兄が昔、新聞配達をしていたが、刀根山結核病院も配達区域に入っていた。ある朝自殺があった現場を知らずに通りかかり、後でその話を聞いて凍りつき、即刻配達アルバイトを止めたという。そんな話を電話でした後に自分も似たような経験をしたことを思い出した。そういえばバリ島で知り合った男性も十三で新聞配達の経験があると言っていた。わりあいありふれたアルバイトだったのだ。
小学5年からわずか数ヶ月だが新聞配達をした。隣家の一つ年上のこうちゃんが新聞配達を始めたので刺激されておもしろがって始めたのだ。朝5時に起きて自転車で桜井の配達所に向かう。いまから思えば小学5年では続くはずがないつらい仕事だがこの年頃は向こう見ずだ、つまり世間知らずでありなんでもやればできるとタカをくくっているお年頃だ。
隣町の新聞配達所で時にはピックアップトラックで朝日新聞大阪本社まで新聞を取りに行く。帰りは新聞の刷り上がった直後の温かみで気持ちが良い。長嶋が立教大学を出て巨人で4割近い打率で新聞を賑わしている頃のことだ。折込チラシを挟み込み、朝のうす暗いうちから歩いて新聞を配る、牛乳配達のお兄さんががらがらと瓶の触れ合う音を立てて行き合う自転車は両方に膨れ上がり重そうだ。
月に一度の給料日は配達所でアンパンが振る舞われる。さていくら給料をもらったのだろうか、とんと記憶がないがおそらく日に100円として3千円程度ではなかろうか、こどもには結構な額であり母にそっくり渡していた。九州出身の頑固そうな店主の顔と支える奥さんの顔が今でも脳裏に浮かぶ、店を手伝う成人した長男は欠員のあるエリアを配達して回る重労働で、一家で汗水流して働いていた。
ある時は隣の配達エリアで朝方ちょうど新聞の配達時間帯に一家殺人時間があり、子供心にキモを潰した。そんな遠い日の回想をメモしてみた。