♦️143『自然と人間の歴史・世界篇』マグナカルタ(制定まで)

2018-04-21 22:11:30 | Weblog

143『自然と人間の歴史・世界篇』マグナカルタ(制定まで)

 ここに「マグナカルタ」(憲章)とは、「極めて重要で根本的な決まり事」を文書化したものであり、1215年6月15日、イングランド王のジョンが、ロンドン西方のラニーミードで貴族と会見し、彼らの要求を受け入れ、大憲章として発布した。納得づくでというよりも、渋々のことであったらしい。
 その基本的性格からいうと、国王が封建貴族たちの諸要求を承認した契約文書だといえる。言い換えると、個人の権利・自由を宣言するものではなかった。
 その体裁は、前文と63条からなる。元々は個々の主題があれこれにはまっており、後代の編集により箇条書きにまとめられた。その内容としては、教会の自由、封建的負担の制限、国王役人の職権乱用防止、ロンドンその他の都市の特権、通商の自由、それに度量衡の統一などに広範囲に及ぶ。
 その中から、特徴的なものを幾つか並べてみよう。
 その前文
 「神の恩寵により、イングランドの国王、アイルランドの王、ノルマンディおよびアキテーヌの公、アンジューの伯であるジョンは、諸々の大司教、司教、僧院長、伯、バロン、判官(中略)およびすべての代官ならびに忠誠な人民にあいさつを送る。
 神の御旨を拝察し、朕および朕のすべての先祖ならびに子孫の霊魂の救済のため、神の栄光と神聖なる教会の頌栄のため、かつまた朕の国の改革のために、尊敬すべき諸師父すなわち(中略)およびその他の朕の中正なる人民の忠言を入れて。」(田中英夫訳「人権宣言集」岩波文庫)
 その第14条には、こうある。
 「(軍役免除金、援助金の賦課に関して)王国の一般評議会を開催するためには、朕は、大僧正、僧正、僧院長、伯、および権勢のあるバロン達には、朕の書状に捺印して召集されるように手配する。(中略)召集は一定の日に、すなわち少なくとも40日の期間をおき、一定の場所において行われるものとする。」(同)
 これは、国王の徴税権を制限し、王権を制限、封建貴族の特権を再確認したものだ。
 その第39条には、こうある。
 「自由人は、その同輩の合法的裁判によるか、または国法によるのでなければ、逮捕、監禁、差押え、法外放置、もしくは追放をうけまたはその他の方法によって侵害されることはない。また朕は彼の上に赴かず、また何人をも彼の上に遣わさない。」(第39条)
 また、これと日ものとしての第40条には、こうある。
 「何人に対しても正義と司法を売らず、また拒否または遅延せしめない。」(第40条)
 こちらの文面だが、一説には、「これまでジョン王が方の形式を踏むことなく敵と考える人に対して自ら兵を率いて攻撃するかあるいは兵を派することが慣わしであたものを禁止したもの」とされている(森岡敬一郎「西洋史特殊Ⅲー近代イギリス国家の成立(中世から近世へ)」慶應義塾大学通信教育教材、1978)。
 その第52条には、こうある。
 「同輩の合法的裁判なしに朕によって土地もしくは城の占有を奪われ、または免許もしくは権利を剥奪された者があれば、朕は直ちにこれをその者に返還する。そしてこれに関して争いが発生した場合には、後記の平和の保証の項に記されている25人のバロンの裁判によって、それについての裁定がなされるものとする。(以下、略)」
 さらに、その第61条には、極めつけでもあるかのように、こう述べる。
 「さらに、朕は、神のため、また朕の王国を改革し、朕と朕のバロンとの間に発生した紛争をよりよく鎮圧するために、(中略)朕は以下に記す保証を彼らに対してなし、彼らに対して許容する。すなわち、バロンたちは、その欲するところにしたがい、平和と、朕がバロンたちに許容し(中略)確認した諸自由を、その全力をあげて遵守し、保持し、遵守せしめる義務を負うべき25人のバロンを選出するものとし、もし、朕(中略)が、何らかの点において何人かに対して不法を犯し、または平和の条項もしくは保証のうちのある条項を蹂躙し、上記25人のバロン中の四人のバロンにその不法が示された場合には、この四人のバロンが、朕(中略)のもとに来て朕にその違反を挙示し、その違反が遅滞なく改められることを要求するものとする。
 そして、朕(中略)に、違反が示された時からかぞえて40日の期間内に、朕が違反を(中略)改めなかった場合には、上記四人のバロンは25人のバロンの残りの者にその事件を回付し、この25人のバロンは、全国の人々とともに、あらゆる可能な手段によって、すなわち、城、土地、財産の差押え、その他可能な手段によって、かれらの〔適当と〕判断する通りに改められるまで、朕に苛尺と強圧とを加うべきものとする。ただし、朕、朕の妃、及び朕の子の身体は〔これらの強圧の手段の対象から〕のぞかれる。そして違反が改められた際には、彼らは朕と従前どおりの関係になるものとする。(中略)
 さらに、(中略)ある事項について意見が一致しなかった場合、または、かれらの中の何人かが(中略)出席できない場合には、出席したものの多数が定めまたは命じたことは、25人全部がこの点について意見が一致したのと同様に、有効かつ確定的なものとされる。」
 これらのうち後段の「そして、朕(中略)に、違反が示された時からかぞえて40日の期間内に、朕が違反を(中略)改めなかった場合には、上記四人のバロンは25人のバロンの残りの者にその事件を回付し、この25人のバロンは、全国の人々とともに、あらゆる可能な手段によって、すなわち、城、土地、財産の差押え、その他可能な手段によって、かれらの〔適当と〕判断する通りに改められるまで、朕に苛尺と強圧とを加うべきものとする」という下りこそは、古来絶えざる論争がなされているところだ。
 一説には、これを国民に武力による抵抗を認めたことにもなろう。また別の一説によると、 国王の有する城、土地その他の財産を差し押さえる権利を認めたのだともいう。これらを評して、「いずれにせよ、この条項は、友好に働くことは不可能であったであろうが、国王・臣民の関係にも、封建主従関係の双務性原理を適用している点で注目に値する」(森岡敬一郎「西洋史特殊Ⅲー近代イギリス国家の成立(中世から近世へ)」慶應義塾大学通信教育教材、1978)というのだ。

(続く)

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♦️248『自然と人間の歴史・世界篇』チャーチスト運動

2018-04-21 09:19:36 | Weblog

248『自然と人間の歴史・世界篇』チャーチスト運動

 チャーチスト運動というのは、1830年代から40年代にかけてのイギリスにおいて、成年男子に限った普通選挙権・無記名投票・議員財産資格の廃止・議員の有給制(歳費性)・毎年選挙・平等選挙区制の6か条の人民憲章を掲げて、労働者階級らが中心となって進めた運動をいう。
 顧みれば、1720年には「主従法」がつくられ、それには団結禁止条項が設けられていた。1795年には、50人以上の集会の禁止令が出される。1799年には、労働者の団結そのもの、労働組合を禁じるものとしての「結社禁止法」(Combination Act)が制定された。1801年には、人身保護法も戦争中は停止されることとされる。
 それにもかかわらず、イギリスでは労働者・人民の民主主義運動が組織されていく。1811年から1816年ごろにかけて、労働者による工業用機械の打壊し(ラダイト)運動が行われた。この運動は、ノッティンガムの編み物工たちによって始められ、のちヨークシャーの羊毛工業労働者、ランカシャーの綿工業労働者などに波及していく。
 こうした労働者運動の展開に対し、政府は厳しい姿勢をとりつづける中にも、ある程度の妥協を余儀なくされていく。労働者の掲げる多面的な要求のうち、1819年に工場法の制定(女性と児童労働の制限)が実現される。そして1824年には、労働者弾圧法の名をほしいままにした結社禁止法が、ようやく廃止される。
 1830年代になると、労働者の闘いは組織的になりつつあった。当面の経済的要求のみならず、資本主義社会という世の中を、その仕組みを変えようとする運動の広がりが増していく。前述の6項目を掲げるにいたる。
 労働者たちはまず、選挙権を獲得して自分たちの意見を政治に反映したいと考えていた。しかし、1832年の第1回選挙法改正では労働者に参政権が与えられなかった。1833年には、工場法に監督官制度が盛り込まれた。
 1838年2月には、ロンドン労働者協会の主催下にチャーチスト大会が開催された。同年5月にかれらの要求を前述の6か条にまとめたチャーチスト憲章を採択し、議会に対し請願することを決定した。
 政府は、こうした運動の高揚に危機感を覚えたのであろうか、かかる運動を血眼になって取り締まる。1839年には約1000人の民衆が武装してニューポート市内を行進して入獄者の釈放を要求したという。これに対し、軍隊と警察とが発砲し、10名のチャーティストが死亡する。政府により武力反乱と見なされたこの事件以後、イギリスではチャーティストの大量逮捕・裁判が続くのであった。
 顧みるに、この運動には、およそ次の3つの流れがあった。第一のグループは、ロンドンの労働者のグループがつくった「ロンドン労働者協会」であって、ウィリアム・ラヴェットを指導者とする。熟練労働者が中心である。二つ目は、1837年に復活した「バーミンガム政治同盟」で、銀行家ながら急進的政治家でもあったトーマス・アトウッドを指導者とする。中産階級の利益を代表する。そして三つ目は、北部工業地帯の労働者グループで、下層階級の利益を代弁する。その指導者のオコンナーは要求実現のためには武力革命をも視野に入れることをも唱えていた。
 その後のチャーチスト運動だが、1848年からは内部対立や弾圧によって、しだいに衰えていく。1850年代には消滅に向かうのであった。
 この運動の総括については、この間に色々と書かれ、現在も議論が尽きないでいる。その一つには、こうある。
 「1839、42、48年の3回にわたって、チャーチストたちは厖大(ぼうだい)な請願書を議会に提出し、示威運動を展開したが、組織が不完全であったうえに、指導者間の分裂、運動を指導する共通の思想の欠如などのために、なんら目的を達することが出来なかった。しかし労働者階級に自力による闘争の可能性を教え、有産階級を反省させた点に彼等の運動の意義があった。なお「人民憲章」の諸要求は、議会の毎年改選を除いて、すべて19世紀後半から1918年までの間に実現された。」(米田治、東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶應義塾大学通信教育教材、1988)

(続く)

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