358『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツのワイマール体制
世に「ワイマール共和国」とか「ワイマール体制」と呼ばれるものは、1918年のドイツ革命に伴い成立したドイツ共和国(1919~1933)の通称である。そのドイツにおいて、共和体制がもたらされ、社会民主党・中央党・民主党が連立内閣を結成し、、ワイマール憲法が制定されたことにより、成立・発足したもの。
その歩みとしては、ざっと次にみるような紆余曲折であった。1918年11月には、ドイツ革命。水軍がキール軍港を制圧し、ヴィルヘルム2世が退位を余儀なくされる。彼はその後に亡命し、ドイツ帝国が崩壊する。オーストリア皇帝カールも退位。ドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結する。
1919年1月、スパルタクス団が蜂起するも、失敗に終わる。6月にはパリ講和会議が開催される。ベルサイユ条約で、ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに割譲することを約される。同時に、多額の賠償金を負う。スパルタクス団のリープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが惨殺される。ワイマールで国民議会が召集され、エーベルトが大統領に就任(在~1925)する。
7月には、ドイツ共和国(ワイマール)憲法が制定される。議会制民主主義を謳う。1020年3月にはカップ一揆が勃発する。.彼らは、ワイマールの共和制打倒を目指す。
1921年、ヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)を結成する。ワシントン軍縮会議が開催される。1922年4月には、ラッパロ条約。イタリアでは、ムッソリーニがローマ進軍を行う。
1923年1月には、フランスとベルギーが、ルール地方へ進駐する。ドイツに圧力をかけた形だ。ドイツは、経済大混乱とインフレに陥り、レンテンマルク銀行券発で切り抜けようとする。ローザンヌ会議が開催される。11月になると、ヒトラーらがミュンヘン一揆を起こす。ナチ党は禁止されたものの、後継組織が国会議席を獲得する。1924年には、ロンドン会議でドーズ案が承認され、ドイツに対する賠償軽減がなされる。
1925年には、ヒンデンブルクが大統領に就任する(在~1934)。12月には、ロカルノ条約が締結され、西部国境の不変更・中欧の安全保障体制を謳う。1926年9月には、ドイツは国際連盟に加入する。1928年6月には、ミュラー大連合内閣が成立する。1928年には、パリ不戦条約が締結される。この年、ナチ党として初の国政選挙に取組、12議席を獲得する。1930年、選挙でナチ党は第2党の地位を獲得する。
1929年6月、ドーズ案の修正案としてのヤング案の調印が行われる。7月、そのヤング案反対闘争にナチスが参加する。1929年の世界大恐慌もあって、1930年3月にミュラー大連合内閣が崩壊する。9月の.総選挙でナチス党が第2党となる。ヤング案が発効する。1930年には、ロンドン軍縮会議が開催される。
1931年10月には、ナチスを含めた右翼が国民戦線を結成、これを「ハルツブルク戦線」という。1932年3月~4月、大統領選挙にヒトラーが出馬し次点となる。1932年6月には、ローザンヌ賠償会議が開催される。7月の国会議員選挙で、ナチスは230議席を獲得し第1党となる。そして11月、国会議員選挙で34議席を失ったものの、196議席を確保し第1党の地位を保持する。
1933年1月にはヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命する。ナチスによる国会放火事件が起こる。同時に、ナチスによる、自由主義者や社会主義者らへの大弾圧が行われるのであった。3月には、全権委任法でナチスがワイマール憲法および、これによる民主主義体制を崩す。10月には、ドイツは国際連盟・軍縮会議を脱退する。
では、ワイマール共和国はなぜ亡んだか、その問いに答えるのは、なかなかに複雑な事情が介在していたのではないか。その中から主に言われているのは、一つには、それの樹立は、周到に準備された上でのことではなかった。二つは、そもそも国民の間に下からわき上がるような共和主義への待望が上がらなかった。
その三つ目は、ヴェルサイユ平和条約締結の大きな重荷として、莫大な賠償金をおわされていた。四つめは、革命後の民主化は進展しなかった。官僚制度も軍隊も司法も大学も、民主化はほとんどといってよいほどに進まなかったのではないか。また、民衆の草の根からの共和制の樹立、民主主義の拡充がなかなかに進まなかった。そして五つには、共和制末期には議会が機能しなくなりつつあった。
(続く)
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357の2『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのモンロー主義
1823年12月、アメリカの第5第代大統領モンローは、その教書の中で、次のように述べる。
「われわれは、率直に、また合衆国とこれらの諸国との間に存在する友好関係のために、次のように宣言する義務があります。
すなわち、われわれはヨーロッパの政治組織をこの西半球に拡張しようとするヨーロッパ諸国側の企ては、それが西半球のいかなる部分であれ、われわれの平和と安全にとって危険なものとみなさねばならない、と。
われわれは、いかなるヨーロッパ諸国の現在の植民地や従属地にも干渉したことはなかったし、今後も干渉するつもりはありません。しかし、すでに独立を宣言し維持している政府、しかもその独立をわれわれが十分な検討を加え正当な原則にもとづいて承認した政府の場合には、これを抑圧することを目的としたり、ほかのやり方でその運命を支配することを目的とするヨーロッパ諸国による介入は、どのようなものであっても、合衆国に対する非友好的な意向の表明としか見ることはできません。」(富田虎男訳「史料が語るアメリカ」有斐閣)
これにより、ヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱する。その背景には、特にラテンアメリカにおいて、ナポレオン戦争後に本国スペインなどの束縛を破って独立を達成しようとの動きが出て来ていた、ウィーン会議(1814~1815年に、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議)後のヨーロッパ列強はこれを押さえようとしたことがある。これは、アメリカ独立の理念の理念と衝突するものであったから。
それに加えて、アメリカは、自らにほど近い場所での列強の活動に脅威を覚えたのであろうか。むしろ考えられるのは、それから前に向かってのアメリカの国の在り方をめぐらしている中での、より積極的な出来事であったのではないか。
その後、ラテンアメリカ諸国はこの宣言の力もあって、ブラジルなどが独立に成功していく。ところが、その間に、アメリカはこの地域に新たな権益を獲得し、それを拡大していくことになっていく。
(続く)
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