ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

安部新政権についての印象

2006年10月02日 | 教育・文化

安部新政権が誕生して5日になる。安部首相の所信表明演説は私も聞いた。

安部首相は「美しい国」を目指すという。それにしても、なぜ「正義の国」を目指すと言わないのだろう。「美しい国」は、たしかに耳ざわりがよく日本国民の甘えにぴったりの、甘ったるいスローガンではある。砂糖の上に蜂蜜をたらすような気がする。それは腐りやすくある。中国やロシアの前に、こんな砂糖菓子のようなスローガンの所信で、国家国民は大丈夫なのかと不安になる。

それに対し、「正義の国」には、ほとんどの国民が後ろめたい。だが、国民は塩で清められてはじめて腐ることなく、国に活力も出る。「美しい国」ではなく、なぜ、「正義の国」のスローガンが指導者から出て来ないか。「正義の国」こそが美しいはずなのに。それは、現代日本の癒しがたい深刻な国民的な病理に由来するのではないかと思う。国民の中からも、誰もそれを主張するものがいない。

安部晋三氏の近著『美しい国、日本』はまだ読んではいない。先般ベストセラーになった藤原正彦氏の『国家の品格』などの影響はあるのだろう。

新首相の所信表明にはカタカナ語が多く、日本語の感度の鈍い人だと思った。それは、安部晋三首相本人のみならず、広報ブレーンなどを担当する世耕弘成氏など政治家ら、新世代の日本人が受けた戦後教育の帰結なのだろう。戦後世代に国家の品格について問う感性と能力があるか。小泉首相の恩師、故福田赳夫前首相などには、かって故安岡正篤氏のような陽明学者など優れた漢学者のブレーンがいて、演説の日本語の品格に心を配ったはずである。日本語の格調を自覚する伝統は風前のともし火である。

指導者が国家の品格と能力を規定する。小泉前首相の場合もそうだが、政治哲学の底が浅いという印象を受ける。聖書の知識をその真の深みにおいて了解することなく、日本国を品格ある国家にして国際政治の舞台に果たして乗り出せるのか、という感想を持つ。これは日本の政治家全体について感じることである。

 

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宗教と国家と自由

2006年08月23日 | 教育・文化
現行の日本国憲法は確かに信仰の自由、宗教の自由、良心の自由などは最高の価値として認めている。だからこそ、私たちは小泉首相の靖国神社参拝を否定しなかったのである。しかし、問題はそこにとどまるものではない。さらに、その信仰そのものの、その宗教の、その良心の「真理性」が問われなければならないだろう。少なくとも、私たちが宗教的に、文化的に高級な自由な人間であろうとする限り、さらにその信仰が「真理」であるかが問われなければならないのである。

「鰯の頭も信心から」という言葉があるが、その宗教が真理であるか、その「良心」の内容が真理であるか、が問われなければならないだろう。オーム真理教や靖国神社や創価学会その他の既成、新興の宗教が宗教として真理であるかが問われなければならない。神戸児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇少年ですら「バモイドオキ神」を信仰していたではないのか。単に信じればいいという問題ではない。信じる対象が、真理であるのか、それとも「鰯の頭」その他なのかどうかが問題なのである。

真理以外の対象を崇拝することを偶像崇拝という。そして、宗教の自由とは、いかなる「神」をも信じる自由ではなく、真理を信じる自由のことである。憲法で保証されている言論の自由、宗教と思想信条の自由、良心の自由とは、この真理を信じることによってもたらされる自由のことである。

単に形式における自由のみではなく、その内容の自由が、その真理性が問われる必要がある。小泉純一郎氏をはじめ現代日本人にはこの問題意識がほとんどないのではないか。歌手プレスリーに舞い上がる小泉氏その他の政治家を思想家としてはほとんど評価しないのもそのためでる。そこにあるのは盲目的な「信仰」であり、その神が「鰯の頭」か「バモイドオキ神」か、はたまた「松本智津夫」か「毛沢東」か、その神々の内容こそが問われなければならないという自覚と反省はない。

神について劣悪な観念しかもてない民族は悲惨である。旧約聖書でモーゼやエリヤが異教徒の神々を攻撃したのは、それらの神々が人身御供を要求するような劣悪な神だったからである。モーゼは警告して言った。「あなたの主なる神に対しては、彼ら(異教徒)と同じやり方で崇拝してはならない。彼らは主が憎まれ、嫌われるあらゆることを神々に行ったからである。彼らは自分たちの娘や息子さえ祭壇の火に生け贄として捧げたからである。」(申命記第十二章第三十一節)

哲学者ヘーゲルも言っている。「神について劣悪な概念をもつ民族は、また、劣悪な国家、劣悪な政治、劣悪な法律しかもてない」と。また、「人間が絶対的に自由であることを知らない諸民族は、その憲法上でも、またその宗教上でも陰鬱な生活をしている」と。

キツネやヘビを崇拝する宗教をいまだ脱しきれていない日本国民には、この哲学者ヘーゲル氏の言葉に耳を傾けて、その真偽を検証する価値と必要があるのではないだろうか。

 

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悲しきチャンピオン―――亀田興毅選手一家に見る日本人像

2006年08月10日 | 教育・文化
 


人は独りでは生きられない。だから、人間は社会的な動物であるともいわれる。そのために人間の生活には、社会生活を効率的に快適に営んでゆくために、人と人とのかかわり方を律する何らかのルールや規律が絶対的に必要とされる。歴史のある国や社会であるならば、それが文化や伝統として長い歴史的な時間のなかに、人々の行動様式にまで形成されているはずである。そうしたルールや規律が、言葉(日本語)であり、また、いわゆる道徳とか倫理とか呼ばれるものなのだと思う。

言葉と同じように、その文化や伝統における倫理や道徳が消滅していることをまぎれもなく示したのが、先のライト・フライ級世界タイトルマッチ戦に見られた亀田興毅選手とその兄弟一家ではなかっただろうか。

全国ネットのテレビ局TBSはドラマ仕立てで、それを全国に放映してくれた。このドラマのテーマは亀田選手で、ストーリィは、勝利者チャンピオンの「個性」である。チャンピオンでありさえすれば、いちいち他人の眼や思惑など知ったことか、「カラスの勝手でしょ」ということのようだ。個性や自由という言葉も実に軽くなったものだ。

確かに、どんなに振舞おうが、それは亀田選手の自由で、それは彼の個性かもしれない。まして、彼はテレビ局やジムの周囲の大人たちからの奨励もあり承認も得ているのだから。このようにして現在および将来の日本人は、自分たちの身近にさらに多くの亀田選手のような個性を、これからも隣人としてもち、付き合ってゆくことになる。

とは言うものの、亀田選手の周囲に集うスポーツ関係者たちには想像力や論理的に推測する能力に欠けているのではないだろうか。もしそうなら、とうてい真の強者にはなれないのではないかという印象をもった。本当の強者となるには高度の想像力や論理的な能力が必要であることは、先のドイツ・ワールドカップ戦でのジーコ・ジャパンチームの惨めな敗北で分析したところである。(「日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの」)おなじスポーツであるプロボクシングにおいても論理的には同じことが(さらにいえば、国家や国民についても)言えると思う。

残念ながら、この程度の知性では、歴史に残るような本当に強いチャンピオンとして名を残せないのではないか。流れる川の浅瀬のあぶくのように、はかなく消えて行くのみであるのかもしれない。あるいは、ひょっとして、面白くはかなきチャンピオンの象徴として名を残すのかもしれない。だから何となく悲しいのである。そして、彼はまた日本人のチャンピオンでもある。

このチャンピオン戦の放映で、ダウンを奪われた相手のベネズエラのランダエタ選手から亀田選手が判定勝を勝ち取ったシーンでは、瞬間最高視聴率は、52.9%にも上ったそうである。だから、興行的には大成功だったといえるかもしれない。

しかし、物事は短期的にばかりではなく、長期的にも見なければならない。テレビ視聴者の93%が、亀田選手の敗北を確信する中で、ベネズエラのランダエタ選手にではなく、2対1で亀田選手に勝利を宣告したジャッジの判定が、ボクシングというスポーツの品位と信用をなくして、やがては、このスポーツの長期の衰退を招くことにはならないかと思う。杞憂であればいいのだが。


それにしても、テレビ局というメディアは、こうしたスポーツイベントに、どこまでかかわることができるのだろうか。私のような門外漢の素人にはよく分からない。しかし、亀田兄弟選手のリング場の内外での派手なパフォーマンスに、マスコミ関係者が全く無関係であるようにも思えない。


チャンピオン戦前夜の選手の体重計量記者会見で見られたのは、亀田興毅選手がチキンの腿肉をしゃぶり、ランダエタ選手の顔のフライパンをへし曲げるというパフォーマンスだった。そこにあるのは、ファン心理をあおって視聴率を稼ぎ出そうという魂胆をさらけ出した周囲のマスコミ、ボクシング関係者その他のマモニズム、黄金崇拝者たちの姿ではないだろうか。まあ堅いことは言わず、面白ければよいとするか。


いずれにせよ、こうして彼らによって作り出された虚像の新チャンピオンは、やがて、その実力を天下の衆人の眼の前にあっけなくさらすことになるだろう。実力をもって勝ち取るのではないとすれば、チャンピオンベルトを果たして何時まで腰に巻いていられるだろうか。それとも亀田興毅選手はウルトラマンのように変身できるのか。

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阪大生の尊属殺人事件

2006年07月08日 | 教育・文化

また、痛ましく悲しい事件が豊中でおきた。留年中の阪大生がパチンコばかりしていることを母親に注意されて腹を立てて犯行に及んだという。先月にも奈良の田原町で高校一年生が自宅に放火して、医師である義理の母親と弟妹が亡くなるという事件があったばかりである。一昨年には、東京の板橋区で、高校一年生が両親を殺害しようとして、ガスで部屋を爆破させるという事件があった。今年の三月には、中学生が自宅に放火して、幼い妹が焼死するということがあった。


前途有望であるはずの青少年が引き起こすこうした一連の犯行を見ると、何か日本国崩壊の前兆をみるような気もする。深刻な危機感をもたざるを得ない。

もしこれらの犯罪が、三十歳以上も過ぎた青年男女によって引き起こされたものであるならば、その責任は100パーセント彼ら本人に問われるべきであろう。しかし、それが高校生や大学生、さらに中学生という青少年によって引き起こされた犯罪となると、大人が、両親が、社会が、国家国民が、その責任の連帯の一端を担わなければならないのではないかという思いが強い。

こうした青少年犯罪に、今日の日本社会の教育や文化上の深刻な問題をその根底に見るのが自然ではないだろうか。青少年の犯罪の低年齢化が進むほど、その責任を大人たちが自覚しなければならないと思う。こうした悲惨な事件が巻き起こす損失は計り知れず大きい。家族や周囲に与える打撃の大きさのみならず、前途有望な青少年の未来をも閉ざすという点で、絶望的なほど問題は深刻である。

このような事件は日本社会からは決して起きさせないという、教育的にも文化的にも質の高い国家と国民にしてゆく決意がまず必要だと思う。


これらの悲惨な事件から伝えられることは、今日の青少年の多くが、自分たちの抱える問題や悩みを、合理的に解決する方法を持ち得ていないらしいということだ。

もちろん何の問題も、トラブルもない個人や、家族、社会、企業というものは考えられない。それぞれ、多かれ少なかれ問題は抱えている。ただ、たえず起きてくるそうした問題に対して、その解決のための手段や方法が、いつでもつねに提供され利用されるような成熟した社会になりえているかが問題である。この点で現実が教えるのは、犯罪行為として暴発するまでは、解決しうる環境を青少年たちが持ちえていないということであり、大人が彼らに用意し提供できていないという事実である。

それは日本の教育文化の問題として根源的に解決されるべきであり、犯罪者個人の心理的な問題に矮小化されるべき問題でないように思う。
そうした意味で、首相、文部科学大臣、教育行政官僚、教育委員会、学校関係者がそうした観点からその責任を切実に自覚してしかるべき問題であるように思える。

以前、現在の文部科学大臣の資質を問題にしたことがあるが(「政治家の品格」)、果たして彼らにそうした問題意識を期待できるだろうか。明治の森有礼文部大臣などに比較しても、平成の政治家の資質はどうか。

それはとにかく、今日の青少年は自分たちの青年期特有の悩みや矛盾を、有意義に合理的に解決する方法を教えられず、また、その支援も十分に得られているようには見えない。家庭教育と同様、学校教育の責任は重い。クラスの友人や学校の教師は何の相談にも成らなかったのだろうか。そこに見えるのは、学校や学級の共同体としての性格の喪失である。

国家と同じように、家族や学校などのそうした小さな共同体が健全に機能してゆくためには、そこに何らかの倫理規範と、問題解決の方法が本来伝統的にも形成されているべきものである。それが、太平洋戦争の敗戦を契機として失われたままで、新しく確立されてもいない。そこに問題の根源があるのではないだろうか。その意味では、こうした犯罪を犯さざるを得なかった青少年もまた被害者である。

これらの青少年たちの両親の世代も、ある意味では同じである。人格の尊重と自由ということを知らず、自分たちの価値観を無反省に子供たちに押し付けて、その結果、自分の人格も無視されて、この上なく手ひどいしっぺい返しを子供たちから受ける。日本人の意識は本当には自由に解放されてはいないのである。

問題の核心は、家庭や学校、さらには国家社会における新しい倫理規範の確立と、様々な人間関係において生じる諸問題の法律的な処理以前の問題解決のための文化、その精神と方法の―――それは「正しい民主主義」以外にはありえないと思うが―――確立である。

参照 「学校教育に民主主義を

 

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民主主義の概念(1) 多数決原理

2006年07月06日 | 教育・文化

民主主義の概念(1) 多数決原理

哲学の祖で人類の永遠の教師プラトンは、「民主政治」に深い恨みを抱いていた。なぜなら、プラトンの愛するかけがえのない師ソクラテスの命を奪ったのは、古代ギリシャの民主政治だったからである。民主政治も腐敗と堕落の運命から免れなかった。プラトンの哲学の営みが、師ソクラテスの無念の死の意味を考えることを深い動機としていることは疑いのないところである。

また、イエスが十字架の刑に処せられたときにも、時のローマ帝国のユダヤ総督ピラトは、イエスが捕えられたのは民衆の嫉妬と憎悪によるものであることを知っていた。だから、ピラト自身は祭りの日の特赦としてイエスを解放しようとしたのだが、結局は民衆の多数意見におされて、イエスではなく、暴動で殺人を犯したバラバという男を身代わりに釈放した。

これらの事実を見ても、民主主義をその単なる一つの原理である多数決原理に帰着させることがどれほどに危ういものであるかが分かる。二十世紀の人民民主主義政治下のスターリニズムや中国の文化革命もその新しい例示であるだろう。

この「民主政治」の愚かさから真理を救うために、プラトンが構想し、その帰結として見出したのは、真理を悟った哲人が民衆を指導するという「哲人政治」だった。だから、ある意味では、プラトンこそ全体主義思想家の祖ということもできる。しかし、プラトンの国家は自由を知らなかった。真理が国家の原理となるためには、法治主義に基づかなければならないという思想に達することもなかった。


戦後、日本国憲法が公布されて六十年。民主主義ははいうまでもなく日本国憲法の原理の一つである。しかし、現代日本の民主主義が多くの点でその概念を十全に実現したものではないことは明らかである。「戦後民主主義」の欠陥を指摘する学者や思想家も少なくない。

民主主義の根本的な欠陥をその多数決原理に見出すことは困難ではない。その理由は簡単である。多数決それ自体は、その判断や選択の内容の真理を保証するものではないからである。この原理が明らかにするのは、相対的に多数の意見に基づいて政治が運営されるという形式だけである。その政治的な選択が正しいか誤っているかという内容には関わらない。

専門的な問題に関しては、素人の意見をどれほど多数に集積しても、一人の専門家の見識に敵わないということもある。多数意見の方が実際に愚劣であるということも少なくない。むしろ、歴史を切り開いてきたのは人類の全体からいえば少数の個人であるとも言える。ここから、「民主主義」についての絶望と嫌悪が生まれることにもなる。

民主国家の国民多数が無知で無能力で無教養であるとき、その国家は「愚者の楽園」になり、イエスやソクラテスのような人格にとっては、地獄となる。「船頭多くして船山に登る」と言うことわざもあるし、「枯れ木の賑わい」ということわざもある。このとき民主主義はもっとも劣悪な政治システムになる。それは鎌倉時代の北条時宗の高貴な治世などには及びもつかない。

それでは、「愚かな」国民や大衆が政治の指導権を握る民主主義を排して、哲人による「専制政治」が目指されるべきか。


それにも関わらず、民主主義が多数決原理に基づくのはなぜか。それは民主主義が能力の平等という観点ではなく、人格の平等という価値観に基づいているからである。能力に関しては平等ということはありえないが、この多数決原理の根本には、人格としての平等という思想がある。それは本来は神の前の平等という宗教的な背景を母胎にしている。

この余りにも崇高な理想を実行しようとすれば、多数決原理をとらざるを得ないし、この原理を実行するとき、その現実はもっとも愚かで醜いものに転化し得る。「民主主義」を少なくとも狂信することのない者は、民主主義の持つこうした欠陥を直視する必要がある。そして、問題は民主主義のこの形式的な欠陥を克服する要件は何かということである。

それは、おそらく、民主主義の担い手である個別的な人格が、プラトンのいう哲人の真理を国家の中に原理的に実現してゆく必然性を備えることだろうと思う。その要件は何か、がさらに問われなければならない。


いずれにせよ、官僚(公務員)や政治家に対する国民による自由な統制の実現できていないことなどに、日本の民主主義の未完成を読み取れる。それが行政や経済運営で多くの無駄や不合理を許すことになっている。客観的にみて現在の日本国民の国民性が民主主義の理想に適っているとは思えない。

民主主義が本当に機能し、その美点を最大限に実現して、国民一人一人が幸福な生活を享受するためには、まだ改革されなければならない点が多い。


そのためには何よりもまず、民主主義の概念を明らかにし、それが国家の原理として実現されてゆくために必要な条件とは何か、それを検討して行くことが必要であると思う。こうしたブログで、多くの人がこのような問題について考え議論しあうことも民主主義の健全な発達につながるのではないかとも思う。

それにしても相変わらず今日の学校では、民主主義は、制度としても精神としても能力としても十分に教育され、訓練もされていないと思う。教師自身が教えられておらず、その問題意識もない。それが現代日本を「品格なき国家」にし、また現代日本の悲喜劇の一つの原因にもなっている。今日の学校教育の根本的な欠陥の一つだと思う。問題は切実で大きい。(「学校教育に民主主義を」)

いろいろ問題のあるインターネットも、使い方次第では、そうした学校教育の欠陥を補うものになることが出来るのではないだろうか。

 

 

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公共の図書館と言論の自由

2005年07月14日 | 教育・文化

つくる会などの著書、図書館で廃棄は違法…最高裁判決 (読売新聞) - goo ニュース

「新しい歴史教科書をつくる会」に属する西尾幹二氏や井沢元彦氏、岡崎久彦氏ら著者たちらの著書を廃棄した公共図書館の女性司書に対する損害賠償を求める裁判が、最高裁であった。ニュースによると、

>最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は14日、「公立図書館は住民のほか著者にとっても公的な場で、著者には思想や意見を伝えるという法的に保護される利益がある」との初判断を示した。「職員の独断的な評価や個人的な好みで著書を廃棄することは、著者の利益を不当に損なうものだ」として、つくる会側の主張を退けた二審・東京高裁判決を破棄。審理を同高裁に差し戻した。

 第一小法廷は、著者の思想の自由や表現の自由が憲法で保障された基本的人権であることを重視。「著者が意見などを伝える利益は、法的保護に値する人格的利益だ」と位置づけ、「図書の廃棄は著者の人格的利益を侵害し、違法」と結論づけた。(朝日新聞) 7月14日 (木) 11:48  <

と言うことである。

きわめて妥当な判決であると考える。このニュースによって、一審の東京地裁や二審の東京高裁の判決を知ったのだが、それにしても、高裁や地裁の裁判官たちの「言論と思想の自由」に対する感度の鈍さには驚かされる。

 

最高裁の横尾和子裁判官の上記の記事で明らかにした「公立図書館は住民のほか著者にとっても公的な場で、著者には思想や意見を伝えるという法的に保護される利益がある」「図書の廃棄は著者の人格的利益を侵害し、違法」という判断は、きわめて妥当なものであると考える。

 

言論の自由は、人間の自由についての権利義務の中で、最たるものであると言える。とくに、公共機関においては、人権を侵害する言論以外は、特定の思想信条にかかわりなく、出来うるかぎり公平に、その発表の機会と閲覧の機会が提供されるべきである。

 

公共図書館の職員個人の価値観、好き嫌い、思想信条によって、閲覧に供すべき図書を取捨選択することは、情報の閉鎖につながる。もっとも大切なことは、言論の自由であり、情報の開示である。真理というのは、あらゆる情報の中から浮かび上がってくるものであって、物事に対する判断材料になる知識や情報の量が多くなるほど、その判断の真理の度合いが高まる。

 

この船橋市立西図書館の女性司書は、自分の思想を相対化することが出来なかったのだろう。相対化することが出来ないということは、盲目的、狂信的に信奉することにつながる。

彼女は自分の思想に反対する思想を、その著作を単に廃棄するることによって批判したつもりになったのかも知れない。しかし、たとい自己の思想に敵対する思想があったとしても、真の批判はそんなことによって実行されるのではない。むしろ、それは自分の思想に対する自信のなさの現れである。

真の批判は、敵対する思想を、自己の思想の一部として消化し克服することによって実現するのである。これをアウフヘーベンと言う。

 

 

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議論の仕方

2005年07月09日 | 教育・文化

 

先日、私のブログで「文明の質」というテーマで、小論を書いて投稿したところ、匿名の方から

<単なる偏見に基づくもので、名誉棄損にあたるものであり、何億人の感情を裏切るものであるため、やめる事をお勧めします。>

というコメントをいただいた。私の文章の内容が、数億人のイスラム教徒の名誉を毀損しているというご批判である。

私としては、諸宗教の事実を客観的に考察して、事実と思ったことを書いただけなので意外だった。確かに、一般的にパレスチナ人の生活水準は、イスラエル人より低いというのは事実であるとしても、それを聞かされる方は、何らかの屈辱を感じるかも知れない。その点で配慮が足りなかったかも知れない。

なるほど、私はイスラム諸国に旅行したことも、身近にイスラム教徒の知人がいるわけでもない。不特定多数のマスコミなどからえられる情報から、蓋然的に推測される論理的事実を書いただけである。それらの情報から得られる情報を、私が「客観的な事実」であると判断して、そこから推論して、その因果関係を、論理を推測して考察しただけである。

改めて、宗教批判のデリケートな問題であることを実感した。とくに、昨日もロンドンでテロ行為があったばかりである。ただ、この文書の中に書いたように、個人的に「イスラム教」を決して毛嫌いしているわけでもない。チャドルやスカーフも嫌っているわけではない。むしろ優雅だと思っている。大多数のイスラム教徒が信仰しているようなイスラム教には好意をもっているとさえ思う。私はイスラム教に偏見を持っているとは思はない。ただ、昨日ロンドンで「イスラム教徒」の名前を騙ったテロ事件が起きた。私が反対しているのは、そうした「テロ事件を肯定するイスラム教」である。

宗教を社会的な事実として考察したとき、私の小論で述べたような事実は該当しているのではあるまいか。もちろん、この匿名の方のように、それが、事実でないと判断し、反論なさるのは、自由である。私もまた、自分の判断を絶対的な結論として圧しつける考えはまったくない。これからも、私は一つの見解として──もちろん、私はそれを正しいと信じている──表明して行くに過ぎない。

また、万が一、私の考えに同意してくれる人がいるかも知れない。しかし、他者の同意の有無、賛否が問題ではない。あくまで、書かれている内容がどこまで論理的に正確で、どのレベルで論証されているか、今後とも、ただそれだけを問題にして行きたいと思う。実際の政治の世界は、民主主義は多数決で決定されるが、科学は、論理であり、論証であり、必然性の説明だけが命だからである。

私の文章のどの点が無責任だというのか、具体的な文脈を指摘して批判していただければありがたかったと思う。それが無いために、私はまだ、自分の考えを訂正する必要を感じないでいる。

 

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『ディープ・インパクト』の衝撃──文明の質

2005年07月06日 | 教育・文化

『ディープ・インパクト』衝突の画像、ネット上で速報 (HOTWIRED) - goo ニュース

 

先日の七月四日、この日はアメリカの独立記念日だった。日本では郵政民営化関連法案が、特別委員会で可決された日でもある。この日に宇宙では、アメリカ航空宇宙局(NASA)宇宙探査機『ディープ・インパクト』から発射された370キログラムの衝撃弾がターゲットのテンペル第一彗星に激突した。その際の映像もさまざまなサイトで見られる。

それにしても残念ながら、こうした宇宙探検のできる国は、今のところアメリカのみである。このアメリカは今、イランやイラクの国民から憎まれているが、冷静に客観的に見ても、毎日自爆攻撃で他殺自殺に励んでいるイスラム教徒と比べても、アメリカのキリスト教文明は自由で明るい。中東やアラブ諸国のいわゆるイスラム圏との文化文明の質の相異は明きらかだ。

 

宗教にせよ文化にせよ、その良否は果実によって識別できるとするならば、イスラム教は必ずしも良い果実を生んでいるようにも思えない。パレスチナの住民も、その多くはイスラム教徒で、ユダヤ人と比較しても、その生活水準の差は歴然としている。私は決して、アメリカに対して何の義理立てする必要もないし、アメリカにも嫌いなところは少なくない。また、個人的にはイスラム教は好きな宗教だが、過激派のそれは別だ。彼らの暴力的で狂信的な宗教には吐き気を催す。

 イランやイラクなどのイスラム諸国とアメリカのキリスト教の文化文明の差違は、諸国民の持っている自由度に比例していると思われる。イスラム諸国では、まだ多くの婦人は選挙権も持てず、チャドルを身につけることを強制されている。先のイランでの大統領選挙では、保守派のテヘラン市長が選び出されたが、この市長が信奉するような他人の死を叫び、憎しみを駆り立てるような宗教は、まともな宗教だとは思えない。要するに、多くのイスラム諸国では、「自由」が少ないのである。これは、これらの国の民主化の水準と比例している。それが宗教に起因するのかどうかは、私にはまだ良くわからない。

 イラクの国民にしても、一刻も早く、武器を捨て、全国民一体となって民主国家の建設に励み、国民が流血ではなく、アメリカが従事している宇宙探査のような科学研究に乗り出すことを願うものだ。イランにしても、核兵器に使うような原子力の研究を止め、科学技術の水準でアメリカと競争する段階に達して欲しいと思う。アメリカ国内の自動車の販売実績でGMやフォードを上回ったトヨタを生んだ日本を見習うべきである。

 日本についても、小泉首相の靖国神社参拝が問題になっているが、この靖国神社は戦後は一宗教法人過ぎない。そして、日本では、刑法に反しない限り、どんな宗教を信奉しようが自由な幸福な国である。ただ、忘れてはならないのは、この靖国神社が、今日のイスラム教徒のように、かってアメリカに向かって国民を自爆攻撃や玉砕に駆り立てた『宗教』であったことである。私にはアメリカに反抗している今日のイラク国民やイラン国民が、戦前の日本国民にダブって見える。残念ながら、どんなに公平な目で見ても、「靖国神社」の宗教や「イスラム教」という宗教が、キリスト教ほどに「人間的」であるとも思えない。

 今年の一月十二日にケープカナベラル空軍基地から打ち上げられ、ほぼ六か月掛かって、四億三千百万キロメートル離れたテンペル第一彗星に向かって激突したそうである。このニュースとそれによって宇宙からもたらされた、衝突の映像を見ながら、それぞれの国家や国民の持つ宗教や文化文明の差違について考えざるをえなかった。

 

 


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高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

2005年06月16日 | 教育・文化

 

高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

 

教室に爆発物が投げ入れられるという信じられない事件が起きた。

教育は国家の一大事であるので、私も少なからず関心を持っている。それで、こうした問題についてこれまでもいくつか発言してきたし、これからも発言して行きたいと思っている。それが現代の日本の教育の抱える問題の解明とその改善にいささかでも寄与するところがあれば幸いである。

事件を起こした少年が、彼の所属したクラスの同級生たちに対して恨みを持っていたことはわかる。もし彼が暖かい友情に囲まれ、周囲との人間関係に調和して、楽しく愉快に高校生活を享受していたのであれば、このような事件が発生することはなかった。この事件の物語る事実は、少なくとも推測させる事実は、この学校において存在した、生徒や教師の間の「索漠とした人間関係」であろう。

事実としてこの事件を起こした生徒がクラスの中で疎外感を持っていたことである。この感情には、生徒自身に原因があったのかも知れないし、また、クラスのほうに原因があったのかも知れない。恐らく、両方に原因があったのだろう。

しかし、生徒と学級のそれぞれに問題があったとしても、いずれにせよ、このように事件として顕在化することはまれである。光高校と同じように、全国に存在する多くの高校では、たとい、それぞれに何らかの問題を抱えているとしても、日常的に何とか処理し解決して行っているはずである。どんな高校であっても、生徒同士に、あるいは生徒と教師との間に全く問題がないということはありえない。

 

だから肝心なことは、生徒や教師の間にこうした問題が発生したときに、それをどのように対処し解決して行くかという問題処理のシステムが、それぞれの学校の中にきちんと存在していたか、そして、それが正しく機能しているかである。また、そのシステムが能力として正しく機能するように生徒や教師や保護者にきちんと日常的に教育されているかということである。光高校の場合はどうか。結果論としてであるが当然に、「否」である。ちゃんと機能していれば、今回のように事件として表面化することなく解決されていたはずである。

 今回のような光高校で起きた事件を単にこの高校だけの個別特殊な事件としてみなすべきなのか、あるいは、この特殊な事件の中に、普遍的一般的な性格を認識すべきなのか。それについては、単に光高校だけの特殊な事件としてのみ見ることは出来ないと思っている。今日の日本の青少年教育が、学校教育が一般的に抱えている普遍的な問題であると認識すべきだと考えている。

 

今回この光高校で起きたこのような事件は、そのほかのどんな高校でも、いつ、どこにでも起きても何ら不思議ではない普遍性を持っている。その根拠はここでは説明することは出来ないが、また、その論証はとにかく、こうした問題は、単に光高校だけの個別特殊問題として取り組んでも本質的な問題解決にはなり得ない。日本の抱える教育一般の問題として原因が究明され、問題が解決される必要がある。今日の学校教育が抱えている問題を象徴する事件の一つであると考えてよいと思う。

 

この事件から推測される問題を、一応確定しておこう。この事件の背後には、まず、この高校生自身に見られる倫理意識や道徳的自己規律の問題、あるいは、自己抑制能力の欠如といった生徒の家庭教育や家庭環境の問題がある。さらには、この生徒が今回のような「いじめ」にあったときに、生徒自身やさらに生徒の保護者である両親や学級担任教師、また学校側の生徒管理のなかでこうした問題の対処のし方についてきちんと教育されていたかという問題もある。そのほか多くの問題が含まれていると思う。これらはまた、現在文部科学省が問題にしている「学力低下」の問題とも無縁ではありえない。

ここでは家庭教育の問題について触れることはできない。
学校教育上の問題としては、この事件は本質的には今日においても相変わらず続いている「いじめ」と同じである。学校教育における生徒間、あるいは生徒と教師の間の人間関係の問題、倫理道徳の問題である。このような事件は、心理学者が特定の個人である犯罪少年の異常心理に対する処方箋を書いて済ますことの出来るような問題ではない。

 
なぜこうした事件が起きるのか。このような事件の発生を防ぐにはどうすればよいのか。さらには学校教育はどのようにあるべきか、そうした問題意識を持って、教育は、全国民的な課題として研究され、日常的に取り組まれる問題だろう思う。

この問題が示されているのは、学校教育における永年の病弊である。結論として言えば、現在の学校教育のにおいて、民主主義の倫理的内容が教育されておらず、また、内容のみならず制度としても、問題解決の方法としてもほとんど機能していないという現実である。
民主主義の思想と方法についての教育の必要が自覚されてもいず、文部科学省をはじめとする教育関係者も、その必要についての切実な問題意識を持つものがほとんどいないのが現実ではないだろうか。

 
学校教育の現場のみならず、どんな組織や団体にあっても、一般的な倫理的道徳的な規範と、共同体として必要な問題解決のためのシステムが存在しなければならない。ところが、現在の教育現場には、それらはなく、その機能も不全状態にある。

戦前の「教育勅語」の権威失墜と、上意下達の権威主義の教育システムの崩壊以来、それに代わる倫理道徳の規範と、学級や学校において発生するさまざまな問題を理性的に解決するシステムが、今日に至るまで教育現場にいまだ十分に確立していないという現実がある。これが問題なのである。

もっと民主主義の倫理規範としての意義を教育現場でも自覚する必要がある。そして、民主主義の方法を問題解決の手段として、その形式的方法を教育現場においても確立しなければならない。(この民主主義は、日教組や共産党の主張する「人民民主主義」ではもちろんない)。民主主義の精神と方法の真の活用が、こうした教育上の課題や問題に不可欠であること論証して行きたいと思う。

 

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私の生活五箇条

2005年05月19日 | 教育・文化

人間は通常は必ずしも複雑で確固とした思想をもって生きているわけではありません。しかし、生活の中に原則や信条があれば、より揺るぎなく生きてゆけるのではないかと思います。私が生活してゆく上で必要な基本原則のようなものを考えてみました。おおよそのところ、次のようなものになると思います。さらに、より良い生活原則ができれば改訂してゆきたいと思います。単純であっけないものですが、今のところ、次のような信条で、過ごしてゆこうと考えています。皆さんも、ご自分の生活信条をおつくりになればいかがでしょう。


        私の生活五箇条

    一、主なる神を敬愛せよ。

    二、他人を愛せよ。

    三、私だけが私の主人である。汝の道を行け。

    四、自分の城を守れ。

    五、生活を楽しめ。

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