「カラマーゾフの兄弟」メモ その7までは亀山訳でのメモであり、その8からは原卓也訳でのメモです。
カテリーナとグルーシェニカはいずれも突然変身して相手を裏切る。又ともにヒステリーだ。二人はドミトリーを愛しているのかどうかさえよくわからない。グルーシェニカは当初からかっただけと言い、後にドミトリーが逮捕される場所で初めて彼に愛を感じているが、一時の激情でそう言っているという疑いが読んでいて付きまとう。複数の男を競わせることに喜びを感じる女、もてあそぶことに快楽を覚える女、ライバルであるカテリーナからドミトリーを奪う事で喜びを感じる女、アリョーシャを誘惑して喜ぶ性悪がグルーシェニカなのだが、同時に初恋のポーランド人やパトロンの老人には純情だ。ある種の女の典型を見事に描いている。
カテリーナはドミトリーから受けた借金の屈辱の報復が変形してドミトリーを愛するという極めて屈折した、簡単には理解できない愛の形を見せる。ドミトリーに借金を申込みに行くときはしっかりとした理由に支えられてカモフラージュされているある種の性的期待が潜在していたとみたい。この期待が見事に裏切られて自らの女が傷つけられた。それがドミトリーへの執着となり、愛と錯覚するようになると読める。
ドミトリーの側から見るとカテリーナが部屋にやってきたときには性的な期待が大いにあったのだが、持ち前の高潔さも頭をもたげる。期待と高潔さの微妙なバランスの上に高潔さがほんの少し勝つ。そしてドアを開けて送りだす。性的魅力もあるのだ、高潔さをしのぐほどではなかったということに彼女は女としての屈辱を感じる。このあたり女の描き方がうまいではないか。
カテリーナはイワンの愛にこたえるように愛し合うようになる。ドミトリー拘留後はなにかとしっくりしない二人の愛だ。作者はこの二人の関係だけで長編小説ができあがると書いているが、この作品のなかだけでは二人の間にどのような魅力的なストーリーが展開されているのかはよくわからない。カテリーナはドミトリーに対しては自らの屈辱をはらすかのように能動的な愛を示し、イワンに対しては彼の愛にこたえるというエクスキューズで愛する。いずれにしても素直な愛の欠けた女性を描きだす。その彼女が裁判でドミトリーを決定的に追い込むのは納得できる筋書きだ。
ホフラコーワ夫人は奇跡や他人の腐敗を好むゴシップの大好きな空気を読めない上流階級の女として描かれている。性的欲求不満を抱えた女としても描かれている。ドミトリーが決死の覚悟で借金を申し込みに来るが、それに対して天然ぼけでドミトリーをはぐらかし、ドミトリーが青筋をたてんばかりにますます必死に借金を申し込み、最後まですれ違う描写はドミトリーにしてみれば恋いに狂って命がけの場面なのだが、その必死さと天然ボケの絶妙の描写に思わず腹を抱えて大笑いしたくなる。作者はなにげなく喜劇をさしはさんだと思いたくなる。
その娘のリーザはイワンにちょっかいを出してみたり、残虐な話を好んでしたり、アリョーシャをわざと翻弄してみたりと歪んだ性格の小悪魔ぶりを発揮する。このリーザはすぐにヒステリーを起こし、熱を出す。異常な母娘の存在を描いてアリョーシャの女性に対する嗜好を、さらにアリョーシャの善良ぶりの裏にあるものを描きだす。リーザが部屋の隅にいる悪魔の夢をみるとアリョーシャに言うと、アリョーシャも同じく部屋の隅にいる悪魔の夢を見ると返す。いびつな家庭環境から生まれたそれぞれ性格の異なる男女だが、表向きの性格とは別に心のなかにそれぞれ悪魔がひそむ。
イワンとアリョーシャの母親は神がかりであり、スメルジャコフの母も神がかりで精神状態の極めて不安定な女たちだ。ドミトリーの母親は腕力に優れてフョードルを力では圧倒し、父を捨てて若い男と駆け落ちし、餓死する。(余談ながら、村上春樹の1Q84では天吾の母が男と駆け落ちする)主な登場人物がすべて風変わりな女で、それでいてあるいはそれだからこそ女の普遍的なものを描き出している小説は珍しいのではないか。