♦️360『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(放射性物質の研究)

2018-04-22 21:54:15 | Weblog

360『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(放射性物質の研究)

 ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845~1923)は、ドイツの物理学者。
オランダで初等教育を受ける。チューリヒの大学に入って機械工学を学んだものの、やがて物理学に転じ、1879年にはギーセン大学教授となる。
 1895年11月の彼は、内部の空気を抜いて真空状態にしたガラス管に数千ボルトの電圧をかけて放電させるという実験を行う。陰極線(電子線)を発生している真空放電管を紙で包んで行っていたという。
 すると、その放電管から少し離れたところに置いてあった蛍光物質・白金シアン化バリウムを塗った紙(スクリーン)が光るのを見つける。つまり、その管を厚い紙で覆っているにもかかわらず近くに置いてあった蛍光物質が発光しているのを偶然に発見する。その管からは「目に見えない物を突(つ)き抜ける光が出ている」と解釈し、その光線をエックス(X)線と名づける。
 こうしてつくられることのわかったX線が威力を発揮するのは、工学などのほか、医学で用いられていく。1896年1月日にレントゲンが撮ったX線の写真には、手がすきとおって骨が見えている。レントゲンは、また弾性、毛管現象、熱伝導、電磁現象などに関する研究も行う。
 フランスの物理学者ベクレル(1852~1908)は、パリのエコール・ポリテクニクを卒業後、土木学校で学んとで土木技師となった。その後物理学の研究に携わるようになる。そして迎えた1896年、研究でウラン化合物(ウランを含む岩塩)を置いて暗いところにしまっていた写真乾板を現像していた。すると、太陽の光を受けていないのに感光しているではないかと。ベクレルは、ウラン化合物にX線に似た何らかの放射線を出す力があると考える。
 ワルシャワ(現在のポーランド)生まれのマリー・キュリー(1867~1934)は、
物理学者。研究者となった後に故国を追われ、フランスに亡命する。物理学者ベクレルの影響を受け、放射性物質の研究を行う。やがて、夫ピエール・キュリーたちが発明した計測器を使って、ウラン化合物から放射線を出しているのを研究し、それがウラン原子であることを見つけ出し、その放射線を出す性質から「放射能」と名づけられる。
 その学問的評価の全体としては、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証したのが大きいといわれる。
 1898年には、イギリスの物理学者アーネスト・ラザフォード(1871~1937)たちが、ウランから2種類の放射線が出ているのを発見する。それらをアルファ(α)線、ベータ(β)線と名づける。
 アルファ(α)線は、プラスの電気を帯びた重い粒子の流れ、それも「ヘリウムの原子核」であることを突き止める。またベータ(β)線は、「マイナスの電気を持った軽い粒子(電子)の流れ」であることを発見する。さらに、透過性が高く電荷を持たない放射線を見つけ、ガンマ(γ)線と名づける。エックス(X)線はガンマ(γ)線の仲間だとされる。
 1911年、ラザフォードたちは実験で原子の中に原子核があることを発見する。これの意議について、ニールス・ボーアは、こう語る。
 「古典物理学の理論が量子的現象を説明できないということは、原子の構造についての私たちの理解が深まるにつれと、よりいっそう明白なものとなっていった。とりわけラザフォードによる原子核の発見(1911)は、古典力学と古典電気力学の諸概念が原子に固有の安定性を説明するにはおよそ無力であることを、ただちに明らかにした。ここでもまた量子論は、事態の解明への鍵を提供したのである。」(「アインシュタインとの討論」:「ニールス・ボーア論文集1」岩波文庫、)
 続いての1832年、ラザフォードの弟子のチャドウィックは、ベリリウムにα線をあてて出てくる放射線を発見し、ガンマ(γ)線では説明できない大きな質量を持ったものであるとし、中性子と名づける。

(続く)

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♦️367『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルなど)

2018-04-22 21:30:08 | Weblog

367『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルなど)

 1915年から16年にかけて、物理学者のアルバート・アインシュタインは、次の重力方程式を世の中に提出する。
 {Rμv-1/2(gμvR)}+Λgμv={(8πG/Cの4乗)Tμv}
ここに左辺の第1項は、時空(時間と空間)のゆがみ具合、第2項は宇宙定数で宇宙が重力で潰れないための押し返す力(斥力)、それらを足したものが右辺の物質が持つエネルギーとなっている。この式で彼は、「相対性」という概念を広げる。重力や加速度が関係する運動にまで適用できる一般式を考えたのだが、この式にいわれる重力理論の基本部分、光の経路が曲がるという予言の正しさを証明したのが、イギリスの天文学者エディントンである。
 1919年の彼は、皆既月食の際の太陽周辺の星の光に注目する。なにしろ太陽は相当に大きいので、その重力によって周囲の時空が歪み、そのため太陽の裏に隠れているはずの星の光がカーブして地球までやってくる筈だと考えたのである。そして、その観測は成功したのであった。
 1919年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブル(1889~1953)は、ウィルソン山天文台にいて、宇宙が膨張していることを発見した。「光のドップラー効果」と呼ばれる物理法則によると、移動する物体の発する電磁波の波長では、その物体の後ろ側では長くなる。これを天体観測に使えば、遠ざかる銀河からの可視光の光は波長が最も長い赤に近い方に引き延ばされる。これが「赤方偏移」である。ここで光の色は波長の短い方から長い方向へ、つまり紫、青、緑、黄、オレンジ、赤の順に変化していく。つまり、近づいてくるものの波長は縮み青っぽく見える、遠ざかるものの波長は伸びて赤くなる。だから、青い光は緑に、緑の光が黄色に変化して見える場合は、その光が観察者から遠ざかっていると考えられる訳なのだ。
 この赤方偏移を用いる接近方法が正しいと考えられる根拠については、彼自身こう述べている。
 「この問題を研究を通して、次のような結論が得られた。赤方偏移を起こさせるいくつかの方法がある。それらの中でただ1つだけが、観測で分かるような他の効果を作らずに、大きな偏移を作ることができる。それはドップラー効果である。これは、赤方偏移は銀河が実際に後退していることに帰する。赤方偏移は速度によるものであるとかなりの信頼性を持って言える。さもなくば、今まで未知の物理法則を考え出さねばならない。(中略)
 しかし、銀河の赤方偏移は非常に大きなスケールにおけるものであり、私たちが今までに、ほとんど経験していないものである。必要な研究は困難と不確実性につきまとわれており、現在つかえるデータからの結論はかなり疑わしい。
 赤方偏移の解釈は、少なくとも部分的には実験的な研究の範疇(はんちゅう)にある事実をここに強調しておきたい。望遠鏡の能力をまだ使い切ってはいないので、赤方偏移が実際に運動を反映しているのかどうかがわかるまで、結論を先に延ばしてもいいと思う。」(エドウィン・ハッブル「銀河の世界」岩波文庫、1999)
 ともあれ、ここまでは1914年のアメリカの天文学者スライファーによる「光波のドップラー効果による赤方偏位」の観測により、私たちの銀河系の外にある銀河から届く光の観察で、秒速1000キロメートルで後退している銀河が発見されていた。
 その際のハッブルは、このスライファーの発表に着目し、さらに遠くの銀河の光を当時の最新鋭のハッブル望遠鏡で観察を始める。銀河からの光を分光(その光をさまざまな成分に分解すること)していく。そのハッブルは、1929年、各々の変光星が属する銀河までの距離を推算する作業を進め、それらのうち24の銀河について、光のドップラー偏移を調べたところ、それらのどれもが赤方偏移を起こしていることを発見した。これはつまり、ハッブルが観測した銀河間の距離、つまり宇宙が膨脹していることを意味している。 その際、かかる赤方偏位は、銀河の後退速度によって生じたものではなく、光が天体を発した時の宇宙の大きさと、その光が地球に到達したときの宇宙の大きさとの違いのために生じたものだと考えられている。もっとも、個々の銀河の大きさはこれによっても変わらない、銀河の中の恒星と恒星の間の距離が広がっているということでもない。広がっているのは、重力が及ぶ範囲の天体間の距離ではなく、あくまで、それらを包摂した、より遠くにある「銀河」と別の「銀河」との距離なのである。
 そればかりではない。ハッブルは、18個の銀河までの距離と、それらの銀河が地球から遠ざかる速度(「後退速度」と呼ぶ)の定量的な関係式、「1メガパーセク(326万光年)離れた銀河は秒速530キロメートルで遠ざかっている」(この値は、今は秒速71キロメートルと言われている)のを探し当てた。
 この作業のときハッブルが着目したのがセファイド変光星であって、この変光星は、その絶対光度と変更周期との間に特定の関係、すなわち周期が長いほど絶対光度が大きくなることが、1910年代までにはわかっていた。そこで、その変光星の変光周期を観測して絶対光度を求め、割り出したその値を見かけの明るさ(これは地球からの距離に比例するのであるが)と比較することにより、目的とする変光星までの距離を割り出すことができるのだ。
 参考までに、この変光星の割出しについて、ハッブル自身は、こう述懐しているところだ。
 「状況は1885年と1914年の間に急速に進展した。M31渦巻銀河に出現した明るい新星は、距離問題に対する新しい興味をまきおこした。(中略)
 解決は10年後にやってきた。この解決には、その間に完成した巨大望遠鏡、100インチ反射望遠鏡が大きな役割を果たした。いくつかの最も明るい銀河は銀河系の外にあり、天の川銀河の外の空間にある独立した恒星の集団、つまり系外銀河であることが明らかになった。(中略)
 100インチ反射望遠鏡は近傍の銀河を部分的に星に分解した。これらの星の中に、天の川銀河の中にもある、いろいろな型の明るい星と同定されたものがあった。それらの固有の光度は、ある場合は正確に、ある場合には近似的にわかっている。したがって、銀河の中の発見された星の見かけの暗さは、その距離が大きいことを示している。
 最も信頼するに足る距離の値は、セファイド変光星によってもたらされる。しかし、他の星からも距離の桁を決めることができる。それらは、セファイド変光星によるものとほぼ一致していた。最も明るい星の光度は、ある種の銀河でほぼ一定のようなので、銀河の群の平均距離を統計的に決めるのに用いられた。」(エドウィン・ハッブル著、戎崎俊一(えびすざきとしかず)訳「銀河の世界」岩波文庫、1999) 

(続く)

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