「記憶の渚にて」白石一文 強く印象に残る文章があった。小説もこういう文章がいくつか文中にあるとそれだけで力作になるのかなと思う。
兄はまさしく過剰な人であった。
そして過剰というのは総じて駄目なのだ。過剰な知性も過剰な才能も過剰な美貌も過剰な家系も過剰な財力も過剰な愛も過剰な憎しみも、さらには過剰な霊感でさえも、およそ過剰という冠のつく状態は人間を必ず不幸にしてしまう。人間は過剰なものをコントロールすることができない。過剰さは、人さえ殺す。
どんな事柄にしろ「過剰さ」から逃れること、これはこの世界で多数の人間が生存していくための重要なキーワードだと私は思っている。
兄の何が過剰だったのか?
知性?才能?怒り?
中略
兄にとって過剰だったのは、まさしく兄自身であったろう。
人生を振り返っても確かに過剰な人は多くいたし、現時点で尚過剰な人もいる、しかし「人間は過剰なものをコントロールすることができない」そのとおりだと思う。
過剰な知性といえばガロアが思い浮かぶが日本の数学者で自死した谷山豊などもそうかもしれない。
過剰な才能といえばショパンを始めとする音楽家に多く見ることができる、シューベルト、ビゼー、モーツアルトいずれも過剰な才能を持て余して三十代で亡くなっている。画家にも多い、ゴッホやゴーギャンがそうか。
過剰な美貌はクレオパトラ、マリリン・モンロー、身近にはあの人かな。
過剰な家系、過剰な財力はあの人とこの人かなと思い当たる。
さて過剰な愛とは誰だろう、阿部定、嵐が丘のヒースクリフ、グレート・ギャツビーのギャツビー。
過剰な憎しみは比叡山を焼き討ちした信長かあるいはお隣の国の日本に対するものか、過剰な霊感はバリの知人アユを思い出す、たしかに霊感を持ちあぐねているところがあった。
この本には書かれていないが忌むべき過剰はウンベルト・エーコの「薔薇の名前」にも繰り返し述べられる。
過剰な清廉
ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」には性急で過剰な清廉を求める一派が厳しく非難されている。
「だが、何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」
「純粋さのなかでも何が、とりわけあなたに恐怖を抱かせるのですか?」
「性急な点だ」「薔薇の名前」下巻p208
過剰な正当性
気違いと子供は正しいことばかり言うものだ、アドソよ。 下巻p222
過剰な事業欲
下記の文の知識を事業と置き換えてみると、現代の事業家に対する警句になる。
ロジャー・ベーコンの知識への渇きは、欲望ではなかった。彼はあくまでも神の民を幸せにするために学問を利用したいと願ったから。それゆえ知のための知は追及しなかった。下巻p225
過剰に厳格な信仰
悪魔は物質界に君臨する者ではない。悪魔は精神の倨傲だ。微笑みのない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。 下巻p350
反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛からやってくるのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人がでるように。 下巻p370
歴史は、ローマ教皇の名の下に、1808年までの300年間に、スペインで火炙りの刑に処せられた人の数が合計32,000人であったと報告する。(ハイム・バイナルト『裁かれるコンベルソ』エルサレム、1981)