}+Λgμv={(8πG/Cの4乗)Tμv}
ここに左辺の第1項は、時空(時間と空間)のゆがみ具合、第2項は宇宙定数で宇宙が重力で潰れないための押し返す力(斥力)、それらを足したものが右辺の物質が持つエネルギーとなっている。この式で彼は、「相対性」という概念を広げる。重力や加速度が関係する運動にまで適用できる一般式を考えたのだが、この式にいわれる重力理論の基本部分、光の経路が曲がるという予言の正しさを証明したのが、イギリスの天文学者エディントンである。
 1919年の彼は、皆既月食の際の太陽周辺の星の光に注目する。なにしろ太陽は相当に大きいので、その重力によって周囲の時空が歪み、そのため太陽の裏に隠れているはずの星の光がカーブして地球までやってくる筈だと考えたのである。そして、その観測は成功したのであった。
 1919年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブル(1889~1953)は、ウィルソン山天文台にいて、宇宙が膨張していることを発見した。「光のドップラー効果」と呼ばれる物理法則によると、移動する物体の発する電磁波の波長では、その物体の後ろ側では長くなる。これを天体観測に使えば、遠ざかる銀河からの可視光の光は波長が最も長い赤に近い方に引き延ばされる。これが「赤方偏移」である。ここで光の色は波長の短い方から長い方向へ、つまり紫、青、緑、黄、オレンジ、赤の順に変化していく。つまり、近づいてくるものの波長は縮み青っぽく見える、遠ざかるものの波長は伸びて赤くなる。だから、青い光は緑に、緑の光が黄色に変化して見える場合は、その光が観察者から遠ざかっていると考えられる訳なのだ。
 この赤方偏移を用いる接近方法が正しいと考えられる根拠については、彼自身こう述べている。
 「この問題を研究を通して、次のような結論が得られた。赤方偏移を起こさせるいくつかの方法がある。それらの中でただ1つだけが、観測で分かるような他の効果を作らずに、大きな偏移を作ることができる。それはドップラー効果である。これは、赤方偏移は銀河が実際に後退していることに帰する。赤方偏移は速度によるものであるとかなりの信頼性を持って言える。さもなくば、今まで未知の物理法則を考え出さねばならない。(中略)
 しかし、銀河の赤方偏移は非常に大きなスケールにおけるものであり、私たちが今までに、ほとんど経験していないものである。必要な研究は困難と不確実性につきまとわれており、現在つかえるデータからの結論はかなり疑わしい。
 赤方偏移の解釈は、少なくとも部分的には実験的な研究の範疇(はんちゅう)にある事実をここに強調しておきたい。望遠鏡の能力をまだ使い切ってはいないので、赤方偏移が実際に運動を反映しているのかどうかがわかるまで、結論を先に延ばしてもいいと思う。」(エドウィン・ハッブル「銀河の世界」岩波文庫、1999)
 ともあれ、ここまでは1914年のアメリカの天文学者スライファーによる「光波のドップラー効果による赤方偏位」の観測により、私たちの銀河系の外にある銀河から届く光の観察で、秒速1000キロメートルで後退している銀河が発見されていた。
 その際のハッブルは、このスライファーの発表に着目し、さらに遠くの銀河の光を当時の最新鋭のハッブル望遠鏡で観察を始める。銀河からの光を分光(その光をさまざまな成分に分解すること)していく。そのハッブルは、1929年、各々の変光星が属する銀河までの距離を推算する作業を進め、それらのうち24の銀河について、光のドップラー偏移を調べたところ、それらのどれもが赤方偏移を起こしていることを発見した。これはつまり、ハッブルが観測した銀河間の距離、つまり宇宙が膨脹していることを意味している。 その際、かかる赤方偏位は、銀河の後退速度によって生じたものではなく、光が天体を発した時の宇宙の大きさと、その光が地球に到達したときの宇宙の大きさとの違いのために生じたものだと考えられている。もっとも、個々の銀河の大きさはこれによっても変わらない、銀河の中の恒星と恒星の間の距離が広がっているということでもない。広がっているのは、重力が及ぶ範囲の天体間の距離ではなく、あくまで、それらを包摂した、より遠くにある「銀河」と別の「銀河」との距離なのである。
 そればかりではない。ハッブルは、18個の銀河までの距離と、それらの銀河が地球から遠ざかる速度(「後退速度」と呼ぶ)の定量的な関係式、「1メガパーセク(326万光年)離れた銀河は秒速530キロメートルで遠ざかっている」(この値は、今は秒速71キロメートルと言われている)のを探し当てた。
 この作業のときハッブルが着目したのがセファイド変光星であって、この変光星は、その絶対光度と変更周期との間に特定の関係、すなわち周期が長いほど絶対光度が大きくなることが、1910年代までにはわかっていた。そこで、その変光星の変光周期を観測して絶対光度を求め、割り出したその値を見かけの明るさ(これは地球からの距離に比例するのであるが)と比較することにより、目的とする変光星までの距離を割り出すことができるのだ。
 参考までに、この変光星の割出しについて、ハッブル自身は、こう述懐しているところだ。
 「状況は1885年と1914年の間に急速に進展した。M31渦巻銀河に出現した明るい新星は、距離問題に対する新しい興味をまきおこした。(中略)
 解決は10年後にやってきた。この解決には、その間に完成した巨大望遠鏡、100インチ反射望遠鏡が大きな役割を果たした。いくつかの最も明るい銀河は銀河系の外にあり、天の川銀河の外の空間にある独立した恒星の集団、つまり系外銀河であることが明らかになった。(中略)
 100インチ反射望遠鏡は近傍の銀河を部分的に星に分解した。これらの星の中に、天の川銀河の中にもある、いろいろな型の明るい星と同定されたものがあった。それらの固有の光度は、ある場合は正確に、ある場合には近似的にわかっている。したがって、銀河の中の発見された星の見かけの暗さは、その距離が大きいことを示している。
 最も信頼するに足る距離の値は、セファイド変光星によってもたらされる。しかし、他の星からも距離の桁を決めることができる。それらは、セファイド変光星によるものとほぼ一致していた。最も明るい星の光度は、ある種の銀河でほぼ一定のようなので、銀河の群の平均距離を統計的に決めるのに用いられた。」(エドウィン・ハッブル著、戎崎俊一(えびすざきとしかず)訳「銀河の世界」岩波文庫、1999) 

(続く)

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♦️115『自然と人間の歴史・世界篇』ヘレニズム文化

2018-04-18 07:36:28 | Weblog

115『自然と人間の歴史・世界篇』ヘレニズム文化

 顧みて、アレクサンドロスの東への遠征(紀元前334~紀元前324)により、アケメネス朝ペルシアの滅亡後も東方遠征は続き、アレクサンドロス大王はギリシア・エジプトからインダス川西岸までの広大な地域を自らの帝国としていく。
 驚くことに、彼は、戦いにだけ明け暮れていたのではなかった。自らの名前を冠したアレクサンドリアという諸都市を各地に建設していく。そのことを含めて、彼はギリシア文化などを地中海沿岸、中東そして西アジアの文化と融合させていった「功績」がいわれる。ここに東西の文化が出会って、その融合するところからヘレニズム文化が形成されていった。
 ここにヘレニズムとは、元々「ギリシア風文化」の意であって、ドイツの歴史家ドロイゼンの造語だと伝わる。ギリシア人がポリス時代に使用した、ギリシア人の自称としての「ヘレネス」にも由来しているとのこと。その広まった期間としては、紀元前334年のアレクサンダーの東方遠征開始から、紀元前30年のプトレマイオス朝エジプト滅亡(女王クレオパトラの死)までの約300年間をヘレニズム時代ともいう。
 こうしてヘレニズムとの言葉をかぶせられた文化・文芸のうち、東西の美術の出会い、そして融合ということでは、その時間領域は1世紀後半~2世紀中頃の北インドのクシャン王朝の最盛期カニシカ王の時代にいたる。すなわち、ガンダーラに大乗仏教や、それに類しているであろう数多(あまた)の仏像などが造られ、それを中心に文化が咲いた。それは、1世紀から5世紀の長きに亘るのであった。
 これらをもって、ギリシア文化と東洋の文化が融合したものであった、そう取りまとめるのが20世紀までの歴史学なりの定説であったとするなら、21世紀に入ってはかかる文化形成の捉え方が異なってきており、例えばこうある。。
 「日本でヘレニズム文化の代表と見なされているガンダーラ美術も、ギリシアの影響だけでは説明できない。仏像が作られ始めるのは、ギリシア人がガンダーラ地方を支配してい前一世紀から後一世紀前半でなく、クシャン王朝時代の後一世紀後半のことである。現在の研究によると、ガンダーラの仏教美術にはギリシア、イラン、ローマという三つの様式と技法が用いられており、「ギリシア起源説」よりも「ローマ起源説」の方が有力である。
 このようにヘレニズム時代のアジアは、さまざまな文化が織り込まれた多元的な世界として理解されねばならない。ギリシア文化はその中の重要ではあるが、あくまでも一つの要素なのである。」(森谷公俊「アレクサンドロスの征服と神話」講談社学術文庫、2016)
 ついでに、その後のガンダーラのことに触れておくと、カニシカ王の後のクシャン王朝はふるわなかった。241年にはパルティア王国のシャープル一世に攻められてヒンドゥークシ山脈の南北に分裂する。その後は、ササーン(ササン)朝ペルシア(226~651))の支配下に入っていく。そんな中でも、西洋文化の流れをそのまま色濃く伝えつつ、ガンダーラに育まれた仏教芸術なりには、さらに西の世界へと広がっていく。
 その中国に仏教が初めて入ったのは、紀元前後の漢代のことであったという。それが広まるにつれ、ブッダその人は、人間の顔をした神々の一人として変容させられ、人々に受け入れられていく。その中国において、造寺造仏が盛んになるのは五胡十六国時代(304~439)からである。すでに儒教や道教が根付いていた中国で、仏教は人々に排撃されなかった。
 わけても、クチャ出身の仏僧・仏図澄(ぶっとちょう)は後趙(こうちょう)に来て、仏典を訳出した。同じクチャ出身の鳩摩羅什(くまらじゅう)も、「阿弥陀経」、「法華経」など多数の仏典を訳出した。仏像も、ガンダーラの風貌(彫りの深い顔、大きなひげなど)をしたものが、見られる。
 さらに5世紀になると、このガンダーラの地は北の遊牧民族、エフタルに拠って占領され、仏教施設はことごとく破壊された。その後再興することは無く、仏教施設の一大群生地としてのガンダーラの名声も消えてゆく。
 一方、イラン東北部に栄えたイラン系のアルサケス朝パルティア王国(中国文献では「安息」、紀元前250年頃の建国)は、その最盛期にはメソポタミアを領有し、コーカサス山脈南のアルメニアにも勢力を伸ばしたりで、ローマ帝国と西の国境を接していた。この王国による統治は3世紀前半に、復活したササーン朝ペルシアにとって代わられるまでの約400年間続く。その後半期において統治能力がしだいに弱体化する中にあっても、東西文明の結節点としての役割にはなお大きなものを維持し続けた。
わけても、ガンダーラの隣国であった、バルティアが支配していた頃のタキシラ地方からは、化粧皿(けしょうざら)が出土している。それらに共通しているのは、表面に描かれている図柄にギリシア・ローマの神話がやクシャーン服を着た人物の描かれていたりで、国際色が豊かなことだ。
 これらを評する際には、どの文化圏の影響が色濃く見られるるかの見極めが重要であって、例えば西方風の化粧皿のにつき、「ただし、この彫刻がパルティアを経由したヘレニズムの残映なのか、ギリシアの植民地バクトリアを経由してのヘレニズムなのかは難しい問題です。むしろ筵後者であるインド・グリークの作と考えるべきではないでしょうか」(栗田功「愛しき仏像・ガンダーラ美術の名品」二玄社、2008)とも評されるところだ。
 そのあたりの事情について、伊藤清司氏は、こう述べておられる。
 「しかし、この国は中国からあるシルクロード上にあり、東西交易の盛況によって、交易品の関税収入も多く経済的に富んだ。この王朝はイラン化の傾向のつよいゾロアスター教を保護し、イラン民族文化の興隆をはかるとともに、ギリシア系文化に理解を示し、歴代の王は「ギリシアの友(ヘイルヘレン)」(Phillen)という称号をもっていたほどで、とくに前一世紀前半の十一代のオロデス一世は自からギリシア語を話し、宮廷ではギリシア古典が読まれ、ギリシア悲劇が上演されるなどの心酔振りであったので、ヘレニズム文化がいよいよ栄えた。」(伊藤清司・尾崎康『東洋史概説1』慶應義塾大学通信教育教材、1976)

(続く)

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♦️111『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの外征(ペルシアを征服)

2018-04-18 07:35:01 | Weblog

111『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの外征(ペルシアを征服)

 こうしてアレクサンドロスの活躍が始まった頃、現在のイランには強大な帝国としてのアケメネス((アカイメネス)朝ペルシア(紀元前550~同330)が、ペルセポリス(イラン南西部シーラーズの北東約70キロメートル)に壮大な首都を築いていた。以前のペルシア戦争でギリシアに敗れたペルシアはマケドニアに対して警戒感を露わにしていた。
 紀元前334年春には、コリント同盟の盟主として、ペルシア遠征(「東征」といい、紀元前334~同324)を始める。マケドニアとギリシアの連合軍は、アンフィポリスに終結し、東方への遠征に出発した。ヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡)を渡り、アジア側に上陸を果たす。グラニクスの海戦に勝利するとともに、小アジア西岸地方のギリシア諸都市を攻略、平定する。その頃の「兵力は合計で47100に達した」(森谷公俊「アレクサンドロスの征服と神話」講談社学術文庫、2007)という。
 そして迎えた紀元前333年春、パルメニオンの部隊がゴルディオン(フリュギア地方の首都)で合流し、遠征の2年目の幕が切って落とされる。ダレイオス3世の率いるペルシアの軍は8月にバビロンを発ち、10月にはソコイに到着する。そこは海に面した平坦地にて、大軍を展開するにはより有利であったろう。
 ところが、ダレイオス3世(在位は紀元前336~330)はその地で待ちきれずに、自ら軍を動かして、東に向かう。アマノス山脈の北側から地中海東岸シリアのイッソスへと進む。そして両軍は、この地の山裾から海にいたるまでの幅約2.5キロメートルの平地で向かい合う。その戦いでは、中央突破マケドニア・ギリシア同盟軍がペルシア軍の先陣が破られ、ペルシアの中央布陣に殺到した時、これに立ち向かおうとせず、ダレイオスはいち早く逃げた。これでペルシア軍は総崩れとなる。これを「イッソスの戦い」と呼ぶ。
 大王は、引き続き同地のアモン神殿で、そなたは「神の子なり(=ファラオの後継者)」との神託を受ける。彼自身、おそらくこの頃から世界帝国形成への野望を抱くに至ったのではないか。その紀元前333年の冬には、アェニキアの諸都市を手に入れる。明けての紀元前332年夏、地中海沿岸の要衝テュロスを7か月の包囲の末に占領する。初冬には、エジプトの無血占領に成功する。
 紀元前331年2月、リビア砂漠のアモン神殿を訪問する。4月には、ナイル河口に新都市アレクサンドリアを着工する。
 同年10月になると、マケドニア・ギリシア連合軍は、後退するダレイオス3世の軍隊を追撃して、ティグリス川中流のガウガメラ~アルベラ間で戦いを交える。これを「ガルガメラの海戦」と呼ぶ。ダレイオス3世の軍は敗走し、アレクサンドロスはバビロンに入城する。紀元前330年夏、家臣によってダレイオス3世は暗殺された。この年の秋、アレクサンドロスは中央アジアへの侵攻へ動いていく。
 アレクサンドロスの軍は、ついにアケメネス朝ペルシアに攻め入り、都のペルセポリスを破壊した。それまでの大王は、ペルシアに対するギリシアの報復という大義銘文を掲げてきたのだが、それがほぼ果たされたのである。彼はまた、エジプト、バビロニアといった伝統ある国々をほぼ平和裡に占領していく。
 紀元前327年、大王は、更に東進し、ガンダーラの地を勢力圏に収めた。この地は、現在のアフガニスタンの東部からパキスタンの東部に渡る広大な地域。この地域に当時、ガンダーラと呼ばれる、北インドでは「16大国」の一つがあった。

(続く)

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