○○146『自然と人間の歴史・日本篇』室町文化(猿楽から能楽・狂言へ)

2018-04-04 21:55:15 | Weblog

146『自然と人間の歴史・日本篇』室町文化(猿楽から能楽・狂言へ)

 観阿弥(かんあみ、かんなみ、1333~1384)は、室町時代の猿楽師(さるがくし)である。息子の世阿弥(ぜあみ、通称は三郎、実名は元清、1363~1443)とともに、この芸を日本に根付かせる。
 そもそも、この芸は大陸から「散楽」としてもたらされたもの、つまり母国は中国なのであったという。これを受け入れた人々が、やがて日本の風土に合うように工夫を重ねていく。室町時代初期の大和国(現在の奈良県)の猿楽結崎座を営み、この芸を大衆に広める。1368年頃には、観阿弥(当時36歳)、猿楽に曲舞を取り入れ、大和音曲を創始する。こうした研鑽により、「猿(申)楽」へと発展していく。
 なお、ここで猿楽とは、江戸時代までの呼称であって、明治時代になってからは能と狂言として言い習わされる。「能楽」という場合には、この両者が含まれると見るのが自然なのかもしれない。今日、伝統芸能としてよく比較されるのが歌舞伎なのだが、こちらは江戸時代に入ってからは主として屋内(芝居小屋から劇場へ)で幕や緞帳(どんちょう)を必要としていく。対するに、能楽としての能や狂言は、これも元々は野外劇のようなものであったのだが、歌舞伎に比べると、より野趣豊か、野性味が溢れているというか、幕があってはかえって邪魔になる訳であったらしい。
 やがて父の後を継ぎ、一座の頭となった世阿弥は、父が遺した猿楽能に独自の工夫を加えていく。観阿弥の流れを汲みつつ、後に観世流(かんぜりゅう)と呼ばれる一派を形成していくのであった。この世阿弥だが、幼名は鬼夜叉(おいやしゃ)、そして二条良基から藤若(ふじわか)の名を賜わる。父主宰の一座に幼いころから出演していた。おりしも、1374年の12歳の時、京都の今熊野で催した猿楽能に出演するのであったが、その席にて、観世父子が能を演じ、時の将軍足利義満に認められる。そういうことから、世阿弥は観阿弥一座の後継ぎとして見なされる。
 さて、1378年頃には、世阿弥は結崎座の名を観世座に変更する。彼は、何よりもまず理論家なのであった。平たくいうと、この芸の中に、貴族社会で需要のあった、「幽玄」とも「幽幻」ともいよれるような美意識を取り入れていく。やがては、「夢幻能」という能の形式と内容を目指すのであった。
 そして迎えた1400年、世阿弥は自らの能の理論を記した書物「風姿花伝」(ふうしかでん)を執筆する。1432年、息子の元雅が伊勢の津で40歳で急死する。足利義満の子供である足利義教が6代将軍となっての1434年(72歳)には、世阿弥は佐渡が島に流刑されるなど、厳しい境遇に立たされる。さらに1442年、世阿弥は許されて京都に帰ることができた。ようやく京都へ戻る事が許されたことによる安堵感からであろうか。一説では幼少期に世話になっていた大和国の補巖寺(ふがんじ)に帰依したと言われるのだが。
 ここで話を「風姿花伝」に戻したい。そもそも、この書は、世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品だという。能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学などを含む。以下に、幾つかの節を紹介してみよう。
 「およそ、家を守り、芸を重んずるによつて、亡父の申し置きし事どもを、心底にさしはさみて、大概を録する所、世のそしりを忘れて、道のすたれん事を思ふによりて、まつたく他人の才学に及ぼさんとにはあらず。ただ子孫の庭訓を残すのみなり。」(「風姿花伝」第三、「問答条々」)
 「この頃は、また、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ、声変わりぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、かかり失せて、過ぎし頃の、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りに、手立はたと変わりぬれば、気を失ふ。」 (「風姿花伝」第一、「」年来稽古条々」)
 「指をさして人に笑はるるとも、それをばかへりみず、(中略) 心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし。」(「風姿花伝」第一、「年来稽古条々」)
 「このころ、一期の芸能の定まる初めなり。さるほどに、稽古の境なり。声もすでになほり、体も定まる時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身なりなり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向かふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそ目にも、すは、上手で来たりとて、人も目に立つるなり。もと名人などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、いったん勝つときは、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。
 これ、返す返す主のため仇なり。これも、まことの花にはあらず。年の盛りと、見る人の、いったんの心の珍しき花なり。まことの目利きは見分くべし。このころの花こそ、初心と申すところなるを、きはめたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これはいったん珍らしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをもすぐにしさだめ、名を得たらん人にことをこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。」(「風姿花伝」第二十四、五)
 これらに窺えるように、自らの芸が大成してからの世阿弥の頭脳の中では、人を感動させる力を「花」と表現していた。この書の中の「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」という一節からは、彼の長年培ってきた日本文化の「幽玄」(ゆうげん)なる精神性のみならず、生真面目(きまじめ)そして真っ直ぐな人柄までもが伝わってくるではないか。
 ところが、当時のこの書物は、世阿弥の一族のみが触れる事が許されており、それからも長い間、一般の人は風姿花伝というものがある事すら知られていなかったといわれる。それが長い夢から目覚めたのか、20世紀初頭、吉田東伍(よしだとうご)という歴史学者がこの書物の存在を学会で発表したのを機に、多くの人の目に留まるようになっている、誠に数奇な書なのである。
 さて、能楽のもう一つの要素であるとされる狂言については、能との関係性を中心に、どのように理解したらよいだろうか。これについては、現代の狂言師・野村萬氏の説明が入門には手頃であると考えられるので、以下に紹介しておく。
 「最近は、狂言は独立して別のパフォーマンスとして演じられたりしますが、本来は能と対義語のような関係、つまり「陰と陽」「明と暗」あるいは「悲劇と喜劇」と言えるでしょう。両者が引っ張り合って「一つの世界」をつくっている。ですから、能だけやってもだめだし、狂言だけでも本来ではないと思います。
 学者や評論家の先生は、能は仮面劇で歌舞伎、狂言は台詞劇といった説明をされ、全く別の芸能のような印象をもってしまいますが、もともと同根です。
 能の舞台は、音楽的な要素・舞踊的な要素・演劇的な要素、この三つの要素で成り立っています。能が音楽的で抽象的に舞い、狂言が演劇的で具体的に台詞を言う、これは両者の性質や成立の違いというよりも、能舞台の演技の幅の表れだと考えていただいた方が良いでしょう。分業になっていますが、能舞台を支える根幹の技術は同じです。」(野村萬「その先にあるものー芸と"遊・離"するー」:「EUNARASIAーQ(ゆーろ・ならじあ・きゅー)」2017年9月号)

(続く)

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♦️709『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1990年7~12月)

2018-04-04 20:58:01 | Weblog

709『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1990年7~12月)
 
 1990年7月、第28回党大会が開催され、政治局の権限は最高会議に委譲されることが承認され、その約1ヶ月後の1991年8月に政治局は解散する。この第28回党大会までにソ連共産党は、既に一枚岩の集団ではなく、幾つもの党内派閥が形成され、事実上裂するにいたっていた。
 そんな中、党内のリベラル派は「民主政綱」派に結集し、「正統的マルクス主義」を標榜する人々は「マルクス主義政綱」派がへと動き、さらにそれまで独自組織を持たなかったロシア共和国で、ロシア共産党なるものが結成されていく。このロシア共産党については、当時ソ連共産党員のおよそ58%が所属したと言われているところだ。
 1990年11月、こうした状況の中でゴルバチョフはソ連邦を構成する諸民族共和国に主権を与えて新しい連邦を構成する考えを実行に移そうと動く。
 新しい国名を「主権ソビエト共和国連邦」とする、体制の選択は共和国の決定に委ねる・連邦会議を政策決定機関とするなどを内容とする「新連邦条約」の最終案をソ連最高会議に提出するに至る。この提案について、ソ連最高会議は同年12月にこの新連邦条約案を承認しました。しかし、バルト海に面する3つの共和国は12月中にこの新連邦条約への不参加を表明するのであった。
 そして迎えた1990年11月、連邦体制の崩壊を恐れたゴルバチョフ政権は、連邦と共和国との新たな関係の樹立を模索することになっていた。また、この時期から保守派の巻き返しが目立つようになる。政治は、まさに流動的な状況を呈し始めていたといっても、過言ではない。1990年12月になると、改革派のシェワルナゼ外相が「独裁が到来する」と警告して辞任を余儀なくされる事態となる。

(続く)

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♦️708『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1990年1~6月)

2018-04-04 20:57:00 | Weblog

708『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1990年1~6月)

 明けての1990年3月、連邦レベルの所有権法が採択される。これによって、市民所有、集団所有及び国家所有が規定される。このうち集団所有については、「長期貸与制企業、労働集団市余裕企業、協同組合、株式組織その他の経済団体、組合・協会・社会組織など法人格をもつ団体」が盛り込まれる。
 この間紛糾を来していた市場化移行計画では、アバルキン提案を手直しした「経済健全化プログラム」、ついでそれを1990年3月に修正した政府案「調整市場経済への移行構想」(ルイシコフ首相)の展開があった。後者のルイシコフが採用した案では、価格の市場決定はさらに後退する。   
 1990年初め、アルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との間で民族運動が武力紛争にまで発展する。この二つの共和国には治安維持のための軍隊が投入される。その年の5月を迎える頃には、ソ連邦からの独立を宣言したリトアニア共和国とエストニア共和国(3月)、ラトビア共和国(5月)ばかりでなく、連邦からの独立運動はモルダビア共和国、カフカーズのグルジア共和国、アゼルバイジャン共和国、アルメニア共和国、さらにウクライナ共和国にも見られるようになっていく。
 1990年3月末、ゴルバチョフ大統領はリトアニア共和国に対して独立宣言の撤回を要求し、独立宣言を撤回しなければ経済制裁を行なうと警告し、4月には経済制裁に踏みきる。
 1990年4月、こうした動きに対してソ連最高会議は連邦離脱の手続きを明確にする連邦離脱法を採択する。それによると、共和国が連邦を離脱するためには住民の3分の2の賛成と連邦人民代議員大会の承認さらに5年の移行期間を必要とすることなどで、連邦からの離脱に歯止めをかけることをねらったものに他ならない。
 1990年5月、ロシア共和国最高会議代議員会が開催され、急進派の旗頭で元ソ連共産党政治局員候補のB・エリツィンがロシア共和国最高会議議長職(ロシア共和国元首)に選出される。同5月、政府提案(ルイシコフ報告)があり、その中で3つの段階を漸進的改革プランが提起される。
 その1は、市場経済のための法的枠組みの整備であり、その2は財政赤字削減、価格体系の変革、赤字企業の閉鎖、銀行・信用制度の確立、そして、その3として価格の市場決定、外国は競争の導入、ルーブルの部分的交換性の回復など、ということあった。
 まず価格の市場決定では、「調整的市場経済」への移行期の価格体系として、国家が定める固定価格、連邦や共和国政府が上限を定め、その範囲内で決定される調整価格、自由価格の3つが提案される。
 それらのうち、相対価格体系の改革と価格の市場決定が先送りされる。というのは物価上昇を招くという意味で、大衆と国営企業の反抗を招くとう政治的理由からであった。ルイシコフ首相のプランは1990年5月の消費財値上げ(パンは3倍も値上げ)演説の翌日から始まった買い占め、値上げ反対で棚上げとなった形であるる。 
 ところが、当時のモスクワ市民の反応、そして物価の動向は、例えば次のように伝えられている。
 「ルイシコフが最高ソビエトに価格引き上げ予測を含めた相対的に穏健な最終青写真を提示すると、すぐに買いだめ騒ぎが始まった。モスクワの店には何年かぶりかでスパゲッティ、米、砂糖、その他供給品が不足した訳ではない。製品を購入するために長い列ができた。」(パーヴェル・パラシチェンコ著・濱田徹訳「ソ連邦の崩壊ー旧ソ連主任通訳官の回顧」三一書房、1999)
 1990年6月末、ソ連ロシア共和国最高会議議長に当選していたエリツィンが共和国内での影響力を拡大する中、ソ連ロシア共和国人民代議員大会が開かれ、ロシア共和国の主権は連邦の主権に優位するとの主権宣言(国家主権宣言)を採択し、連邦政府と対決姿勢を強めていく。1990年6月~7月、ロシア共和国に続いて、ウズベク共和国、モルダヴィア共和国、ウクライナ共和国までもが相次いで、「主権宣言」を行う。

(続く)

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♦️707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1988)

2018-04-04 20:55:29 | Weblog

707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(1988)

 1988年6月28日から7月1日にかけて、第19回ソ連共産党協議会が開催された。討論の実況が初めてテレビで全国に公開された。
 この会議でソ連共産党の書記長であったゴルバチョフは、政治改革の必要を訴える。具体的には、ソ連の最高の権力機関としての人民代議員大会の創設を提案する。これまでの最高会議に変えて自由選挙地方選局、民族地方選挙区、社会団体からそれぞれ750名ずつ選挙された2250名からなる人民代議員大会と、そこから選ばれる400~450名の最高会議議員でもって新たな連邦議会を構成するというもの。しかも、議員の3分の2の選出に当たっては、それまでのような共産党の推薦した唯一の候補者の信任投票によるのみでなく、複数候補の立候補によるロシア革命以来の自由選挙で選ばれるという仕組みに取って代える。
 また、人民代議員大会の中から選出される最高会議(最高会議議長職の創設を含む)については、共産党政治局の決定を破棄する権限をもつことが決定される。
 1988年10月、ソ連邦最高会議幹部会議長(元首)を兼任したゴルバチョフは、同年11月に憲法改正案と新選挙法案を提出する。国権の最高機関としての連邦人民代議員大会と強力な権限をもつ連邦最高会議議長の創設、それに常設の立法機関としての連邦最高会議の創設などが盛り込まれた。同年12月、憲法改正案と新選挙法案はソ連邦最高会議で採択される。
 1988年11月、ソ連の一共和国であるエストニア共和国最高会議は、主権宣言を採択するとともに、共和国憲法を改定し、ソ連邦の法令は享保国最高会議の批准によってはじめて効力を持つことに変えた。これを受けたソ連邦最高会議幹部会は、エストニア共和国のこの決定はソ連邦憲法に違反し無効であると宣言する。翌年になると、エストニアの近くの共和国であるラトヴィア共和国とリトアニア共和国もエストニア共和国と同様な決定を行うに至る。

(続く)

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♦️353『自然と人間の歴史・世界篇』革命期の中国文学(魯迅など)

2018-04-04 09:46:59 | Weblog

353『自然と人間の歴史・世界篇』革命期の中国文学(魯迅など)

 魯迅(ろじん、本名は周樹人、1881~1936)は、現在の中国の浙江省紹興府城内、東昌坊口に生まれる。家は代々学者の家筋であったのだが、少年期に父が病死して、家も傾く。それでも21歳の1902年、日本へ留学し医学を志す。官費留学というから、優秀だったらしい。
 東京の語学学校を卒業後、続いて仙台医学専門学校に入学したものの、中国での民主化運動が気になって、中途退学、今度は東京にもどって文学への道をさぐる。それで何かを得、中国へ戻ってからは教師生活をおくりながら、1918年には「狂人日記」、 翌年には「孔乙己(コンイーチー)」、さらに1921年からは「阿Q正伝」、「故郷」などを発表していく。
 それらの中で、「阿Q正伝」の持つ意味とはなにであろうか。その「序言」においては、この書は単なる小説ではなく、どちらかというと、その体裁を借りつつ当時の中国社会に対しもの申すといった姿勢が窺える。
 当時の中国民衆の気持ちというと、大した文言が唱えられていた訳ではあるまい。巷にあったのは、政治的には大方屈従の日々ではなかったのか。これが田舎(いなか)となると、西洋列強及び日本による圧力がひしひしと感じられていたであろう都市部と大いに異なっていたのは、想像に難くない。多分に閉鎖的、旧態以前の封建制にどっぷりつかった社会のイメージではないか。そういえば、阿Qは、その中国のとある農村で日雇い労働者をしていた、つまり日銭を稼いでなんとか命を繋いでいたことになっている。
 そんなあらすじに従えば、彼はよくいえば楽天的、そうでなければ「国民性の悪い品性を一身に」集めた存在だといえるかもしれない。楽天的といわれる訳は、例えば何かの間違いをしでかしたり、あれこれ辛いことがあっても、「大したことではない」とか「なんとかなるさ」の類で気に留めないことからきていた。
 もう一つの評価であるところの「悪い品性」をどうみるかは、難しい。阿Qのような境遇にあっても、すっくと立って生きている人も相当な割合でいたであろう。また、卑屈なともいえる当時の国民性が当時のものであったのかというと、それは魯迅のような知識人からみた場合、いわばつくりあげたところのある民衆像であって、全体ではないとの見方もあったことだろう。
 しかし、そうでないとも、言い切れない。強いて言うと中国社会の秀でた部分、頭脳鋭敏な知識人たる魯迅が、警世の意味でこの阿Qという、特異な人間をつくったのではないか。ともあれ、人のいい、あるいはおろかな阿Qは最後は掠奪(りゃくだつ)の罪を着せられて、銃殺刑に処せられてしまう。それを観ていた民衆は、せせら笑うか、どうせ自分のことではない、さらには自業自得だとか、様々な流言が飛びかったことが想像されるのである。
 こうした意味あいのことをより広くいうと、「阿Q正伝」・「狂人日記」他12篇(岩波文庫)冒頭にある「自序」において、魯迅と友人の金心異とのやりとりが載っていて、それにはこうある。
 「(魯迅)「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息死してしまうだろう。だが昏睡状態で死へ移行するのだから、死の悲哀は感じないんだ。いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒と思わんかね。」
(金心異)「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか。」」
 ここまでくると、もはや当事者たちにしかわからない、「いったいいつまで我慢すればこの世の中を変えることができるのか」との思いは、当時の中国知識人たちの野葛藤であったに違いないようだ。
 もう一つ紹介しよう。小説「故郷」においての魯迅は、一転、高級官僚の「僕」が主人公となっている。圧巻は、彼に少年だった頃の友人、閏土(ルントウ)のことを思う、そのしめくくり部分には、こうある。
 「僕は希望について考えたとき、突然恐ろしくなった。閏土が香炉と燭台を望んだとき、僕が密かに苦笑さえしたのは、彼はいつも偶像を崇拝していて、それを片時も忘れないと思ったからだ。いま僕の考えている希望も、僕の手製の偶像なのではあるまいか。ただ彼の願いは身近で、僕の願いは遥か遠いのだ。
 ぼんやりとしている僕の目の前では、一面に海辺の新緑の砂地が広がり、頭上の深い藍色の大空には金色の満月がかかっている。僕は考えた。思うに希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。」(藤井省三訳「故郷/阿Q正伝」光文社古典新訳文庫)
 なお、竹内好訳の「故郷」(筑摩書房版教科書)も有名であり、同じ訳文でありながら、どこか違う、こう締めくくられているところだ。
 「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」

(続く)

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