ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

民主党の党首選挙(1)

2008年07月18日 | ニュース・現実評論
民主党の動向については、これからの日本の進むべき方向に関心をもつ者は、注視せざるを得ない。かって民主党に結集する政治家たちの「民主主義の能力」を検証してみたことがある。

 民主党四考 

あれから、三年。自民党の体たらくによって、民主党は自民党にとって代わりうる政党と見なされ始めているようだ。しかし、この民主党は本当に日本国民に民主主義を教育し指導する資格のある政党になり得ているのだろうか。

確かに、前回の党首選の時とは異なり、今回は党内からも「小沢一郎代表の無投票三選論批判」も出てきているようである。一方、小沢氏も、福岡市での記者会見で代表選について「われと思わん人がどんどん立候補することは当然でことである」とも述べている。民主党も民主主義政党として前回の党首選の時よりは進歩していると思う。

[渡部民主党最高顧問、党代表選の無投票論を批判]
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080627/stt0806272301004-n1.htm

民主主義的な政党や組織では、党員や構成員の多数決によって党首や政策、議事を決定するが、反対意見の持ち主は、多数決によって決まった政党や組織の決定には規律としては従うけれども、その多数意見に納得出来なければ、自己の意見を変える必要はない。少数意見が多数意見になるように努力して、政党や組織の意見を変えてゆけば良いだけの話である。

組織の規律として多数意見に従うということと、自己の意見がたとえ少数意見であっても、多数意見に改宗する必要はないということがわかっていないのではないだろうか。規律として多数意見に従うということと、少数意見として自己の信念を維持するということが両立する政党や組織でなければ、真実に民主主義な政党や組織とはいえない。このあたりの自明な事柄すらわかっていないのが、日本の自称「民主党」や日本国民の一般的な民主主義の能力水準ではないだろうか。

だから、党首選を激しく戦えば、後で感情的なしこりが残るから党首選は避けようといった意見が出てくるのである。確かに、人間のすることだから、そうした感情的なしこりも当然に残るだろう。しかし、少なくとも民主党と自称して、日本国民に民主主義を教育し指導する立場に立とうと考える政治家たちの集団なら、そうした感情的なしこりをも克服して、党や組織で決定されたことには、たとい自身の個人的な意見とは異なるとしても、努力してそれが次に多数意見になるまでは、その反対意見にも規律として従うという成熟した大人の民主主義の態度をとれるようでなければならない。

日本の民主党の民主主義の能力の水準がどの程度のものであるかは、この政党と政治的に思想的に比較的に似た立場にあるアメリカの民主党やイギリスの労働党とを比較してみればわかる。

アメリカの民主党においても、アメリカの場合もそれは大統領候補の選出に直結しているわけであるけれども、周知のようにヒラリー・クリントン女史とバラック・オバマ氏があれほど激しく長期にわたって事実上の党首選を戦った。けれども選挙後は、彼らはその感情的なしこりを残さないように大人の態度を取り、民主党の団結を守ろうとしている。かってマッカーサーが日本の民主主義は12歳の少年のそれだ語ったそうだが、感情的なしこりを口実に党首選を避けようとする日本の現在の民主党のそれは、日本国民の民主主義の能力水準を象徴しているようなものだ。

 

コメント
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