日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

聖霊の導き

2006-06-15 | Weblog
これまで律法ではなくキリスト信仰と論じられたが、具体的に割礼を取上げているのが、5章である。割礼については今日のキリスト教会では無縁である。
 問われるのは、キリストの信仰がすべての束縛から自由にするのは無律法ではないことである。これを5節で示している。
 「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」。
 ここも口語訳「愛によって働く信仰」が判りやすい。愛をフイルター(through)にした信仰である。そうでないと信仰は変質し律法に化けてしまう。
 この愛は神から賜わるのである。
 16節後半に出ているように、心を虚しくして聖霊の導きを仰ぐのである。16節、18節、25節に「霊の導きに従って生きる」とある。そうするなら聖霊は9つの実を結ぶ(22節)。その最初が愛でる。
 「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」
 8つまでがすべて人に向けられ、節制だけ自分に向けられている。 
 日毎に聖霊の導きを祈る。
 (30mの城壁上は回廊、南西角ロビンソンアーチ跡)

逆戻りの危険

2006-06-14 | Weblog
4章も律法の束縛から自由にされ神の子の身分-相続人とされていることが説かれる。後半にあるアブラハムの妻サラと女奴隷ハガルとに生まれた子を約束と律法とに区別して比喩的に示す。律法の束縛を9~10節に述べる。
 「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」
 信仰が律法に逆戻りする危険性は、誰にでも、いつでも起りうる。
 ルターが経験した福音再発見は、ガラテヤ書で指摘されていることと同じである。
 13節から15節にある親密な関係はキリストに結ばれている証しである。忌み嫌われるような事柄とは悪性の眼病だろうという推測がなされる。
 18節「わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです」とある。
 このようなキリスト者の交わりを願ってやまない。
 (写真 エルサレム神殿南壁 修復作業中  )

アブラハムの約束

2006-06-13 | Weblog
 3章1節に「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち」とある。手紙でこのようなきつい言葉を読むと驚き悲しむであろう。しかし事柄は深刻で何としても理解して欲しい気持ちが伝わる。
 それはキリストへの信仰によって義とされるので律法ではないということ。
 ここでアブラハムが大きく取上げられる。これは4章に続く。
 論点は6節「アブラハムは神を信じた。それは彼の信仰を義と認められた」から来る。創世記15章6節からの引用である。信仰によって生きる人は異邦人でもアブラハムの子として祝福される。何故ならこの約束は律法がイスラエルに与えられる430年前?、神が予告したからである(8節、17節)。
 ここで約束と律法の違いが示されている(15~20節)。
 十字架によって律法の呪いから贖い出され、神の約束がイエス・キリストの信仰によって信じる者に与えられる(22節)。
 そこで28節の言葉が重要となる。
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
(写真   嘆きの壁) 

信仰の奥義

2006-06-12 | Weblog
 2章ではっきりしたのは、福音の真理は律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義とするということである。これは律法からの解放である。
 律法が問題になるのは、教会にユダヤ教から改宗した者がいたからである。パウロもペテロもそうである。しかしパウロは非ユダヤ教徒、つまり異邦人への福音宣教を使命としていたが、ガラテヤには両方の立場の信徒がいて、信仰によって義とされる福音が歪められようとしていた。その混乱を引起こした人々の中にペトロもいたというのである。そこで釘を刺したのが、
 16節「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。
 「信仰によって義とされる」とは全く神の側からの一方的な恵みであることが19~20節から判る。
 ここに信仰の奥義がある。
 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
 (写真 エルサレム城 西壁)

福音

2006-06-11 | Weblog
 ガラテヤ1章には、福音という言葉が10回も出てくる。キリストの福音とか、告げ知らせた福音はよいが、告げ知らせたものに反する福音(8、9節)が問題になる。それは2章以下に展開される。
 反する福音を告げ知らせる者は「呪われるがよい」という。むしろ「呪われよ」がはっきりする。
 パウロは福音を告げることは自分の知識や判断に依っていないという。12節に「 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」とある。
 彼はイエス・キリストから啓示されたことを13節から24節まで述べている。アラビア3年間は彼には貴重な生活だったのだと思う。
 「イエス・キリストの啓示」ということが問われることになる。
 福音の真理は唯一であり、人によって変ったり、人を通して変えられたりしてはならない。
 ルターの信仰とか、カルヴァンの信仰とか言うのはおかしい。
 説教者にMeditation(黙想)の重要性が説かれるが、虚心になって、聖書から福音を聴くことではないかと思う。
 (写真 糞の門から城内へ 所持品チェック)

自分を吟味する

2006-06-10 | Weblog
 様々な難題を抱えたコリント教会に書き送った手紙(複数)の最後のページとして13章を読むと、締めくくる13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」が一層強く伝わってくる。
礼拝の終わりの祝福である。「祝祷」というが、そうではなく「告げることば・告知」である。
 本章で特に示されるのは5節である。ここは口語訳が明解である。
 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。」。
 「吟味する」(ギ語)は別訳で「検討する、わきまえる、見分ける、試す、識別する」など他に多く出てくる言葉である。
 自分をよく省察して失格者(6節)でないかどうか調べる、自己診断、自己申告せよということである。信仰がいつの間にか甘えに変質して、問題を「まァいいャ」と肯定してしまってはならない。
この5節をリビングバイブル訳ではこうである。
 「ほんとうにクリスチャンだと言えますか。クリスチャンとしてのテストに合格していますか。自分の内に住まれるキリスト様と、その溢れる力とを、いよいよ強く実感していますか。それとも事実とは裏腹に、ただクリスチャンのふりをしているだけですか。」
(写真 聖墳墓教会正面)

造り上げる

2006-06-09 | Weblog
 12章にはパウロの身に起きた二つの誇りとする事柄が出ている。14年前に第三の天にまで引き揚げられた不思議な体験(2~4節)、そして思い上がらないために身に棘が与えられていること(7~9節)である。後者こそ11章30節で述べたのと同じで大いに喜んで受け入れている誇りだという。
この棘については諸説がある。しかし「わたしは弱い時にこそ強い」と告白できるのは尋常ではない。主に在ってすべてを受け入れる時はじめて可能である。
信じるとは受容することである。
 12章後半には、教会内の問題がまだ解決出来ていない状況があり、三度目の訪問(14節)の時を心配している。彼の本心は19節「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです」。
この「造り上げる」は口語訳「徳を高める」新改訳「築き上げる」と三様に訳されている。信仰が淘汰され訓練され、成長するということである。
 ここに牧会者パウロが見えてくる。
(写真 第13station イエス十字架より降ろされる)

神の熱情

2006-06-08 | Weblog
 11章は、パウロの使徒としての働きを色々書き表している。10章にあったパウロ批判に応えるものと思われる。それは5節「あの大使徒たち」とか13節「偽使徒、ずる賢い働き手」という論敵に対する弁明である。
 先ず神の福音を無報酬で告げ知らせ、生活の負担をかけなかったこと(7~9節)、そしてキリストに仕える者として誇ることがあるなら、愚か者になって自分の労苦を誇ることにしようと、24~27節に想像を絶するような伝道者としての受難を羅列した。一体何処で何時このような経験をしたのか知るには、使徒言行録からでは不十分である。
そして彼が誇ろうとしたのは、肩肘張った強さではなく、むしろ弱さであったことが28~29節から判る。
 「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」
 使徒の有無ではなく、真にキリストに仕える者に求められるのは何か。
2節「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」である。口語訳では「神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している」とある。出エジプト記20章5節を参照したい。
 (写真 第10station イエス衣を脱がされる)

理窟を打ち破り

2006-06-07 | Weblog
 10章1節「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と、10節「手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で話はつまらない」は同じパウロ批判である。
 そこで彼は、今度コリント教会訪問の時は問題解決に際して「勇敢に立ち向うつもりですが、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」(2節)と述べている。
 問題を文書で伝えているのと実際に会って話すのと違うという批判はよくあることだ。内容によっては死活問題になる。ではどう解決するのか。
 4、5節「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ」。
 ここに神の力と神の知恵で「理屈を打ち破り」、「高慢を打ち倒し」とある。
 矢張り問題解決は理屈や高慢という壁を打ち壊して頂くことから始まる。
 (写真 336年コンスタンティンが建てた聖墳墓教会内部 6教団が礼拝する)

喜んで施す

2006-06-06 | Weblog
 9章7節は口語訳がよい。「 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」献金袋にこれが書いてあったが、献金ではないので、今はローマ12章1節に替った。
 昨今様々な災害に対する募金がある。殊にアジアの貧しい国に起きた想像を超えるような被害の報告を報道で知ると、心が動かされる。
 国内でも水害や地震の被害で多くの被災者が起きて、その救援活動がされている。
 「成長した社会」といわれる現代は各国の政府やNGO、自主団体の支援が必須でありその働きは大きい。その救援は物心両面になされている。
 社会全体から見るとキリスト者の働きは小さなものかも知れない。
 しかし常に関心を払い、自主的自発的に応えていくことが求められる。それは神の御旨だから。
 ネパールで医療奉仕をした岩村 登医師もその一人である。
 6節「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」
 豊かな刈り入れとは、神を褒めたたえ感謝することであり(12、13節)、相互に愛と祈りの交わりが与えられることである(14節)。
 賛美歌21・566番が浮かんでくる。
 「むくいを望まで、人に与えよ、こは主の尊き御旨ならずや
  水の上に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生いたつものを」 
 この引用聖句は7節と、旧約コヘレト11章1節である。
 (写真 聖墳墓教会)

惜しまずにする

2006-06-05 | Weblog
 マケドニア州の諸教会がエルサレム義援金活動で示した証しの素晴らしさが8章2節に記されている。「 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」。
「極度の貧しさがあふれ出て」は 口語訳「極度の貧しさにもかかわらず」のほうが意味が通じる。
 これは、満ち満ちた喜びがあるからで、中々できることではない。
その喜びが何であるかは具体的にはわからないが、9節「主イエス・キリストの恵み」に違いない。主の恵みは満ち溢れるものだからである。
 15「『多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった』と書いてあるとおりです。」
 これは出エジプト記にあるマナの奇跡物語からの引用句である。
 介護保険制度など、社会福祉のことが話題になると、不満が起きてくる。それは不平等だからである。
 勝ち組、負け組などというのは、悪しき競争原理のことだ。
 マナの物語にはそれはない。
 (写真 一度外へ出て聖墳墓教会に向かう)

慰めと信頼

2006-06-04 | Weblog
 7章は心待ちしていたテトスが到着し報告を聞いた時の心境を述べているところである(6節)。コリント教会とパウロの関係がよく表れている。
 悲しみを与えた「あの手紙」(8節)によって一層信頼関係が増したようである。
 4節「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」
 キリストの共同体は痛みや悲しみを共有できる信頼関係によってなる。これが損なわれると、最早神の教会とはいえない。
 時に教師と信徒とのトラブルを耳にすることがあるが、信頼関係を回復するためにどれ程嘆き悲しみ熱心になる人がいるかに懸かっている(7節)。
 厚い信頼は、必ず慰めをもたらすことを示される。
 (写真 第5 station クレネのシモン代わりに十字架を負う)

神の僕

2006-06-03 | Weblog
 6章4節に「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」とある。9種類の忍耐を要する体験、8種類の内面的な働きによる証しによって、その実を示しているのが、8節から13節のことである。
 口語訳は「神の僕」であるが、パウロは自らを僕としてこれ程徹底して証言しているところは、他にないだろう。
 10節「 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
 このような生き方は「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 真理の言葉」(6節)によらねば不可能である。
 アッシジのフランシスや、マザーテレサの生き方はこれである。その片鱗が伺われる。
 そして、そうありたいと祈る。
 (写真 第4 station イエス母マリアと出合う)  

日々新しくされ

2006-06-02 | Weblog
 5章17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
 これは4章16節に示されたのと同じである。外なる古びていく体を、2節では地上の幕屋と表現している。
 加齢とともに足腰が弱くなり、健康保持に日々努めているが、それだけ内なる恵みに日々新しくされ、輝いているかを省みる。
 そこで神の和解の福音を証しする(18節)とはどういうことなのか。
 福音に生きるなら、老いても若々しくなるということを周囲に示すことではないか。
 健康で長生きしたいというだけなら自己満足になる。キリスト者は、その依って立つところが違う。

2006-06-01 | Weblog
 今年から聖書通読は「福音社」発行の聖書を使用しているが、殆んど毎ページに写真が載っている。実に興味深い聖書である。4章にはコリントの遺跡に見られる陶器が載っている。2千年も経た陶器の写真だから、実際はもっと見栄えしていただろうが、想像以上の土の器だ。7節がズシンとくる。
 「 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
 イエスの死を体にまとっている(10節)、外なる人は衰えても(16節)は、土の器と同じ意味である。そしてそこにイエスの命が現れ、内なる人が日々新たにされるのである。
 3章に示された主と同じ栄光を映す生き方と矛盾してはいないことは6節から明らかである。
  弱さをまとったひび割れした器であるが、比較できない絶対的な価値を有する宝を納めていることを忘れてはならない。
 (写真 第3 station イエス倒れる)