ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

統制派

2013年07月16日 | 歴史資料

 

統制派

 

統制派(とうせいは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが[1]、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る高度国防国家の建設を目指した。

目次

内容

天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され陸大出身者がほとんどいなかった皇道派に対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる。皇道派の中心人物である荒木貞夫が陸相に就任した犬養内閣時に断行された露骨な皇道派優遇人事に反発した陸軍中堅層が結集した派閥とされるが、皇道派のような明確なリーダーや指導者は居らず、初期の中心人物と目される永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。

二・二六事件に失敗・挫折した皇道派の著しい勢力弱体や世界の列強各国での集産主義台頭、他、世界恐慌に対し有効性を示したブロック経済への羨望が進むにつれ、当初の結成目的・本分から徐々に外れ、合法的に政府に圧力を加えたり、あるいは持論にそぐわない政府の外交政策に対し統帥権干犯を盾に公然と非協力な態度・行動をとったりサボタージュも厭わない軍閥へと変容していった。革新官僚とも繋がりを持つ軍内の近代派であり、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。旧桜会系統の参謀本部陸軍省の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。中心人物は永田鉄山、東條英機。

対立している皇道派が反ソ・反共を掲げ、右派色が強かったのに対して、統制派は南進論と中国への一撃を主張し、英米を敵とし、ソ連との不可侵条約の締結を推進した。永田の愛弟子で統制派の理論的指導者である池田純久が『陸軍当面の非常時政策』で「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターはレーニンが力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」と主張しているように、統制派は『太平洋五十年戦略方針』などの編集で細川嘉六中西功平野義太郎共産主義運動に詳しい人物を積極的に起用した[2]。また、池田純久が『国防の本義と其強化の提唱』にて「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった」と述べているように、最初から合法性に依っていたわけではなかった。

中心人物の永田鉄山が皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく軍部大臣現役武官制を 復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる。その後、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸 軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、実際に存在した共産国家に近く全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至る。

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 池田純久 『日本の曲り角』 千城出版 1968年
  2. ^ 国民のための大東亜戦争正統抄史 1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い 79~87近衛上奏文解説
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皇道派

2013年07月16日 | 歴史資料

 

皇道派


皇道派(こうどうは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。


目次

    1 名称と概説
    2 誕生
    3 行動
    4 凋落
    5 関連項目

1 名称と概説

名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。荒木が陸軍大臣に就任した犬養内閣時に陸軍内の主導権を握ると、三月事件、十月事件の首謀者を中央から退けたが、この処置が露骨な皇道派優遇人事として多くの中堅幕僚層の反発を招く。これら非皇道派の中堅幕僚層は、後に永田鉄山や東條英機を中心に統制派として纏まり、陸軍中枢部から皇道派は排除されていくことになる。両派の路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こして衰退していくことになる。

二・二六事件で決起した青年将校らは、皇道派ではなく国体原理派を自任しており、彼らの決起をいさめ、大川周明や北一輝、西田税などに近づくことを禁止する真崎甚三郎を、昭和維新を解さぬ耄碌者視するほどであった。

2 誕生

荒木が真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。

宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。

永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。

一方、宇垣が軍の実権を握っている間、荒木・真崎らは宇垣閥外の人物として冷遇されていた。荒木は1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。

折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、

    ソビエトが1928年にはじまる第一次五ヶ年計画を成功させると、日本軍が満州を占領することも、対ソ攻撃を開始することも不可能になるので、一刻も早く対ソ攻撃の拠点として満州を確保しようとする焦り。
    軍縮のため将校達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。
    農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。
    農村の指導層(地主・教師・社家・寺族・商家など)出身の青年将校の中には、幼馴染や部下の兵の実家・姉妹が零落したり「身売り」されたりするなど、農村の悲惨な実態を身近で見聞きしていた者が多かったため。

などである。

青年将校らは、このような状況を作り出しているのが、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥であると考えたのである。

1931年11月、十月事件の圧力を背景に、犬養内閣で荒木が陸相に就任すると、真崎嫌いで知られる金谷範三参謀総長を軍事参議官に廻し、後任に閑院宮載仁親王を引き出す。ついで1932年1月に台湾軍司令官の真崎を参謀次長として呼び戻し、参謀本部の実権を握らせた。一方で杉山元、二宮治重らの宇垣側近を中央から遠ざけ、次官に柳川平助、軍務局長に山岡重厚を配する等、自派の勢力拡大を図った。人事局長の松浦淳六郎、軍事課長の山下奉文もこの系譜につながる。荒木は尉官クラスに官邸で連日のように酒を振る舞うなど、武力による「維新」を企てる青年将校らを鼓舞し、その支持を集めた。

荒木や真崎は、日露戦争時期を理想化し、日本をその状態に復帰させることが、軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる所以だと考えた。ここから、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が引き出される。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが皇道派である。

3 行動

この派は荒木・真崎をシンボルとし、前述の将官の他、1932年(昭和7)2月に参謀本部第二課長(作戦担当)ついで第三部長(運輸・通信担当)となった小畑敏四郎、憲兵司令官ついで第二師団長となった秦真次、小畑の後任の作戦課長である鈴木率道、陸大教官の満井佐吉らが首脳部をなしていたが、省部の中堅将校からはほとんど孤立した存在であった。皇道派が「国家革新」の切り札と頼む武力発動の計画に当たったのは、村中孝次・磯部浅一ら尉官クラスの青年将校団である。

皇道派青年将校がクーデター計画に狂奔したのは、彼らが省部中央に近い統制派ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。

青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」(※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。相沢三郎中佐は、法廷で検察官の質問に答え「国家革新ということは絶対にない。いやしくも日本国民に革新はない。大御心に拠ってそのことを翼賛し奉ることである」と述べている。したがって彼等は「革命」「クーデター」という概念すら拒絶していた。

また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。

それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、三月事件・十月事件で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。

真崎は教育総監時代、天皇機関説排斥運動の中心となり、政党政治の最後の拠り所までも粉砕する役割を果たした。五・一五事件や相沢事件の公判は、裁判所を軍国主義の扇動を行う舞台に代え、国民に排外主義、国粋主義を浸透させる有力な機会として十分に利用された。この直後に引き起こされた二・二六事件は更に準戦時体制へと途を開くのである。

4 凋落

荒木は犬養内閣、さらに齋藤内閣において陸相をつとめたが、もともと軍令・教育畑が長く政治力に欠けるところがあり、高橋是清蔵相との陸軍予算折衝でも成果を挙げることが出来なかった。また側近の多くも軍政経験が乏しく、荒木を十分に補佐したとは言い難い。このため大臣末期には省部中堅の信を失い、青年将校からは突き上げを食うなど閉塞状況に陥った。結局は1934年1月、酒を飲み過ぎて風邪をこじらせ、肺炎となり陸相を辞任する。荒木は後任陸相に真崎参謀次長を推薦したが、真崎の独断に閉口していた閑院宮参謀総長に反対され、林銑十郎教育総監が陸相となり、真崎はその後任に回った。柳川以下の皇道派幕僚も相次いで中央を去り、さらに同年11月には青年将校らによる士官学校事件が起こり、これを契機に統制派による真崎排除の機運が高まる。1935年7月、林と閑院宮は三長官会議において強引に真崎を更迭、後任に渡辺錠太郎を据えた。荒木の辞職、真崎の更迭によって皇道派は中央での基盤を失い、青年将校を中心に相沢事件を経て二・二六事件の暴発につながる。その後、1936年から翌年にかけての、大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。現役に残ったのは山下奉文、鈴木率道ら少数の者に過ぎなかった。

なお大戦末期の1944年、昭和天皇に木戸内大臣を通じて、「戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏した近衛文麿に対し、天皇は次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的 という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得 べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令 官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)。


5 関連項目

    昭和維新
    北一輝
    二・二六事件
    相沢事件
    国家社会主義#国家社会主義(日本)
    統制派
    満州派 (大日本帝国陸軍)
    皇国史観
    ファシズム
    原理日本社


二・二六事件
対立    
皇道派:荒木貞夫 - 真崎甚三郎 - 小畑敏四郎※
統制派:永田鉄山※ - 東條英機※ - 池田純久 - 片倉衷
(※は陸軍からの薩長閥排除を目指した「バーデン=バーデンの密約」参加者)
主な首謀者    
野中四郎 - 安藤輝三 - 栗原安秀 - 中橋基明 - 村中孝次 - 磯部浅一 - 北一輝 - 西田税
主な被害者    
岡田啓介 - 松尾伝蔵(死亡) - 高橋是清(死亡) - 斎藤實(死亡) - 鈴木貫太郎 - 渡辺錠太郎(死亡) - 牧野伸顕
関係者    
昭和天皇 - 西園寺公望 - 川島義之 - 本庄繁 - 香椎浩平 - 山下奉文 - 広田弘毅

関連項目:陸軍士官学校事件 - 相沢事件 - 軍部大臣現役武官制 - 昭和維新 - 五・一五事件


カテゴリ:

    君主主義
    天皇制
    大日本帝国陸軍
    二・二六事件
    昭和維新
    皇道派

※出典

皇道派 - Wikipedia http://p.tl/-5uu

 

 

 

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