ヨハネ18章
6節「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(新共同訳)
1節「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」。小見出し『裏切られ逮捕される』。ユダの裏切りは13章で予告している。彼の事前工作も省略する。「イエスは弟子たちと共に度々ここに集まっておられた」として、居場所を明確にし、逃げ隠れしないイエスを示している(2節)。
3節「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた」。イエス逮捕のため最高法院の下役どもだけでなく、ユダはローマの大部隊を引き連れてやって来た。「一隊」(スペイラ)とは、六百人あるいは二百人の数である。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられたので、進み出て、誰を捜しているのかと問い、ナザレのイエスだと言うと「わたしである」(エゴー・エイミー)と身分をあかした。完全に自由な決断によって十字架の道を歩まれる姿を証言している。このイエスの確信に満ちた何らもの怖じしない言葉に圧倒される
6節「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」。人の全存在を打ち倒す程の権威、神がイエスを通して現された力である。これはご自身を表わした七つの言葉の最初に来る(1命のパン、2世の光、3良い羊飼い、4門、5道・真理・命、6復活・命、7葡萄の樹)。出エジプト記三章で燃える芝の中から『わたしはある。わたしはあるという者だ』とモーセに語りかけられた神の名前と同じである。ペトロが大祭司の手下に打ってかかり、その右耳を切り落とすという事件に「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と諭された(10~11節)。前向きの積極的受容である。イエスの御心は何か。「わたしを捜しているのなら、この人々を去らせよ」と言われた(8節)。これは「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(9節)の父との約束の実現を願った言葉で、17章12節を指している。
12節「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り」。小見出し『イエス、大祭司のもとに連行される』。大祭司カアファの舅アンナスのもとに連行される。これは余審ということか舅が隠然たる勢力を持っていたと思われる。イエスに敵対する陣営の行動か(13~14節)。ペトロはこの大祭司の中庭にまで入ったが門番の女中から「その人の弟子だ」と言われ彼は違うと否認した(15~18節)。二度三度の指摘にも「知らない」と否定する(25~27節)。13章38節のイエスの予告通りとなった。
28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」。イエスの十字架刑が過越祭前日であることを示す箇所である。彼らは審判をピラトの官邸に移しローマの法律で告発しようとした。官邸内で罪状の認定で押し問答をする。ここでもイエスは審判について予知しておられた(32節)。
「わたしはこの世には属していない」としてピラトの権限を否定され、「真理に属する者はわたしの声を聞く」と告げられた(36~37節)。ピラトはイエスが無罪であると民衆に告げたが、ユダヤの慣例で誰か一人を釈放すが、どうかと尋ねると「それはバラバだ」と大声で言い返した(38~40節)。
6節「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(新共同訳)
1節「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」。小見出し『裏切られ逮捕される』。ユダの裏切りは13章で予告している。彼の事前工作も省略する。「イエスは弟子たちと共に度々ここに集まっておられた」として、居場所を明確にし、逃げ隠れしないイエスを示している(2節)。
3節「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた」。イエス逮捕のため最高法院の下役どもだけでなく、ユダはローマの大部隊を引き連れてやって来た。「一隊」(スペイラ)とは、六百人あるいは二百人の数である。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられたので、進み出て、誰を捜しているのかと問い、ナザレのイエスだと言うと「わたしである」(エゴー・エイミー)と身分をあかした。完全に自由な決断によって十字架の道を歩まれる姿を証言している。このイエスの確信に満ちた何らもの怖じしない言葉に圧倒される
6節「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」。人の全存在を打ち倒す程の権威、神がイエスを通して現された力である。これはご自身を表わした七つの言葉の最初に来る(1命のパン、2世の光、3良い羊飼い、4門、5道・真理・命、6復活・命、7葡萄の樹)。出エジプト記三章で燃える芝の中から『わたしはある。わたしはあるという者だ』とモーセに語りかけられた神の名前と同じである。ペトロが大祭司の手下に打ってかかり、その右耳を切り落とすという事件に「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と諭された(10~11節)。前向きの積極的受容である。イエスの御心は何か。「わたしを捜しているのなら、この人々を去らせよ」と言われた(8節)。これは「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(9節)の父との約束の実現を願った言葉で、17章12節を指している。
12節「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り」。小見出し『イエス、大祭司のもとに連行される』。大祭司カアファの舅アンナスのもとに連行される。これは余審ということか舅が隠然たる勢力を持っていたと思われる。イエスに敵対する陣営の行動か(13~14節)。ペトロはこの大祭司の中庭にまで入ったが門番の女中から「その人の弟子だ」と言われ彼は違うと否認した(15~18節)。二度三度の指摘にも「知らない」と否定する(25~27節)。13章38節のイエスの予告通りとなった。
28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」。イエスの十字架刑が過越祭前日であることを示す箇所である。彼らは審判をピラトの官邸に移しローマの法律で告発しようとした。官邸内で罪状の認定で押し問答をする。ここでもイエスは審判について予知しておられた(32節)。
「わたしはこの世には属していない」としてピラトの権限を否定され、「真理に属する者はわたしの声を聞く」と告げられた(36~37節)。ピラトはイエスが無罪であると民衆に告げたが、ユダヤの慣例で誰か一人を釈放すが、どうかと尋ねると「それはバラバだ」と大声で言い返した(38~40節)。