♦️362『自然と人間の歴史・世界篇』数学(一般相対性理論への橋渡し、ガウスとリーマン)

2018-04-30 21:07:19 | Weblog

362『自然と人間の歴史・世界篇』数学(一般相対性理論への橋渡し、ガウスとリーマン)

 ところで、アインシュタインは、二人の数学者の業績のおかげで、偉大な仕事ができたといっている。
 「一般相対性理論の建設を可能にした数学的知識を、われわれはガウスとリーマンの幾何学的研究に負っている。ガウスは、その曲面論において、3次元ユークリッド空間中に
入れられた曲面の計量的性質を研究し、これらの性質は、曲面それ自身にのみ関係し、それを入れている空間との関係には依存しない概念を用いて記述できることを示した。
 一般に、曲面上には特別な座標系は存在しないから、この研究ははじめて、曲面に関する量を一般座標で表わすということを導いた。
 リーマンは、曲面のこの2次元の理論を、任意の次元の空間へ拡張した(2階の対称テンソル場で特徴づけられるリーマン計量空間)。このすばらしい研究で彼は、高次元計量空間における曲率に対する一般の式を見出した。
 一般相対性理論の建設にとって本質的な数学の理論の、上にのべた発展は、次の結果をもたらした。すなわち、最初リーマンの計量が基本的な概念と考えられ、その上に一般相対性理論、したがって慣性系の回避が築かれたのである。」(アインシュタイン「非対称場の相対論」:アインシュタイン著、矢野健太郎訳「相対論の意味」岩波文庫、2015)
 ここに讃えられる二人の数学者の人生と仕事につき、ごく簡単に紹介すると、およそ次のようである。
 カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)は、ドイツの数学者として知られる。その業績は解析学、幾何学、数論などに及んだ。一番に知られているのは確率論だろうか。試料の数が大きくなると、一定の法則が出て来て、未来の予言ができるようになるという、ガウス分布なるものを発見する。数学ばかりでなく、それと付かず離れず、ガウスの天才にとってちょうどいい案配の電磁気学、天文学の分野でも業績を上げる。
 その彼は、7歳になって聖カタリーナ国民学校に入学する。その2年後に算術のクラスに入る。11歳の時、独力で二項定理を完璧に証明する程であったという。19歳の時に「正17角形を定規とコンパスだけを使って作図する方法」とを発見した。
 そのガウスらの新しい幾何学への貢献について、数学者の矢野健太郎はこう解説している。
 「十九世紀に入って、ドイツの数学者ガウスは、この解析幾何学の方法と、微分学の方法とを巧みに使って、一般の曲線と、一般の曲面の研究をはじめました。これは、微分学を縦横に使って幾何学を研究しますので、現在微分幾何学と呼ばれています。
 ガウスは、一般の曲線と曲面の研究ばかりでなく、いわゆる曲面上の幾何学の研究の研究もはじめました。」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)
 ゲオルグ・リーマン(1826~1866)は、ドイツの数学者である。新教の牧師の息子であって、始は牧師になるべく神学を勉強する。そのうちにも、自分は牧師には向かないと考えたのだという。何とか父親を説得して、ゲッチンゲン大学へ入学し、数学を専攻する。当時の同大学で教鞭をとっていたガウスの教えを受ける。
 学位取得後、彼は同大学の私講師となり、1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」の講義を行う。1859年にはゲッチンゲン大学教授に就任する。この頃、結核に感染する。当時は、結核を根治できなかった。その後徐々に病状が悪化して、1866年、療養の為に休暇をとってイタリアへ出掛け、そこで亡くなる。
 そのリーマンは新しい数学の世界を開いた。ユークリッド幾何学の公理に挑戦し、例えば、平行線につき、「総ての平行線を交わる」、「与えられた点を通る与えられた直線に平行な直線は無限にある」という公理から出発する幾何学の構築していく。球面上の各々の点において平行な直線、すなわち、球の周円は必ず交わる。
 また、球の上の任意の一点を通って無限に周円、つまり球上に於ける平行線が無限に引ける。この様な公理から出発して、リーマンは新しい幾何学の体系(現在非ユークリッド幾何学と呼ばれるもののひとつ)を創造するのであった。数学者の遠山啓の表現でいうと、「その幾何学では直線が平面を二つの部分に分割しない」(遠山啓「数学の学び方・教え方」岩波新書、1972)ことになっている。
 リーマンはまた、曲率とか距離とか言う概念を定義できるかを考え、その定義如何によって、多様な幾何学が考えられ得る可能性を示す。彼の師ガウスが考えた「空間歪曲率」という概念に従えば、空間歪曲率ゼロのものが、ユークリッド幾何、プラスの値のとるものがリーマン幾何、マイナスの値をとるものがロバチェフスキー幾何と定義されるという。この事によって、それまで実在の空間と一致する唯一の幾何学と考えられていたユークリッド幾何も、一つの論理的体系にすぎない事が明らかになる。
 こうした彼の業績からおよそ半世紀の後、アインシュタインは、ミンコウスキーの4次元時空連続体の概念にこのリーマン幾何を適用することによって彼の相対性理論による宇宙モデルを確立するのであった。

(続く)

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○○242『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など、その概略)

2018-04-30 09:13:53 | Weblog

新285○○242『日本の歴史と日本人』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など、その概略)

 文化は、文明のような組織だった人間の営みではない。だから文化とは、古今東西を問わず、人間の精神と肉体による活動のうち、もっとも美しい部分、領域なのかもしれない。江戸期には、日本の歴史上初めて、幅広い形での大衆文化というものが形成された。奈良期までに、大陸からの多くの文化が伝わってきた。平安期には貴族文化が華開いて、男女の情愛や可憐さ、切なさを中心に競い合った。仏教文化が、古代からの土着文化と結合あるいは折衷し合い、鎮護国家としての綾取りを加えた。室町期からは、もはや借り物ではない、日本の文化が花開いていく。
 けれども、それまではの文化の大半は一握りの人たちによるもの、彼らのために行い、あった。文化は、人々が欲求するものだ。双方向の交流があって初めて、前へと進んでいく。文化に類した何かを創り出そうとする者は、いいものをつくって観賞してもらったり、購入してもらったり、後世へと伝わることを望む。創られた文化を享受する側はといえば、それに感動や喜びを見出すことのできる人々は、どのくらいであったのだろうか、過ぎし世の中への興味は尽きない。
 文化のもう一つの欲求は、他人へ、他地域へ、次代へ、伝搬していくことだ。もちろん、これだとて、たった一人で創り出せるものではあるまい。創る側の人が何かを自分の生きる中から取り出してくる。前の時代から受け継いできたものもあるだろうし、自らが創り出していくものもあるだろう。これには、「最も広い用法では、芋を洗って食べたり、温泉に入ることを覚えたサルの群れなど、高等動物の集団が後天的に特定の生活様式を身につけるに至った場合をも含める」(『新明解国語辞典』三省堂)とあるから、要するに芸術レベルでなくとも構わないようにも考えられるのだが。

(続く)

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○○243『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、久隅守景)

2018-04-30 09:12:32 | Weblog

243『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、久隅守景)


 これに紹介するのは、久隅守景(くすみもりかげ)の「夕顔相月納涼図」(ゆうがおだなのうりょうず)と「四季耕作図」である。久隅は生年没年とも不明ながら、狩野探幽(1600~1674)の弟子であった。活躍したのは、17世紀半ばから末に及ぶ。
守景には、息子と娘がいたとのこと。息子は放蕩息子で、悪事を働いて島流しとなり、娘は狩野派絵師となりながら、同年の絵師と駆け落ちしてしまったため、守景は面目を失い、狩野派を離れたとされる。
 彼の代表作の「夕顔相月納涼図」は国宝になっている。かなり大きな(約150センチメートル×約168センチメートル)あるらしい。図鑑で観ると、黒の濃淡の墨だけで描かれているようだ。夫婦らしき男女と男の子のあわせて3人が茅葺き家の縁だろうか。棚からは夕顔が幾つもぶら下がっている。そこに、いかにものんびりしている。空高くには丸い月があって、月明かりに照らされているようだ。静かである。いわゆる「おぼろ月夜」で季節は、夏の終わり頃といったところだろうか。
 父親は両の腕で支える形で頬杖をついて、くつろいで見える。何か考えているようでもあり、無心に自分という者の心を放り出しているようであり、とにかく脱力している感がある。母親は、そんな夫にあくまで静かに寄り添い座っている。この絵の由来となっている和歌に「夕顔の咲ける軒場の下涼み、男はててれ女はふたのもの」(江戸期の大名歌人であった木下長しょう子の作)というのがあり、この中の「ててれ」とは襦袢、「ふたのもの」とは腰巻のことをいう。
 この二人の傍らに座っている子供はまだ10歳になっていないのではなかろうか、茫洋とした表情をしており、観ているにほほえましくさえある。生業は農業(百姓)であろうか。今日一日の労働が無事に終わり、ご飯も食べて、つかの間の家族水入らずの時を過ごしているような案配に見える。歌の方には子供がいないのに、絵に描かれるのは、守景のどういう趣向によるものだろうか。
 守景の「四季耕作図屏風」は、百姓心を大いに啓発してくれる作品だ。というのは、この時代、すでに私の小さいときの農家の一年に行われていたことが、大方に描いてあるのではないだろうか。春の田越しから始まって、田植え、収穫、そして出荷など、村の地理的な広がりの中に農家の営みが連なっている。田や畑の間の道は、過去からやって来て、現在につながっているようにも窺える。通りの真ん中には、若い女性を中心とした道連れだろうか、何かの一行であろうか。ともかく陽気な顔、また顔をしている。田植えが進行中の田圃では、田楽ではやし立てているグループもある。村野人から景気付けに頼まれてやっているようでもあり、とにかく田圃の泥濘(ぬかるみ)の中、商売でやっているというよりは、好きで誠に楽しそうに踊っている。
 そんなこんなで、その外にも色々な場面が描かれるのだが、時間の流れが混合している様となっている。それでも、自分の追体験がある程度可能な場面が多くある。私たち後代の者は、過去に決して戻れない。だが、この絵に没入している間かぎりでは、自分もその場にも立ち会っていたかのように感じられる。それによって尚更、楽しく拝見できているように感じられる。事実、私たちの感覚は、今よりほんのちょっと過去の時間を観たり、感じたり、考えたりしているものだ。

(続く)

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○○244の1『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、伊東若冲、与謝蕪村、池大雅、鈴木其一)

2018-04-30 09:11:08 | Weblog

244の1『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、伊東若冲、与謝蕪村、池大雅、鈴木其一)

 画家の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)と与謝蕪村(よさぶそん)は、共に1716年(正徳6年)に生まれた。若冲は、超精密画で知られる。若冲はその天才を自覚していたのか、自分の絵の四つを選んで、神業を暗示させる印を押した。自分の絵が千年も生きられるようにと、壮年期からは自分の作品を寺に寄進したのだという。彼の絶筆として伝わるのは、何とも愛らしい犬たちであった。彼は京都を襲った大地震に直面して、命というもののはかなさ、尊さを実感し、その心の延長でこの絵を描いたのではないかと言われる。
 蕪村の描いた絵には、飾りというものが感じられない。人家はまばらであって、どことなく冷たく、寂しげでさえある。2009年に国宝に指定された『夜色楼台図』は、縦28センチメートル、横130センチメートルの画面に京都の冬を描いて見せた。これを観ると、しんしんと雪が降り積もっている。家々の障子からは明かりが漏れている。どこかで観たような構図でもあり、自分はこのような寂しげな光景を持たなくても何かしら心惹かれる。彼は、俳人でもあった。万を超すあまたの句のの中から一つ諳んじれば、「一面に月は東に日は西に」とあって、あのかぐわしい、何とも心地のよい、甘い匂いのする華の絨毯が広がる。その中に、東の空に月が上がり始め、西の地平には今にも太陽が沈みかけている。
 池大雅(いけのたいが、1723~1776)は京都(現在の上京区)の村の生まれ、江戸中期の文人画家にして書家でもある。7歳の幼い頃から、画才を発揮して「神童」と讃えられる。15歳で父の跡を継ぎ、菱屋嘉左衛門と名乗る。20歳で、雅号を「大雅」と決める。それからは、諸国を渡り歩いて自然を愛し、その先々で多様な人々と交わる。妻の玉らんと、「琴瑟相和す」仲むつまじさであったことでも知られる。行住坐臥、ごく自然に振る舞うことで知られ、いわゆる風流の道を色々とたしなんでもいたらしい。変わったところでは、1751年(宝暦元年)の、岡山少林寺からの帰途入京の際、用事でやった来ていた白隠慧鶴禅師(1685~1768)と会っていたり、与謝蕪村とは相作もしたか間柄であったらしい。
 その画業は風景を主にし、「岳陽楼・酔翁亭図屏風」や「山水人物図襖」などが代表作。同じく傑作の「楼閣山水図屏風」(6曲1双にして紙本金地墨画着色)を拝見すると、一見中国風の家や幾山が押し寄せてきているようで、自由奔放というか、、つらつら眺めているうちに、もこもこ力が湧いてくる気がしてくるから、不思議さはこの上ない。
 豪快な絵ばかりでなく、四季の移り変われを描いた「四季山水図」や、農民や釣人などが登場する「十便画帖」(1771作、国宝)には、自分もそこにいる錯覚すら覚える。多くの絵の余白に添えられている書は、陶淵明(中国唐代の仙人のような生活を送ったとされる詩人)などの詩に取材しているのであろうか、自由気儘に心情を吐露したものだろうか。
 鈴木其一(すずききいつ、1796~1858)は、尾形光琳の流れを汲む日本絵画の伝統を江戸で復興した酒井抱一(さかいほういつ)の弟子である。その其一が書いた「朝顔図屏風」(あさがおずびょうぶ)は一風変わっている。おりしも、江戸では朝顔を珍重する園芸熱がひろまりつつあった。
 それらを交配させて、珍しい色あいのものを作り出すのだ。其一はこれに触発されたのだろうか、根元もなければ、蔓が巻き付くための支柱も描かれていない、花があるばかりでなく、蕾や種らしきものまで描いてある。試みに画集の中央に居ると、金屏風の下地に冴え冴えと、両隻の右からと左からと葉っぱの緑(緑青)と花や蕾の青(群青)の組み合わせで、まるで「やあやあ」と近づいてくる。
 不思議だ、なんだか花に囲まれているみたいなのだ。全体として尾形光琳の「燕子花図」(かきつばたず)のような只住まいなのだが、それよりかは少し空想じみているのが、なんだか爽やかに感じられる。緻密であるし、考え抜かれた構図なのだといわれるものの、緊張感の中にも爽やかな動きが感じられるのが何より心地が良い。この絵を描いた其一もまた、黒船来航に驚き、慌てた一人であったろうに、そんなことには露ほども感じさせないだけの、事絵に関しては集中心であったのだろうか。

(続く)

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○○245『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2、円空、浦上玉堂)

2018-04-30 09:09:10 | Weblog

245『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2、円空、浦上玉堂)

 円空(えんくう)は、1632年(寛永9年)の生まれ、岐阜の長良川付近に生まれたが、詳細はわかっていない。彼が造った「円空仏」は、東日本を中心に五千近くも発見されているようだ。総数は、優に1万を超すとみられている。僧となってからの彼が辿った路は、主に東日本の広い範囲にわたるばかりでなく、北海道にも及んだらしい。ただの仏像創作旅行ではなく、「錫杖(しゃくじょう)」とともにある旅路でもあったという。僧であるからして、布教しながら、頼まれれば仏教の経を人々に向かって諳んじながらの旅であり、修行を兼ねる行脚(あんぎゃ)でもあったのだろうか。それぞれの場所で民衆に頼まれては仏像を造っていたのか、それとも自分の内なる心だけを頼りにして渾身の鑿(のみ)をふるっていたのであろうか。
 その円空仏の表情が柔和になったのにはねそれなりの理由があるようだ。1674年(延宝2年)、円空は和歌山の地から舟で伊勢の志摩に渡る。片田三蔵寺と立神薬師堂に立ち寄って、そこにある600巻にも及ぶ『大般若経』の修復作業に加勢していたのだと伝わる。円空が寺と土地の人たちから依頼されたのは、教典に添える挿絵であったとのこと。当時の彼は、母の供養ができていないという自責の念に悩んでいたらしい。円空は、その依頼を喜んで受け入れ、来る日もくる日も墨画を描いていたところ、だんだんに仏の顔が柔らかになっていったという。それにつれて、母の供養が進み、成仏できたという確信が得られた。その時から、円空の彫る仏の顔に、ほほえみが宿るようになっていったのだと語り継がれている。
 そのあまたある中から一つ、紹介したい。弘福寺(現在の群馬県高崎市在)の円空仏は、彼が1681年(延宝9年)春に武蔵国(現在の富岡市一ノ宮~に滞在しているおり、50歳の油ののりきった時期に造られたらしい。大きさは、高さ28.6センチメートル、像の幅14.9センチメートルと小ぶりだ。檜材に刻まれ、背面は五面に型割りしてある。顔の彫りは、凹凸がほとんどなく、西洋などの人の彫刻と根本的に違う。いの一番の特徴は、人なつっこい表情をしており、口元からは笑みがあふれていることだ。受ける印象は、言葉では表現できそうにない程の無限の慈悲というか、愛というか、それらが混じり合ったものが伝わってくる。
 朝鮮にも、「寂しいおりに、一杯のクッパでが人の心を温かにできる」という話があるやに聴いた。確かに食べ物ではないが、仏像を一度見終わってから、わざわざまた元の行列に戻ってもう一回拝顔する人があるのは、これを観る人の全員が幸せになってほしいとの彼の願いが通じるのだと理解したい。64歳(1695年(寛永8年))のとき、この漂泊の人は、郷里の長良川河畔の穴の中に入定した、つまり「即身仏」となって衆生の人々を助けようとしつつ、自然に帰ったのであった。
 浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820)は、 江戸後期の岡山藩の支藩、鴨方藩士の家(現在の岡山市街)に生まれ、後に諸国を放浪した異色の画家として知られる。彼は早くの武家の家督を継いでから精勤し、37歳で同藩の大目付の出世する。しかし、43歳の時、その任を解かれ、左遷される。48歳の時には、妻が亡くなる。50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことが幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。
 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。代表作の「凍雲○雪図」(とううんしせつず)を画集で拝見すると、定かにはみえないが、痩せた岩盤に樹が立っているのだが、寒さのためと言おうか、孤独さのためと形容しようか、凍えているかのように眼に写る。作者は、この絵で何を表現したかったのであろうか。しかし、もう少し辛抱づよく観ているうち、冷たさの中から何か、もこもこした息吹のようなものが昇り、上がってくるように感じてくるから、不思議だ。つまり、死んではいない、たくましいのだ。その後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、えもいわれぬかたちであって、ありきたりの形に囚われない面白さも感じさせてくれている。

(続く)

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○○239『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3、喜多川歌麿など)

2018-04-30 08:55:37 | Weblog

239『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3、喜多川歌麿など)

 こうして浮世絵は、日本の代表的な文化となっていった。それでは、今度はその元となる絵の作り手は、どのような人々であったのだろうか。
 これをざっとみると、菱川師宣から始まり、鈴木春信や勝川春章などの巧者を経て、民衆の中に根を下ろし、延ばしていった。そして彼らは、江戸期の民衆の歩みと共にひたひたと歩んできたこの芸術を、表舞台へと導くのであった。
 最初の大輪の花を咲かせるのは、喜多川歌麿(1753年頃~1806)が活躍した江戸中期であった。その歌麿の出身地などは不明な点も多い。幼い頃に狩野派の絵師、鳥山石燕に学んだ。1780年代には黄表紙や挿絵の錦絵などを手掛けた。晩年に成っては、浮世絵美人画の第一人者に上り詰めた。
 歌麿の作品は、多数ある。好んで描いた対象は、特権階級ではない、多くは遊郭の女性や花魁もあるが、主に市井の町娘も描いた。どちらかというと、つましく暮らしている人々だ。例えば、「寛政三美人」(当時三美人)は、1793年頃の作で、大判錦絵となっており、ボストン美術館(アメリカ)で所蔵されている。後に「婦人相学十躰・ビードロ(ぽっぴん)を吹く娘」と名付けられた絵は、成熟した女性の人格まで描き分けようとしたかのような、歌麿のシリーズもの中での代表作ともいわれる。江戸以外の地に生きる人々の姿も手掛けており、「鮑とり」(6枚続き)は沖合に漕ぎ出しての、海女たちの労働をあらわし、寛政初期にかけて手掛けた「画本虫撰(えほんむしえらみ)」や「百千鳥」「潮干のつと」などの狂歌絵本においては、植物、虫類、鳥類、魚貝類などが生き生きと息づいている。ほかにも、春画、肉筆画も手掛けていて、多彩な筆遣いで縦横無尽な才能といったところか。 クス
 描き方は、一言でいうなら、そんじょそこらには観られない、繊細かつ優麗な描線を特徴としている。それでいて、さまざまな姿態、表情の女性の中からい出てくる美を追求した。大胆なポーズをとってる作品もあり、自由自在にかき分けている、というほかはない。顔は大きく、実物を観察するうち、クローズアップしてくるものを自分の頭の中で再構成して描いているのではないか。彼の特徴は、細い線だとうかがった。そこに注意して観ていると、おっとりした表情の中に描かれている人物の息遣いまでが伝わってくるかのような心地になるから、不思議だ。

(続く)

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