ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

戦後民主主義の人間群像

2007年10月27日 | 教育・文化

 

協栄ジム、亀田家処分を発表…興毅は「反則指示」認め謝罪(読売新聞) - goo ニュース


戦後民主主義の人間群像


少し前に、亀田一家兄弟がボクシング界に華々しくデビューしたとき、この一家と兄弟に戦後民主主義の新しい日本人像の典型を見るような気がして、この兄弟や一家についての感想を書いたことがある。

戦後日本人の、その品格のなさ、モラルの退廃をこの兄弟に象徴的に見るような気がして、新しい戦後日本人像として、こうした人格が生まれてくる日本の「文化的」背景について考察してみようと思ったからである。

悲しきチャンピオン―――亀田興毅選手一家に見る日本人像

一年ほど前に、数学者、藤原正彦氏の新書『国家の品格』が大ベストセラーになったけれど、その背景には、日本社会から事実として品格が失われつつあるという本能的な自覚が日本国民の間にも感じられているからだろうと思う。

心配していたとおり、今回の件でも亀田興毅君は一連の汚い反則行為について謝罪はしたけれども、人間は仮面を脱ぐように、そんなにはすぐに人格を取り替えられるものではない。

この一人の亀田興毅君の背後には、何十万人の小興毅君、何百万人の小大毅君の存在があるはずである。そして、こうした一人一人の日本人の累積が日本人像となって映る。彼を戦後民主主義の日本人像の典型と見るのは、偏見にすぎるだろうか。

そこには幸福な人間関係に必要な文化的な潤いや、芸術的な香気とか、高い道徳性とかは薬にしたくともない気がする。かって諸外国から礼賛されもした伝統的な礼儀正しさや慎ましやかさといった面影はない。

二十一世紀の日本人は、こうして無数の小亀田興毅君のような人格を自分たちの身近な隣人として、付き合いながら生きてゆかなければならないのである。果たしてそんな社会が暖かく幸福感にひたれるものになるだろうか。

 

 



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沖縄県民の民主主義

2007年10月21日 | 教育・文化

沖縄県民の民主主義

先の「集団自決」に関する教科書書き換え問題で、沖縄県の一部の人たちは、多数を動員することによって、政治家や歴史家へ圧力をかけられると考えているようだ。教科書の内容の書き換えを、自分たちの要求する方向に変えるために、明らかに多数意見であることを誇示することによって政治的な圧力をかけようとしていた。

確かに民主主義は多数決によって意志決定が行われるけれども、それは必ずしも、多数決とされる判断が「真理」であるからではない。多数意見であるということは、ただ単に比較的に多数の人々がそのように考えているにすぎないことを示しているだけである。多数の判断が必ずしも正しいとは限らない。

実際にも科学の歴史は、大多数の信じている「常識」や偏見や迷信を、少数者が覆してきた歴史であると言ってよい。また、たとえばキリストの処刑に関しても、その糾弾と告訴がユダヤ人大衆の嫉妬に駆られてのものであることを知っていたピラトは、何とかイエスの命を救おうとしたけれども、結局、「多数の声」に押されて、イエスの処刑を認めざるを得なかったのである。

何が「真理」であるかといった問題について、神ならぬ人間の争いにおいては、最終的な判断基準を得られないことが多い。しかし、実際の生活においては何らかの意志決定を行わなければならないから、とりあえず便宜上、多数者の意見をもって問題を処理してゆくことを原則としているにすぎないのである。

しかし、後になってから、多数者の意見がまちがっていて、少数者の意見が真理であることがわかるということも事実としてある。そうした歴史的な経験から、現代の民主主義では、多数者の意見も誤りうるという謙虚な姿勢をとり、少数意見も尊重して、きちんとそれを記録して保存しておくのである。

先の「教科書書き換え反対」の沖縄県民集会では、ひたすら自己の見解が真実であることを前提にして、多数者の圧力によって強権的に書き換え変更を要求しているという印象を受けた。

たしかに、多数の意見、世論、一般常識というものは尊重されるべきであることはいうまでもない。多数者の見解が確率的にも正しい場合であることが多いだろう。また、何でもかでも少数者や特異な個人の「恣意的な」見解をいつでも尊重しなければならないということでももちろんない。

しかし、だからといって、多数の見解であるということだけをもって、「真理」であることを断定させようという姿勢は、論理的には、多数者の少数者に対する狂暴でもっとも悲惨な行為に行き着く。そこでは真理の秩序は失われて、理性の圏外にある恣意的な大衆の、時には暴徒と化して盲目的で狂信的な破壊活動に行き着く。

それは、フランス革命の末期や、スターリニズムの強制収容所、日本赤軍のリンチ事件、ポルポト・カンボジアでの大量殺戮、中国の文化革命における紅衛兵の青年たちの暴走などの実際の歴史が証明している。

民主主義の精神を、単に多数意志の結集による統治というルソー流の民主主義においてとらえるだけでは、それは往々にして悟性的で破滅的な結果を招くことになる。それは、人類から理性を失わせ、その獣的本能を解放させるだけである。

まして、経験も浅く、多面的な見方も十分にできない高校生男女を使って、かって毛沢東が「紅衛兵」を扇動し、教唆したようなやり方は、理性的な民主主義からはほど遠い。

沖縄県民の民主主義だけではなく、日本国民の民主主義は、ただ多数支配であることを目的とする小沢一郎民主党党首流の民主主義であってはならず、真理を目的とする品位のある理性的な民主主義であるべきである。そして、ただ単に多数であることだけをたのみとするルソー流の民主主義の限界を克服して行かなければならないのである。

 旧日本国軍の総括

 

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沖縄問題と新日本国軍

2007年10月16日 | 教育・文化

沖縄問題と新日本国軍

先の記事で、pfaelzerweinさんより、以下のようなコメントをいただきました。昨日はブログを覗かなかったせいもあり、返事が遅れました。また、雑用で十分な時間がとれなかったこともあり、正確な必要十分な応答になっているかわかりません。ただそれでも、各論点ごとについて、とりあえずのご返事だけでもしておきたいと思います。
さらに論点の深まることを期待します。

①pfaelzerweinさんのコメント

沖縄問題を通した見解 (pfaelzerwein)
 
2007-10-14 17:07:43
 
A
ここに示されているのは、沖縄問題を通した、戦後処理への見解と、その国家観と思われます。

幾つかの疑問点を議論のために手短に挙げておきます。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」のが事実でないとするのがこの問題の端緒ですね。つまり、本土民と琉球民の視点の差です。つまり、同じような差を朝鮮人や台湾人に認めるかどうかの疑問ともなります。そのような視点の根拠は何処にあるのか。その国家とは、民族的なものなのか、歴史的なものなのか、それとも?
B
「完全に民主化された新日本国軍」は、民主的な日本国とその機構に準拠しなければいけませんが、その民主性は、「名誉の死」に殉じた人や当時の軍人や旧日本軍の名誉を一切認めない事ではないのか?つまり、歴史的な敗北を帰した責任こそ問われこそすれ、イスラムテロリストと変わらない国家主義に身を投じたもの達を賞賛するのは誤りではないか?そこでは犠牲となった幾多の個人を指すのではなく、その各々の集団を指す場合、虫けらのように殺害された敗者達を尊敬するべきだろうか?

C
もし、当時の国家主義を根拠にそれを認めるというならば、それを根拠にした朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題をどのように捉えるのか?

D
「日本社会党の非武装中立政策を現実的ではない」のと同じように「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」もただの夢想ではないのか?

E
そもそも、「高貴な犠牲的愛国心」こそ国家主義の賜物で、こうした国家主義を肯定する姿勢は民主主義に相反しないのか?歴史を顧みて尊重する姿勢を採るならば、戦後民主主義体制こそそれまでの歴史を総括したものであり、それを蔑ろにして歴史を顧みる価値はないのではないか?

F
最後にこの問題への私見を加えますと、沖縄は現在も米軍基地問題を主要な政治主題としているようですが、それならばその彼らの理想は、日本国軍の駐留なのか、台湾軍なのか、中共軍なのか?今でも、戦略的に見て米軍が最も信用出来る好意的なパートナーであるように思うのですが、どうでしょう。


②私の考え
A
この問題については、歴史をどう見るかですが、「現代人の視点、価値観をもって、過去の歴史を断罪するようなことがあってはならない」ということが眼目です。

大日本帝国憲法下の日本国統治についても、民主主義の観点、立憲君主制の観点からいっても、その立憲性の民主主義的性格にきわめて大きな欠陥があったのは事実であろうと思います。それゆえにこそ、軍部の独走を抑止することも、開戦を回避することもできませんでした。

「旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていた」
というのは事実としてそうであったということであって、それについての価値判断は別です。

旧日本国軍隊は、天皇制全体主義の体制で「一心同体」であったので、その性格は、民主主義の観点からは、軍隊の統帥権が首相に属していないという限界がありました。

大日本帝国憲法下の行政を、戦後の日本国民が民主主義の概念から批判的に総括していないこと、その能力のないことが問題であると思います。それが、沖縄問題や台湾問題、朝鮮問題に今なお決着をつけられず、清算できないでいることの根本原因であると思います。

なお、理論的には現代国家は民族や歴史をアウフヘーベンしているものです。


B

もっとも端的な例は、互いに正々堂々と戦い抜いた敵に対する敬意と本質的には同じです。
信じる対象や価値観は異なってはいても、それに忠実に誠実に純粋に献身した者に対する敬意です。

C
当時の国家主義を根拠に認めるのではありません。「朝鮮人や台湾人の軍事恩給や慰安婦を含む国家奉仕の保障問題」を含めて、戦前の国家体制を清算できないでいるのは、現代日本国民と国家の民主主義的な未成熟にこそ問題があると考えています。


D
「民主的に成熟した市民統制のとれた民主的な国軍」は夢想であるとは思いません。夢想に終わるか現実になるかは、教育と指導者と国民全体としての資質の問題であると思います。

E
戦後民主主義の欠陥の核心は、この戦後民主主義には「国家意識」が完全に欠落していることです。戦後民主主義のこの特異性のゆえに、それが自明に思われています。ここに戦後の日本国民の倫理的な退廃の根源があります。

F

現代日本国の最大の悲惨は、pfaelzerweinさんがおっしゃられているように、沖縄県民にとって日本国軍の駐留ではなく「米軍が最も信用出来る好意的なパートナーである」と見られているこの日本の現状です。


 

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せいろん談話室への投稿

2007年07月27日 | 教育・文化

せいろん談話室に、記事№0071、№0072を投稿したところ、記事№0093で花うさぎさんから、ご意見をいただきました。それに対する私の返事を、この日記ブログにも記録しておきます。

花うさぎさんへ

№00093花うさぎさん、ご意見ありがとうございました。


それとも貴方は「政治と金」は野党は関係ない、政権与党にだけ追求されるべき問題だとお考えですか?。

もちろん、政権与党のみが「政治とカネ」の問題で批判されるべきであるとは思いません。
日本人の政治文化については、投稿記事№0092にもKOOLKATさんが次のように述べられています。


かつて、ジョイントベンチャーの経営をしておりました頃、色々な人々が近ずいてきました。その頃、或る国政選挙運動が行われる中で、意見を言ってくる中の一人が、”誰それ候補の所は一級酒じゃが、誰それ候補は二級酒を出しよった”、と、低級な事を言ったときの事を、奇妙に今でも想い出す事です。

これが日本の政治の現実ではありませんか。こんな国民がいるから、政治に黒いお金がかかり、政治家が「お金に苦労」するのです。与野党ともに日本の政治家たちを「政治とカネ」の問題から解放してやるためには、日本国民の政治文化から変えてゆかなければなりません。

そして、現在のわが国の政党政治が、利権政治に堕していること、利権をめぐる談合政治に堕してしまっていることこそが問題なのです。土木建設業者や官僚たちが自分たちの利権を確保するために談合するのと同じです。それと同じことが政治の場面で行われているに過ぎません。そこに利権はあっても確固とした理念や哲学はありません。

この現状を打破するためには、権力のうまみを吸っている政治家たちを一度野に下して断ち切り、禁断症状を起こさせて、日本の政党政治を理念追求型に変革してゆく必要があります。

そのためには、現在の自由民主党を破壊して、結党以前の自由党と民主党(この民主党は現在の小沢民主党とはまったく関係がありません)とに分割分離させて、それぞれ理念として自由主義を重点に追求する政治家は自由党へ、民主主義を重点に追及する政治家は民主党に結集させて、それぞれの立場から、国民のために理念実現を競わせ、また、両者の間で政権交代を逐次行わせるのです。現在の与野党ともどもの「金権政治」を「理念追求型政党政治」に変革して行かなければなりません。そのための安倍政権批判であって、小沢民主党を支持するがゆえのものではありません。

安倍内閣や小沢民主党についての私の意見は次に書いてあります。

『日本国の洗濯と人を見る眼』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070703
『政治家と国民の茶番劇』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070613
『マスコミの堕落と退廃』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070608
『醜い日本人』
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070507

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マスコミの堕落と退廃

2007年06月08日 | 教育・文化

李登輝氏 7日午前、靖国神社を訪問 - 国際

李登輝氏、靖国参拝/中国、一段と反発も

靖国:李登輝前総統が参拝強行へ=朝日新聞

「あるある問題」再発なら電波停止も 総務省、関テレにきょう「警告」

台湾の李登輝前総統、靖国神社を参拝

マスコミの堕落と退廃

靖国神社を毛嫌いするマスコミは、今回の李登輝氏前台湾総統の靖国神社参拝を格好のネタに再三再四、中国共産党政府のちょうちん持ちの役割を果たし、日本国を彼の国に売り渡す仕事をしている。

李登輝氏自身は、「62年前に別れた兄に頭を下げる個人的行為だ」と説明し、神社訪問直前に、記者団にも「政治的、歴史的(行為)と考えないでほしい」と伝えている。

それにもかかわらず、靖国神社を問題にしたいマスコミは、今回の李登輝前総統の個人的な靖国神社参拝を思惑ありげに取り上げ、李登輝氏自身の自由な宗教的行為を擁護するのでもなく、靖国神社をあえて日中が対立する歴史問題の象徴として取り上げ、今回も「中国が一段と反発を強めるのは必至だ」などと書いて、懲りることもなくいかにも中国の靖国批判のちょうちん持ちの役割を果たしている。こうした記者の頭の中には、個人の信教の自由とその価値に思い及ぶ余地もなく、それが祖国を売ることになることについての想像力のかけらもないのだろう。

今日では靖国神社は一宗教法人に過ぎず、そこに参拝するかどうかは、一個人の自由な宗教行為に属する問題となっている。安部晋三首相も記者団に首相官邸で、すでに「私人として来日したと認識している。私人として当然、信仰の自由がある。日本は自由な国だから、その中でご本人が判断をされると思う」と述べ、来日が日中関係に与える影響についても「私はないと思う」と常識的な判断を語っている。

テレビや新聞などのマスコミの腐敗と堕落は今に始まったことではない。特にテレビ業界の腐敗ははなはだしい。先にも関西テレビの「あるある問題」の番組捏造問題で、総務省から電波停止の警告処分を受けたのも当然である。彼らには、民主主義の名を借りて、「言論の自由」などを主張する資格はないと思う。彼らこそ「自由」を名目にして、自由の価値を毀損する最大の張本人だからである。テレビ業界がそのスポンサーをも含めて、もっと自浄努力を働かせる能力がないのなら、規制を受けても仕方がない。

公共からその貴重な放映権を委ねられておりながら、エロとグロの堕落番組を放映して、国民の意識を汚染するとすれば、公共電波を独占的に使用する資格はない。総務省から警告を受けるのも当然である。果たして彼らに「言論の自由」の自由を主張する資格があるだろうか。

NHKをはじめとする今日のテレビ局に、その番組制作能力が著しく劣化してきていることは明らかである。おそらく、それは銀行や社会保険庁などの官公庁の腐敗に共通するように、電波の独占にあぐらをかいて、消費者や視聴者の要求に真摯に応じてこなかったという共通の地盤があると思う。自局の番組制作能力を向上させることを忘れ、韓流・華流などと称して、視聴者に高い受信料を払わせながら、製作する苦労も払うことなく、外国番組を高額の放映料を支払って放送する。日本のテレビ局はいつ外国テレビ局の代理店になったのか。

テレビ業界をはじめとするマスコミの改革は、緊急の重要な課題である。それは単なる道徳論では済まされない。組織や機構、制度の根本的な改革に俟たなければならない。特権的な独占的放映権に、あるいは、現行電波法にあぐらをかいている。銀行や官公庁や農業、土木建設業界のように、独占禁止法によってマスコミ業界にも競争原理が働くようにしないかぎり、意義のある面白い番組に対する視聴者の要求にもこたえきれず、腐敗と堕落も防ぎ得ないというのは、人間の悲しい性なのかも知れない。

   改革のテーマ──テレビ局の改革(1)

   小泉首相の靖国神社参拝

   

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日本の内なる北朝鮮

2007年01月12日 | 教育・文化

かって在日朝鮮人が歓喜雀躍して帰国運動に従事し、祖国再建に希望をもって北朝鮮に夢を抱いて渡っていった頃にくらべれば、もはや北朝鮮の評判は地に落ちてしまったといえる。マスコミなどから折に触れて伝えられる北朝鮮についての情報が、飢餓や脱国、拉致などについてのニュースばかりであるから無理もない。

わが国で北朝鮮への帰国運動が行なわれていた当時にあっては、社会主義体制と資本主義体制が世界を二分するいわゆる冷戦構造がまだ揺るぎもせず、まして崩壊するなどとは誰にも予想できなかった時代である。日本の国内の政治も、当時の世界のイデオロギーを反映して、社会党と自民党が国会を二分するいわゆる55年政治体制のもとにあった。

朝日新聞や岩波を中心とした「知識人」たちに、中国の文化革命や北朝鮮の千里馬運動を理想社会実現の試みとして共感し支持する者も少なくなかった。社会主義や共産主義に対する夢がまだ見られていた時代だった。学校教育の中でも、とくに日教組に属する教員のなかには共産主義者が少なくなかったし、彼らも自民党の教育行政と鋭く対立、拮抗しながら、一方で戦後の日本の教育のあり方を規定してきた。


戦後の日本は、朝鮮やドイツのように同じ民族がイデオロギーによって社会主義国家と自由主義国家に分断されることは免れたものの、同じ国内に二つの分裂国家を抱えていたようなものである。社会党や共産党と自民党が敵対的なイデオロギーで対立しながら、戦後政治を行なってきた。

公式には現在の北朝鮮は社会主義国家ということにはなっているけれども、かっての毛沢東中国と同様、その実質は封建的儒教国家とでも呼ばれるべきものだろう。そこでは国民大衆がまだ自由の意識を形成しておらず、自由な社会の上に形成された国家ではないからである。国民大衆が自由に解放されていない社会では、国家のその理論的な骨組みを社会主義に求めようが民主主義に求めようが、その実体は不自由な社会であることには変わりはないのである。


その点では、中国も朝鮮も日本もその民族的な資質という点では、類縁関係にある。いずれも儒教的な文化圏に属し、家父長的な封建体制の下に権威主義的な文化に長い間民衆が生活してきたという点では同じである。中国においては毛沢東の個人崇拝は今ではそれほど露骨ではなくなっているが、その芽はなくなってはいない。北朝鮮における個人崇拝は相変わらずである。これらの諸民族は自由についての経験も浅く、全体主義に馴染みやすい傾向をもっているといえる。

この傾向は、何も朝鮮や中国だけの話しではない。戦後は曲がりなりにも、日本では自由と民主主義を国是として運営されてきたので、それほど露骨な全体主義的な動向は見られないが、国民や民族の資質として、全体主義に馴染みやすい体質をもっていることは明らかである。


多くの自称共産主義者や社会主義者、平和主義者たちは自分たちの思想を狂信して、他者がそれ以外の信条をもつことを否定する傾向があるのもそうである。たとえば、今一部に存在する「日の丸」や「君が代」の否定論者たちは、その狂信的な、不自由な意識からすれば、彼らがひとたび強制的な権力を手にすると、現在の石原東京都知事以上の思想統制を実行するのではないだろうか。社会主義者や共産主義者が実際に国家権力を手にした諸国での歴史的な経験も、そうした事実を教えているのではないだろうか。自由を尊重する精神に欠けるという点では、右翼も左翼も同じ民族の体質として変わりはないのである。


戦後の日本国民は一応は建前としては、自由と民主主義国家に生活しているとはいえ、自由と民主主義の教育が十分に実行されてきたとはいえないし、その自由の意識が国民に十全に確立しているとも思えない。戦後の日本の教育が共産主義者の日教組と皇国史観の自民党文教族によって担われてきたために、学校教育での自由と民主主義の教育がはなはだ不十分であるという事実は自覚されていない。


民族の体質としては、全体主義の色彩を強固に残している。それは、教育や人間関係、宗教などの文化に刻印されていて、条件さえそろえば、かっての中国の文化大革命の熱狂が、再現されるようなものである。民族の体質としての全体主義的な傾向を完全に克服し切れているものではないと思う。


戦後の学校教育が自由と民主主義教育において十分にその責任を果たして来なかったことは、いわゆる有名大学の卒業生たちがオーム真理教などに対して何らの免疫力も持ちえていなかったことからも明らかである。その傾向は現在も改善されてはいない。

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(4)

2006年10月30日 | 教育・文化

さらに学校をはじめとする教育環境の改善をもっと大胆に推し進めることである。日本サッカー協会の川渕三郎チアマンがかねてより主張されているように、学校校地の芝生化を進めることである。校内環境の緑地化をもっと図るべきだ。とくに小学校や中学校では、森の中に学校があるような雰囲気を作るべきだ。教室内の机上学習が終われば、いつでも身近な「森の中」で遊べるような環境を用意すべきである。これは社会全体の緑地化とも関連する。

さらに、現在の教室環境の、机や椅子のプレハブ状態を改善してゆくことである。廃材の木材などを利用して、もっと、どっしりとした落ちついた「気品」を感じさせる家具備品を使用することである。鉄パイプと合板の安っぽい机や椅子の使用は止めるべきだ。教室内の雰囲気に芸術や文化の香りがなく、クラス学級内の環境はどこかの工場の倉庫のような無機質な雰囲気で教育が行われている。政治家や文部科学省の役人の教育や文化芸術についての感覚と見識が問われている。


大胆で根本的な意識改革と、革命的な発想が指導者、教育関係者に求められる。

2006年10月21日 

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(3)

2006年10月26日 | 教育・文化

そうしたクラスの組織面での研究とともに、民主主義の精神的な、倫理的な教育訓練をも研究改善し実施してゆく必要がある。

たとえば、「民主主義手帳」(名前は何でもよいし、冊子の形式でもよい)を作成して配布し、生徒たち一人一人に持たせることである。その中に、学校生活のあり方や民主主義の倫理観などの基本的な事項を記載し、ホームルームの時間などに、常時活用できるようにしてゆくのである。戦前は「教育勅語」などがその機能を果たしていたが、今日に至るまで、それに代わる確固とした倫理基準が学校現場で生徒たちに教えられていないことが問題なのである。

「教育勅語」に代わるべき倫理観とは何か。それは「民主主義の倫理観」である。そうした問題意識が、首相や文部(科学)大臣、教育委員長などに必要ではないだろうか。

それとも「民主主義の倫理」など聞いたこともないか。
個人の尊厳とは何か、基本的人権とは何か。なぜそれは尊重されなければならないか、具体的な学校生活の状況のなかで教えてゆかなければならない。現状ははなはだ不十分だから、問題を防ぎきれない。オーム真理教事件などは、現在の日本の学校教育の失敗の象徴ではなかったか。

その他にも、法律や規則は遵守すべきこと、多数決には従うこと、しかし、少数意見も尊重されて、意見を無理に変える必要はないことなど、そうした民主主義の精神と倫理についての基本的な概念を生徒たちに教えて行くことである。そうして学級や学校を民主主義教育の現場にしてゆく必要がある。

また、具体的な教科の内容や教材などについての学習上の問題の把握と改善や、体育祭・文化祭などのクラス運営の問題などについても、子供たち自身の民主主義的なクラス運営によって、できうる限り自主的に解決してゆくための教育訓練も必要である。クラス会議の議長や書記の選出や議事録の取り方、文書管理の仕方など、会議の運営の仕方を教え訓練して、クラス運営の技術などについて基本的な事項を説明し、それを常に生徒と教師に携帯させて活用して、教育訓練してゆくことである。

そうしたクラス運営のための基本的な知識や技術も「民主主義手帳」に記録して、日常的に民主主義の精神倫理とその活用の技術をクラスの現場で教えてゆく必要がある。

ホームルームなどのクラス全体会議で、クラス内で起きている問題を、もし北海道の滝川中や福岡の筑前市の三輪中の生徒たちに起きているような「いじめ」があれば、それをクラスの問題として、生徒自身に自発的、自主的に発言させ、常にどんな問題であってもクラス内の出来事は隠すことなく問題提起でき「情報公開」できる雰囲気をつくり、同時に、クラス全体の力でクラス内の問題を自主的に解決してゆく訓練に日常的に取り組んでゆくことだ。

そうした教育訓練の必要を学校教育関係者、文部科学省職員、さらには安部首相や伊吹文部科学省大臣などが切実な問題意識としてもち、そうした民主主義教育の研究こそを実行して、その恩恵を生徒たちにもたらすようにすべきである。

安部内閣は教育改革を重要な課題として取り上げ、教育改革諮問会議をも立ち上げている。しかし、率直な感想としては、おそらくこれらの陣容では改革の実は挙がらず、今度もせいぜいお茶を濁すだけに終わるのではないだろうか。

2006年10月20日 

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(2)

2006年10月20日 | 教育・文化

 

子供のいじめ行動は、また大人社会の模倣行動でもある。どこかの学校で教諭が校長の「パワハラ」で自殺したことも報じられていたが、大人社会の「いじめ」文化が子供社会に反映しているにすぎない。

こうした「いじめ」を学校内から発生することを防ぐ根本は、まず第一に共同体としての性格を学校に復活させることである。仲間意識や友情が育まれやすいように環境を整えてゆく必要がある。そのためには現在の学校教育における立身出世主義の、受験本位の、単なる就職のためだけの教育観を改めてゆく必要がある。もちろん、競争は健全な人間社会に不可欠であるが、ライバルと友情が両立する文化社会でなければならない。

他者のために、社会や国家のために尽くす、そうした人間を誉めたたえるような人間観や価値観や文化の浸透した社会を形成して行く必要がある。戦前のいびつな滅私奉公に国民が懲りたからかもしれない。それにしても今日の国民大衆の国家意識や郷土意識のなさも問題ではないだろうか。

国家や民族意識の欠如した「ホリエモン氏」のような弱肉強食のグローバル競争社会の覇者、「勝ち組」を、大人社会が持て囃しているから、子供たちもそれを見習っているにすぎない。そこには遅れた敗者や仲間に対する思いやりの感情のかけらもない。どこかの国のボクシングのチャンピオンのように、ただ暴力的に強いだけでは何の価値もないことを思い知らしめるような文化の環境が、そもそも大人社会にない。

たしかに、学校は市民社会と家族の中間に位置する共同社会である。
学校は小さな一つの市民社会であるが、同時に、家庭の性格も持たせる必要がある。そうして学校という集団に共同体としての性格を復活させ、今子供たちに欠けている「横の道徳」を回復し、生徒同士のモラルを確立してゆく必要がある。

そのためにまず、一学級の単位定員数を二十四名にすることである。そうして生徒一人一人の言動について、クラス担任の目が、つぶさに行き届くようにすることである。現在の学級定員では、教師による生徒の心理と身体の状況把握は、物理的にも困難であると思われる。

そして、クラス内に三(ないし五)人を一単位とした「班」を作る。その目的は、子供たちが学校生活や学級生活を営んでゆくうえで出会う、さまざまな問題についての相互扶助のための最小単位を作ることにある。学校生活の中では、子供たちの間に自然発生的に友だちやグループが形成されるが、それを自然発生的に任せるのではなく、三(ないし五)人一組の「班」を人為的に組織的にクラス内で作り、それを、生徒のさまざまな行動単位として、またクラスの運営単位としても明確に位置づける。

戦前日本の町内会に隣組とか五人組とかいった近隣同士の相互扶助を目的とした最小単位の組織が作られたが、それと同じように相互扶助単位を学級内に「班」として作ってゆく。それは、名簿順にか席次順にかで作っていってよい。いずれにせよ、そうした「班」単位の生徒関係を作ることによって、生徒一人一人の友情関係を深めるきっかけを作るとともに、子供たちが「いじめ」のような内面的な心理的な問題や健康上や身体的な悩みに出会ったときに、子供たちの間に助け手が身近にいるようにするためである。

生徒が孤立して周囲の友人から何の支援も受けられないという、殺伐としたクラスの人間関係を「組織的」に防いでゆくことが目的である。またそれは、学習活動の遅れや欠点、弱点を補う、生徒同士の相互援助の単位でもある。このように子供たちの学級構成を、友情や相互扶助が成立しやすいように、まず生徒たちの人間関係を組織面から改善してゆく。

 

 
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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(1)

2006年10月19日 | 教育・文化

北海道と福岡のいじめ自殺 文科省、現地調査へ(朝日新聞) - goo ニュース

相変わらず、学校でのいじめは深刻で改善されていないようだ。以前にもこうした問題で論じたことがある。高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)さらにいくつかの提言を加えたい。

いじめはどこの国にでもある。それは人間の本性の一面でもあるから、根絶することはむずかしい。だからこそ、教育関係者はいじめの存在を前提として日常的に対策を講じてゆく必要がある。いじめの報告がなかったという表面的なことで満足するのでなく、むしろ、報告のないことを不自然に思うくらいの感覚を持つ必要があるだろう。

北海道で小学校六年生の女の子がいじめを理由に自殺をしたのは一年も前だそうである。福岡県筑前町の三輪中でおきた中学二年の男子生徒の場合には、遺書も残されていたそうである。本来、楽園であるはずの学園生活が、周囲の生徒の「いじめ」によって地獄と化している。

「いじめ」を根絶することは、人間社会から殺人事件をなくすようにむずかしいかもしれない。それが人間の悲しい性(さが)なのだろう。しかし、たとえ現実がどうであれ、「いじめ」は根絶すべく対策を講じてゆく必要がある。「いじめ」問題もその方法次第によっては、対策のあり方次第では相当の成果をあげることができる。学校生活で、いじめによる自殺など、万が一にも起させてはならない。

「いじめ」は犯罪であり、場合には、それは殺人行為である。そのことを、生徒自身のみならず、社会も教育関係者も保護者も持つ必要がある。今回の自殺をした北海道や福岡の生徒の保護者の皆さんは、みずから受けた被害を殺人事件として警察に告発するべきである。
調査によって犯罪が明らかになれば、加害者は少年院なり刑務所で刑に服すことになる。「いじめ」は刑事犯罪であるという認識が、生徒らにも教育関係者にも弱いのではないか。

サラ金の過酷な取立てでよって、債務者を鉄道自殺に追い込んだ業者が逮捕されたように、生徒を自殺に追い込んだことに客観的で明白な事実や証拠があるならば、そうした行為を行った生徒や教員は逮捕して正当な処罰を受けさせる必要がある。そうして、「いじめ」がれっきとした刑事犯罪であることを、社会にも教育関係者にも、そして、なにより生徒たち自身にはっきりと自覚させる必要がある。

そして、結果として、事実として「いじめ」による生徒の自殺を防ぎえていないということは、学校教育関係者がその職業的な義務と責任を全く果たしていないということである。学校内やクラスで起きた事件については、学校関係者は全責任を負わなければならない。それが職業的な管理者の責任であり、義務である。学校の教職員は、子供たちの人格と人命を保護し育成するという重大な責務をになっている。学校関係者がその義務を果たせていない以上は、司直の手によって法的に問題が解決されるよう対処する必要がある。


また、学校内に存在するさまざまな「いじめ」の現象のほかに、「大人社会」の中にも発生するさまざまな「いじめ」の現象傾向についても、首相や文部科学省の大臣らをはじめ、現在の日本の社会的な指導者の地位にある者の問題認識が弱いのではないか。

たとえば先般、靖国神社参拝問題で意見が異なることを理由に、元自民党幹事長の加藤紘一氏の自宅に放火した男がいた。その際にも、公然とマスコミに向かって、時の小泉首相がそうした暴力行為を非難したということも聞いていない。

今問題になっている北朝鮮の核実験にからんでも、どこかの朝鮮学校の竹やぶが放火されたり、朝鮮学校に通学する子供たちに「嫌がらせ」があるようだ。これらも明らかにいじめにほかならない。それなのに安部首相をはじめ文部科学大臣が、こうした国民大衆の下劣な傾向を、マスコミなどで公然と非難したということも聞いていない。

そうした「いじめ」にからむ品位のない国民の犯罪行為に対しては、一国の指導者である首相や文部科学大臣が、率先してマスコミなどに向かって非難し、批判するべきなのである。そうした習慣や文化を指導者が伝統的に作ってゆく必要がある。これまでの日本の指導者の誰が、そうしたことを十分に行ってきただろう。

首相をはじめとする国家社会の指導者たち自身の、「個人の尊厳」についての自覚と感度、「民主主義の倫理観」が問われている。現実がこの程度のものであるから、国民全体の水準も推して計り知るべしではないか。

 

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