旧日本国軍の総括
去る九月二十九日に沖縄で十万人の県民が集まって、旧日本軍の強制による集団自決についての教科書の記述変更に反対する集会があったそうである。
当時の戦争に巻き込まれた沖縄の人々が、教科書においては「日本軍の命令によって強制的に集団自決させられた」とか「沖縄県民の集団自決に日本軍が関与した」とか「日本軍に集団自決を強いられた」とか記述されていたのに、「軍による強制」ではなく「集団自決に追い込まれた」というように変更されることになったことが問題の発端らしい。
そのことについて沖縄県民の中に反対している人が少なくないらしいけれども、正確にどれだけの数の沖縄県民が反対しているのかわからない。しかしこれは多数決の問題ではない。
今なおこうしたことが問題になるのは、この沖縄県民の「集団自決」の問題のみならず、かっての太平洋戦争そのものがいまだ国家的なレベルでもきちんと総括できていないからだと思う。相変わらずの国民性でないだろうか。いつまでも、旧日本国軍の悪弊を感情的に批判していても、あまり生産的ではないように思う。
総力戦が戦われていた当時の沖縄で、その過酷な軍事情勢の下において、非戦闘員である県民がアメリカと旧日本軍の戦闘行為に不本意ながらも巻き込まれ、そのために多くの人々が命を失うことになった。命を失うのだから不本意でないはずはないが、しかし、当時の沖縄県民も敵国アメリカに対する愛国心に燃え、旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていたことが想像されるのである。もちろん、戦争という過酷な状況だから決してきれい事だけには終わらなかっただろう。
それを戦後六十年たって、当時を知らない若者たちが、「軍隊が県民を強制して自殺に追いやった」とか言う。しかし、そのような観点で見るならば、それは単に沖縄県民のみならず、赤紙一つで徴兵され、過酷なジャングルでの戦場で命を失った多くの兵士たちばかりでなく、また、勤労動員で働いていたときに原爆を投下されて死に至った中学生たちも、要するに兵隊に駆り出された日本国の青年のほとんどが強制的に国家と軍隊によって「死に追いやられた」ということになる。
しかし、共産主義者などの一部を除く当時のほとんどの日本国民は、愛国心に燃えて「自発的に」敵国アメリカとの戦闘に参加したのだと思う。そして、たとえ国家による「命令」としても、多くの国民は国家のために従順に、むしろ多くの青年たちは誇りをもって敵との戦いに従ったのだ。むしろそれが真相ではないだろうか。それを自らの国家に対する誇りすら失ってしまった現代の人間が、自分たちの価値観を彼らに押しつけて、自決を強制されたなどといって「名誉の死」に殉じた人たちをおとしめているのではないのか。
そこには当時の日本人が一般にもっていた「生きて虜囚の辱めを受けず」といった死生観が死を軽いものとしたこともあると思う。近代の戦争についての無知や旧日本軍の教育の欠陥もあったと思う。ただ、そこに軍人による直接の命令があったのかどうかといっても、現代の戦争が根本的には国家間の総力戦である以上、国家による何らかの「強制」が働かないということはあり得ない。その状況は日本であれ、アメリカであれどのような国家も同じである。
そうした過去の厳粛な歴史を、後世の人間が「後知恵」で批判しても、正しく歴史を考察することにはならないと思う。また「集団自決の強制」が真実であるかどうかは当時の軍人や旧日本軍の名誉に関わる問題ともなる。
そのような歴史的な事実について、最近の沖縄集団自決冤罪訴訟による影響もあったのか、真実が明らかにされるなかで、高校教科書の記述の変更に影響をおよぼしたらしい。
「日本軍による集団自決の強制」の記述の変更についても、犠牲になった沖縄県民が軍隊命令によって強制的に集団自殺したことにすれば、軍属の死として戦後の遺族補償も得られやすくなるために、当時の守備隊長がそれに同意したということもあったらしい。
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html
しかしいずれにせよ、二十一世紀の現代においても、世界には多くの国家がそれぞれ独立して存在し、互いの国益を主張しあうような今日の人類の進化の状況にあっては、軍隊を完全に撤廃することはできないし、現実的ではない。
このことは、わずか六十年前の太平洋戦争の開戦時も、二十一世紀に入ったばかりの今日においても、その「厳粛な」歴史的事実には変わりがない。ただ狂信的な「平和主義者」だけが、不可能であるその現実を直視することができず、いつまでも盲信から自分を解放することができないでいるだけである。
現在のような人類の段階で、世界の諸国家がそれぞれ独立して排他的な対外主権を互いに主張しあうような世界史の段階において、国家が軍隊を否定したり放棄するということは現実的ではない。そうした選択をするとすれば、それはその国民が愚かで成熟した判断をもてないでいるからであると思う。
国家がその軍事的な実力を保持して、国家主権を完全に確立していない場合には、自国民が他国家によって拉致されるといったことが起きる。北朝鮮による日本国民拉致事件がそれを端的に証明している。旧社会党の非武装中立論者たちこそ「日本人拉致被害」の責任の一端の担うべきではないか。自衛の軍事行動すら否定する教条的な日本国憲法擁護論者や非武装中立論者たちは横田めぐみさんたちの涙の責任をとれるのか。
戦後の日本国民が、国家や軍隊に対して少なからずアレルギー症状を示すことにも無理からぬ面はもちろんある。日本は第二次世界大戦で、連合国軍に完膚無きまでに敗北し、しかも、その日本帝国軍隊が必ずしも民主的ではなく専制的で、封建的な階級意識をきわめて色濃く残した陰湿な面をとどめていたこと、また、軍隊組織が抑圧的で事大的で非人間的な軍人も多かったのも事実だろう。そのために一般国民が少なからず軍隊や軍人に反感的な感情を持つことになったとしてもやむを得ない。しかし、それもまた日本人自身の国民性の反映でもあったのだ。
しかし、あの戦争からすでに半世紀以上も経過しているのに、今日もなお、いつまでも国民が自らの国家と軍隊に対して不信と拒絶の感情をすら克服し得ていないとするならば、それは健全なことではない。それは指導的政治家たちの怠慢のせいでもあると思う。国家と国民の安全と幸福ために、一身を犠牲にして働く軍隊と軍人を尊敬できない国民は不幸である。
そのためにも過去の旧日本国軍の否定的な側面を全面的に客観的に批判的に総括するとともに、その一方で、たとえば、かっての神風特別攻撃隊に志願した青年たちの高貴な犠牲的愛国心は、今日においても限りなく貴重な価値あるものとして、その意義は正しく評価するべきだと思う。かっての旧日本国軍のもっていた崇高な精神的な遺産を、戦後の民主主義的な愛国心と結合することによって復活させてゆかなければならない。
国民が子供じみた軍隊アレルギーにいつまでもとらわれていれば成熟した完成した国家を形成することはできない。そうしたアレルギーから正しく治癒され解放されてゆく必要がある。
完全に民主化された新日本国軍が、専守防衛に徹することは、日本国民が完全な民主主義的な自覚をもった国民である限り、それは自明の前提なのである。
いつまでも、沖縄での旧日本国軍の「悪弊」を中途半端に批判にさらしておくのは生産的ではない。かっての旧日本国軍の参謀本部の作戦指導上の過ちや、陸軍と海軍の縦割りによる縄張り意識による作戦指揮系統の不統一による軍事戦略上の失敗や、また、それとも関係するけれども、満州国の関東軍における一部軍人の「暴走」などになぜ首相の指揮権が発揮できなかったか、(これは統帥権が天皇直属で、首相にはなかったことなどがある)などといった、かっての旧日本軍の犯した多くの失敗や否定的な側面があるはずである。
それを、戦争原因や戦争回避などもふくめて、国会は全国民的なレベルできちんと歴史的に総括し、その報告書を全国民に提示すべきだろう。旧日本国軍をただ全面的に否定しさることなく、たらいの水と一緒に貴重な赤子を流してしまうことなく、民主主義の観点から、その意義と限界をきっちりと総括して、それを民主主義国家の新日本国軍において再生してゆかなければならないのである。