植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

文彭さんと蠟印(前編)

2022年02月15日 | 篆刻
蝋印という言葉を聞いて「ピン」とくる方は、かなりの骨董好きや古美術通でありましょう。「骨董品蝋印 」 は、その世界では「中国の古美術・文化的歴史的財産の、国外への流出防止の為に制定された制度」のシンボルであります。

 共産党政権になった中国が、1960年に中国4千年の歴史的遺物を保護するため「文化財輸出鑑定参考基準」という制度を設けたのです。それまでも、中国の王朝では同様の制度が定められていたようです。しかし、長引く戦乱の中での清王朝は衰退し、間もなく列強が国土を蹂躙して半植民地化しました。これを蒋介石の国民軍が打破し、更に毛沢東さん率いる軍がその国民軍を追い出し、共産主義国家「中華人民共和国」が建国したのが1949年でした。

 そのどさくさで、ずいぶん中国の文物は散逸し毀損され、略奪の憂き目にあいます。かなりの部分は蒋介石さんが、台湾へ逃走する際に持ち去り、最終的には台湾の「故宮博物館」に運ばれたのです。

 そんな背景があって、中国の文化的な財物・遺産を原則として国外に出さないよう厳しく管理したのです。その法律は後に改定され2007年に「文物保護法実施条例」となりました。そこで、登場したのが蠟印であります。
 現在中国では、骨董品・美術品は、中国文物局に送られ、鑑定の専門家が集まる文物鑑定センターで、鑑定されるそうです。そこで、品目ごとに制作年やその作者によって、保護すべきものか輸出していいものかに分別します。

 文物の一級品で、1911年以前の製作年のものから、品物によっては1966年までに作られたものまでが対象になり、「この位なら国外に出してもいいだろう」というレベルの文物には「蠟印」を捺したのです。この蠟印がくっついた品物は、国営の文物商店で販売許可され、税関でもスルーされる仕組みであります。つまり、蝋印のあるものは、「国の専門家が鑑定して合格となった文物の本物で、国がガードするほどの著しい文化価値は無いから外国へ売ってもいい」という判定をし、お墨付きを得た証拠となります。

 ワタシはかなりの期間ヤフオクの「篆刻用印材」を眺めチェックしてきましたが、その「梅干し印」とも呼ばれる物が付着しているのを見つけたのが2,3度ありました。それで、それがいったい何を意味するかを調べたのでありました。

 そこで、「文彭」さんの印となります。これは数回前のブログで触れましたが、ヤフオクで出品されていた「作 文彭」の側款がある古印に蝋印があるのを見つけていたのです。2㎝角に満たない小汚い印でしたが、何か感じるものがあってチェックしました。古く黒い印の作者が気になって調べたら、文彭さんは、有名な文徴明さんの長男で1497年生まれ、約500年近く前の中国明の時代で活躍した「篆刻の祖」とも言える文人であります。

 それまでの中国では、官吏、文人書家は、象牙など硬い印材を用いて、専門の職人に落款印を彫らしていたのです。

 ところが、文彭さんがたまたま入手した古い青田石「燈火凍 」に自分で彫ってみたら、予想外に上手く彫れたのをきっかけにして文彭さん自身が篆刻を始め、二度と象牙印には目もくれなくなったと伝えられています。(この逸話は多くの文献や解説にその記述がされています) それが、世に広まり、あまねく書道家さんが、自ら篆刻をするのが当たり前となった功労者なのです。燈火凍は青田石の中でも、滅多に現存しない幻の最高級の印材だそうです。
 
 殆どの方が目にするウィキペディアによると「文彭の自作印は朱文の象牙印『七十二峯深處』が唯一伝存するのみである」と記述がありますが、これは恐らく中国語の誤訳か誤記でしょう。「文彭は、象牙の印は自作していないので、伝存しない」あるいは「象牙に彫ったものは一個だけしかない」と言う意味を取り違えたに相違ないのです。たとえ5世紀も前と言えど、書家自身が自刻することを普及させ、多くの弟子を育てた篆刻家の文彭さんの印が残っていないわけがありません。

 さてそんな下調べと推理の後、熟慮してヤフオクに応札したのです。偶然か別々に二つの小印が出品されていて、20人以上のウオッチが付いていました。
もし、文彭さんの「自作印が伝存しない」と言う記述が本当なら、これらの印は偽造品ニセモノであります。ヤフオクなんかに紛れ込むわけがありません。

 篆刻印の祖と呼ばれた人の印が幾つ作成したかは不明です。500年くらい前は、印材も本格的な採掘が行われてはいません。印材としての青田石は貴重であったとも想像できます。だとしても、年に少なくとも100個やそこらは彫ったでしょうから、延べにすれば生涯数千個自作したとしてもなんの不思議はありません。腐るものでも燃えるものでもないのですから、伝存していないはずがない、と推理したのです。

 そうして勢いで二つとも落札いたしました。合わせて3万円!これが安いのか高いのか?。例のウィキペディアの記述を見た多くの方は「伝存しないなら、偽物じゃん」と思ったでしょう。だからさほど高値が付かなかったのだ、と考えます。

 今、そのお宝が手元にあります。側款は「嘉靖 丁未 冬日 文彭」とありました。これは西暦1547年の嘉靖二十六年 に該当します。文彭さんが50歳の頃になります。年数のつじつまは合いますね。

予定の稿に達しましたので続きは(後編)といたします。乞うご期待<m(__)m>



 

 

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