福井日銀総裁が問題の多かった村上ファンドに投資して、その運用益を得ていたということが問題になっている。村上世彰氏の犯罪行為は村上氏がそれによって幕引きを計ろうとしている証券取引法のインサイダー取引違反よりも、「証取法の中でもインサイダー取引よりも罰則が重い「不正の手段、計画又は技巧」を禁止する157条の包括規定(注2)に抵触する違法行為である。」と指摘する意見もあるが、
『村上ファンド事件の核心は? ほんとうにインサイダー疑惑か?』
今回の問題も、政治家、いわゆる官僚、公務員(国家、地方とも)たちの腐敗をどのように防いでゆくかという国民的な課題にも関わる。
問題はやはり、福井日銀総裁が、総裁就任後にも、民間の、特に村上ファンドという、いろいろ問題も指摘されたファンドと特定の利害関係を持ち続けたということにある。
もちろん、その関係の端緒は、福井氏が富士通総研という民間会社に在任時にあったとはいえ、日本銀行総裁に就任した時点で、福井氏は自らの資産のなかで民間とのかかわりのある一切の個人的な資産は完全に凍結しておく処置をとっておくべきであった。結果論ではあるが、このことが、公的な職務に就く人々の、特に日本銀行や財務省のその他の官僚たちの常識にはなってはいなかったことが明らかになった。政治家の資産公開はすでに実行されてそれなりの効果はあげている。
私人と公人とのこうした関係を、国家行政に携わる人たちにとっても、完全な常識にしてゆくためにも、きっちりとした問題の解決は、福井日銀総裁が自ら辞任を決断されることかもしれない。不良債権を抱えた銀行の救済のために、国民がほとんどゼロ金利を余儀なくされている現状で、1000万円の投資で1231万円運用益を得ていたのが問題だという感情論からする批判ももちろんある。しかし、やはり、この問題の本質は、そういう感情論の問題ではなく、公と私の関係のあり方の原則的な、倫理的かつ論理的な問題でもあると思う。
福井氏は銀行員としては、国際的にも高く評価されているらしい。福井氏が辞任することによる金融財政運営での損失を指摘する声もある。
しかし、問題は福井氏の日銀マンとしての有能さのゆえに、福井氏のモラルにおける感覚の鈍さ、もっと言えば、モラルにおける無能力を見過ごしてよいのかという問題がある。人間を見る眼としては、特に政治家や公務員の選定においては、その個人が知識や技術において有能かどうかという観点と、モラルにおいて高いか低いかという観点の複眼的な視点からも判断する必要があると思う。物事を単にモラルの面だけで判断するのは子供っぽいか。難しい問題ではあると思う。
福井氏は確かに有能な銀行マンであったかもしれない。しかし、モラルの能力においては、必ずしも高くはなかったようである。以前にも、日銀や旧大蔵省職員に対する民間銀行員による接待疑惑やしゃぶしゃぶ店のスキャンダルで、当時の松下康雄総裁らとともに、当時副総裁の地位にあった福井氏らも監督責任などを問われ辞任している。
江戸時代の悪代官の悪習の伝統にみるまでもなく、宗教的な背景もあって、今日においても日本人は個人としての自我とそこに立脚する倫理意識は弱く、十分に確立されてはいないと思われる。
今後も起きてくるこうした公的な問題に関連して、日本人一人一人として、あるいは日本国民としての問題の決着のつけ方、けじめのつけ方も学習してゆく必要がある。過去の日本人のように浪花節的な、湿っぽくあいまいで非論理的な「問題解決」の習慣や伝統から、決別してゆかなければならないと思う。実際、これからさらにグローバル化して行く時代にあっては、なおさらそれが言えると思う。そうしてこそ、日本人のモラルも国際水準に近づいてゆくのではないだろうか。