まさおレポート

記憶の断片 「熊沢天皇」から後醍醐天皇に

何歳の記憶か、漢字が読める年齢の頃だろう、土塀のどこかに古い新聞が貼ってあり、それが寝床からいつも見える。その新聞見出しに「熊沢天皇」と書かれているのが60年近く経た今でもふと記憶に上ることがある。何故その見出しが、幼少の子供の頭に長い間記憶に残っているのか。考えてみると不思議な気がする。

後醍醐天皇のことを知りたくて調べているとこの「熊沢天皇」が出てきた。昭和22年に自ら南朝の末裔であると名乗り出たという。寝床から見た古い新聞はその頃のものであった可能性は大きい。三種の神器を南北どちらが持っているのかという謎がからむ正統論争なのだが、南北朝も同じ天皇の孫からわかれたということで、遺伝子的にはどちらも同じ正当性を持つということか。

天皇親政を目論み、真言僧の僧服を纏って護摩壇で必死に祈る後醍醐天皇は際立って他の天皇と異なったキャラクターを持つ。その大がかりな呪詛も足利尊氏に敗北したことで効果が無かったということは、現代でも一部に信じられている呪詛の効果に冷や水をかける。

30代の頃盛んに京都を訪れた。その訪れ先の一つである天龍寺(遠い記憶になったので定かではないが)で案内の坊さんから印象深い話を聞いたのがいまだに耳朶に残っている。「後醍醐はんは大きな体格のお方で、このかたの歩幅に合せて石を置いてあるので普通の人にはちょっと歩きにくいのです。」日本の天皇家のあり方をこの丸石が象徴的に語っている。覇気と能力それに並外れた体格これだけがそろうと他国では理想的な君主像になるが、わが国ではそれが成り立たない。

この天龍寺は後醍醐天皇を失脚させた足利尊氏が7回忌の法要のために建造したというのも、祟りを恐れて神社や寺院に祭り上げるという歴史の定番に合致している。
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