ジェラシック・ワールドを見てからnetflixで次々と恐竜ものを見ている。人類がこの宇宙に現れたのは宇宙カレンダー(138億年を一年に例えるカレンダー)では大晦日の午後11時で、この宇宙カレンダーは人類がこの宇宙で極めて偶然に現れた稀有の新参者であることを端的に訴えかける。
恐竜だけではなく、哺乳類も弱肉強食の世界で、これすべて人の価値観からすると「畜生の行い」であり悪に分類しても良さそうだ。人類だけが善の意識を前頭葉の一部に頼りなくも持っている。そうすると善悪は宇宙的に見れば混沌の中に溶け込んでしまいそうな頼りないものなのだと思えてくる。そしてこのたよりない善の意識にすがって我々の子孫の存続と繁栄を願う。頼りないからこそ崇高なのだろう。生物の悪を同時に根源的と認めるときに一層善が崇高に輝く。2010/9/24の初稿に追記してみた。
2010/9/24の初稿
シンガポールからバリに向かう2時間の機中、軽い気流の揺れを感じながら、いつものことながら神妙になり、悪についてとりとめもなく考えた。機に命を預けているということがそうさせるのだろう。宮元啓一氏のゴータマ・ブッダの業は人間の「自己」がもつ根源的な生存の欲求からきているという説明が頭に引っかかっており、それとiPadに収録した青空文庫のなかの一つ、倉田百三の「善くなろうとする祈り」を機中で読んだことが悪と業について考えを巡らせるきっかけとなっている。
悪についての洞察の類は文学の主要なテーマで、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、最近では村上春樹の「1Q84」にも悪についての著者自身の考えともいえる会話があってそれぞれの作品で大きなテーマとなっている。善も悪も一筋縄ではいかない。
この善について倉田百三氏は「美意識よりもおぼろげだが、著者には確かに存在する感覚」とある。刑法や民法的な意味での善悪は、常識の集大成であるから理解は容易だが、悪と善の本質に関しては理解は容易ではない。
なるほど善と悪はわかりきったようで実は境目がないことにこの著者も多くの作家も気が付いている。だからこそ倉田百三は「美意識よりもおぼろげながら」といったのだろうし、一筋縄ではいかないからこそ文学の大きなテーマにもなりえたのだろう。(わたしは最大のテーマかもしれないと思っている)
世間の常識の集大成と考えられる法律では、表面に現れた悪は問うが内面の悪は問わない。(動機としては問うが、これも犯罪が表だって発生した結果としての話になる)宗教家は内面までの悪を問う。親鸞は、彼自身の悪人の自覚を中心として、人間の根底にある悪を説く。キリストもある女を非難する人々に、みずからの心を問うて悪をまったくもたない人があれば前にでろといったという。内面の悪を犯さない人などはほとんどいないだろうと思う。尊厳死にたいするほう助などは善と悪の境目がおぼろだ。
作家は悪をどうみているか。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では悪は悪魔の所業であり、しかもそれは世界調和のために必要なものとしている。これは村上春樹の「1Q84」でのテーマでもある。オーム真理教の尊師をモデルにしたとおぼしい人物が殺しに来た青豆にそう語りかける。
宗教は悪をどうみているか。ドストエフスキーの悪魔の所業はキリスト教の考え方がベースだろうから、悪は他から影響されるものとしてみている。釈迦は自己の根源的な生存欲がカルマとなって輪廻を形成するとしているので、カルマは悪と読み替えると、根源的な生存欲自体が悪であり業をなすものであり、解脱しない限り、自己に備わりつづけるとの考え方だろう。それにしても自己に根源的に備わっている生存欲が悪だとはすごい。
しかし善悪についての秘密を解明してくれる糸口になるとの直観が働く。解脱とはこの根源的な生存欲を消滅し尽くすことだという。自殺と一見似てまったく非なるものだ。自殺はカルマを増す行為なのだろう。人間の輪廻する存在そのものが悪ということか。こうなると究極のペシミズムに思えてきてちょっとついていけない感もするが、単純なペシミズムではないという思いが強い。しかしそんなはずはない、ただまだ理解がたりないだけだとも考えている。
歴史上の悪についてはどうか。十字軍とイスラム軍のお互いがジェノサイドと呼ばれる血なまぐさい大量虐殺を犯しあうのも、一方からみれば悪魔を退治している、つまり善をなしていると信じ込んでいる。ナチスもフセインも同じで、本人たちは善と信じていたのだろう。そんな例を挙げるまでもないか。ついこの間まで世界中でお互いに殺しあっていたのだから。ここでも善と悪は相対的な様相を帯びる。
人情からみると、つまりもっとも人間の最も本質的な感情からみると、自分の家族から縁遠くなるほど殺戮=悪は正当化され善とみなさる。井筒俊彦氏のイスラムに関する著作を読むと、イスラム以前のアラブ人は他族を殺戮し略奪する男ほど尊敬される社会だったという。これも別にアラブの社会に限ったことではない。
他の信仰をもつ集団に対しての善悪については、オーム真理教でも殺戮は正当化された。いまでも原理主義集団ではそうなりがちだろう。
大義名分があれば殺戮は正当化される。信長の比叡山焼き討ちの例を挙げるまでもなく、あらゆる戦争はそういうことなのだろう。
現代においても、こうした相対的な善悪論は欧米、イスラム諸国で多くの人々に信奉されている。こうした相対的善悪論は必然的に復讐の連鎖を生む。(復讐の連鎖…梅原猛の法然伝で読んだ記憶がある。法然の父親は復讐の連鎖が息子=法然に及ばないように寺に預け出家させたという。)
こう考えてみると、悪とは悪魔の所業と考える「他のせい」論よりも、すべての人の持つ「自己」の根源的なものと考えたほうが自己反省的であり、お互いに正義を振りかざして殺戮を繰り返すよりも平和にもつながる考え方と思えてくる。つまりドグマを説かない考え方が優れた考え方に思えてくる。
2018/8/11 追記
悪とは悪魔の所業と考える「他のせい」論よりも、すべての人の持つ「自己」の根源的なものと考えたほうが自己反省的であり、お互いに正義を振りかざして殺戮を繰り返すよりも平和にもつながる考え方と思えてくる。しかしこれを正面切って主張するとテロ擁護やオーム・サリンの擁護につながりかねない極めて危険な考えにもつながる。
そこで小説家は物語の中に悪を封じ込め、古代中国の荘子は混沌の物語などに人間の持つ悪の肯定を述べたのではないか。
物事に対して無理に道理をつけることはなぜいけないのか。善悪が双方バランスが取れているのに道理つまり善をたてすぎるとその善のみが強調されるためではなかろうか。
混沌は荘子に登場する。中央の帝の混沌は南海の帝と北海の帝を厚くもてなした。両帝は混沌の厚意に感謝して、のっぺらぼうの混沌に耳目鼻口の穴を開けてやることになった。作業が完成した七日目、逆に混沌は死に至った。
「混沌」とは、万物が形をなさず、もやもやとしたさま。宇宙・万物のはじめの状態をいう。
南海の帝を儵(しゅく)と為(な)し、北海の帝を忽(こつ)と為(な)し、中央の帝を渾沌と為す。儵と忽と、時に相与に渾沌の地に遇う。渾沌、之を待つこと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀りて、曰わく「人皆七竅有りて、以て視聴食息す。此れ独り有ること無し。嘗試みに、之を鑿たん。」と。日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死せり。
渾沌または混沌は、中国神話に登場する怪物の一つ。四凶の一つとされる。その名の通り、混沌を司る。犬のような姿で長い毛が生えており、爪の無い脚は熊に似ている。目があるが見えず、耳もあるが聞こえない。脚はあるのだが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされる。善人を忌み嫌い、悪人に媚びるという。
荘子には、目、鼻、耳、口の七孔が無い帝として、渾沌が登場する。南海の帝と北海の帝は、渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまったという。転じて、物事に対して無理に道理をつけることを『渾沌に目口(目鼻)を空ける』と言う。