(ニュピの日のオリオン座)
アリョーシャの語るドストエフスキー
僕は書かれざる第二巻で革命軍として皇帝によって処刑される。
何故ドストエフスキーは「いいこちゃん」の僕にそんな人生を歩ませたのだろうかって。それは僕も聞きたいところだけど。多分あの人自身がそういう潜在的願望があったんだろうな。
彼自身が処刑の寸前まで行って助かった経験があるでしょ。その瞬間彼は一回死んだんだ。そのとき処刑されるまでいく人生もそんなに悪いものじゃないなと思ったんじゃないかな。
だからそんな結末を思い描いて第一巻を書き進めたんじゃないか。
しかし作家は一筋縄じゃいかないよ、最後は助けてよい人生を送ったと締めたかった気もする。
彼は一体なにを描きたかったか?
一つはっきりしているのはロシアの大地信仰だね。僕が大地の下で星の降る下で永遠の信仰を大地に誓うだろう。ドストエフスキーも永遠の信仰を大地に誓いたかったんだよ。アニミズムと言って少々土着で軽くみられがちだけど彼はそこに落ち着いたのさ。
その一点を言いたいために多くの人物を登場させ大審問官などの物語を紡ぎだしたんだ。ドストエフスキーが大地信仰こそ全人類にとって普遍性のあるものだと論文を書いてもだれもすぐに忘れてしまうからね。
僕が奇人として描かれたのはどうしてかって?
それは彼自身が奇人の自覚があり、僕を借りて自身が贖罪したかったんだよ。彼の無茶苦茶な私生活は知っているだろう。僕は彼とは違う種類の奇人にもえるけど、実は聖痴愚という奇人だよ、二人とも。現れ方はいろいろだけど、根はそのあたりだね。
僕はドミトリーの性格が一番好きだ。彼が魚料理屋で僕に旨い料理を食べさせてくれるところを覚えているかい。ああいう心根の優しいところが大好きなんだ。
そうそう、あなたはゴッドファーザーを観たかい。長男のソニーをマイケルが愛しているだろう、あんな感じだよ。マリオ・プーゾも「カラマゾフの兄弟」の影響を受けているといっていたよ。
きっとドストエフスキーもドミトリーを一番愛していたと思う。作者の破天荒な性格の部分を色濃く受け継いでいる。部分の分身だよ。
ゾシマがうずくまって接吻するだろう、あのシーンはゾシマがドストエフスキーになり替わってドミトリーを祝福しているんだよ。つまり作者は自分自身を祝福している。
冤罪で牢獄にいるドミトリーはシベリア送りになったドストエフスキーそのものだよ。
腹をすかして泣く「がきんちょ」への贖罪のためにシベリアに行くと言ったドミトリーもね。
僕が大地に横たわってロシアの大地信仰を誓うところがあるだろう、ドミトリーはその瞬間女のいる場所へ馬車を飛ばしている。
ドストエフスキーは愛人と馬車でヨーロッパ旅行に出かけたことを思い出して書いている。
では又ね。