日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

わたしの愛に留まりなさい

2015-09-10 | Weblog
  ヨハネ15章 

  12節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛に留まりなさい」(新共同訳)。

  1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。小見出し『わたしはまことのぶどうの木』。成長が約束されて良い実を結ぶ木とそれを育てる農夫とは、神とイスラエルの関係を表現したイザヤ書5章1~7節と対比した譬である。イスラエルは期待に反し、悪しき実を結ぶ野ぶどうの木となってしまった。ここでイエスは「わたしは である(エゴー エイミー)真理のぶどう」と結ばれた新しい神の民の共同体である。「命の共同体」といってもよい。
  2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。農夫である御父は、実を結ばない無駄な枝を剪定し、いよいよ良い実を結ぶ作業をする。一般の場合は良い実を結ぶ為に先ず「接ぎ木」という方法を取る。野生の木は柿と同じで良い実を結ぶことは出来ない。「接ぎ木」の比喩は、オリーブの樹がある(ローマの手紙11章17~22節)。ここではイエスが原木で、既に接ぎ木された枝が弟子たち(命の共同体である教会)である。そこで、農夫なる父は、良いぶどうの実を結ばせる為に「手入れ」(剪定)をする(2節)。何処までも実を豊かに結ばせる方法であり、癒しの働きと言うべきである。あなた方は既に清くなっているとは、剪定済みであるということである(3節)。
  4節「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」。短刀直入にいえば、ぶどうの枝がつながっている(メネー)、あなたもわたしにつながりなさい(メネー)と言われる。5節で「つながっている」という唯一の条件が繰り返し強調される。4~7節まで八回出てくる。英語では、remain united in meである。14章で繰り返されていた「メノー」(とどまる)と同じである。12章34節(いつもいる)、4章40節(滞在する)にもある。14章23節では「一緒に住む」( live with him)である。これを相互内住という。ここで、樹液を神の愛として理解すると次の言葉は容易に受け入れられる。
  12節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛に留まりなさい」。相互内住は、愛の共同体として立証されることになる。互いに愛し合うということは、主イエスが友のために命を捨てたように、自分の命を捨てるということである(13節)。ここで、イエスとの一体性の証しとしてあなたを友と呼ぶのである(14節)。友と呼ぶ根拠は、御父がイエスを選ばれたようにわたし達もイエスに選ばれたからである(15節)。そこでイエスの名によって願うなら、何でも御父は答えて与えられることになる(16節)。
  18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」小見出し『迫害の予告』。既にイエスの友として選ばれ、命を捨てることが予知されていた通り(13節)、この世から憎まれ迫害を受ける(19~25節)。しかし、イエスに代って遣わされる「真理の霊」なる弁護者(パラクレートス)が、必ずイエスについて証ししてくださる(26節、14章26節)。何と喜ばしく、大きな慰めであろう。