日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

主イエスよ、わたしの霊をお受けください

2015-09-29 | Weblog
  使徒言行録7章 

  59節「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った」(新共同訳)

  1節「大祭司が、『訴えのとおりか』と尋ねた」小見出し『ステファノの説教』。奉仕者(ディアコノス)に選ばれたステファは「恵みと力に満ち」「知恵と霊によって語る」優れた説教者で、彼に議論を仕掛けた者らが太刀打ち出来ないのに腹を立て、人々を唆せ、偽証人を立て最高法院に訴えられ、彼は訴状に対する弁明をする。
  2節「そこで、ステファノは言った。『兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ』」。彼は兄弟であり父である者と呼び掛け決して敵視しないばかりか受容の姿勢を示す。しかし実際彼は石打ち刑にされる(58節)。歴史を父祖アブラハムから解く(3~5節)。続いて族長ヤコブと一族がヨセフによりエジプトに移住し四百年(出エジプト記12章40節・430年)奴隷の民となるが、再び帰国する(6~8節)。ヨセフによるエジプト移住の経緯が述べられる(9~16節)。17~22節はモーセ誕生と40年であり、23~29節ミディアンの地での40年である。
  30節「四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました」。彼の召命物語である(31~34節)。出エジプト3章にある。35~43節は、再度エジプトから約束の地に向う「荒れ野四十年」を述べる。シナイ山で、「命の言葉を受け」たが(38節)、これに背き偶像礼拝に陥ったので神は拝むままにされたと預言者アモスの言葉(5章25~27節)を引用して糾弾した(39~43節)。荒れ野でモーセは「証の幕屋」(44節)を造ったが、その後ダビデが願いソロモンが神の家を建てたが(46~47節)、「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」とステパノは明確に告げ(48節)、預言者イザヤ66章1~2節を引用して語った(49~50節)。
  51節「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです」。「心と耳に割礼を受けていない人」とは、暗に割礼を習慣化していることへの批判であり、更に先祖の人々は真の神礼拝を実現するため遣わされた「正しい方」メシアを預言した人々を殺し、そして今や、その方を裏切る者、殺す者となったと語った(52節)。これを聞いた裁判席の人々は「激しく怒り、ステフアノに向かって歯ぎしりした」(54節)。裁く者が裁かれる者になったのである。更に事柄は重大で、それが真実だったとしても自分たちの過ちを認めたくない、認めるなら、ユダヤ教の依って立つ所は失われてしまう。「正しい者を殺す者となった」と指摘された事実を消し去るために再び同じ過ちを繰り返してステファノを殺す。人は自分の罪を指摘されると怒りこれを取り去るために相手を殺す。ここに人の罪の真相が暴露される。これは人の歴史に繰り返された事実である。
  55節「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て」。「神の右側」は権威と力の象徴である(詩118篇15、16節)。また大祭司イエスの執成す姿である(ヘブライ4章14節)。「立っている」のは事柄の緊急性を表わす。人々は大声で叫び、手で耳をふさぎ一斉に襲いかかり、「都の外に引きずり出して石を投げ始めた」(57~58節)。これはユダヤ教が行う石打ちの死刑である。その臨終に献げた二つの祈りに注目する。それは「主よ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」(60節)である。
  これはルカ福音書23章34、46節のイエスの祈りと同じである。著者はこれを意図的に書き記したのであろう。イエスと同じ十字架にかかる原始教会の最初の殉教者として、彼の最期を書き綴った。この祈りは死に勝利した祈りである。