282『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(第二帝政期)
1848年12月、ルイ・ナポレオンが大統領選挙で圧勝する。権力を獲得した彼の次の手は、1848年憲法で大統領の任期を4年とし、また再戦を禁じているのを改めることであった。1850年になると、議会が普通選挙制を廃止する法案を可決するにいたる。パリその他の都市の民衆がそれに抗議すると、かれは今度は民衆に好意をもっているかのように振る舞い、時を稼ぐのであった。
そして迎えた1851年12月12日、「機は熟した」と見たルイ・ナポレオンは、クーデターを起こし、成功させる。一部の議員はこれに対抗し、パリの労働者に蜂起を呼びかけるのだが。その後、彼は憲法改正を人民投票に問い、圧倒的多数の賛成を勝ち取り、憲法改正の権限を獲得する。これを基に、1852年1月には新憲法が布告される。1852年12月2日、人民投票で「第二帝政」が成立し、彼は皇帝に即位してナポレオン3世と称する。1870年までは、このままの体制が続く。
さらに、歴史はめくられていく。1854年3月には、クリミア戦争が起こる。フランスは、フランスなどとともに、南方政策によりバルカン半島や地中海沿岸で影響力を増しつつあったロシアと対戦する。この戦争は1856年まで続いた。1859~1860年、イタリア統一戦争がった。1860年1月、英仏自由通商条約が締結される。1860年にニース、サボアを併合、翌1861年12月~1867年にかけてはメキシコ遠征を行った。1870年5月の人民投票で議会主義帝制が成立する。
1870年7月、プロイセンとの間で戦争を開始する。これより前、プロシア(ドイツ)が北ドイツを統一し、1866年その一帯の覇権を持っていたオーストリアとの争いに勝利した普墺戦争に勝利していた。ナポレオン三世のフランスは、これに反発する。
プロシャの宰相ビスマルクはフランスも引かず、空位となったスペイン国王の跡継ぎ問題にドイツとフランスがかかわるうちに戦争へと突入したのであった。この年の9月2日、ルイ・ボナパルト率いるフランス軍は、フランス北東部の国境沿いの町スダンでドイツ軍に包囲され、自身が捕虜となってしまった。
その二日後の9月4日、パリの民衆は立法議会になだれ込み、ナポレオン3世の廃位および共和制の宣言を要求する。この共和制革命でナポレオン3世の帝政は倒れ、共和国臨時政府(国防政府)が樹立される。しかし権力を握ったのは民衆の政府ではなく、パリの軍事総督トロシェ将軍を首班とするブルジョア政治家たちであった。
1871年1月28日、国防政府は極秘にすすめていたプロイセンとの三週間の休戦協定(別名「降伏協定」)に調印し、プロシアと休戦する。2月12日に新たに選出された国民議会では、保守派のティエールを首班に指名し、臨時政府が発足する。この政府は、国民衛兵の俸給を打ち切ったり、家賃・負債の支払い猶予も撤廃する。
さらに2月26日、政府はアルザスとロレーヌの多くの地域をプロイセンに割譲するとともに、50億フランの賠償金をプロイセンに支払う仮講和条約を同国と結ぶ。フランスの民衆が、これに憤慨したのはいうまでもない。
(続く)
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