♦️167『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(~15世紀、ローマなど)

2018-04-10 21:06:20 | Weblog

167『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(~15世紀、ローマなど)

 1492年、フィレンツェの指導者にしてメディチ家のロレンツォが死んだ。さっそく、主導権を巡って社会がざわついてくる。彼の死後、ルネサンスの中心地はローマに軸足を移していく。そのローマでは、人文主義的教養を身につけていた教皇ニコラウス5世(在位1447~55)が、学者、芸術家、建築家などを積極的に保護するに至っていた。1493年、スペイン王家がグラナダ回教国(ナスル朝)を征服し、「レコンキスタ」が完成する。またこの年、マルティン・ベハイムが、地球儀を製作する。これに関連して、羅針盤があるが、これは中国の発明であった。11世紀の中国の沈括の『夢渓筆談』、正確には「真貝日誌送」にその最初の記述が現れると伝わる。火薬についても、ルネサンスが起源ではなく、9世紀初頭の中国で、不老不死の霊薬を求めた道教の錬丹術師が偶然発見した。木炭、硫黄、そして硝石の混合物が「火の薬」とわかる。今日の黒色火薬である。これが最初に詳述されたのは、「武経総要(ぶけいそうよう)」(1040年)であった。
 1494年、フィレンツェで反メディチ家のクーデターが起き、修道士サボナローラの政権が成立する。1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに遠征する。フランス軍のイタリア侵入が始まり、イタリア戦争が勃発したのである。その背景には、次のことがあった。ナポリ王国で1435年にフランス系アンジュー家の王位が断絶した。ついで王位を継承していたスペインのアラゴン家のフェルティナンド1世が1494年に亡くなると、フランス王シャルル8世は王位を継承権を主張し、ローマ教皇アレクサンデル6世に承認を求めた。
 ローマ教皇がこのフランス王シャルル8世の求めを拒否すると、後者はスイス人傭兵からなる部隊を率いてイタリアに侵入、フィレンツェではメディチ家を追放し、さらにローマを経て、95年2月にはナポリを占領するに至る。ミラノの実力者ルドヴィコ・イル・モロはフランスを支持するのだった。教皇アレクサンデル6世は、スペイン国王(兼シチリア王)フェルディナンド5世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、およびヴェネツィアとフィレンツェに呼びかけ、フランス王に対抗し、3月に神聖同盟を成立させた。退路を断たれることを恐れたシャルル8世は、急遽ナポリからフランスに戻ろうとし、7月フォルノヴォの戦いで敗れ、命からがらパリに帰還した。
 1497年、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマの率いるが喜望峰経由でインドへ向かう。1498年、インド航路を開拓しカリカットに到達し、大量の香辛料を持ち帰った。1502年の第2回遠征ではカリカットを砲撃、コーチンに砦を築いた。1524年にはゴアにポルトガルの拠点を築き、インド総督となる。思いみるに、彼の頭の中には平和という言葉はなく、力でもって制圧することにあった。
 1497年頃、レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)が『最後の晩餐』を完成する。この絵が描かれているのは、ミラノ市街のドミニコ会修道院で、大食堂のあった場所である。レオナルドは天文学上の問題には遠かったが、精密な観察に基づく自然探求の方法を追求していた。1498年、フィレンツェでサボナローラの神政政治が瓦解する。1498年、アルプレヒト・デューラーの木版画集『ヨハネ黙示録』が完成する。
 1499年、フランス王ルイ12世の第二次イタリア戦争が始まる。この戦いは、第一次イタリア戦争に失敗したフランス王国による、再起を期しての二度目の遠征であり、1504年まで続いた。

(続く)

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♦️163『自然と人間の歴史・世界篇』中国の改革・開放政策(1981)

2018-04-10 09:37:46 | Weblog
163『自然と人間の歴史・世界篇』中国の改革・開放政策(1981)

 1981年6月には、中国共産党の第11期中央委員会第六回全体会議が開催される。この会議において、毛沢東主導の建国以来の政策について、業績として評価すべき「成果は七割で、誤りは三割」という評価がなされる。これは、概ね、順当な総括なのではないだろうか。
 もうひとつある。彼が提唱し、台頭してきていた党内の「政敵」を倒すためにも利用したであろう、その文化大革命については、全国人民代表大会常務委員会決議(1981年)における「路線上の誤りは触れない」との原則が貫かれる。具体的には、この会議において、胡耀邦(hu2yaobang1)が党主席に就任する。「建国以来の党の歴史の若干の問題についての決議」を採択する。
 「1966年5月から1976年10月にいたる「文化大革命」によって、党と国家と人民は建国いらい最大の挫折と損失をこうむった。この「文化大革命」は毛沢東同志が起こし、指導したもので、その主な論点はつぎのとおりである。党、政府、軍隊と文化領域の各分野には、ブルジョアジーの代表的人物と反革命の修正主義分子がすでに数多くもぐり込んでおり、かなり多くの部門の指導権はもはやマルクス主義者と人民大衆の手には握られていない。
 党内の資本主義の道をあゆむ実権派は、中央でブルジョアジーの司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線をもち、各省、市、自治区および中央の各部門にそれぞれ代理人をかかえている。これまでの闘争はどれもこの問題を解決することができなかった。走資派の奪いとっている権力を奪いかえすには、文化大革命を実行して、公然と、全面的に、下から上へ広範な大衆を立ちあがらせ、上述の暗黒面をあばき出すよりほかはない。これは,実質的には、一つの階級がもう一つの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何回もおこなわなければならないものである。
 こうした論点は、主として「文化大革命」の綱領的文献としての『5.16通達』と党の第9回全国代表大会の政治報告のなかで明らかにされたもので、「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」というものに概括された。したがって,「プロレタリア独裁下の継続革命」という言葉には特定の意味が含まれている。毛沢東同志の起こした「文化大革命」のこれらの左寄りの誤った論点は、マルクス・レーニン主義の普遍的原理と中国革命の具体的実践とを結びつける毛沢東思想の軌道から明らかに逸脱したもので、毛沢東思想とは完全に区別しなければならない。」(6月27日付け中国共産党第11期中央委員会第6回総会での決議の抜粋。)
 これについての、ここで後日に語られたの鄧小平の認識は次のようなものであり、冷静沈着な彼にしても、当時は現場に身をおく指導者として「薄氷を踏む」思いで過ごしていたであろうことが窺えるのである。
 「誤りについて述べる場合、毛沢東同志ひとりをあげつらってはならない。中央の多くの指導者にもみな誤りはあった。たしかに、「大躍進」のさい、毛沢東同志はのぼせていたが、われわれはのぼせていなかっただろうか?劉少奇同志、周恩来同志やわたしも反対はしなかったし、陳雲同志は何も言わなかった。」(鄧小平「誤りについて」:外交出版「鄧小平文選」『建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議』の起草に関する意見」より引用)

(続く)

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♦️162『自然と人間の歴史・世界篇』中国の改革・開放政策(1976~1980)

2018-04-10 09:36:00 | Weblog
162『自然と人間の歴史・世界篇』中国の改革・開放政策(1976~1980)

 1966年5月に開始した文化大革命は1976年10月に収束し、それから約3年間は政治の混乱が続く。そして迎えた1978年12月の共産党中央委員会(第11期三中全会)において、鄧小平(deng4xiao3ping2)体制が確立する。同会の決議に、「生産能力の発展に適応できない生産関係、上部構造及び管理方式、行動方式、思想方式」を改革し、「権限を地方と企業に移譲し、地方と企業の管理自主権を拡大する」とある。ここに、中国の世界に門戸をひらくことでのでの「改革・開放」路線が敷かれる。
 同時に、「世界各国との経済工作に積極的に参加し、世界の先進的技術と設備を採用する」ことを目標に掲げたのだか、「大躍進」のスローガンの下、足元を固めないうちに多くのことをしようとするあまりか、飢餓の招来を始め、実に多くの経済建設上の誤りを犯した。しかしながら、これをもってそれまでの経済路線の大方を、否定することはできないのではないか。
 それというのも、中国は毛沢東(mao2ze1dong1)の時代(1952年-1978年)の間にいわゆる「資本の原始的蓄積」に匹敵する強蓄積の時代を経験した。建国当初は農業国一色であった中国経済がいわゆる「大躍進期」を含む疾風怒濤の強蓄積時代をくぐり抜けることで、資本ストックの急速な増加を実現する。
 この経済「成果」があったおかげて、1978年末からの改革・開放を開始することができたという歴史的事実のあることまで無視すべきでない。それゆえこの国の改革・開放(gai3ge2kai1fan4)路線への切替えとは、それに先立つ基礎固めの上にレールを敷いていったものであると位置づけるのが正しい これ以降、中国共産党の活動の重点が国の近代化、改革開放政策(gai3ge2kai1fan4)へと転換していく 1979年3月、政府は4つの基本原則の堅持を指示する。同年4月には、党中央工作会議にて、経済の「調整・改革・整頓・向上」の方針が決定される。
 1979年5月、企業の自主管理の拡大にかかる「実験」が北京(bei3jing1)、上海(shang4hai3)、天津(tian1jin1)の3直轄都市にある8企業に拡大される。こうした「実験」は1980年はじめまでに100の企業が参加するまでに広がっていく。
 続く1979年6月から7月にかけて、第5期全人代第2回会議が開催される。そこでは「中華人民共和国外合資経営企業法」がその場で批准され、7月8日より施行される。1979年7月、中共中央が広東省(guang3dong1sheng3)と福建省(fu2jian4sheng3)に開放化政策の「実験」を指示。経済活動の自主権を認め、経済特区を設ける。
 1979年8月、国務院が対外貿易経営権の地方及び企業への委譲、外貨留保の制度の導入を発表する。外貨留保制度については1984年以降の実施となる。この制度において、輸出企業が貿易取引により獲得した外貨を指定銀行にて公定レートにより人民元に交換する際に、その獲得した外貨の使用権を一定比率で獲得できるように目論む。また、これにより、当該企業はこの割当額をいつでも公定レートで外貨に換えることができるところの特別口座に預金するか、それとも外貨を現金として保有するかを選択できるようにしたい。
 そして、これらの割当額や外貨を「外貨調節市場」において自由に売買することが可能となっていく。のちに、「1993年時点では、およそ80%の外貨需要が外貨調節市場で取引され、交換レートは需給関係によって決まった」(杜進「江沢民、朱鎔基体制下の経済運営」:渡辺利夫・小島朋之・杜進・高原明生「毛沢東、鄧小平、そして江沢民」東洋経済新報社、第5章)と言われているところだ。
 1980年2月の中国共産党第11期第5回全体会議では、劉少奇の名誉回復が決定される。国家主席だった劉少奇は、1966年からの文化大革命中に資本主義への道を歩んでいるとの批判を受け一切の職務を罷免され、1969年11月に失意のうちに河南省開封市で亡くなった、とされている。後のこちだが、その彼の名誉回復を受けて、1980年5月17日の追悼大会には華国鋒(hua1guo2feng1)・共産党主席(当時)ら指導者および各界の代表者1万人余りが出席し、鄧小平・国務院副総理(当時)が追悼の辞を述べた後、国歌が演奏された。
 顧みて劉少奇は、1958年の暮れには大量の餓死者が発生したことで、大躍進政策の失敗の責任をとり国家主席を辞任した毛沢東の後を受けて、1959年4月に国家主席に就任していた。ところが、それから数年後の1966年に毛沢東の肝いりで始まった文化大革命において、その彼が打倒されるべき政治勢力として攻撃の矢面に立たされる。
 彼は、農業生産活動面では、自留地(農民個人が占有し、自由な作付けで自分の所有物として収穫できる若干の土地)や農家が行う現金収入獲得のための副業、農村定期市といった創意工夫を復活させ、拡大させようとしていたという。けれども、毛沢東からすれば、これは農業の個人経営と農村の市場経済を容認することから、これを拡大していけば、やがては中国は資本主義への道を歩むようになっていくであろうことを危ぶんだからにほかならない、と言われる。
 1980年5月、中国はBIS(世界銀行)に加盟を果たす。また、この年、IMF(国際通貨基金)にも加盟するのであった。
 そして迎えた1980年8月、第5期全人代常務委員会第15回会議において、深せん(shen1shen4)、珠海(zhu1hai3)、汕頭(shan4tou2)、夏門(xia4men2)の4つの区での経済特区設置を認可する。併せて、「中華人民共和国個人所得税法」を批准、同年9月10日より実施される。
 さらに、この同じ1980年、華国鋒(hua1guo2feng1)が首相を辞任する。顧みて、彼は1976年党第一副主席兼首相に昇進。同年毛沢東(mao2ze1dong1)の死後、党主席と中央軍事委員会主席を兼任していた。1981年には党副主席に、1982年中央委員に降格されてしまう。
 1980年11月(開廷)から1981年1月(判決)まで、林彪・江青反革命集団裁判(特別法廷)が行われる。林彪グループは全員が死亡していたため不起訴となり、また江青と長春橋は死刑判決となるのだが、後に無期懲役に減刑されたと伝えられる。

(続く)

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