ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

信仰深くあること──人間は生まれながらにしてカトリック教徒である

2005年05月13日 | Weblog


西洋には「人は生まれながらにしてカトリック信者である」ということわざがあるらしい。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が死去して、新しい法王の選挙が話題になったとき、そんなことわざを思い出した。手元にあることわざ辞典には、この事項の説明がないので、その意味する正確なところはよくわからない。誰か知っておられれば教えていただきたいと思う。


ただ、このことわざからわかることは、西洋社会においては、カトリック教が浸透していて普遍的であったこと、また、カトリック教徒であることは出生によって規定されていること、そして、「人間は本質的にはカトリック教徒である」という人間観が示されているらしいことである。


もしこのことわざの解釈が大きく誤っていないとすれば、「人間は本質的にカトリック教徒である」とはどういうことなのだろうか。カトリック教会では、その教義や信仰の内容は、ローマ法王をはじめとする神父さんら聖職者によって、組織として教会の権威として確定されている。そして、原則的にカトリック教会は過つことがないと考えられているから、信者は安心し信頼して、自分自身の信仰の内容を教会に決めてもらうことができる。そうして、カトリック信徒の家庭に出生した者は、精神的に新たに生まれ直すことなく、そのままカトリック教徒として生きることになる。したがってある意味では気楽である。何が善であるか、良心に反するか反しないのかなど、あれこれくよくよ、自分で思い悩んだりすることも無い。教会が自分の信仰の世話をしてくれるし、神父さんに自分の懐疑を解いてもらえる。自分の頭で何が真理であるかを見極める苦労もない。またその能力がなくとも、教会に世話してもらって、信仰を維持してゆくことも出来る。ただ信じていれば良い。


このように、人間には他者の支配を喜んで受け、外的権威を自ら進んで肯定する傾向があるという意味で、「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」といえるのかもしれない。しかし、何の論証もなく、自己の良心のみを最終的な決定権者とすることもなく、外的な権威に盲目的に依存させるような信条や宗教は本質的に不自由な宗教であり信条である。


何が真理であるかを、独立した自分の良心や判断で確かめようともせず、外的な権威に依存して決定するこうした傾向が人間には本質的にある。それをこのことわざは示している。確かに信仰深くあることは、魂の救済と深い倫理性を養う上で意義があるとしても、それが感情の枠から出ようとしない限り、他者との対話や共同性から閉ざされて、狂信性を帯びる恐れはある。そして、人間のこの傾向が、教祖や教義に対する盲従と盲信に結びついたときにいっそう危険なものになる。「信仰深くあれ」という名目で疑うことが禁じられ、その教義ついて自己の良心に照らして独自に思考し、批判的に吟味する道が閉ざされている場合には、そして、その信仰が、殺人を肯定するような教義を持つ宗教によるものであれば、いっそう危険なものになる。ここでは信仰深くあることは戒められなければならないのである。


もちろん、信仰上においてだけ、単なる教義上だけで殺人や窃盗を肯定しているのであれば、犯罪は構成しない。しかし、その狂信的な教義を実際に実行すれば、当然に刑法上の犯罪を構成し、不法行為として国家の法規範に抵触し、その犯罪は国家権力によって糾されることになる。


その端的な事例となったのが、オーム真理教事件である。多くの高学歴の青年が、松本智津夫という教祖の狂信的で愚かな教義を盲信盲従して、殺人という犯罪を犯し、他人の人権を最大限に侵害するばかりでなく、自らの貴重な人生をも棒に振ってしまった。ここには「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」ということわざに示されるような、外的な権威に盲従盲信する人間の本質的な傾向が、現代においてもなお顕著であることが示されている。価値観や判断能力を独自に確立することの難しさという普遍的で原理的な人間の能力の問題と──これは人類の動物としての資質の到達水準を示している──、さらには、国家や社会の組織や制度の発達の程度、一国の学術文化教育の水準の問題として、日本の公教育がかかえる特殊な問題が存在している。


人類がまだサルからそれほど進化していないのだとすれば、それは、人類の現時点で到達している能力と資質の問題だからどうしようもない。しかし、国家や社会の制度、教育の問題などは、少なくとも、それらを改革することによって、人間社会の抱える問題を解決できる場合が少なくない。日本の公教育はどうかといえば、事実として、「生まれながらのカトリック教徒」を育てているのではないだろうか。あるいは、太平洋戦争前の、権威を疑うことを許さず、自主的な思考を育成してこなかった皇民教育をいまだ克服できないでいるか。


少なくとも、特定の教義や個人に盲従して、その支配に自己をゆだねる精神構造をもった、上祐史浩や村井秀夫のような市民、国民の発生を可能にしている。また、政治家も教育関係者も、そうしたオーム真理教事件の根本原因を正確に認識しておらず、この事件が何よりも日本の公教育の欠陥による失敗であるという深刻な事実認識もない。そのために、同種の事件の再発の可能性の根を摘むことができないでいる。植物の種が存在する限り、日光や土壌など条件さえそろえば、芽は必ず吹きかえすのである。


上祐や村井などが、早稲田大学や大阪大学、東京大学といった教育機関に学び、そして、その多くが理工系学部出身者であったことは看過されるべきことではない。そこに深刻な教育上の欠陥が存在していると見るほうが自然である。日本の民主主義教育の未熟と奇形を見るべきかもしれない。この事実を特に日本の教育関係者と政治家は深刻に受け取るべきである。


国民の自己教育の欠陥は、さらに、北朝鮮や中国などの全体主義的な独裁国家などとの外交問題の対処の仕方に、また、オーム真理教(「アーレフ」に改名)や共産党や創価学会などの個人崇拝の問題が発生しやすい全体主義的な組織や団体に対して、どのように対処して行くべきかという内政的な問題の処理方法にもつながってくる。民主主義的な国家の外部と内部に存在する、そうした反民主主義的な政治団体や宗教組織に対して、民主的な国家や国民はどのように適切に対処してゆくのかという根本問題が含まれている。


ヨーロッパ中世のように、いまだ権威や教祖に喜んで自己の支配をゆだねる「カトリック教徒」の多いわが国において、いったいどのような思想と価値観で国民は自己を教育し、どのような原理で国家や社会を組織し統治運営すれば、より高い自由と真理と善の実現した国家と社会を享受しうるのか、そして最大多数の国民の幸福を保証できるのか。国民一人一人の良心と判断で考えたいものである。

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