日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである

2015-09-07 | Weblog
  ヨハネ12章 

  24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(新共同訳)。

  1節「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」小見出し『ベタニアで香油を注がれる』。そこでマルタは食事の持て成しをした。生き返らせて頂いたラザロとイエスの命を狙うユダヤ人らの注目を浴びる出来事(11章)の直後である(2節)。マリアはナルドの香油1リトラ(重さ326g)をイエスの足に塗り髪でぬぐった。並行記事(マタイ福音書26、マルコ福音書14章)と設定が少し異なる。高価な香油を足に塗り髪で拭うのは、自己否定と想像を超える感謝の表れだが、これは葬りの準備のためだとイエスが評したのは共通している。しかしラザロとユダがいたことを明記している。それはイエスの死と復活の出来を二人から際立たせていると理解することができる。このことは、周囲に大きな波紋となり、一層イエスを殺す機運が増している(9~11節)。
  12節「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き」小見出し『エルサレムに迎えられる』。過越祭の五日前である。イエスがエルサレム城南側から子ろばに乗って入城するのは、旧約ゼカリヤ書9章9節と詩118篇25~26節に示されたメシアとしての預言通りであったが、弟子たちはそれを知るのは復活後であった(13~15節)。大勢の群衆も神から出たという真意を知らないまま、ラザロの出来事を見聞きしたことから、地上の王の入城としてなつめやしの葉を振って歓迎したのである(17~18節)。
  20節「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」。彼等は異邦人でユダヤ教新派であるが、イエスの行動に強い関心を抱き、会って話したいと願い、ベトサイダ出身でギリシア語名フィリポ(1章40節)に頼み、アンデレと二人でこれをイエスに伝えた(21~22節)。
  23節「イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た」。「人の子」はメシア称号である。イエスはここで宣言した。「栄光を受ける」とは一粒の麦として地に落ちて死ぬことであり、十字架を指す。
  24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。「はっきり言っておく」は定型句「(アーメン アーメン 我汝に告ぐ=文語訳」。この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至るのである(25節)。それによって多くの実を結ぶことになる。そして27節に「正にこの時のために来た」とある。十字架によってなされる栄光の業とは、地上から上げられ(本書ではこのように表現する)、すべての人をご自分のもとに引き寄せることである(32節)。しかし群衆は無知でこれを理解していない(34節)。それは闇に支配されているからである(1章5節、10節)。解放するのは真理の光であり、それは光として存在するイエス(8章12節)を認め受け入れることである。
  36節「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。ここで「光」(ト フォース)に定冠詞が付いているから「光なる方」であり、「光なる方と共に歩く」「光なる方を信じる」のである。これを受け入れない人々に対して預言者イザヤの「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」(40節)という。これは神が不信仰の人々をも、支配していることである。イエスはこの世の人々の頑なな心を打ち砕き、暗闇を歩く者のないようにする為に来たと言われる。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(47節)。これがイエスのご本心である。