ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

プログラムの練習

2005年06月14日 | 日記・紀行
これからはDELPHI6を使って、日曜日の多少暇なときに、プログラムの勉強でもしてゆこうと思っている。二、三日前にネットをサーフィンしていたときに、DELPHI6が無料でダウンロードできることがわかった。それで、実際にダウンロードし、また、DELPHI6を紹介しているホームページで、ごくごく簡単なテキストエディタのウィンドウの作り方が書いてあったので、参考にしながら実際にやってみると、できた。これははじめて作った自分のアプリケーションと言うことができる。


あまり時間的にも余裕がないので、もちろん専門的に複雑なプログラムは作ることはできない。しかし、これで技術さえ磨けば、演算装置などを作って、統計や研究の道具も作ることができるわけで、たとえば、『検索』のプログラムを作って、『源氏物語』に、「とのゐ」という言葉が何回使われているのか勘定することができるかも知れない。気長に取り組みたい。


いずれにせよ、パソコンの構造や、C言語やPASCALといったコンピューター言語について多少なりとも理解の深まることを願っている。昔、会社に勤めていたとき、経理課の巨大な電算機で、伝票などの計算をし、パンチで孔を空けてプログラムを作っていたことがあった。その際に、会社から研修でCOBOL言語の学習に富士通まで通ったことがある。あのまま、経理課に在籍していれば、ひとかどのプログラマーにでもなっていたかも知れない。しかし、そんなことに本質的な関心のなかった自分は、まもなく退職してしまった。それ以来、電子計算機のことはすっかり忘れ去っていた。そして電算機やプログラムとはまったく無縁の世界で生業を立ててきた。それから、再びワープロやパソコンに出会うようになったのは、約15年後である。図体も大きく事務室の半分を占領いていた電算機もパソコンと名を変え、インターネットとの接続で、単なる計算屋から、まったく異なった機能を持って登場していた。


しかし、いずれにせよ、私の専門は哲学である。人は、特に現代人は、すべての分野で万能であることはできない。ゲーテが忠告したように、人は何者かであり得るためには、自己を一事に限定しなければならない。それにしても「哲学」といっても、あまりにも守備範囲が広大過ぎる。


私は、さしあたっては「ヘーゲル」を中心に勉強して行く。そして、その中から、専門を絞ってゆく。
もちろんヘーゲルは体系的な哲学者だったから、「論理学」「美学」「歴史」「法律」「宗教」など、ヘーゲルの研究活動は多方面にわたっている。彼はその強靭な論理的思考力で「世界を思索した」といえる。


私の最終的な理想は、田舎で農業に従事しながら、一方で、このパソコンを使って哲学を研究し、そして、自分の思想を建設して行くことである。単なる哲学の注釈家で終わるつもりはない。だがいまだなお、夢は実現していない。しかし、私は、まだ、私の夢を捨てたわけではない。今は、特に「私の哲学史」と題して、私がこれまでの人生で出会い、多少なりとも影響を受けてきた人物と思想について論評を試み始めたばかりである。今のところ、「ルソー」と「キルケゴール」の二人について論評を試みた。


もちろん、何も、言語作品に残されている思想作品や思想家にのみ関心があるわけではない。とくに私が関心を持った思想家は出来るだけ問題にするつもりなので、有名であるかどうかは関係はない。また著作を残しているか否かも関係はない。


特に、これから予定している思想家、哲学者としては法律家の「ケルゼン」や「科学的管理法」という研究によって労務管理思想や経営学で、とくにその創始者とも目される「F・Wテーラー」、その後この人事労務無関係理論を発展させた、人間関係理論で有名な「メーヨー」や「マズロー」「ドラッガー」など海外の有名な研究者の名前が挙げられる。日本人では経営学の分野では、「藻利重隆」氏やその他有名無名の学者経営者が数多く存在する。そして実際の経営者としては、自動車会社ホンダの創業者として有名な本田宗一郎氏、また松下電器の創業者である松下幸之助氏なども、いずれは取り上げたいと思っている。文学者や小説家についてはあまり取り上げることはないだろう。また、哲学者思想家といっても、著作を主たる業とした者に必ずしも限定することもない。イエスなども、彼自身は自分で筆を取って著作を残したと言うことはない。

今日一日の目標としては、ホームページの表紙を変えようと思っている。もう少し、一般になじみやすい、読みやすい物に変えてゆく必要があると思ったからである。いくら、「わが道を行く」と言っても、私の生活も意義も社会のと関連なくしたは考えられないからである。とくに、市場や金儲けということ、あるいは、職業というものは他者とのかかわりなくしては成立しない。とくに、社会性の問題については、個人的にも深く反省すべき点があると思っている。少しずつ「社会参加」を心がけるつもりでいる。


鈍才氏(http://ha3.seikyou.ne.jp/home/donsai/)にメールをはじめて送る。切磋琢磨しあえる関係になることを願っている。


それにしても、精神的労働と肉体的労働の調和した生活こそが私の理想である。労働と科学こそが私にとって哲学の具体的な展開である。単なる机上で従事するだけの、文学や宗教と区別のつかないような「哲学」は、私にとっては本来の哲学ではない。私にとって哲学とは何よりも「思考についての科学」にすぎないのである。しかし、残念ながら、今日の日本では「哲学」に興味があるということは、事実としてきわめてマイナーである。そんな人間は、大衆の目には奇人変人の類にしか映らないらしい。日々の生活に追われて物事を根本的に考える余裕もなかなかない。そのせいか、きわめて軽佻浮薄な連中の跋扈する社会になっていると思う。そして腐りきったマスコミも彼らを煽り立てる。そして、彼らから、「ダサい」「ウザイ」「クラい」と言った評語をレッテルに貼られることを、極度に恐れる。しかし、とくに、宗教や哲学を持たない今日の多くの青年男女は、人間というよりも、むしろ一種の動物に、獣にさえ見える。それに政治家も官僚も「物事を自分の頭で考える国民」を育てようとは思っていないし、またそんな国民を恐れているようでもある。自分たちの特権が失われるとでも思っているのだろうか。似非民主主義国家、日本の面目躍如たる一面である。気の毒で情けない国。


それに、残念なことにというべきか、現代の日本人は、宗教に関して深いトラウマを負ってしまった様である。本来宗教によって深い倫理性や哲学的根拠が与えられるのに、それがないために、人間関係にも潤いを失い、文字通りの金とセックス本位の「欲望社会」になってしまっている。同級生に爆弾を投げつける学校もある。上は政治家から「官僚」まで、青少年の暴力と少女の売春、両親による子供の虐待に至るまで、ただ単に少子化高齢化を待つまでもなく、社会の至るところに亡国の兆しが垣間見える。30年後、50年後の日本に、私たちの子供たちの世代に幸福な社会を残してやれないとすれば、なんと罪深いことか。杞憂に終われば幸いである。










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