まさおレポート

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バリの風景 バリで出会った人々

2016-01-10 | バリ島 人に歴史あり

バリに行きだしてからすでに30年近い。その折々に出会った印象に残る人々を描いてみた。

<1989年のバリ>

バリ博物館の二人の若者

初めてバリを訪れた1989年にバリ博物館に行った時の事、博物館の入り口の左横に二人の若者がいて話しかけてきた。一人はマデでウダヤナ大学の4年生で22歳、もう一人はクトゥでサヌールのバビグリン屋の長男、25歳だという。クトゥには妻と息子がいるという。このあたりでぶらぶらとして暇をつぶしているらしい。クトゥはオーストラリア製の自家用車を持っているのでかなり裕福な家の息子なのだろう。マデも親は公務員だという。

彼らは毎日朝に車で迎えに来て、観光名所からディープなバリまで、あちこちを連れ歩いてくれた。デンパサール市場、朝市、クトゥの自宅であるバビグリン屋と豚小屋(この豚は実に清潔に手入れされていて日本での豚小屋の語感とは全くことなるものであることに感動した)、いくつもの寺院、ユダヤナ大学寮等々。旅の最期の日に名残りを惜しみ、連れ歩いてくれたお礼にガソリン代を加えて渡して分かれた。そのあとでマデから日本に手紙が来た。ソニーのウウォークマンが欲しいというので送った。次いでクトゥからも手紙が来た。車を修理したいので援助してほしいと書いてあったが、さすがにこれはお断りした。あれから26年たつ。マデもクトゥもすでに50前後になっている。サヌールのバビグリン屋にはいって尋ねてみたが探せなかった。

ホテル・メラスティのアグース

1989年夏に初めてバリに行ったときはクタにあるホテルメラスティに約ひと月滞在した。現在は新しく建て替わっているが当時はホテルの隣が墓地で海辺にも墓地があり少しあるくと電燈もついていない真っ暗な通りが続き、クタビーチの入り口までくるとようやく明かりが見えるといったたたずまいだった。このレストランでは毎夜のようにバリダンスがあり一緒に飲んだり食べたり踊ったりして初めての新鮮なバリを楽しんだ。海岸に接した部屋や東屋もあり、そこからはクタ海岸が展望できた。オランダ占領時代から建っている、古いがなかなかいこごちのよいホテルだった。

このホテルの玄関には広い車止めがあり、道路に面したあたりにはドライバーや若者がたむろしていた。こちらも一人なのですぐに彼らと仲良くなり、そのなかの一人アグースが毎日のように顔を出した。20歳前後の人懐っこい若者で毎日のように馬鹿話をして過ごした。日本に立つ日にロビーで半泣き顔で見送ってくれた。素朴な人柄が懐かしい。

貸ボード屋のヤン 

ホテルメラスティから毎朝クタビーチにでかけるのが日課で、ボディーサーフィンとマッサージそれが終わるとビーチの屋台で昼飯を食べる。昼からバリのあちこちに行くという生活をひと月ばかり続けていた。ボディーサーフィンにあきるとヤンからサーフボードを借りて波に浮かんで寝そべる。空を眺めているうちに意外なほどの距離に流されていることに気が付きあわててビーチに戻ったこともある。ヤンがたいそう心配してくれ途中まで助けにきてくれた。貸サーフボードのヤンはイスラム教徒でバリの近くの島から家族を置いて出稼ぎにきていた。

その後通りを歩いていたときに偶然あった。ビーチのサーフィンボードを借りる観光客が少なくて、建設作業員をしているという。

素朴で生真面目な男でお金に困っているのだろうが決して人に金銭的な助けを求めない潔さが気に入っていた。バリに行くたびにご飯を食べたり日本語で家族のことを話したりで長い付き合いになったがいつのまにかいなくなった。島の家族のもとに帰ったと人づてにきいた。初めてであったのは20代だったが40代を過ぎて出稼ぎの年齢を過ぎたということだろう。

マデとワヤン

マデとワヤンは夫婦で若い時からキンタマーニから出てクタにきてすでに30年近く働いている。マデはレリーフなどの木彫り製品を売り、ワヤンはビーチの土産物を売る仕事をして二人の子供を育て、キンタマーニの家を新築しデンパサールにも家を建てた。

キンタマーニから大勢の人がこのクタビーチにやってきて集団で土産物売りの仕事についているが、このマデとワヤンの夫婦はしっかりもので村からの一群の出稼ぎたちのなかでささやかな成功者と言える。ワヤンは日本語、英語が上手でフランス語ドイツ語等も販売に事欠かない程度にはしゃべる。それに愛想がよくて親切なので人気があった。だから一群の出稼ぎのなかでは断トツの売り上げだったのだろう。

8年前にこの夫妻に招かれてキンタマーニのガルンガンを体験したことがある。サヌールやクタでは味わえないディープなバリの祭りを体験した。村の寺や家寺での祭り、山での先祖供養、集団での炊き出しやバビグリン、闘鶏、村のおじさんによるマッサージ、子供たちの賭け事、バリ舞踏など。

日本に帰国することになり、スーツケースに入れて預けたが2年後に会うとそのスーツケースは返ってこなかった。それ以来疎遠になってしまい、大切な交友関係が崩れてしまった気がする。預けたこちらに落ち度があったのだと反省している。

<クタの裏通りにある安ホテル>

1997年6月28日に前後してバリでクタの裏通りにある安ホテルに1週間ほど泊まったときの記憶だ一泊30ドル程度だった記憶があるがあいまいだ。こうしたホテルでは世界中からやってきた個性的な旅人と身近に接する機会が多い。カップルが少なく独身者が多いことで、夕食時など気軽にテーブルを囲みお互い話し相手が欲しいので会話が弾む。

この年を何故正確に記憶しているか、実はそのホテルのレストランでテレビ中継を見ていてショックを受けたことによる。1,997年6月28日に行われたマイクタイソンはホリフィールドのWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、試合中ホリフィールドが突然耳を抑えてうずくまった。一体何事が起きたのかとみていると耳をかじり取られたとの説明が入った。この事件はいつでもwikiで確認できるので正確な日時まで覚えているのだ。

ベトナム戦争帰還兵

長屋のような作りで私の部屋の2軒先にアメリカ人が滞在していた。ホテルのレストランで食事をするときにテーブルがよく一緒になり少し親しくなった。アレックスと名乗る物静かな男で年齢的に近いこともあり、何を話題にして話をしたのかは全く記憶にないが気があったのかよく話をした。

このホテルにはほかにもアメリカ人が滞在していて、そのアメリカ人は家具を買い付けに来ていた。アメリカでバリ家具を売って繁盛しているらしい。買い付けの方法やどこのカーゴを使うと安いかなどの輸送方法を詳しく教えてくれた。儲けた金でバリにホテルを建てる計画があり、設計まで完了していて完成したらパイソンを飼いたいとも話していた。パイソンの飼育には毎日生きた鶏が一羽いると具体的な話をしていた。蛇好きの風変わりな男とは話が合わないのか、アレックスはそのアメリカ人とは一切話をしなかった。

彼は退役軍人で年金で暮らしている独身男性で、ベトナム戦争で従軍したという。ビジネスには全く関心がなくホテルでも質素に暮らしていた。夕食でもナシゴレンなど一皿のみで酒も飲まない。サントリーの響をいつもテーブルに置いていて彼に勧めても一切飲まなかった。一週間ほどバリに滞在してベトナムに向かうと言った。裕福な生活はできないが独り身だと年金で十分な暮らしができ、海外を旅してまわることもできるらしい。かつて彼が戦ったベトナムに無性に行ってみたいと言い、ベトナムへ旅立っていった。具体的な話は避けたがあのベトナム戦争のことだ、甘い思い出があるわけではなくなにか深い理由があるのだろうか。

泣き上戸のイタリアン

中年のイタリアンが長期滞在していた。当時はまだATMが普及する前の時代でホテルの貸金庫に入って預けてある金を引き出すのが日課になっていた。スタッフにその金を渡してひそひそ話をしているところは結構怪しい雰囲気を醸し出していた。

ときおり夕食のテーブルでビールを飲んで酔っ払い泣き出すこともあった。マンマが恋しくて泣いているんだろうと周りの常連宿泊客はからかっていたからいつものことなのだろう。あるときはテーブルの上に立ち上がってビール瓶を片手に踊りだしたこともある。突然、異国での孤独に耐えられなくなるのかもしれない。

女に逃げられたフランス人シェフ

シェフだというフランス人がガールフレンドを連れて滞在していた。両腕にタトーを入れ、髪は短く切っている。ある夜中に大声でののしりあう声が聞こえてきた。ものがぶつかる大きな音も聞こえた。翌朝朝食をとるためにテーブルにつくとシェフだというフランス人の相方の姿はなかった。誰かが「逃げられたのさ」と耳打ちしてくれた。

<スミニャック滞在時代>

中国系インドネシア人の女将

2006年暮れにイタリアからの帰途バリ島スミニヤックの小ぶりなビラに滞在した。さらに娘が生まれて1年後に再びこのビラに1年滞在した。ジャワ島から来ている中国系インドネシア人の女将が経営していてこの夫妻と親しくなり朝のビーチを散歩しながらあるいは食事をしながら話をした。この女将はクリスチャンで旦那は仏教徒という組み合わせで、それに対して夫妻は特に違和感を抱いている風はなかった。

ジャワ島で中国人が襲撃されたときに安全なバリでビラの経営を始めたこと、バリ人の男性にビラのマネジメントを任せていた時期に日本円で100万円相当の金を着服されたこと、バリには特有の不思議な出来事が起きることなど興味深い話の記憶がある。

女将によると1997年10月頃から不穏な空気が漂い始めたという。中国人仲間内でルピアの暴落がささやかれはじめ、スーパーに買いだめに行きだした。その夏に韓国、タイで始まったアジア通貨危機がインドネシアにも波及しルピアが暴落したころからさらに買だめに走ったという。数日後にIMFがインドネシア支援を表明ルピアは小康状態になりスーパーにも品物が入荷しだしてほっとしたという。

1998年1月9日に1ドルが6000ルピアから10000に下がった。3月11日に大統領選挙があり、スハルトが大統領に7選される。このころから毎日のようにデモがあり物価が上がっていった。5月12日にトリサクティ大学で学生と軍が衝突し二人の学生が軍に打たれて死んだ。中国系インドネシア人を狙った暴動が頻発し窓ガラスを割られ怖い思いをした。知人の家が焼かれたのを機にバリ島に逃げたという。バリ島でビラ経営をはじめ、私たちが滞在した2005年には経営は安定していた。(スハルト大統領は5月21日に辞任し副大統領のハビビが大統領になり30年に及ぶ独裁体制が終焉してジャカルタは安定を取り戻す)

ある日のこと、散歩に行ってビラの部屋に帰ると机の横に見慣れぬ部屋の鍵が置かれていた。私が持っているのとは異なるし、以前に確かめて処では合鍵は存在しないと言っていた。不審に思ってスタッフにだれか部屋に入ったのかと確かめたが否定されたのでますます疑いが深まった。スタッフが散歩の間に合鍵を使って部屋に入り、机の中を物色するために開けたのだろう。そして我々が意外に早く帰って来たので慌ててしまい、合鍵を机においたまま姿をくらましたと思う。

気持ちが悪いのでこの女将に対策を申し出るのだが、この時の対応が印象に残っている。バリではこの種の不思議な出来事は起きるという。つまりスタッフが部屋に入りこんだことに対しては関心を示さず、合鍵が机に置いてあったことがバリ特有の不思議現象だというのだ。彼女自身もバリで不思議な出来事に遭遇するという。何年も前に紛失したバッグがある日突然ソファの上に置いてあった話を我々にした。鍵が突然机の上に現れたのもそれと同種の不思議であるという。

この説明にあきれた私は鍵をすぐに交換してほしいと要求したが、その対応も遅れたのでやむを得ず引っ越しすることにした。今から振り返ると彼女はいい加減な説明をしてことを修めようとしたのではなく、本気で不思議現象として考えていたようだ。彼女はジャワ出身のカソリック信者なのだが、バリではそうした信仰とは関係なく超常現象を肯定する土壌があることを知った。

イタリア人ルチアーノ
バリに店を2件持っている。そしてガールフレンドも2人いる50台のイタリアン。同時に2人のガールフレンドが訪れているときもある。

オーストラリア人親子

90歳のおじいちゃんとその息子、既に70近い。1日に白ワインを2本飲むのが健康の秘訣らしい。

オランダ人カップル
バリでネット関連のビジネスをしている。16歳のときからネットビジネスをはじめた。無線ネットを使わせてほしいと言ってきた。56Kしかでてないよと言ったら、ぶったまげていた。ジャワ人の若者を「パーソナルアシスタント」と呼んで従えている。NYに進出する予定でアイデアは300も頭の中にあるという怪しい刺青カップル。

<サヌール>

「枯葉」を歌う92歳

枯葉 
シャベルでかき集められる落葉が
忘れられない記憶を呼び起こす
ほら、かき集められる落ち葉は
僕の思い出の苦さに似ているよ

皆さんは「減耗控除」という言葉を知っておられるだろうか。この減耗控除とは減価償却と同様に税法上の言葉らしい。減価償却によく似ており、上記の参照のように観念上の費用をいう。この言葉を今日、ホテル内で90才を越える高齢の方との歓談中になにげなく聞いた。最初は意味が取れなかったが、減はへる、耗は消耗の耗と説明を受けて、さらに英語で言うとdepletion allowanceだと説明を受けて減価償却の昭和初期に使われた古い用語なのかと思った。がネットで調べてみるとそうではなく、上記の参照のように石油や鉱業で使われる立派な経理用語なのだった。

この方は慶応を卒業後に日本の大手鉱業会社に長く勤められ、昭和の中ごろに会社から減耗控除の考え方を導入するためにフランスに派遣されたときの思い出話をされた。その話の中で飛び出した言葉だった。
 
90歳を優に超えた高齢者というと、こちらも身近に話をした経験がないので、もうしゃべることも記憶を呼び覚ますこともおぼつかないのかなと勝手に思い込んでいたが、どうして、どうして。イブモンタンの「枯葉」を原語で歌うおしゃれさと、その長い人生で経験した博識ぶりと明晰な記憶力に驚いた一日でした。

私のパソコンには金子由香里の枯葉が入っていたので、音量を大きめにして聴かせてあげると、「バリで枯葉を聴くとはね。この詩がいいんだよね」と遠い目をして一言。気のせいかうっすらと涙のようなものが。きっとベルエポックのパリ、ふるきよきパリ時代を追想していたのかもしれません。たしかに私もこの詩にまいっていたので、おおいに「枯葉」で盛り上がりました。
 
92歳の年齢にもかかわらず30歳以上若い愛人を連れてバリに滞在している。毎朝プールに入り、文庫本を読みながらコーヒーを飲む。若いときはパリに赴任して妻子がありながら恋に落ち、その後転勤で日本に帰るとパリジェンヌが日本まで追いかけてきたというエピソードを話してくれた。森鴎外の舞姫のような思い出ですねというと「実は彼女が東京にやってきたときは僕もその話を思い出したよ」と云った。
 
この年になると人に話を聞いてもらうのが楽しいのだろうか。この人はビラの玄関横にある椅子に腰かけて外を眺めていて私と目が合うと寄って行けという。なかなかその時間も作れずに終わってしまった。もっととっておきの昔話を聞いておけばよかったと今になって思う。
 
その後数年たってビラの古い住人から94歳で亡くなったとの報を聞いた。そのときに聞いた話によるとこの92歳の大先輩は年齢のせいだろうか、ストーカーまがいの行動など奇矯な行動も見られたという。彼の妻とは別居が長く妻子も見放した状態で愛人に介護されて老人ホームで亡くなったという。
 
カリマンタン籠屋の主人
近所のバッグ屋の親父からボルネオ(カリマンタン島)の美しいビーズでカバーされた古い山刀を二振買った。この数ヶ月、店先に置かれた古ぼけたビーズカバーの山刀が気になって仕方なかった。ビーズも長年の塵埃で薄汚れているし、中の山刀も錆びている。しかし、そのビーズ模様といい、錆びたとは云えどことなく鋼の質の良さを感じさせる刀身といい惹きつけられる。先月に店でそれを丹念に眺めていると親父は金はいつでもよいからビラに持って帰って飾って鑑賞しろと云う。それでいそいそとビラに持ち帰った。

よく絞った布でビーズ部分を拭いてみると中から鮮やかな色が出てきた。ビーズの大きさは不揃いなのだが、陶器製の実に美しい色が埃のなかから現れてきた。かつて埃まみれのまだら茶の捨て猫を拾ってきて、こんな不細工な子猫はどうしたものかと思いながら洗うと、実に美しい漆黒と純白の毛並みが出てきて驚いたことがあったが、今回はそれほどではないが、その思い出を彷彿とさせる。

当初はダヤック族といわれても何のことか特に関心を持たなかったのだが、インドネシア人は全員知っているくらい有名らしい。近年まで森の中で独自の文化と言語と生活習慣を守り、いくつかあるその村にたどり着くには山を越え、川を上っていかなければならなかったという。もちろん近年まで電気も供給されていない秘境だったという。今ではありふれた田舎の村になっているらしいが。

バッグ屋の親父は結婚前にカリマンタン島で1年3ヶ月滞在していた事がある。22年前のそのときは、川をボートで一日半漕いでやっとたどり着いたのだという。金が通用しないのでTシャツや砂糖と物ぶつ交換したという。そのときに手に入れたものの一つがこの山刀だという。そのころ観光客が訪れることなど無かっただろうから土産用に作ったものではない。現役の山刀をたくさん並べられて一番美しいこの山刀を手に入れたのだという。

彼らと一緒に山でイノシシの狩りもしたのだという。吹き矢と弓あるいは山刀で大きなイノシシをしとめるには植物からとった毒薬を塗るという。その毒の効果はものすごく、小さな吹き矢が刺さるだけでその場で昏倒するか、あるいは逃げてもすぐ近くで倒れているという。毒薬は矢や山刀にも塗るという。アマゾンの秘境とよく似た話がこのカリマンタン島でもあったのだ。

普通は鞘は木でできている。このようにビーズでカバーされているものは恐らくダヤックの中でも貴重品だっただろうと推測される。現在では入手不可能なものに違いない。
「私も事情が許せばカリマンタンにいたかったよ。」と親父はバリコーヒーを飲みながら話だした。私にもすすめたが朝既に飲んだので遠慮する。

「カリマンタンではビジネスが難しいと云うことかい。」と私が尋ねる。
「バリ人はヒンドゥだから他の土地に住むのは難しいんだよ。死ぬときはヒンドゥで死にたいからね。長い間他の土地に住んでいても結局バリに帰って村に受け入れてもらうことになる。それも生き方だけどね。人によってはダヤックと結婚するものもいる。私の兄貴がそうだ。もう住み着いて22年になる。兄貴がカリマンタンで仕入れてこちらに送り私が店で売っている。」

云ってることが少し矛盾しているが親父と彼の兄貴は同じバリ人だがそれぞれ生き方が違うと云うことか。言葉の問題で細かいニュアンスが伝えにくいのだろう。
親父は続ける。
「ダヤックの女は腰みのだけで乳房は出している。いい女が多いけど手を出したら大変だね。結婚するしかない。もし結婚を拒んで逃げるような事があれば相手の親や兄弟に首を切られてあげく食べられてしまう。」
親父は手刀で首を切るジェスチャーをし、「マカン」・・・インドネシア語で食べるの意・・・と食べる仕草をした。

ダヤック族は20世紀初頭まで台湾の砂族などと同様、首狩り族として名を馳せていた。その名残だろうか。家族の娘に手をつけて結婚しない男は情け容赦なく殺されるという。いまでも世界中に残っている復讐談がここでもあった。元首狩り族なので当然だろうなと親父の話を聞く。

「ダヤック族はいい人だった。ビジネスはごまかさないし親切だ。男はものすごく筋肉が発達している。吹き矢で狩りをするんだが、彼らはコンプレッサーのような肺筋肉で100メートルも離れた獲物を倒すことができる。私もやってみたが全くとばなかった。あれは全身の筋肉でとばす。彼らの筋肉質な体だからできるのだね。」と親父は語る。
「100メートルってすごいよ。吹き矢で100メートルとは何かの間違いじゃないのかい。弓でさえそんなに飛ばないよ」と疑問を投げかけると
「うそじゃない。本当に飛ぶんだ。100メートル先のイノシシに命中するのを見た。さすがに100メートルも離れると刺さり方が浅いのですぐには倒れない。しかし毒が効いてきて30分後に近くで倒れている。犬が発見するんだ。」と目玉をむいて本当だと強調する。「狩ったイノシシは村中でサテやスープにして皮以外はほとんど食べてしまう。豚に比べて脂肪分が少なくておいしい。」

「どのくらいの長さの吹き矢なの。」「2メートルくらいかな。堅い木で直径2センチくらいのまっすぐなものの中をくりぬく。銅を熱しは押し当て熱しては押し当てしてゆっくりゆっくりと刳りぬくんだ。」なるほど見てきたから言えるリアリティーを感じる。
「狩りには弓矢と吹き矢とどちらを多く使うの」と私。「吹き矢の方が多いかな。」弓もこのくらいあったよと両手を広げて見せる。

親父は立ち上がって古いポストカードを持ってきた。みると年配の女性が細工物を編んでいる。その耳をみると耳たぶがのびて20センチもある。ピアスの穴が伸びてのびて20センチに達している。50グラムのイアリングを小さいときから長年つけているとここまで伸びるという。長いほどよいそうだ。
 

92歳でリタイアメントビザに 2010-05-05 

バリの、とあるビラに92歳ながら矍鑠とした爺さんがいた。いつも通りがかるとプールに浸かって歩いていたり、散歩をされていたりですこぶる付きの元気爺さんなのだが、近頃見かけなくなった。知り合いに、「あの方はどうされましたか」と聞くと、日本に帰られてます。近々バリにこられるそうで、今度はリタイアメントビザでいらっしゃるそうです。」との答えが返ってきた。92歳で「今度はリタイアメントビザで・・・」のあたり、思わずにんまりとしないだろうか。

折々の旅人 2010-08-25 

先日、レノンの、とあるところの待合い室で一緒になった中年の日本人男性と、お互い待っている時間を利用して数分間の世間話をした。
「バリはもう長いんですか。」

「半年ほどです。また次の国に出かけます。」
「ビジネスですか」
「いえ、日本で猛烈に働いてきたものですから、数年間のんびりと旅をしてくらします。」
 
以前も南米を旅行中に塩湖で有名なウユニの宿で、外貨トレードで儲けながら世界を旅しているカップルに出会ったことを思い出した。

 

ニョーマンのこと 2010-11-29

ニョーマンが手にバナナの房を持ってやってきた。いつもアポもなしにふらりとやってくるニョーマンにつれあいが苦情を言う。ニョーマンに対してではなく私に対して苦情を言う。特にこの日はつれあいが風邪をひいて体調が悪いので余計に嫌であったらしい。アポもなしに突然やってきて家の中に入ってこられたのでは第一安全面で問題だという。もっともな話でそのうち注意してやらなければいけない。

このニョーマンとはスミニャックの頃からの付き合いだからもう2年近くなる。彼の正式な名前はバリのカースト最上級を表すブラフマンに属するものなのだが、生活は苦しい。現代のバリではカーストは無くなったので、過去のカーストを表す名前は全く生活力の足しにはならない。だがこの名前だけで8割が平民階級であるバリ人の間では尊敬の念を起させる場合もある。ある時にスミニヤックのビラのガードマン・クトゥがこの名前を聞いて、尊敬されるべき名前だといった。このあたりの意識の底に残るカーストはバリ人ならではのものだろう。

彼は生活の苦しさを時々はぼやくが、たいていは冗談にしてしまう。それだけ自己コントロールができているのだろう。こちらも深刻ぶらずに聞いて冗談で流しているが本音では同情を禁じ得ない。子供を大学にまでやらしたいという気持ちが伝わってくるが、彼の収入が追い付かない。

奥さんの恐妻振りが彼の得意ネタで、週に一度の家族のもとへの帰省も、「金がないのなら帰ってくるな」と言われると、冗談めかして言う。こちらも冗談めかして笑い飛ばすしかないのだが、内心は彼のめげない楽観ぶりにいつも感心している。

 

ちょっといい話 2011-04-11

数か月前のある日、あるところで日本人旅行者が、とあるバリ人とドライブの約束をした。ところがその旅行者氏が約束の日になにかの都合でそのドライブに行けなかった。そればかりか、そのドライバー氏に連絡ができなかった。(あるいはしなかった)多分、体調が悪くて連絡できなかったのか、あるいは件のドライバーをアポの場所で見つけられなかったのか。まあ、旅先ではよくある行き違いの一種だろう。

後日、その旅行者が結果的にすっぽかすことになった海岸の舗道あたりにいるドライバー氏にお詫びに行った。旅行者は日焼けをしすぎて体調が悪かった説明と、連絡もせずキャンセルしたお詫びにチップを渡そうとしたが、そのドライバー氏はチップの金を受け取らない。受け取らないばかりか、日焼けしすぎて体調が悪い旅行者を心配してくれて、近くの薬局(アポテック)で日焼けによる皮膚トラブルに効く薬まで買ってくれたという。旅行者はその親切におおいに驚いたという。

それを同じくバリに滞在中のかたから伝え聞いて、私も嬉しくなった。嬉しくなったのは理由がある。バリ滞在者の幾人かから「バリ人は外国人をお金を持っている人、つまり歩く財布としか見ていない」「バリ人はいつも金の話で、対等の友人関係を作るのはなかなか難しい」との話を聞かされていたし、私自身もバリ人ではないがバリ滞在中にインドネシア人に預けた金が戻ってこなかったトラブルにも合っている。しかしどこの国でもそんな話はあるし、まして発展途上国のどこにでもある話だろう。だからバイアスのかかった「バリ人は・・・」の話を打ち消してしまうエピソードに思わず嬉しくなった。

 

アームカッティングが語るもの 2011-04-12

2年以上前の話になるが、あるビラのプールサイドでたまに見かけて話を交わした、ジャカルタからやってきたというその女性は推定年齢30代後半で、両腕の手首から肘にかけて輪切り状の切り傷の跡が一面についている。私はジャクジーにつかりながら、くこの傷痕が気になっている。半年前にバイクに乗っているときに追突されて大けがをおったと話していたのでそのときの擦り傷かとも思ったが、擦り傷ならこんなおびただしい輪切り風傷痕にはならない。

数日たったある日もビラ滞在のドイツ人の知人と一緒にジャクージで歓談していると、その女性が再びやってきて同じジャクージに浸かった。今度は三人で世間話をして、しばらくしてその女性はジャクージから上がり、部屋に帰った。そのドイツ人の知人は「すざましいアームカッティングだね」とつぶやくように言った。私は驚いた。そうかあれはアームカッティングの後なのかと改めて知ってドイツ人の観察眼に驚いた。あるいはこのドイツ人のまわりに、同じような傷痕をもつアームカッティングの知り合いがいるのかもしれないが。

リストカッティングならその意味は知っている。しかしアームカッティングは一体何のためにするのか、よくわからない。そのドイツ人に尋ねると、ドラッグと同じ効果があるらしい。切ると血が出て痛むがそのうち痛みに対してアドレナリンだかドーパミンだかの脳内麻薬物質が分泌され、多幸感に浸れるのだと説明してくれた。薬を買う金の無い連中がやるのだとも付け加えた。

「カラマゾフの兄弟」で自分に鞭打つ男の話を思い出す。ダンブラウンの「ダビンチ・コード」でも自らの背中に鞭打つ男が描かれている。宗教的マゾだとは理解していたが、その後に深い多幸感があるとまでは考えが及ばなかった。そうするとマゾも特別な人の嗜好ではなく、人類誰でもがそうなりえる可能性を持っていることになる。苦痛が快楽に替わるという、対極にあるものが一挙に転換するという不思議が起きる。悪臭も極限まで薄めると芳香になる。親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや」なども、対極で転換する例のひとつかもしれないとふと思う。

アームカッティングの痕は白くなっている。インドネシア人の褐色の肌に白い傷痕は目立つ。単なるジャンキーと同じなのか、あるいは耐え切れない精神的苦痛から逃げるための行いなのか、あるいは双方が相まっての行為なのか、その背後にある人生までは見えない。ドイツ人は「あんなことをする連中は幼児期に問題があり、精神的に未熟なのだ」と最後に単純明解に断定した。

バリ人の親子ずれ 2011-05-30

娘を連れて海岸舗道を散歩する。風邪がなおりそうで、完全回復しない。100点を完全回復とすると95点くらいから一日一点くらいずつ回復しているのだがバシッとなおってほしい。ココナッツジュースは体にいいかなと思い、なじみの店で飲んでいると粗末なテーブルの前にバリ人の親子ずれが座った。やはり娘を連れているが年を聞くと11歳だという。母親が日本語で話しかけてきた。

「津波は大丈夫?」母親が尋ねる。

「東京の自宅は大丈夫だったが、たくさんの人が亡くなった。」と私が答える。

「私の旦那さんも日本にいるけど、大丈夫だった」

「旦那さんは日本人なの?」

「そう、千葉に住んでるの」

「だから日本語が上手なんだ。娘さんも話せるの?」と私。

「話せるよ。書くのはちょっと苦手だけど。インタナショナルスクールに行ってる。朝は6時半にお母さんがバイクで送ってくれて、7時半に学校が始まって、12時に終わる」と娘さんはおそばを平らげて次にナシゴレンを食べ始める。

「日本語が書けるように勉強してね。漢字まで書けるようになると、仕事が一杯あるよ」と私が言うと素直にうなずく。

「これ、写真だよ」と家族でバリの正装をしてとった記念写真を財布から取り出して見せてくれる。日本人の父親は60代にも見える。

「日本に行ったjことはあるの」

「娘は3回言ったことがある。私は行ったことがない」

わが娘は家ではあまり食事に関心を示さないが、こういうところではよく食べる。小さな袋に入ったピーナッツを3袋平らげ、揚げ菓子クルプックまで食べている。食べ終わり、ホテルに向かって歩いていると、後ろからバイクの警笛が聞こえた。振り返ると親子が手を振りながら去って行った。

 

霊能力者のべビーシッタ

このビラで娘は2歳の大半を過ごした。毎夕ビーチにベビーカーで散歩し美しいサンセットを見ながら砂遊びや波と遊ぶ日々だった。スミニャックはクタに隣接し、サヌールの静けさとはまた違った面白さのあるところだった。べビーシッタをこの女将にクリスチャンのつながりで紹介してもらい、2年ほど娘の面倒を見てもらった。このべビーシッタも霊能力やジャワの家族との特異な関係などいろいろな話題を我々に提供してくれた。彼女はジャカルタ出身の女性でジャワ人だ。ジャカルタの大学で秘書学科を終え、いろいろな曲折を経て現在はベビの世話や連れ合いの仕事のアシスタントそれに家政婦役と炊事を手伝ってくれている。彼女自身はベビーシッターと云われるよりアシスタントと紹介してほしいという。

彼女は10代のある夜の夢でリアルにキリストの出現する夢をみてそれまでのモスリムからカソリックに改宗した。彼女の父方の祖母がオランダ人でつまりクオータであり、その祖母から受け継いだ霊視能力を幼児から自覚していたという。町を歩いていてたびたび霊が見えたという。その後モスリムの両親に厳しく注意されてそのことを他人に話すことはなくなった。そのことが影響したのかどうか父親から疎まれて家族の縁を切り精神的に不安定な青春時代を送ったという。リストカットの後がなまなましく残る腕がそのことを物語る。

ある日、リンゼイさん殺害で市橋容疑者が逃亡中にその話を彼女にしたことがある。日本地図を見せてほしいという。そして最初は新潟あたりを指し、ついで大阪港のあたりを指した。その直後だったと思うのだが市橋は大阪の港で逮捕された。最初のポイントは新潟であり次いで日本地図のだいたい真ん中あたりを指したとも考えられるのでその信ぴょう性に疑問はある。

インドネシアにはどんな犯罪が多いのかと聞いてみたことがある。

「学生の頃、ジャカルタでは恐喝に合ったことがある。路地でナイフで脅かされたが、大声で叫んだら逃げていった」シシは度胸があるのだろう。あるいは恐喝は日常茶飯事で慣れているのか。
「催眠強盗が今はやっている」
「催眠強盗!なにそれ」
「親しげに近づいてきて、やあ!お久しぶりなどという。果て誰だろうといぶかっていると、肩を挨拶代わりのようにぱんぱんと3回叩かれる。それだけで気を失い、気がついたら金目のものを獲られている」
「信じられないね。そんなの聞いたこと無いよ。結構いろんな本や新聞それにインタネットを見てるけど催眠術強盗なんて小説でも聞いたことがない」

信じられないままネットで検索するとあるある。「へえまさに事実は小説よりも奇なりだ」と常套句を発する。
米国でもコンビニ強盗から銀行強盗までやってのけている。ターバンを巻いた男が話しかけてきて目を見てしゃべっている内に術にはまってしまい、術中に現金を渡していたという。

その催眠術強盗の被害に遭わないためには相手が肩を叩いたらそれ以上の力で相手の手でも叩き返せばよいという。「肩を叩かれ、それでパワーを受ける。パワーを受けたらたたき返してパワーを返してしまう」そうだ。ここインドネシア・バリは白魔術・黒魔術が日常生活でごく普通に語られ信じられているお国柄で、ここでそんな話を聞くと説得力がある。

さらに信じられない犯罪事例が続く。
「名刺強盗がある」
「????」「今なんて云った?」
「名刺強盗といって、たとえばレストランなんかで隣り合わせになり二言三言話をしたら去り際に名刺を渡される。何げなく受け取るのが普通でしょ。そしたら受け取って数分後には眠ってしまう」
「ちょっと信じられないなあ。名刺に薬物が何か付いているの?」
「たぶん。よくしらないけど。名刺強盗もこちらの人はたいてい知っているよ」

再びネットで名刺強盗を検索するが、今度は出てこない。「namecard robber」などと入力してみるがそれらしきニュースはなにも出てこない。それにそんな凄い名刺があるならスパイものにとっくに出てきているのでは。にわかには信じられない話だがある日バリのとある店で買い物をしているときに見知らぬ男が近づいてきてなにやら話しかけてきた。彼女が割って入りなにか言ってその男は去った。あとで、彼は催眠強盗かもしれないといっていたがそんな経験もした。

ある日、アメリカ大陸が裂ける夢を見て非常におびえたと訴えてきたときにはどう答えていいか困った。

知人がバリに遊びに来た時にその知人がやはり霊視能力があり彼女に関心を示したので紹介したところ、彼女の家でお互いに霊能力を確認しあったと報告があった。

ジャワのマッサージおばさんからブラックマジックをかけられておなかから釘が出てきたといったこともある。どうもどうもうさんくさい話ともっともらしい話が混在するのがこの種の話の通例であるらしい。

彼女の両腕の手首から肘にかけて輪切り状の切り傷の跡が一面についている。私はジャクジーにつかりながら、くこの傷痕が気になっている。半年前にバイクに乗っているときに追突されて大けがをおったと話していたのでそのときの擦り傷かとも思ったが、擦り傷ならこんなおびただしい輪切り風傷痕にはならない。

数日たったある日もビラ滞在のドイツ人の知人と一緒にジャクージで歓談していると、その女性が再びやってきて同じジャクージに浸かった。今度は三人で世間話をして、しばらくしてその女性はジャクージから上がり、部屋に帰った。そのドイツ人の知人は「すざましいアームカッティングだね」とつぶやくように言った。私は驚いた。そうかあれはアームカッティングの後なのかと改めて知ってドイツ人の観察眼に驚いた。あるいはこのドイツ人のまわりに、同じような傷痕をもつアームカッティングの知り合いがいるのかもしれないが。

リストカッティングならその意味は知っている。しかしアームカッティングは一体何のためにするのか、よくわからない。そのドイツ人に尋ねると、ドラッグと同じ効果があるらしい。切ると血が出て痛むがそのうち痛みに対してアドレナリンだかドーパミンだかの脳内麻薬物質が分泌され、多幸感に浸れるのだと説明してくれた。薬を買う金の無い連中がやるのだとも付け加えた。

アームカッティングの痕は白くなっている。インドネシア人の褐色の肌に白い傷痕は目立つ。単なるジャンキーと同じなのか、あるいは耐え切れない精神的苦痛から逃げるための行いなのか、あるいは双方が相まっての行為なのか、その背後にある人生までは見えない。ドイツ人は「あんなことをする連中は幼児期に問題があり、精神的に未熟なのだ」と最後に単純明解に断定したのだが。

遊び人のドイツ人

大柄なドイツ人がスミニャックのビラに滞在していた。夜な夜なナイトクラビングに繰り出していく。ビラには常にテンポラリな愛人を住まわせている。昼間は小ぶりなプールに大柄な体を沈めて涼をとっている。

「お前は夜遊びをしないのか。こんど一緒にいかないか」「いや、結構だ。家族がいるのでね」「俺は船に乗っていて海賊に襲われたことがある。銃で追い払った」などと本当かどうか眉唾の話もするなんとなく胡散臭い雰囲気も漂よわせていた。

ある日、愛人の若い女がやってきて、塩を貸してほしいという。不愛想な女で人にものを借りるのににこりともしない。このドイツ人、やばい連中なのかもしれないとの危惧もあり、親しくなることもなかったがバリにはこういう人たちも集まってくる。

<サヌール長期滞在>

2009年2月から2015年1月までバリに長期滞在した。

スペイン人のホセ

スペイン人のホセは相当な博識だった。仏教の話からバリでのバイアグラの入手方法、そしてオペラやセルバンテスのドン・キホーテまで幅が広い。話が面白いのでプールで歩きながらよく話をした。

スペイン人の名前はファーストネームの次に父方のファミリーネームが、最後に母方のファミリーネームがくる。たとえば彼と同郷のマラガ出身のピカソはパブロ・ルイス・ピカソとなってルイスは父方、ピカソは母方の名前だという。ピカソの名前は正式にはもっと長いことで有名だが、通常はこの3つの名前からなると理解すればよいそうだ。ところがポルトガルに行くとこの順序が変わる。ファーストネームの次に母方のファミリーネーム、次に父方のファミリーネームがくるという。彼によるとこの方がロジカルだという。母親は確定できるが父親は推測でしかないから、つまり不確定だからという小話風の解説になる。

ついでスペインの財政事情になった。スペインでは現在右派が政権を持っていてEUから金を借りようとしているがそれには様々な条件がつく。つまりEUのコントロールが厳しくなる。それを嫌う層は緊縮財政に反対のデモを繰り広げる。こうなった原因は長年の左派のばらまき政策の所為だという。左派と国民が無責任な金遣いをしてきた結果が債務超過という財政危機につながっているという。地方分権が強力であることも国の統一的運営に困難をきたしている。自治州(バスク地方、カタルーニャ地方、ナバラ地方)は独自の大使館を持っているという。同じスペイン国でありながら民法が異なり、結婚後の妻の財産は共同財産となることや長男だけが相続権を持つ等、自治州によって財産相続のルールも異なるという。

ある日ホセからもらった ボトルのラベルにはMARQUES DE SANTOSERRANO CRIANZA 2007 Ribera del duero denomination de origen と銘記されていた。このRibera del duero はソムリエ試験にも出題されるほどのスペインワインの名産地らしい。denomination de origenは原産地の証明で、これはかなりおいしい赤ワインだった。ホセは17度にキープしろと念を押していたがバリではどう考えてもそれは無理だ。せめて飲む前に20分だけ冷蔵庫に入れろともいったがこれはやった。陽気で気前のよいホセの思い出話だ。

スペインでは、恋をするのに最低5日間必要だと話始めた。もちろんジョークとしてですが。彼が大きな指を折りながらカウントして説明をする。
第1日目 出会う
第2日目 お話をする
第3日目 恋をする
第4日目 別れる
第5日目 忘れる
最低5日必要というのがおかしい。2,3日ではどうにも中途半端で恋にならないらしい。その後の別れへの展開も急ピッチで、最後の5日目の忘れるための日も、話としては楽しい。さすがラテンの国のジョークだ。
 
ホセはキューピッドという出会いサイトで次から次へと女友達をハントすることを生きがいにしていた。そして出会いの5日原則をつくり自分で律していた(つもりだ)。出会い、お話をする、恋をする、別れる、の5ステップを必ず実行し2度と同じ女性と付き合わないことをモットーにし、プールで泳ぎ、ジムに通い70近い年齢にも関わらず体形をキープしていた。しかしものごとはそう思い通りにはいかないようだった。ベトナムに行った際に知り合った女性とはモットーを貫くことはできなかった。風の便りでは二人はスペインで幸せに暮らしているという。
 
スペインの伝説上の人物であるドン・ファンの話になった。彼によるとドン・ファンの活躍は15世紀ごろが物語の舞台になっているらしいが、書かれたのは19世紀だという。例によって彼の博識によると彼は好敵手のドン・なにがしと一年間の恋の成果をリストにしてお互いに披瀝して競い合ったという。リストにしてと言うのが笑える。そのリストには見栄で追加した女もいるのではないかと茶々をいれると、男の名誉にかけて嘘はつかないし、実は証明役もいたのだという。証明役も笑える。

お前の国にドン・ファンに匹敵する男はいるのか尋ねられた。15世紀のあたりと言えば、さらに下るがわれらがヒーロー宮本武蔵などが16,7世紀に生きた時代と比較的近いと思うが、吉川栄治が作り出した剣一筋の無骨を売り物にするストイックな男では決闘の数では負けないが、女の事では話にならない。さらに下って井原西鶴の好色一代男の世の助も頭に浮かぶが、世の助は女の数では負けていないが決闘などはしないのでちょっと違うなと頭の中で打ち消す。

そのうち、日本では、この当時色恋に対する文化がまるで違うので、ドン・ファンに匹敵する男は見つけようがないと気がついた。女を快楽としてしか見ないストイックな求道者か、世の助のような快楽追及者かで、どちらも全く異なる。色恋に対する文化が全くちがうので、答えに窮した。日本では色恋といえばいつのころからか千人切りとかの言葉で表現されるように、単に快楽の相手としてのとらえ方が前面にですぎているが、かの国ではもちろん快楽もおおありだが、恋という形で精神的にたかめているようにみえる。なんだかラテン男に負けたようでつまらない。

しばらく考えた後に我らが日本にも源氏物語の光源氏がいるではないかと気がついた。かれなら世界標準のドン・ファンとして誇ることができる。「ヒカルゲンジ」とはどんな男だと尋ねるので、1000年も前の天皇の子供で、恋愛に明け暮れていた男だが政治上でも重要な地位にいた小説上の人物なんだ。当時は気に入った女の家を訪れて部屋に忍び込み、思いを果たすと朝帰りする習慣があった。そこで男同士が出会ってもスペインのドンファンのように決闘などということはしないと説明した。
 
運転手ラン

娘が5歳からバリインタナショナルスクールのプレスクールに通いだし、送り迎えにどうしても車が必要になった。トヨタの車を買いジャワから出稼ぎに来ている男ランが我が家の運転手となった。運転の技術は確かで安心できるし英語も通じるフレンドリーな男だったが2つの欠点があった。

一つはときどき酒を飲みすぎることで、月に1,2回大酒を飲んで朝起きられなくなり休む。そうするとタクシーで娘を学校に送り迎えしなければならない。ところがタクシーによってはすぐに来ない、あるいは学校でこちらの帰りを待ってくれないなど不愉快な思いをすることがありストレスがたまる。

二つ目は給料日ごとにジャワ島に帰ることでそのたびに月曜日あるいは火曜日まで運転手不在になる。これでは困るので運転手を変えざるを得なかった。インドネシア語を教えることに熱心で、妻に逃げられたといっては嘆き、親戚が亡くなったといっては大泣きする人間的には愛嬌のある憎めない男だった。

おはようおじさん

サヌール舗道を朝散歩するとかならず日本語で「おはよう」と声をかけてくるおじさんがいる。そのたびに二言三言話をするのだが日本語が相当旨い。しかしやはりたたずまいはバリ人なのだが顔が日本人の遺伝子を引き継いでいる(気がする)。彼はきっと残留日本兵の末裔かもしれないと妄想を膨らませている。 

 

 

 

 


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