この本を読みだしたきっかけはなんだったのか。村上春樹がノーベル文学賞の候補になったから気になっていたのか。あるいは別の動機があったのか。たぶん別の動機があったのだろう。この作家の描く不思議な世界は何を表現したいのかが潜在的に気になっていたからだろうと思う。
直接的なきっかけは本棚にあった文庫本が目に入ってきて、リュックに入れて街に出かけて空き時間に読みはじめたということなのだが、今回は大変面白い。今回はと言ったのは18年以前にも読んでいたのだがなんだか訳のわからない物語だなというのが印象であった。無理に最後まで読んだが正直なところさして面白いとも思えなかった。ただ不思議なストーリーだなとのみ感じた。
作家が小説を書く動機は様々だろうが、ひとつ言えることは簡単に言葉では言えないことを表現したいということだろう。「一言でいうと」「要約すると」「結論を先に言うと」などのビジネス慣用語を拒否する所に小説を書く動機があるのだろう。ノベルを小説という日本語に訳したのは天才的だと改めて思う。大説つまり論文では言い表せない世界を表わしてこそ小説なのだと最近妙に得心している。
従ってこの本の上巻を読み終わってもやはりなにかまとまりのある世界は見えてこない。しかしなにやら面白い。下巻に向かう心構えのためにも何か書いておこうとするのだが気になったフレーズをメモしておくしかないようだ。
「それから私は計算士を引退したあとの生活について考えた。私は十分な金を貯め、それと年金をあわせてのんびりと暮し、ギリシア語とチェロを習うのだ。車の後部座席にチェロ・ケースをのせて山に行き、一人で心ゆくまでチェロを練習しよう」p311
これは二つのストーリーの一方の主人公のキャラクターを述べている。いつもながらの決して大きな志とは無縁の主人公が描かれている。
「なにかが私の心を打った。壁だ。その世界は壁に囲まれているのだ。」p277
計算士が「赤と黒」を再読した後に述べる感想だが、平行して展開するもう一つの壁に囲まれた不思議な世界の物語とリンクする鍵になるのかも。下巻に向けてのメモを続けよう。
「なぜなら無意識性ほど正確なものはこの世にないからだ。・・・君の意識のコアは、君が息を引き取るまで変わることなく正確に君の意識のコアとして機能するのだ。」p191
唯識系の仏教的世界を連想してしまうが、果たして正しいかどうか。三島由紀夫の「春の海」でも唯識の思想が下敷きになっているが難解だ。阿頼耶識などの世界の村上春樹的解釈なのかと一応考えておくことに。
「そう、まわりを険しい壁に囲まれた円形の台地。その壁が何万年という歳月を経て崩れ落ち、ごく当たり前のなだらかな丘になったのね。そしてその中に進化の落とし子たる一角獣が天敵もなくひっそりと棲息していたというわけ。」p177
これも二つのストーリーを結びつけるキーかな。
「原理的にも現実的にも、君が自分の影を取り戻せる可能性というものはまずない。この街にいる限り君は影を持つことはできんし、君はこの街をでることはできん。・・・」p143
壁に囲まれた不思議な世界の主人公は影と別れる。この影は何のことなのか。影は影で独立して行動し壁の外に行ってしまい、ふたたび帰ってくる。
話は謎にみちて展開するのだが、主人公が食べたり飲んだりするシーンはいつもながら旨そうで影響されてしまう。ハムとチーズときゅうりのサンドウィッチが旨そうなので早速作ってみた。部屋を荒されてなけなしのウィスキーをのむシーンではロックで飲みたくなった。食べ物のシーンって影響されやすいのですね。