まさおレポート

紀野一義の研究66 無量義経 まず人を渡せ 追記

紀野一義講演(youtube)メモです。

2022-02-16初稿 2022・3・9追記


紀野一義氏は法華経講義を10年、5年と2回にわたって15年つづけてきて法華経の風光という本を書きました。5巻で原稿用紙5000枚です。法華経は何回やっても新しい発見がある。今までだれも行っていない話をしたいと。


法華経訳者の鳩摩羅什クマラジーバ(350頃~409)について。

インドの貴族の血を引く父と、亀茲国の王族の妹である母との間に生れ、7歳のとき母とともに出家した。龍樹による般若経を中心に据えた中観仏教を研究していた。

西暦 384年に亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、西暦401年に後秦の姚興に迎えられて長安に入った。女人破戒を飲酒の後に強制的に受け入れさされたため戒律を破ったことを一生悔いた。長安10年足らずの間に多量の経論の漢訳を行った。

鳩摩羅什の漢訳の美しさを紀野氏は繰り返し讃え、感嘆する。

「梵語を現代語訳してそれを鳩摩羅什の漢訳と比較するとその差に驚くんですね」


1985年昭和60年64歳のときに12回にわたる三回目の法華経講義の始まりにあたり、無量義経と序品を話す。

紀元前から、383年経って法華経がはじめられた。古い経典をいまごろ話してどうなるのという人がいる。2000年くらいはへのかっぱです。

新薬師寺の新は建て直されたとの意ではなく霊験あらたかという意味です。いつでもフレッシュを失わないと。これから12回にわたって法華経を始めることになった。既に15年かけて2回講義をしてきたが3回目の講義のこころみを自分で楽しみにしている。

自己が自己を自己するが仏教のもっとも大事な考えでいえば法華経が法華経を法華経する、わたしがわたしをわたしするの気持ちで話したい。


無量義経が法華経の開経で四十余年未顕真実で釈尊が法華経を説く以前の40年余りの間に説いてきた教えはいまだ真実でなくいまここに法華経が説かれる。

この四十余年未顕真実は日蓮上人が開目抄で無量義経を引いている。


而るを後八年の法華経に忽に悔還して二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに人天大会・信仰をなすべしや、用ゆべからざる上・先後の経経に疑網をなし五十余年の説教・皆虚妄の説となりなん、

されば四十余年・未顕真実等の経文はあらませしか

日蓮上人は未顕真実を眼目とされた。

善男子、第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、
 慈仁なき者には慈心を起こさしめ、
 殺戮を好む者には大悲の心を起こさしめ、
 嫉妬を生ずる者には随喜の心を起こさしめ、
 愛著ある者には能捨の心を起こさしめ、
 諸の慳貪の者には布施の心を起こさしめ、

 

ニューヨークで大菩薩禅堂金剛寺を開いた中川 宋淵がうまくない英語で聴衆に語りかける。

あなたが法にあたえたら法があなたにあたえる。

if you give your soul ,soul give you all.

自分のものを全部あたえるとひらけてくる。色即是空 空即是色 でありゼロになることからすべてが始まる。

無量義経十功徳品第三
慢多き者には持戒の心を起こさしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起こさしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起こさしめ、愚癡多き者には智慧の心を起こさしめ、未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起こさしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起こさしめ、有為を楽う者には無為の心を志さしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、 有漏を為す者には無漏の心を起こさしめ、煩悩多き者には除滅の心を起こさしむ。善男子、是れを是の経の第一の功不思議の力と名づく。


たった一句でよい。覚えておくとよい。

「未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起こさしめ」

自分の頭のハエもおえないのに人のハエは追えるのか。人のハエなら追える。

自分が渡る前に人を渡せ

大学の教師の前に私立高校で国語の教師をしていたことがある。なんにもわかっちゃいなかったんですが教えることで教えられるということを学びました。

ヘルマンヘッセのシッタルーダ バラモンのシッタルーダが渡し守をみているうちに助手をしながら渡し守になる物語。自分が渡る前に人を渡せを小説にしている。


序品の説明に入る。

是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい。

で王舎城・耆闍崛山を説明する。インドの王舎城(ラジギール)で見た霊鷲山の思い出を語り、霊鷲山は風葬の地でハゲタカが死体をついばむ場所だと。

その地にいって波動を吸収しなくてはほんとうのところはわからない。頭だけで考えたのでは間違う。

ここから宮沢賢治の詩「くらかけ山の雪」に飛ぶ。

鞍掛山は耆闍崛山=霊鷲山で鞍を掛けた形に見えることで共通していると。


くらかけ山の雪  宮澤賢治

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝〔くす〕んだりして
すこしもあてにならないので
まことにあんな酵母〔かうぼ〕のふうの
朧〔おぼ〕ろなふぶきではありますが
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかりです

「野はらもはやしもぽしやぽしやしたり黝〔くす〕んだりして
すこしもあてにならない」すこしもあてにならないこの世であてになるのはくらかけ山の雪つまりほとけばかりであると紀野一義はこの詩を読む。


11月にはいり宮沢賢治の弟の清六さんに花巻で会う。成島の毘沙門天にいく。ひどい道で車の腹はすりっぱなしで苦労したが山は全山雑木が紅葉して見事だった。


宮沢賢治の詩

ああいいな せいせいするな

風が吹くし

農具はぴかぴか光っているし

山はぼんやり

岩頸だって岩鐘だって

みんな時間のないころのゆめをみているのだ

  そのとき雲の信号は

  もう青白い春の

  禁欲のそら高く掲げられていた

山はぼんやり

きっと四本杉には

今夜は雁もおりてくる


「成島の毘沙門天のお堂の後ろの杉が風でなるんですよ」と。

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