241『自然と人間の歴史・世界篇』フランス革命(1794~1799)
1794年に入る頃には、ジャコバン派内でのロベスピエール派のヘゲモニーが確立された。3月3日、ロベスピエール派が提案していたバントーズ法が可決される。これは、反革命容疑者の財産を没収して貧困者に無償で分配するものであった。しかし、可決への過程で、派内右派などの画策により貧民救済の立法に衣替えされてしまった。3月24日、ジャコバン派内の最左翼勢力であるエベール派の処刑があった。4月、ジャコバン派内の右翼ダントン派の処刑があった。
6月、ロベスピエールらが最高存在の祭典を開く。しかし、ここに至ってロペスピエール派は派内で孤立しており、ジャコバン派主流は、ブルジョアの権力擁護へと、急速に保守化しつつあった。7月27日(テルミドール九日)の反動で、国民公会においてロベスピエール派が排除された。ロベスピエール派、一党21名とともに断頭台に掛けられた。8月24日、革命政府の保守回帰を物語る改組があった。11月、ジャコバン・クラブが閉鎖となる。12月末には、経済統制と最高価格法がともに廃止された。パリの街には、白色テロルが横行した。ここに至り、革命政府は解体された。
1795年1月、オランダを占領する。4月、フランス、プロイセンとバーゼルの和約、ライン地方を占領。8月、共和暦3年の憲法が制定される。そこに規定されたのは、5人の総裁から成る総裁政府と普通選挙の廃止、二院制の議会(五百人会と元老会)であって、旧制度の一層によって力を持つに至った上層ブルジョアが政治権力の中枢に座った。この新政府の後ろ盾は、1791年体制下かのそれと異なる。かつての小農民の中には、領主制から解放され、新たな土地を得たことで保守化し、貧農や無産者をを見放すものが多かった。都市市民の中でも、国有財産の購入や戦争資材の調達、それにアシニャによるインフレーションなどによって財を得る者が続出し、これらが新興ブルジョア層を形成してきた。彼らは、アンシャン・レジームの復活にも革命の継続にも、反対する勢力としてフランス社会に台頭した。9月には、僧侶基本法が廃止される。10月、バンデミエールの王党派が蜂起する。10月27日には、総裁政府が発足した。
1796年3月、アッシニャ紙幣の廃棄を決める。3月18日、マンダ・テリトリアルと呼ばれる土地証券が発行される。3月27日、ナポレオン・ボナパルトが第一次イタリア遠征に向かう。5月、バブーフの陰謀が発覚する。11月、ナポレオンがアルコレの戦いでオーストリア軍を撃破する。1797年2月、マンダ・テリトリアルを廃止する。3月、共和暦5年の選挙があり、立憲王党派が勝利する。5月、王党派のバルテルミーが政府の総裁に選任される。7月には、宣誓拒否僧の追放処置を廃止する。9月、フリュクチドール18日の政変があり、共和派が政権を独占する。10月、カンポ・フォルミオでオーストリアと和議を結び、フランスはオーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)を割譲させる。
1798年2月、フランス軍はローマを占領し、ローマ共和国を設立する。3月には、ジュネーブを併合する。4月、共和暦6年の選挙、ジャコバン派の勝利。5月11日、フロレアールのクーデターが起こる。同月、ジャコバン派議席の剥奪が断行される。同月、ナポレオンの軍がエジプトに遠征する。8月、強制国債の発行を議決する。同月、アブキールの海戦で、ネルソン率いるイギリス艦隊が、フランス艦隊を破る。12月、アランス軍がピエモンテを占領し、これに対抗して革命の輸出を阻むための第二回対仏大同盟が結ばれる。
1799年5月、シエイエスが総裁の一人に就任する。6月、プレリアールのクーデターがあり、総裁政府内部で粛清があった。10月、ナポレオンがエジプトから帰還し、権力を握るべく、シェイエスと連携して準備を進める。11月9日、ブリュメール一八日のクーデターで、ナポレオンが総裁政府を倒し、両院を屈服させ、総領政府(軍事政権)を打ち立てる。12月、共和暦第8年の憲法を発布、統領政府の発足となり、ナポレオンが第一執政となる。これが1804年まで続いた。
(続く)
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239『自然と人間の歴史・世界篇』フランス革命(1792~1793)
明けての1792年3月、ジロンド派内閣が成立する。議会においては、中間派を中央に挟んでの右翼にジロンド派、左翼にジャコバン派(山岳派)がそれぞれ陣取るようになっていた。
4月、フランスはオーストリアに対し宣戦布告する。4月、フランス軍、緒戦で敗走する。6月、チュイルリー宮前の示威運動がある。7月、立法議会が「祖国は危機にあり」との宣言を出し、国民衛兵に武装を命じ、さらに義勇兵の募集が始まる。ロベスピエールはジャコバン=クラブで「連盟兵への訴え」を発表し、立憲王政をたおし人民主権の国とすることを訴えた。
すでに作曲されていたものに『ラ・マルセイエーズ』の歌詞がのった。ちなみに、これが現在のフランス国歌となっている。バスティーユの日を記念する7月14日の連盟祭のために全国から集まった連盟兵に対し、これをマルセイユの義勇兵が歌いながら行進した。その冒頭には、「フランスはたちあがり、よろめき、転落し、再起し」云々とある。私は、かつて神戸大学の夜間部講義「フランス史」の最初の授業にて、当時の桂圭男教授によってこの歌が大音響で歌われるのを聞いて、大層驚いた経験がある。
そして迎えた1792年7月29日には、ロベスピエールが、王ルイ16世の廃位と普通選挙による国民公会の召集とを国民に訴える。8月10日には、パリのサンキュロットと全国の自称「愛国者」に連なる連盟兵とは一斉に蜂起した。そのことでパリ市庁に中央コミューンを設立するとともに、その傘下に48のセクションにその自治組織が結成された。そこに、サンキュロットと言われる革命派の市民たちが結集した。
そしてかれらは、テュルリ宮殿を包囲する。これが「八月十日事件」と呼ばれるもので、これにより議会は王権の停止が決まるとともに、新憲法起草のために普通選挙による国民公会を召集することに決定するのであった。同8月、領主制地代の無償廃棄があった。1792年9月2~3日には、「9月虐殺」があった。これは、9つの監獄が民衆に襲われ、確たる理由なしに囚人が千人規模で殺されるという暴発事件であった。
1792年9月20日、ヴァルミーで、悪天候の中フランス軍とプロイセン軍が交戦し、激戦の末フランス軍が戦いに勝利した。9月21~22日、国民公会の招集があり、ここでフランスの共和制が宣言される。
1793年1月、ルイ16世が処刑される。2月には、イギリスとオランダに宣戦する。これに対し、イギリスは第一回対仏大同盟を提唱する。2月24日、30万人徴用令が出される。2月24~25日、パリに食糧暴動が起こる。3月、革命裁判所が設置される。同月からは西部のヴァンデで徴兵忌避の農民暴動が起き、民事訴訟法への忠誠を拒否する聖職者や王統派の煽動により各地で反乱に発展した。4月、公安委員会が設立され、軍事・外交・内政全般に亘る権限を持つことになる。また、保安委員会は、革命裁判所と連携して反革命の鎮圧に強権をふるう。
そして5月31日から6月2日にかけての民衆蜂起が起こる。国民衛兵の力を借りてジロンド派議員29人を逮捕し、国民公会から追放した。こうしてジャコバン派が権力を独り占めにした。6月24日、国民公会で共和国憲法(ジャコバン憲法)が可決される。これは、8月10日発布と同時に延期となる。7月17日、いっさいの領主的諸権利の無償廃棄が確定される。同月、買占め取締法が制定される。
1793年8月、国民総徴用令で国民総動員体制が敷かれる。9月、反革命容疑者法が制定され、「恐怖政治」(テルール)に入る。同月、一般生活必需品最高価格法が制定される。10月には、バンデーの反乱の鎮圧に成功する。11月、共和暦が採用される。10月10には、フランスの政体は「平和の到来まで革命的である」と定められた。
この走りなのだろうか、11月には元徴税請負人の逮捕が始まる。「密閉容器中の化学反応では重量の変化はない」との質量保存の法則を発明し、そのもとに新しい燃焼理論を打ち立てた、「近代化学の父」とも称されるラボォアジエ(1743~1794)も、革命裁判所での死刑判決を受け、翌年の5月8日には情け容赦なく断頭台の露と消えた。この知らせを聞いた数学者のラグランジュは「この頭を打ち落とすのに彼らは一瞬しか必要としなかったが、これと同じ頭を再びつくるには、おそらく100年といえども十分ではないだろう」(松本泉「偉人と語るふしぎの化学史」講談社ブルーバックス、2005)と言って、落胆したのだと伝わる。
さらに12月、フランス軍はトゥーロン(フランスの南東部に位置する、地中海に面する都市で、現在はヴァール県の県庁所在地)を回復する。
(続く)
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238『自然と人間の歴史・世界篇』フランス革命(1790~1791)
翌1790年になっての2月、修道団体の廃止。6月には、パリ市組織法が成立する。7月、僧侶民事法を可決する。1791年5月、植民地奴隷制の改革とともに、有色自由人の一部に参政権を与えた。1791年6月には、ル・シャプリエ法が制定された。あらゆるギルド(同業組合)を禁止するとともに、市民に対して職業選択の自由を保障した。わけてもギルドについては、「同身分・同職業の市民によるあらゆる種類の同業組合(コルポラシオン)を廃止することはフランス憲法の基本的根底の一であるがゆえに、いかなる口実・いかなる形式のもとにもせよ、それらを事実上再建することは禁止される」と厳しく定めた。
その一方で労働者に対しては、この法に沿ったパリ市が労働者の団体交渉に対して発した禁止令にあるように、「すべての市民は権利においては平等であるが、能力や資力においては決して平等ではない」と宣言した。同業市民(労働者)の団体結成を禁止したことは、この革命の果実は労働者のものではないことを白日の下に明らかにしたのと同義であった。
後日談だが、この法律はフランスに1884年労働組合法が制定されるとともに廃止された。それからようやく労働組合は法律的に公認された存在となり、その規約・役員名簿の登録を主条件として自由に結成し、活動することができるようになったのである。また市民は、受動的市民と能動的市民、選挙人の三つに分類され、この差別的な仕分けの下で、約300万人もの受動的市民には投票権が与えられなかったという。
1791年6月20日には、国王とその一家の国外逃亡が未然に発覚する。これを「ヴァレンヌ逃亡事件」という。その頃のルイ16世は、革命の進行を食い止め、逆転に追い込むために、外国軍隊の援助を期待するまでになっていた。一方、市民の側には、この事件をきっかけに、王政廃止を訴える声が生まれる。
7月に入ると、民衆の中に王政廃止・共和政樹立を要求する声が強まった。7月には共和政の実現を掲げる、急進的共和派(コルドリエ・クラブ)が結成され、彼ら革命的民主派が民衆を指導して、7月17日にパリの民衆がシャン・ド・マルスの広場に集まり、共和政実施を議会に請願する署名を大々的に行おうとした。時のパリ市長バイイは、国民衛兵司令官ラ・ファイエットとともに弾圧を決意する。
その時、国民議会の多数派は、立憲君主政を志向するバルナーヴらフイヤン派が占めていた。このフイヤン派のそもそもは、1790年10月のヴェルサイユ行進以降、それまでの保守派(貴族はと王制派)、ブルジョア派の立憲派(ラ・ファイエット、ミラボー、シェースなど)、三頭派(バルナーブ、デュポール、ラメットなど)、そして人民大衆派の民主は(ロべスピエール、ペチョン、ピュゾーなど)の政界構図のうち、保守派を除く「革命三派」の流れを汲む。
この三派だが、ヴェルサイユ行進以降の議会においていったんはジャコバン派を形成するものの、1790年3月には立憲派が、明くる91年7月には三頭派が脱落し、合同してフイヤン派が形成する。そして7月14日の国王一家の国外逃亡失敗後、民衆が公然と王制廃止を呼びかけだすと、フイヤン派は王統派と結んで議会をリードしていく。
このような政治的な新たな構図の下で、前述の1791年7月17日を迎えたのであったが、この時バイイは議会の了解を取り、国民衛兵が無警告で民衆に発砲した。それによって約50人が殺害され、さらに300人が逮捕された。首謀者は投獄され、共和派の集会と新聞発行は禁止された。これを「シャン・ド・マルスの虐殺」という。この事件の性格は、立憲君主派(フイヤン派)による急進的共和派(コルドリエ・クラブ)に対する弾圧事件であった。
つまり、今や社会の支配的な地位についたブルジョアジーの立場から見れば、すでに革命の任務の大方は成就された。したがって、これ以上の革命の進展を願わない。そこで立憲君主派は、王党派と妥協してフランス革命を立憲君主政の成立をもって終わらせようとしたのだった。一方、かれらの対極にある民主派は下層から中産市民層までの民衆の政治的意図に依拠するする道を選んで、革命的性格をさらに強めていく。かれらは、サンキュロットたちの牙城であるコルドリエ・クラブと合流して最左翼のジロンド派をつくり、フイヤン派と対抗するに至る。
このようにして立憲君主派が、ひとまず議会の主導権を握った。だが、油断はできない。その仕上げを急いだ立憲君主派は、国民議会で1791年9月に「1791年憲法」を可決・成立させる。これにより憲法制定議会は解散した。これに替わり、10月には立法議会が成立する。この中の左翼は、その指導者の名をとってブリソ派と呼ばれた。この派は、大西洋岸の商人などと関係が密なジロンド県出身の者が多かったので、その後ジロンド派と呼ばれるようになっていく。
しかし、革命はさらに進展していくこととなる。外国による干渉では、1791年8月、オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム2世がピルニッツ(ザクセンにある城)宣言を出す。フランスにおける秩序と王政の復興はヨーロッパのすべての君主の共同利益であるということで、フランスでの革命が自国に及ぶことに反対した。これら外国からの革命干渉軍が迫る中、次の立法議会では穏健共和派のジロンド派や急進的共和派のジャコバン派が台頭していく。またルイ16世も、立憲君主政を守ろうとする配慮に欠けていた。この年の10月末、亡命貴族の財産没収に関する法令が出される。11月、宣誓拒否僧に公民宣言を要求する法令が出される。この年の12月、ブリソがジャコバン・クラブで聖戦論を主張する。
(続く)
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237『自然と人間の歴史・世界篇』フランス革命(1789~1790)
三部会の話に戻って、当時のフランスの国庫状況は、火の車になっていた。そうなっていた理由としては、フランスがアメリカ独立戦争に関与して費やした約20億ルーブルあり、これを公債で賄ったために借金は、1789年には45億ルーブルにも達した。王家と上級貴族の国庫への依存も何千万リーブルにも上っていた。一方、都市部の賃金の上昇率を上回る物価上昇があって、これが第一、二の両階級の非労働階級全体を背負っている、第三階級、わけてもの労働・勤労者の生活をいやが上にも厳しいものにしていた。
これより前の1780年9月には、法服貴族の頂点であるパリ高等法院が全国三部会の招集方式を裁定する。同年11月、第二次の名士会が開催される。こうした時、王権に対する特権を強化しようとする中級以下の貴族・僧族と、政治的な新興勢力であるところのブルジョア階級との共闘が進みつつあった。王権は、貴族の国政への進出を阻もうと、パリ高等法院をねじ伏せ、立法と国家財政に対する監督権を取り上げる。しかし、前記の共闘が進められたことで、パリ高等法院が再建される。譲歩を余儀なくされた国王・政府は、1789年5月1日をもって全国三部会を召集するとの決定を下した。
それからの新興ブルジョアジーの活動には、目を見張るものがあった。かれらは、1789年1月24日に全国三部会選挙が開始されると、シエイエスが『第三身分とは何か』を選挙闘争用のパンフレットとして発表する。同月、ラ・ファイエットがアメリカのジェファソン駐仏公使と会見、人権宣言の私案を提示する。第三身分による大胆、極めつけの要求とは、第三身分が僧族(第一身分)と貴族階級(第二身分)とを合わせた同数の代表をもつようにするものであった。これに押され気味の貴族階級は、王権と結んで改革により自分達の封建的特権が奪われるのを阻止しようとの動きを示した。これにより、5月には、ベルサイユで全国三部会が開催される。
これに怒った第三身分は、1789年6月17日、実力行使に踏み切った。三部会を人民大衆の力で圧迫しつつ、切崩しを行い、同会にて賛成票490票、反対90票の大差で三部会の名称を廃止、国民議会に改めるのに成功した。そして直ちに、現行の国家の税金の徴収を国王の同意なしで臨時に許可する決定を行った。この動きに、国王は決議の破棄の決意を固め、三部会の会場閉鎖を命じる。この知らせを受けた第三身分の代表者達は、人民大衆を前に一同に会し、その場で「テニスコートの誓い」がなされた。それにある、「第三身分は、憲法の制定と確立まで解散せず、四囲の情況に応じてどんな場所でも集会を開く」ことができることにした。王権に批判的な大多数の僧族や、一部の貴族階級が、この流れに合流していく。
これ以後、王権は、国民議会の支配下に入っていく。議会は、7月7日には憲法委員会を創設するに至る。9日には、議会は立法国民議会となり、その主力(成長著しい新興ブルジョアジー)は憲法制定議会の主導権を握り、これにより憲法制定作業が本格化していく。
窮地に陥りかけていると認識した王権と王政派の貴族たちは、武力で国民議会を解散させようと、パリとベルサイユ(ヴェルサイユ)の周辺に約2万の軍隊を集結させつつあった。もはや、両陣営の争いは武力衝突が避けられなくなった。そして迎えた1789年7月14日には、バスチィーユ牢獄が占拠される。主な参加者は、小規模な手工業者や商業者、賃労働者などであった。かれらのうち主力は、廃兵院から奪った3万丁の小銃で武装していたという。約800人ないし900人が包囲に加わり、知られているだけで1704人の死傷者を出した末、ついにバスチィーユは陥落した。
ちなみに、現在のフランスの革命記念日は、この日を記念したものに他ならない。敗北を悟ったルイ16世は、バリ市庁に出向いて、三色旗を受け取り、「わが人民はいつでも余の間に期待をかけることができる」と言った。この段階での三色旗とは、赤と青がパリ市の色、これらに挟まれた中央の白が王室の色を象徴していた。
首都パリでのブルジョアジーの勝利は、大いなる速さで地方に波及していった。地方都市でも、首都と同様、あるいは似たような獲得目標を掲げた都市革命が興り、新しい制度が古い制度に置き換わっていった。その維持のために、ブルジョア的な国民衛兵(民警)が各地に拡がった。これと同じ時期の農村では、農民たちに支配権を行使していた封建貴族や僧族が、ブルジョア的改革に反対もしくはサボタージュの動きを見せる。そのことが両者の衝突を余儀なくしていく。そして、農村部では、作物の不作による飢饉や、生産縮小による農業労働者の失職が増加していた。
これら地域によっては、乞食や浮浪者が多数たむろする情況が生まれていた。社会不安は増し、領主たちの横暴もなかなかに改まらなかった。そのため、あちこちに「大恐怖」(パニック)が起こったことで、農民による反貴族の一揆、蜂起が相次いだ。農民たちは、様々な封建的特権を持つ貴族がさまざまな手段で攻撃をしかけてくるという恐怖に包まれ、自己の生活防衛のために立ち上がった。
1789年8月には、封建的特権の廃止が宣言される。8月26日に、人権宣言が公布となる。それには、「人は生まれながらにして自由であり、権利において自由である」(第1条)、「人間の自然にして奪うべからざる権利(中略)は、自由・所有・安全・および圧制に対する抵抗である」(第2条)、「自由とは他人を害せざるかぎり何事をもなしうることをいう」(第4条)とある。
これに続いては、「何びとも、法律によって定められた場合でしかも法律が規定した形式によるのでなければ、告発・逮捕・換金されえない」(第7条)、「思想および言論の自由な伝達は、人間の最も貴重な権利の一つである」(第11条)、「公租はずべての市民にその資力に応じて平等に分担されるべきである」(第13条)などとあって、人類の社会思想がついにこの水準に到達したことを示す。
この年、1789年の10月5日、3万人近いパリ民衆のヴェルサイユ行進があった。街頭に出て、はじめて見えることがある、そしてなしえることがある。その先頭には、パンを要求して街頭に現れた6千人ものパリの女性たちの雄々しい姿が見られた。王の宮殿に着いたデモ隊は、王に小麦とパンの安定供給を要求する。夜には、国民衛兵が到着する。これらにより、王は小麦とパンの要求と人権宣言を承認する。
その翌日には国王ルイ16世一家が議会とともにパリに移る。これ以後、王とその家族は事実上、バリ市民の監視下に置かれる。1789年11月には、ジャコバン・クラブ(山岳派)の設立があった。同月、教会財産の国有化がなされた。12月19日からは、アッシニア(アッシニャ)紙幣が発行される。歳入と正貨の著しい不足から、この不換紙幣が強制流通されることになったのだ。これの内容は、国有化された僧侶教会財産を担保にするもので、最初は5分の利付き国庫証券であった。それが1790年10月から単なる国家紙幣に成り替わった。12月になると、地方自治法制定や選挙法の議決があった。
なおここに、その後のアッシニア紙幣の行方についても触れておくと、1993年には土台としての「土地本位制度」の廃止が余儀なくされる。つまり、土地の後ろ盾を失った、いわば「孤児」に転落した訳だ。政府の財政当局(印刷を含む)は、その日に必要とする紙幣を、その日のうちに印刷しなければならない程に、追いまくられていく。そして迎えた1796年3月10日にはフランス本国及びその姉妹共和国で使用された紙幣であったのをやめる。その廃止の原因としては、貨幣価値の減価のため激しいインフレを引き起こしたことにある。
(続く)
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236『自然と人間の歴史・世界篇』フランス革命(1787~1788)
世に名高いフランス革命の意義については、いわゆる複合革命論(ジョルジュ・ルフェーブル)からの研究が進められてきた。
「ルフェーブルは、<下からの革命>の視覚をとることによって、フランス革命が、<貴族の革命>・<ブルジョワジーの革命>・<民衆の革命>・<農民の革命>」というそれぞれ自律的な四つの革命の複合体であるという見解を提示した。われわれもまたこの見解が基本的に正しいものであると考える。だが、把握がここまででとどまるならば、フランス革命はこれら四つの革命の複合体でありながら全体として一つの市民革命でありえたのか、またありえたとすればそれはなぜか、という問題が残されるであろう。(遅塚忠○「第5章市民社会の成立」:「フランス史」山川出版社、1968)
そこで18世紀末のフランスの階級構成だが、大まかに第一身分の僧族がおよそ12万人、第二身分の貴族がおよそ40万人いた。これらに、極少数の王族を加えたものが、当時のいわゆ非労働階級なのであり、納税の義務を免れていた。そしてその約90%が、フランスの全人口の最大多数約2300万人の農民に対する支配者となっており、この国の全農地のほぼ60%を所有していた。その他に、ブルジョアジーと都市の庶民階級約170万人がいて、これに農民を合わせた2500万人程度が第三身分を構成していた。
1787年の2月から5月にかけて、動きがあった。第一次の名士会が開催されたのである。カロンヌによる「補助地租」の提案があり、名士会多数派が反対に回る。7月、パリ高等法院が国王に全国三部会の招集を要求し、その場で宮廷の浪費を攻撃する討論が為される。三部会は、王の認める正規の会議であり、三つの身分で構成されていた。これへの第三身分からの参加は、進取の気風に溢れた都市ブルジョアジーに限られていた。
(続く)
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565『自然と人間の歴史・世界篇』イエメン
2015年時点のイエメンの人口は、約2400万人だとか。このあたり、紀元前10世紀頃からは、古代イエメン王国としてあった。インドと地中海及び東アフリカの貿易の中継地として繁栄する。古代ギリシャ人,ローマ人から「アラビア・フェリックス」(幸福のアラビア)と呼ばれる。9世紀には、ザイド派のイマーム(宗教指導者)が支配。16世紀には、オスマン・トルコが北イエメン地域を支配する。
1839年、イギリスがアデンを始めとする南イエメンを占領する。以降南イエメン地域を保護領とする。1918年には、北イエメン地域でオスマン・トルコからイマーム王国として成立する。1962年の軍事クーデターにより、イマーム王制が廃止されイエメン王国が崩壊してしまう。イエメン・アラブ共和国(南アラビア連邦)が成立するのだが、まもなく北イエメン内戦が勃発(~1970年)する。
1967年には、独立から取り残されていた南部地域がイギリスから南イエメン人民共和国として独立をはたす。この時点において、主な宗教はイスラム教で、北部はシーア派系、南部はスンニ派系が多い。1969年、マルクス・レーニン主義を標榜する社会主義政権が誕生し、新たな国家建設を始める。この国は、1970年にはイエメン民主人民共和国(旧南イエメン)に改める。
さらに、1989年11月30日、アデン合意があり、これ以後南北統一への機運が高まる。そして、イエメンは、1990年5月22日の南北イエメン統一へと向かっていく。
その延長で1990年にひとまず統合をはたすものの、1994年には南北間で内戦がせ勃発する。これには、部族間の対立に加え、北部が親米、南部が親ソ連の路線を取ったために対立が続いたことが筆頭に挙げられるのではないか。
2011年11月、アメリカが乗り出す。オバマ米大統領は、イエメンのサレハ大統領が副大統領への権限移譲などを柱とする湾岸協力会議(GCC)の仲介案に署名したことについて、「自らの運命を決定する機会を持つべきイエメン国民にとって、重要な前進を意味する」とコメント。さらに、「米国はすべての党に対し、合意事項を実行するため直ちに行動することを求める」と述べた。GCCによる仲介案には、サレハ大統領がすべての権限をハディ副大統領に移譲するほか、副大統領が野党勢力と暫定政権を樹立する方針に加え、向こう3カ月以内の大統領選実施が盛り込まれた。
しかし、その後のイエメンの歩みはどうも重たい。続いての2015年3月、アラビア半島南端の国イエメンの首都サヌアなどを占拠する反政府組織に対し、隣国サウジアラビア、エジプトなど近隣の10か国が軍事介入に踏み切った。南部のアデンなどで激しい戦いが続く。対立の背景にあるイスラム教の宗派対立は収まる気配がなく、へたをすると国が分裂する恐れにもつながっていくのではないか。
(続く)
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166『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(15世紀後半、フィレンツェなど)
1436年、フィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の献堂式が行われる。1444年~1459年、フィレンツェのメディチ家の屋敷「パラッツォ・メディチ・リッカルディ」(メディチ・リッカルディ宮)の造営が行われる。1450年頃、グーテンベルクがマインツで印刷工房を始める。1455年には、グーテンベルグ(1400?~68)が活版印刷術を発明する。中国の唐代には、すでに木版印刷が始められていたので、その改良型ともいえる。アルド・マヌッツィオがこの発明を受け、ベネチアでアルド社を起業し、出版業を手がけた。彼の会社は、1494年には、「ギリシャ詩集」を刊行し、以降続々書物を刊行していく。
1453年、コンスタンティノープルの陥落でビザンティン帝国(東ローマ帝国)が滅亡すると、西方へと、ギリシア語に通じた多くの学者たちとギリシァ語の文献が流れた。イタリア半島を中心に勃興しつつあったルネサンス運動に力を与えていく。1460年、モレア公国が滅亡し、オスマン帝国がギリシア全土を併合する。1462年、マルシリオ・フィチーノとその仲間がメディチ家からカレッジの別荘を提供されて、プラトン研究所(プラトン・アカデメイア)を開く。フィチーノが、ギリシアの思想家プラトンの著述のラテン語訳の仕事を始める。
1469年、ロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492)がメディチ家の当主となる。彼はメディチ家の最盛期ピエロ・ディ・コジモの息子で、父の後を継いだ。彼は、ええパトロンとして、フィレンツェでの文芸の発展に貢献したことで知られる。1578年には、主導権争いをしていた、
パッツィ家の計略で、フィレンツェ大聖堂で行われたミサの席上、暗殺者に襲われ、弟のジュリアーノは殺害され、ロレンツォは逃れた。暗殺者らは市民に反乱を呼びかけるも失敗、捕らえられて処刑された。この処置は、パッツィ家と通じていた教皇シクストゥス4世を激怒させる、その二人の対立のあおりを受け「パッツィ戦争」が起こった。この危機を乗り切ると、ロレンツォの支配体制はしっかりとしたものになり、フィレンツェ社会も安定に向かう。
1477年、ロレーヌ公国の都市ナンシー郊外で、ブルゴーニュ公シャルルとロレーヌ公ルネ2世との 間で起こった、ブルゴーニュ戦争最後の、「ナンシーの戦い」があった。
この戦いは、中世騎士軍に近世密集歩兵部隊が勝利した。密集陣営を敷けば、騎兵の突入を防げる場合があることを示し、その後の戦争のあり方を変化させた。それからというもの、ブルゴーニュ侯家(ブルゴーニュ公国)とオーストリアのハプスブルク家が合同し、ハプスブルク家によるネーデルラント(後のオランダ)の支配が始まる。
1478年、このころ、ボッティチェッリの『プリマベーラ(春)』が完成する。その紙面では、実のなる森の中に、ほとんど裸身の女性たちがごく普通の表情で表現されている。この前後、ガン(ヘント)の絵師 フーホ・ファン・デル・グースの大作『ポルティナリの祭壇画・降誕』がフィレンツェに運ばれ、ネーデルラント画派の画風がイタリア人の絵師たちに伝わる。
1479年、スペイン王国が成立する。これは、アラゴン王国の王子フェルナンドが即位し、その妻(1469年に結婚)イサベル女王のカスティリャ王国と合同して新たな国となったものだ。1485年のイギリスでは、「バラ戦争」が終わり、チューダー朝が始まる。これは、「100年戦争」の終結した後のイギリスで、1455年から1485年まで続いた内乱といえる。王位継承をめぐる、ランカスター家とヨーク家の争いで、前者が紅バラ、後者が白バラをそれぞれ家紋にしていた。1486年、このころ、ボッティチェッリの『ビーナスの誕生』が完成する。1486年、ピコ・デラ・ミランドラが『人間の尊厳について』を著す。
1487年、バルトロメオ・ディアスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰(きぼうほう)に到達する。これにより、東インド航路が開発された。1490年、ルフェーブル・デタープルが『アリストテレス形而上学入門』を著す。1492年10月、コロンブス一行が、現在のバハマ諸島のサンサルバドル島に到着し、西欧人による新大陸発見への先駆けとなる。彼は、イタリアのジェノバで生まれた船乗りで、冒険心に富んでいた。当時ポルトガルが東回り航路でインドに到達するべく次々と船を出したのに対し、彼は、西回りでインドに到達する事を計画。スペインのイサベラ女王の援助を得て出発していた。
(続く)
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164『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(14世紀のヨーロッパ)
ルネサンス(フランス語でRenaissance、再生、復活を表す)とは、14世紀から16世紀にかけての、イタリアに始まり、全ヨーロッパに及んだ文化の復古・再生運動のことをいう。その前史としては、12世紀の始頃から、アラビアの実験と自然観察に基づいた形成された科学遺産が、西ヨーロッパに流れて行く。12世紀からは、アラビアにおいて発展した、古代ギリシアの化学的遺産が、アラビア語からラテン語その他の言語に翻訳されていった。
1310年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ7世が、イタリアに遠征する。ローマ教皇をフランスの支配下から奪回し、ローマで自身が戴冠するためと考えた。1320年代、ダンテが『神曲』を著す。これは、一人の男(ダンテ)が地獄、煉獄、天国の三つの場所を旅していくもので、冒険あり、恋ありの人間の多方面の欲が余すところ無く表現されている。またペトラルカは「抒情詩」を発表して、官能的な世界を表現する。二人は、トスカーナ方言で書き、イタリア語統一への方向性を与えた。1320年代になると、ジョットがフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に『聖フランチェスコ伝』をフレスコ画にして描く。
1347年、ローマでコーラ・ディ・リエンツォがローマ帝国復興と教会を柱としてのイタリア統一の理想に燃えて、ローマに進出するも、現実の中で色褪せていった。1348年、イタリアでペスト(黒死病)が大流行し、僅か一年の間にフィレンツェの人口が3分の2に減った。1350年にかけてイタリアに蔓延し、気づけば、西ヨーロッパ各地に広が利、人口の相当部分が命を落とした。13世紀初めには小さな都市国家に過ぎなかった。それが未曾有の経済発展を遂げながら、近隣都市を次々に併合してその支配を拡大、14世紀末にはトスカーナ北部を支配する領域国家に成長した。
1349~1351年頃、ボッカチオが『デカメロン』を著す。この作品も、トスカーナ方言で書かれおり、イタリア語統一への力となっていく。その内容も斬新であり、十日の物語を銘打っての中には、迫真の感情表現や僧侶などによる好色な描写もあって、世間の物議をかもし、近代小説の先駆と評される。1378年、ローマとアビニョンに教皇が並立することで、「教会分裂(シスマ)」が始まる。フィレンツェで「チョンピの乱」が起こる。これは、労働者の反乱であって、毛織物工業の準備工程(洗毛、 打毛、梳毛など)で働いていた彼らは、毛織物ギルドの統制下にあって、総じて苛酷な労働を強いられていた。
1396年、ヨーロッパ諸侯軍がバルカン半島に遠征してトルコ帝国と戦う。これを「ニコポリス十字軍」という。
(続く)
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