ヨハネ21章
22節「イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(新共同訳)
1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである」。小見出し『イエス七人の弟子に現れる』。本章は20章30節以下にある通り、ヨハネ福音書の補遺として付け加えられた記事である。復活主がティベリアス湖畔(ガリラヤ湖の別名)で弟子たちに示された教説で、ヨハネ福音書独自なものである。七人の弟子の内ペトロ、トマス、ゼベダイの子らは十二弟子に出ているが、他はここだけである(2節)。
3節「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」。復活のイエス顕現を通して立ち直りと宣教使命を与えられた場所は日常生活の只中から始まることを教える。しかし出漁の働きは平穏なものでないことを示唆する。弟子の召命を受けた時を思い出させる(ルカ福音書5章1~11節)。同じように匿名者イエスは「舟の右側に網を打ちなさい」と呼び掛け、言われた通りにすると網を引き揚げられないほど魚が取れた(4~6節)。「主だ」叫ぶ声でペトロは服を着て湖に飛び込み陸にあがると食事を用意して待ち受けているイエスに会う。主に招かれパンと魚の手渡された食卓は、原始教会が行った「聖餐」を指している(12~14節)。獲れた153匹は地中海の魚の種類で、全人類の象徴であるとヒエロニムスは説いている
15節「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」。三度同じ言葉のやり取りがある。イエスは「この人以上にわたしを愛しているか」。ペトロ「…愛していることはあなたがご存知です」。「わたしの小羊を飼いなさい」。三度「愛しているか」と問われるのは、三度イエスを否んだ彼には残酷な響きを持つ。彼は悲しくなり「あなたは何もかもご存知です」と告白をする(17節)。愛は心の奥底から出る応答である(15章12節)。ここから「小羊を飼い、羊の番をし、羊の世話をする」という信頼関係が生れる。ここでイエスが二度「愛しているか」(アガパオ)と問いペトロは「愛しています」(フィレオ)と答えたが(15、16節)、三度目はイエスもペトロもフィレオであった。ここでは愛の相違がないことを示す。
18~19節は、ペトロが逮捕されて殉教の死を遂げることをイエスは婉曲に予告しているところで、紀元62年頃皇帝ネロの時と言われる。「両手をのばして」は十字架刑を示唆する。
20節以下では、もう一人の弟子(7節)が記される。謎の人物だが諸説がある。「ヨハネ福音書」の著者かもしれない。ここでペトロと二人の問題が取り上げられるが、召命に応える道は他者との比較によってではなく、「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)と言って、イエスはペトロを諭した。この言葉の背後には19節があることは明らかである。これはキリスト者に「死に至るまで忠実」であることが求められている(ヨハネ黙示録2章10節)。
22節「イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(新共同訳)
1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである」。小見出し『イエス七人の弟子に現れる』。本章は20章30節以下にある通り、ヨハネ福音書の補遺として付け加えられた記事である。復活主がティベリアス湖畔(ガリラヤ湖の別名)で弟子たちに示された教説で、ヨハネ福音書独自なものである。七人の弟子の内ペトロ、トマス、ゼベダイの子らは十二弟子に出ているが、他はここだけである(2節)。
3節「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」。復活のイエス顕現を通して立ち直りと宣教使命を与えられた場所は日常生活の只中から始まることを教える。しかし出漁の働きは平穏なものでないことを示唆する。弟子の召命を受けた時を思い出させる(ルカ福音書5章1~11節)。同じように匿名者イエスは「舟の右側に網を打ちなさい」と呼び掛け、言われた通りにすると網を引き揚げられないほど魚が取れた(4~6節)。「主だ」叫ぶ声でペトロは服を着て湖に飛び込み陸にあがると食事を用意して待ち受けているイエスに会う。主に招かれパンと魚の手渡された食卓は、原始教会が行った「聖餐」を指している(12~14節)。獲れた153匹は地中海の魚の種類で、全人類の象徴であるとヒエロニムスは説いている
15節「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」。三度同じ言葉のやり取りがある。イエスは「この人以上にわたしを愛しているか」。ペトロ「…愛していることはあなたがご存知です」。「わたしの小羊を飼いなさい」。三度「愛しているか」と問われるのは、三度イエスを否んだ彼には残酷な響きを持つ。彼は悲しくなり「あなたは何もかもご存知です」と告白をする(17節)。愛は心の奥底から出る応答である(15章12節)。ここから「小羊を飼い、羊の番をし、羊の世話をする」という信頼関係が生れる。ここでイエスが二度「愛しているか」(アガパオ)と問いペトロは「愛しています」(フィレオ)と答えたが(15、16節)、三度目はイエスもペトロもフィレオであった。ここでは愛の相違がないことを示す。
18~19節は、ペトロが逮捕されて殉教の死を遂げることをイエスは婉曲に予告しているところで、紀元62年頃皇帝ネロの時と言われる。「両手をのばして」は十字架刑を示唆する。
20節以下では、もう一人の弟子(7節)が記される。謎の人物だが諸説がある。「ヨハネ福音書」の著者かもしれない。ここでペトロと二人の問題が取り上げられるが、召命に応える道は他者との比較によってではなく、「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)と言って、イエスはペトロを諭した。この言葉の背後には19節があることは明らかである。これはキリスト者に「死に至るまで忠実」であることが求められている(ヨハネ黙示録2章10節)。