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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

 徳田秋声『あらくれ』(講談社文芸文庫)について (イザ!ブログ 2013・5・22 掲載)

2013年12月19日 16時42分48秒 | 文学


最近ある読書会で、徳田秋声の『あらくれ』を扱った。その報告を兼ねて、当作品を論じてみたい。だから当論には、読書会に参加した方々のもろもとの意見や見識が織り込まれていることをあらかじめお断りしておきたい。ただし、文責がすべて私に存することはいうまでもない。

以下を読んで、みなさんに、『あらくれ』を読む楽しみが増えた、あるいは、読んだことはあるがかくかくしかじかのことは気づかなかった、と思っていただければ、これに勝る喜びはない。


その1 『あらくれ』の概要

『あらくれ』は、1915年(大正四年)の一月から七月まで「読売新聞」に連載された。また、単行本として年内に新潮社から刊行されている。秋声、四五歳のときである。新聞連載後すぐに単行本になったくらいだから、連載中はおおむね好評だったのだろう。むろん、秋声はいわゆる流行作家の部類に入る人ではない。

作品世界の時代背景について触れよう。六三節の「その頃初(ママ)まった外国との戦争」という文言が日露戦争を指しているものと思われることや、九二節の「そのころ開かれてあった博覧会」が、一九〇七年(明治四〇年)の東京勧業博覧会を指しているものと思われることなどから、当作品は、おおよそ一九〇〇年(明治三三年)から一九一〇~十一年(明治四三~四四年)まで、主人公のお島の年齢で言えば一八歳から二九~三〇歳までの一〇年間ほどを扱っている。

教科書的な言い方になるが、日本資本主義は、一八九四年の日清戦争の前後に第一次産業革命を成し遂げて軽工業部門を充実させ、十九〇四年の日露戦争の前後に第二次産業革命を成し遂げて重工業部門を充実させた。北九州市の八幡製鉄所が操業し始めたのが一九〇二年である。また日本は、日露戦争ではじめて近代総力戦なるものを経験している。

このことを勘案するならば、お島は、日本が本格的に近代化の道を歩みはじめる真っ只中を体ごとでがむしゃらに駆け抜けたことになる。お島がそのことを意識していないのは確かであるが、そのことがお島の有為転変に深い影を落としているのもこれまた確かなことなのである。時代は、すなわち、歴史は、お島の身振りの隅々にまでその振動を伝えているのである。それを軽く見積もって、解説文(大杉重男)中にあるように、「この小説は、しかし決して一人の女性の『歴史』ではなく、むしろ『歴史』への抵抗の荒々しいドキュメントである」などと蓮實重彦的な小さな知識人村のなかで自己満足的に言挙げするのは間違っている。つまらないことでもある。幼稚であるとさえ言えよう。なぜなら、当時の人々は、上記の時代の振動を当然のこととして感じ取りながら、この作品を読んだはずであるからだ。また、その振動を我が事として感じ取ることができなくなった私たちが、それをいささかなりとも感じ取ることができる隘路を見つけ出すことは、「読む」という営為に自ずと織り込まれることになるからだ。それを言葉の上でだけ拒否してみても何の意味もない。当たり前のことである。


その2 登場人物

お島〕主人公。実母から「暴(あら)い怒と惨酷な折檻」を受け続け、「昔気質の律儀な」父の計らいで七つの年に養父母のところに貰われてくる。良く言えばなにがあっても屈せずへこたれない性格、悪く言えばあまり深く物事を考えようとしない直情径行タイプ。また、良く言えば気前が良い、悪く言えば見栄っ張りで浪費癖がある。男勝りで荒い気性。情は深い。

○父母たち:過酷な現実をお島に思い知らせる存在

養父母〕紙漉き業を営んでほそぼそと暮らしていたが、ひとりの六部(巡礼)を泊めたことで大金を手にしてからは、にわかに身代が太り、地所などをどんどん買い入れるようになった。そのきっかけを養父母は、牧歌的な報恩譚として語るが、お島は、学校の友人たちなどから、養父母家に泊まった六部はその晩急病のために落命し、その懐に入っていた財布に大量の小判があったのを養父母が盗んだにちがいないと聞いた。お島は、そのことが気にかかってしかたがなくなる。養父の名は作中で記されていないが、養母の名は、「おとら」である。養父母は、お島の手に財産が渡らないように策謀をめぐらす。お島はそのことを後に知る。

実父母〕王子界隈で植木屋を営む。昔は庄屋で、その頃も界隈の人たちから尊敬されていた。祖父は、将軍家の出遊のおりの休憩所として広々とした庭を献納した。お島の実母は、父の二度目の妻で、近辺の安料理屋にいた賎しい出である。実父母の名は作中で記されていない。実母は、幼いお島の小さい手に焼火箸を押しつけたりして、彼女を虐待し続けた。実父は、そのことを思い悩み、お島の遣(やり)場に困ること、たびたびであった。そのことを物語る印象的な場面を引用しておこう。

お島は爾(その)とき、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾久の渡あたりでもあったろうか。のんどりした暗碧(ぺき)なその水の面(おも)には、まだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕いでゆく淋しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸って、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺めているうちに頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋(すが)っているのであった。

場所の説明をしておくと、文中の「尾久の渡」は「小台の渡し」とも呼ばれ、江戸時代から江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。隅田川(荒川)をはさんで、北岸はいまの足立区小台2丁目、南岸は荒川区西尾久3丁目である。大江戸の北限の一環をなしていたと言っていいだろう。お島は、そういう場所で幼少期を過ごしたことになる。

さて、引用のなかで分かりにくいのは、「お島の幼い心も、この静かな景色を眺めているうちに頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて」の箇所だろう。「畏怖」については、次の引用で明らかになる。そのうえで「安易」についても述べよう。

その時お島の父親は、どういう心算(つもり)で水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は素(もと)より解らない。或は渡しを向こうへ渡って、そこで知合の家(うち)を尋ねてお島の躰の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或可恐(あるおそろ)しい惨忍な思着(おもいつき)が潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯えた。父親の顔には悔恨と懊悩の色が現われていた。

水を見ている父親の暗い顔の底に潜んでいる「或可恐(あるおそろ)しい惨忍な思着(おもいつき)」とは、文中にはっきりと書き記されてはいないが、お島を水に沈めて殺してしまうことである。とはいうものの、ここでの秋声の書きぶりは微妙である。要するに、次のようなことなのではなかろうか。実母から虐待を受け続けている幼いお島は、父親に無条件ですがりつくよりほかにない。父親としては、そういう娘を愛おしく思う気持ちがないわけではないのだが、その脳裏には、賎しい身分の妻との一時の感情に任せただけの安易な再婚を悔いる気持ちや、妻とお島との諍いに疲れ果てて一時的に思考力を低下させた状態で「この子さえいなければ」という漠然とした感情がうっすらと漂っていたのではなかろうか。その様子に、父親に頼り切ったお島は、幼い自分にとってその存在理由など到底推し量ることなどかなわない大人のひんやりとした世界の殺伐としたものを鋭敏に感じ取ったのではないだろうか。それゆえ、お島は「怯え」「畏怖」を感じたのだろう。

とはいうものの、それだけであれば、お島はこの体験をいわゆるトラウマとして受けとめざるをえなくなる。それは、生きるエネルギーの致命的な毀損、さらには、極端な場合、精神的な死を刻印されざるをえなくなる。それを本能的に避けようとして、お島は、「畏怖」と同時に「安易」にもうたれるほかはなかった。つまり「安易」は、お島の生きようとする意欲を象徴していると言っていいだろう。幼い子どもの心のなかで、実はそういう激しいドラマが演じられる場合があることが、「一種の畏怖と安易」という一見なにげない、しかし腑に落ち難い言葉の並列から汲み取ることができる。

登場人物の説明に要求される簡潔さを犠牲にして長々と引用し、それらに対する自分の見解をも述べたのには、じつは理由があるのだが、それについては後ほど触れる。では、登場人物の説明を続けよう。

植源(うえげん)の隠居〕父の仲間うち。奉公人の扱いが酷。お島の嫁入り先の世話をする。

小野田(後出)の父〕お島の三番目の夫の父。田舎で一人暮らしをしている。家や田畑が人手に渡って零落し、みすぼらしい姿で土いじりをする日々を過ごしている。「お島は慄然(ぞっ)とするほど厭であった」。夫婦で面倒を見ることになる。

○男たち・・・田舎臭くて野暮な「作」と「小野田」は、お島の好みではなく、色白で洗練された「鶴さん」や「浜屋」が彼女の好み。しかし人生は、彼女の好み通りにはなかなかならない。

作(作太郎〕お島の養父の兄であるやくざ者と、旅芸人との間にできた子ども。養父母にずっとこき使われてきた。「お島からは豚か何ぞのように忌嫌われた」。養父母の策略で、お島の戸籍上の最初の夫となる。

鶴さん〕植源の隠居の世話で、お島が嫁ぐ。お島より十歳ほど年上。植源の隠居の生まれ故郷の出で、若いころから実直に働き、神田で缶詰屋を営む。「色白で目鼻立ちのやさしい」鶴さんは、浮気でお島を困らせ、お島は嫉妬に悩み抜く。

浜屋〕お島が鶴さんと別れた後、商売をしていた兄が仕事の手助けとして彼女を連れていった山国のS町にある旅館の主人。旅館の屋号がそのまま主人の名前として作中で使われている。妻帯者であるが、お島と恋仲になる。「色の白い面長な優男(やさおとこ)」で「大い声では物も言わないような、温順(おとな)しい男」である。その妻は、肺病のため生家に帰されている。

小野田〕父親の従姉にあたる伯母の下谷の家に出入りしていた裁縫師。お島は彼と洋服屋を始め、所帯を持つ。愛情ではなく主に実利的なつながりで夫婦になった。小野田の過剰な性欲に困り果てる。

○女たち・・・旧社会の犠牲者として描かれている

おゆう〕植源の隠居の息子房吉の嫁。昔からずっと鶴さんに惚れている。結局、鶴さんへの事実上の「心中立」をすることになる。

狂女〕小野田の昔からの女。夫はいるが、小野田との関係はずっと続き、その浮気現場をお島に押さえられて、精神に変調をきたすようになる。


その3 作中におけるお島の身の振り方の軌跡

*年号との対応関係は推定の域を出ないが、せいぜい1年ほどの誤差である。その推定の根拠を示すのは、煩雑に過ぎるので、省略する。不明な点があれば、遠慮なく言っていただけたなら幸いである。

☆1900年(明治三三年);一八歳。作との婚礼話が耳に入る。「私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です。」

☆同年秋;養父母やその関係者たちの策謀によって作との祝言をあげさせられたお島は養家を飛び出す。「ふん、御父さんや御母さんに、私のことなんか解るものですか。彼奴等(あいつら)は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ。」

☆1901年(明治三四年)春;一九歳。植源の隠居の世話で、神田の缶詰屋の鶴さんに嫁ぐ。鶴さんの激しい女性関係のせいで夫婦仲はうまくいかない。「どうせ長持のしない身上(すぐに離婚するという意味―引用者注)だもの。今のうち好きなこと(贅沢なおしゃれー引用者注)をしておいた方が、此方の得さ。あの人だって、私に隠して勝手な真似をしているんじゃないか。」

☆1902年(明治三五年)夏の末;二〇歳。鶴さんとの一年足らずの結婚生活の後、植源に居候をしていたお島は、兄の壮太郎に連れられて山国のS町に行く。そこで浜屋と恋仲になる。「他人のなかに育って来たお蔭で、誰にも痒いところへ手の達(とど)くように気を使うことに慣れている自分が、若主人の背を、昨夜も流してやったことが憶出された。然うした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、弾返すだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。『鶴さんで懲々している!』お島はその時も、溺れてゆく自分の成行に不安を感じた。」

☆1903年(明治三六年)五月末;二一歳。浜屋の生家や近所への聞こえを憚って、浜屋と縁続きの山の温泉宿へ移される。そこへ、噂を聞きつけた実父が彼女を引取りに来た。「『帰ってみて、もし行くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ。』浜屋は切符を渡すとき、お島に私語(ささや)いた。」

お島と浜屋とのつながりは、その後浜屋が死ぬときまで細く長く続く。

☆同年、盆過ぎ。東京下谷で独り身で暮らしている、父方の伯母のところに身を預ける。そこで伯母の裁縫の手伝いをするようになる。

☆1904年(明治三七年)二月;二二歳。「時にはお島の坐っている裁物板の側への来て、寝そべって笑談(じょうだん)を言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始(ママ)めて自分自身の心と力を打籠めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初(ママ)まった外国との戦争が、忙しい其等の人々の手に、色々の仕事を供給している最中であった。自分の仕事に思うさま働いてみたい―――奴隷のような是迄の境界(きょうがい)に、盲動と屈従とを強いられて来た彼女の心に、然うした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。」

いささか脱線をする。ここは、この小説にとって、極めて重要な局面である。実父母や養父母やその関係者によって、過酷な運命を強いられてきたお島が、力強く社会的な自立を果たそうとするきかっけを具体的な職業に見出しているのである。

このくだりで連想するのは、やや飛躍するようであるが、石光真清著(石光真人編集)『石光真清の手記三 望郷の歌』(中公文庫)に登場する軍人・本郷源三郎である。彼は、貧農の出であるが、地元の人々の援助を得て、陸軍幼年学校から士官学校へと進み、若くして将校となった人である。彼は、昔ならそのようなことが決してありえなかったことをよく分かっている人であった。それゆえ、そのような幸運を自分にもたらしてくれた明治という時代への心からの感謝の念を主人公の真清の目の前で率直に表明し、満足の笑みを絶やすことなく日露戦争の激闘のなかで軍人らしい死を従容として迎えた。

お島に、源三郎のような国家への忠誠心が欠落しているのはいうまでもない。そういう意味では、お島と源三郎とは違う。しかしながら、日露戦争という日本史上初の近代的な総力戦によってもたらされた国民的な熱気が、そういう違った人物において違った現れ方をした、という言い方はできるような気がする。また、それは、生まれ落ちた環境がたとえどんなに不利なものであろうと、当人の頑張り如何でどうにかなるというオプティミズムが、この国民戦争によって本格的に市井人にもたらされた、と言いかえても良いように思う。そのような時代の気風の変化の刻印を、お島の自立心の芽生えに見出すのは、さほどの難事ではないように思われる。先ほど述べたことを繰り返そう。時代は、すなわち、歴史は、お島の身振りの隅々にまでその振動を伝えているのである。脱線は、以上である。

☆1904年、年末;日露戦争で消費される柿色の防寒外套を作る仕事を請け負っている小野田の雇われ先の工場で、ミシン台に坐ることを覚え、また、自分に営業能力があることを自覚する。やがて、芝で小野田と店を出し、人を雇い入れるようになる。

☆1905年(明治三八年)冬の初め;二三歳。戦争景気が終わり、経営の行き詰った芝の店を引き払って、月島に移る。苦しい経営状態が続く。性の不一致に起因する諍いが小野田との間で絶えない。苦し紛れに買ったねずみ講のようなものが当たり、かろうじて年を越すことができた。それで、しばし小野田と和解をする。

☆1906年(明治三九年)三月;二四歳。経営難で万策が尽き、月島の店を引き払い、小野田の故郷に近いNというかなり繁華な都会に半年ほど住む。小野田の妹の家の二階で寝泊りをする。律儀な暮らしぶりに慣れた地方都市の気風にお島はついになじむことができなかった。

☆同年九月頃;着の身着のままで東京に舞い戻った二人は、築地の川西(小野田の昔の雇い主か?)の洋服店に夫婦住み込みとなる。川西がお島に性的関係を迫ったのをお島が拒絶したのが原因で店を出る。愛宕(現港区)の印判屋の奥の三畳一室を借りる。そこに注文したミシンを置いて仕事を始める。仕事はそれなりに順調な滑り出しだったが、性の不一致によるお島の苦痛は続く。

☆1907年(明治四〇年)三月~七月の間;二五歳。根津に引越し、やっと落ち着いた暮らしができるようになる。上野で催されている東京勧業博覧会のおかげで、根津も結構な賑わいを見せていた。そこに、小野田の父が住み着くようになり、また、お島が1902年当時お世話になった山国S町の人々を呼び寄せたりした。そこにはこなかったが、浜屋ともたびたび顔を合わせた。

*「『それは東京にも滅多にないような好い男よ。』お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の赤くなるのを禁じ得なかった。」という描写などから察するに、お島が心底惚れ抜いた男は浜屋である。

☆1909~10年(明治四二~四三年);二七~八歳。本郷に店を持つ。洋風の本格的な洋服屋。お島は、洋服を着て自転車に乗り仕事を取るようになる。当時としては珍しいこと。

☆1910~11年(明治四三~四四年)初夏;二八~九歳。浜屋に会いに山国に行くが、浜屋はすでに死んでいた。そのまま家には戻らずに、遠い山のなかの温泉場に数日間逗留する。そこに、目をかけている職人を二人呼び寄せて、「事によったら、上さんあの店を出て、この人に裁をやってもらって、独立(ひとりだち)でやるかも知れないよ。」と告げる。

*なにがあろうとへこたれてしまわずに、ひたすら前向きに生きようとするお島の姿が浮かび上がってくるだろう。それを、秋声は、変に大げさに称揚したりしないで、彼女の性格的な欠点もしっかりと見据えながら、描き出している。人間的な欠陥を抱えながらも、お島の言動には真実味があり、そこに読み手は美しさを感じることになる。


その4 夏目漱石の『あらくれ』評 「徳田氏の作物には、フイロソフイーがない」

夏目漱石の『あらくれ』評が面白い。読書会参加者によれば、有名なのだそうだ。やや長くなるが、引用しよう。

『あらくれ』は何処をつかまへても嘘らしくない。此嘘らしくないのは、此人の作物を通じての特色だらうと思ふが、世の中は苦しいとか、穢はしいとか―――穢はしいでは当らんまいかも知れない。女学生などの用ひる言葉に「随分ね」と云ふのがある。私はその言葉をここに借用するが、つまり世の中は随分なものだといふやうな意味で、何処から何処まで嘘がない。

尤(もっと)も他の意味で「まこと」の書いてあるのとは違ふ。従つて読んで了ふと、「御尤もです」というやうな言葉はすぐ出るが「お陰様で」と云ふ言葉は出ない。「お陰様で」と云ふ言葉は普通「お陰様で有りがたうございました」とか、「お陰様で利益を得ました」とか、「お陰様で面白うございました」とか云ふ場合に多く用ひられるやうである。私のここでいふ「お陰様で」も矢張り同じやうな意味であることは、断るまでもないであらう。(中略)

つまり徳田氏の作物は現実其儘(そのまま)を書いて居るが、其裏にフイロソフイーがない。尤も現実其物がフイロソフイーなら、それまでであるが、目の前に見せられた材料を圧搾する時は、かう云ふフイロソフイーになるといふ様な点は認める事が出来ぬ。フイロソフイーがあるとしても、それは極めて散漫である。然し私はフイロソフイーが無ければ小説ではないと云ふのではない。又徳田氏自身はさう云ふフイロソフイーを嫌って居るのかも知れないが、さう云ふアイデアが氏の作物には欠けて居る事は事実である。始めから或るアイデアがあつて、それに当て嵌めて行くやうな書き方では、不自然の物とならうが、事実其の儘を書いて、それが或るアイデアに自然に帰着して行くと云ふやうなものが、所謂深さのある作物であうと考へる。徳田氏にはこれがない。
        (「文壇のこのごろ」(大阪朝日新聞)大正四年十月十一日)


ここには、漱石と秋声の作家としての資質の違いがはっきりと出ているという意味で、とても興味深い。漱石が「フイロソフイー」と呼んだものを、秋声は、「理屈」あるいは「さかしら」として嫌うのではないかと私は感じる。その意味で、漱石の「徳田氏自身はさう云ふフイロソフイーを嫌って居る」という言葉は、正鵠を射たものである。

では、「理屈」や「さかしら」という意味ではない「フイロソフイー」が本当に『あらくれ』にないのかといえば、そんなことはない、というのが私の考えである。それは、上記の「その2 登場人物」で、「幼い子どもの心のなかで、実はそういう激しいドラマが演じられる場合があることが、『一種の畏怖と安易』という一見なにげない、しかし腑に落ち難い言葉の並列から汲み取ることができる」と述べたことを思い出していただければ、よく分かるのではないだろうか。つまり、秋声には人間がよく見えているのである。その曇りのない目に映ったものを「フイロソフイー」と呼ぶことを躊躇すべき理由が私には見つけられない。小説における「フイロソフイー」とはそういうものであって、それ以外のものではないと言っても過言ではないのだ。

このことは、読み手の存在を織り込むとよりはっきりとすると思われる。読み手が生の営みにおいてうすうす感じ取っていたものを、文字ではっきりと記されたとき、それを目にした読み手は「そのとおり」と腑に落ちて、心を動かされる。これが、小説を含む言語表現によってもたらされた感動なるものの基本イメージなのではなかろうか。この場合読み手は、書き手の「理屈」なり「観念」なりに心を動かされているのではなくて、書き手の、いわば目に映った人間の真実味に心を動かされるのである。

小説における「フイロソフイー」の意味の取り違えは、漱石の小説に一定の限界もしくは瑕疵を与えてしまっているように思われる。『行人』における過剰な論理癖が読み手にもたらす辟易感や『こころ』における「先生」の妻の心理への洞察の致命的な欠如などは、その端的な例である。そういう限界や瑕疵をまぬがれているのは、小説では『門』の前半部分、随筆では『夢十夜』あるいは『硝子戸の中』である、というのが私の見立てである。『道草』もそういう作品であると聞いているが、残念ながら未読である。

また、この両者の、リアリティをめぐる対立は、日本近代文学に底流するふたつの流れのそれを象徴しているとも言いうる。それは、坪内逍遥が『小説神髄』で述べた「おのれの意匠をもて、善悪正邪の情感をば作設くる事をなさず、只傍観してありのままに模写する心得にてあるべきなり」というリアリズム観と、二葉亭四迷が『小説総論』で述べた「模写といえることは実相(すなわち現象―引用者注)を借りて虚相(すなわち本質―引用者注)を写し出すことなり」というリアリズム観との対立として描くことができるだろう。単純に、逍遥は四迷によって乗り越えられたとするのは、その後の文学の流れを見誤ることにつながりかねないのである。


その5 秋声の風貌

読書会のメンバーのひとりが、巻末の写真をみながらつくづく「秋声の風貌は、よく分かっている人、できた人という感じだ」と感慨を漏らした。あまりにも当を得た意見だったので、なんだか、笑ってしまったほどだった。この小説を書く人は、こういう顔をしているはずというイメージにぴったりなのである。その写真そのものではないが、ひとつ参考までに掲げておこう。




〈コメント〉

☆Commented by miyazatotatsush さん
美津島明様

徳田秋声「あらくれ」論を拝読いたしました。
私も徳田秋声の小説はあまり(というかほとんど)読んでいないのですが、十数年前、偶然、彼の遺作の「縮図」を読み、いたく感動したことがあります。
この小説は秋声の死で、中途で終わっておりますが、主人公の初老の男(といっても、今なら七十代の感じ)と、元芸者で置屋の主人の女との、何気ない会話から、昔はねんごろだったふたりの、今は互いを労わる関係のなかから、過去の情景があわあわと甦るところに感動しました。
秋声の文体が「いぶし銀」と呼ばれるゆえんが解ったような気がしました。
ブログに掲げられた秋声の写真の寒々とした世界の孤高の姿からもそれが伝わりました。


☆Commented by 美津島明 さん
To miyazatotatsushさん

宮里さん、コメントをいただきましてどうもありがとうございます。『縮図』がいいのですね。今度、読んでみます。

若いころは、どうしても「スター」級の文学者にばかり目が向きがちです。むろん、私もそうでした。「スター」とは、もちろん漱石・鴎外・芥川・太宰・三島・大江・村上春樹たちのことです。「スター」たちには「スター」たちの良さがあります。花にたとえれば、真っ赤な薔薇や向日葵の艶やかさ・美しさが彼らにはあります。しかし、どう転んでも、彼らには、野に咲く花の素朴で地味な美しさを醸し出すことはかないません。別に、それを非難しているわけではないのですけれど。

個人的に、最近は、年を取ったせいか、艶やかで派手な花をみてもあまり感動しなくなりました。というか、ややうるさく感じるくらいです。むしろ、道ばたになにげなく咲いている花の美しさに心惹かれるものがあるのですね。「スター」ではない地味な文学者たちの良さが視野に入ってきたのも、要するに、そういう感受性の変化のせいなのかもしれませんね。

*****

徳田秋声『あらくれ』に出てくる魅力的な言葉について

『あらくれ』には、耳慣れぬ言葉が散見される。この作品が約一世紀前に書かれたものであることを考えれば、それは当然のことといえる。

しかしながら、その意味を分からずに読み飛ばしてしまうにはあまりも惜しいと感じるほどに、魅力を発散している言葉がたくさんあるのだ。当時の人々の生活感情がそこに織り込まれているような印象を受けるから、というのが主な原因であるような気がする。また、身体性を濃密に感じさせる言葉が少なくないのである。もともと私は、身体性の密度の高い言葉を好むところがあるのではあるが(たとえば、「見る」より「目にする」を好み、「読者」より「読み手」を好む)。

そういう言葉を、これからいくつか取り上げてみたいと思う。ちなみに、カッコ内のページは、講談社文芸文庫のそれである。

○のんどり(P9);「のんどりとした暗碧なその水の面(おも)には~」という使われ方をしている。のどかなさま、のんびりとしたさまの意。「今日一日、のんどりと過ごした。」などと言えば、それだけで肩の凝りがほぐれていくようだ。

○業つく張(P10);「この業つく張め」。実母がお島を罵倒する言葉である。昔の悪態語には、言われた方が心底堪える迫力がある。当作品には登場しないが、「このぼけ茄子が」なんてのも、生活感情がうかがえて、なかなか味がある。

○六部(P11);諸国の社寺を遍歴する巡礼。六十六部の略で、六十六部の法華経を一部ずつ霊地に納めることからその名がついた。後には、死後の冥福を祈るため、鉦(かね)や鈴を鳴らし、厨子(仏像や経巻を入れた両扉の箱)を負って家ごとに銭を乞い歩いた。私の興味・関心に引き寄せると、津軽三味線弾きの原型がこれである。その存在から、日本各地に「六部殺し(ろくぶごろし)」の民話・怪談が生まれた。ある農家が旅の六部を殺して金品を奪い、それを元手にして財を成したが、生まれた子供が六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪する、というものである。『あらくれ』は、「六部殺し」を部分的に下地にしている。

○いらいらしい(P16);「彼女のいらいらしい心」という使われ方をしている。昔は、「いらいら」が擬態語としてのみならず、形容詞の語幹の一部としても使われていたことが分かる。

○天刑病(P20);ハンセン氏病(らい病)。天の刑罰としての病ということであるから、差別感情が濃厚である。本文中でも「汚い天刑病者」という言い方をしている。

○疳症(P23);一般的にはちょっとした刺激にもすぐ怒る性質。激しやすい気質の意。ここでは、「一日取りちらかった其処らを疳症らしく取片着けたりしていた」という使われ方をしていることから見て、異常に潔癖な性質の意である。この派生的な意味では、昨今あまり使われなくなったのではないだろうか。

○ひきる(P27);蚕が繭をかける状態になること。元は甲州弁らしい。生糸業が衰退してしまった今日ではもはや死語(そうではない地域がまだあるとは思うが)。当作品では、「もうひきるばかりになっている蚕」という使われ方をしている。

○から薄ぼんやり(P30);うすのろであること。また、そのような人。意味は「薄ぼんやり」と同じなのだろうが、「から」=「空」がつくとその意味が強調され、強烈なインパクトが加味される。昔の人々は、悪態語の天才である。ここでは、「から薄ぼんやりなお花」という使われ方をしている。

○懲りずまに(P31);「ま」は、そのような状態であるの意を表す接尾語。前の失敗に、懲りもしないで。しょうこりもなく。とても便利でニュアンスに富んだ言い方のように感じるが、なぜかめったにお目にかからない。作中では、「作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た」という使われ方。

当初はこれくらいで終わりにしようかと思っていたのだが、思いのほか興に乗ってきたので、このまま続けよう。

○因業(P34);頑固で思いやりのないこと。人に対する仕打ちが情け容赦もなくひどいさま。もとは、仏教用語。前世の悪行が招いたこと、というニュアンス。根の深い欠陥という意味合いと、その人のせいではないからそれを受ける側は諦めるほかないという意味合いとがある。「――おやじ」。作中では「因業を言張って許りもいられなかった。」という使われ方をしている。

○大束(P46);「おおたば」と読む。①大ざっぱなこと。また、そのさま。大まか。雑。②偉そうな態度をすること。また、そのさま。ここでは、お島が「大束を極込んだ」とあるので、①の意味。「悪く―なことを言って落着いているよ」〈紅葉・多情多恨〉

とか、「―を言うな、駈落の身分じゃないか」〈鏡花・婦系図〉といった用例がある。

○口入屋(P47);奉公人などを世話する業者。おもに、身分の低い者を対象とする職業斡旋業者。江戸時代がその活動の全盛期。

○心中立(P102);「しんじゅうだて」。自分の心の中をすっかり見せ、契を交わした相手に愛の証拠を見せ、恋愛の誠実性を立証すること。黒髪を切って相手に渡したり、指を切ったり、さらには、命を捧げたり、とエスカレートしていく。遊郭での恋愛のルール・マナー・エチケットがもともとの姿で、それが、一般人にも流布していったのではないだろうか。「みんな鶴さんへの心中立だ。」これは、鶴さんのことで錯乱状態に陥ったおゆうが、自宅の庭の井戸に飛び込もうとしたことを、お島がそう感じたというくだりである。

○兇状持(P116);「きょうじょうもち」。殺人などの凶悪な犯罪を犯した者。前科者より強い意味を持つ。「寒い冬空を、防寒具の用意すらなかった兄の壮太郎は、古い蝙蝠傘を一本もって、宛然(さながら)兇状持か何ぞのような身すぼらしい風をして、そこから汽車に乗っていった。」それをふまえると、この描写のわびしさがひとしお感じられる。

○石楠花(P135);これは単に、私が読み方を知らなかったので調べてみただけのことである。「しゃくなげ」と読む。ちなみに、「木瓜」はどう読むか、お分かりだろうか。「ぼけ」である。

○饅頭(P151);読みは、もちろん「まんじゅう」だが、どうもおかしいと思って調べてみると、「饅頭の形に似たアイロン台の一種」とあった。「小野田は顔を顰めながら、仕事道具の饅頭を枕に寝そべりながら、気の長そうな応答(うけこたえ)をしていた。」とあるのだから、食べ物の「饅頭」でないことは分かるだろう。

○射幸心(P162);偶然に利益を得ようとする心。分かるような分からないような感じだったので、調べてみたらやはりよく分かっていなかった、という次第。宝くじを買う心理などを言う。

○業腹(P175);しゃくにさわること。「ごうはら」と読む。「自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも業腹であった。」野心家のお島の心持ちは、地方都市の堅実な暮らしぶりにどっぷり浸かった人々には分からないことを、お島は憤っているのである。

○ぼんつく(P183);馬鹿の意。またまた素敵な悪態語が出てきた。

○女唐服(P219);「めとうふく」と読む。本来は、唐服の婦人物のことをいうのだが、当時は洋服のことをそう呼んだ。女唐は、西洋婦人をあなどっていった言葉。当時の、洋服に対する意識がうかがわれる言葉。女性の洋装が珍しかったのだろう。
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「路地裏のスーパー・スター」F君のこと  ―――わが青春の恥のかき捨ての記  (イザ! 2013・8・6 掲載)

2013年12月19日 07時47分01秒 | 文学
「路地裏のスーパー・スター」F君のこと  

―――わが青春の恥のかき捨ての記


                                
青年のころ多少なりとも(人によってはフル・ボリュームで)傲慢なところがあった自分に思い当たる人は少なくないだろう。むろん、私もそうだった。

そうして、やがてはそのおごりの鼻っ柱をボキッとへし折る強力な存在が目の前に現れることも、共通する体験なのではないかと思われる。ちなみに、いい年をしていながらなおも傲慢なのは、人生経験からなにも学ばなかったうすのろ野郎か精神病理的な意味での同情すべきボーダーおやじのどちらかであるとは思うが。

ズドンと脳天を直撃する、そういういかづちのような存在を、私は「天才」と称したい。私はこれまでに二人のそういう意味での天才に出会った。そうして、かけがえのない一人の「天才くずれ」に。

二人の天才については、別のところ(拙著『にゃおんのきょうふ』)に書いたことがあるので、ここでは一人の「天才くずれ」について話そう。

彼に出会ったのは、大学時代のことだった。場所は、高円寺駅から歩いて五・六分の、迷路のような路地裏の一角にある、真冬でもゴキブリの徘徊が途絶えたことのない、とある居酒屋だった。彼の名をF君としよう。色白の細面で、広い額のちょっと下にあるクリッとした大きな目が特徴的だった。二枚目と呼ぶにはあまりにも飄逸(ひょういつ)であったし、かといって、三枚目と呼ぶにはあまりにもシリアスで一徹なところのある男だった。誤解を恐れずにいえば、ひょっとこを最高にカッコよくした風貌が、F君のそれであった。

そのとき、私は、高校時代からの友人二人と、一人の女性とF君との五人で飲んでいた。ちなみに、といおうか、なんといおうか、その女性は、あまりきれいではなかったような気がする。その後何度も彼女を交えてザコ寝をしたことがあったのだが、こちらが、ついにその気になることはなかった。むろん、彼女に言わせれば「それはお互いさま」ということになるのだろうが。

私以外の四人の共通項は、小劇場の役者さんをやっている、あるいは、やっていたということだった。そんな事情があって、酒量がかさんできたところで、小劇場の反商業主義は是か非か、というテーマで議論が先鋭化してきた。彼らは、商業演劇を目の敵にしながらも、いまひとつ自己満足の域を脱し得ない小劇場にも問題があると思っていたのである。その錯綜した議論が沸点に達したところで、F君がついに「咆えた」。なんといって咆えたのか、どうしても思い出せないのだが、そのだみ声の怒声が、同年代のそれとは思えないくらいの、熟成した芸域に達するものだったことは、ちゃんと覚えている。理屈抜きに他を圧する迫力があったのだ。「マディ・ウォータースなんかにゃ負けないぜ」と啖呵を切って、かつてのシカゴ・ブルース・シーンで咆え続けたハウリン・ウルフに負けないくらいのカッコいい咆え方だった。

F君は、それに味を占めたのか、あるいは酒を飲んだときの単なる癖なのか、その後ことあるごとによく咆えた。つまり、われわれ五人の矯激な宴は、その後も懲りずに続けられた、ということだ。いまから思えば、さきほど触れた女性がF君にぞっこんだったことが、宴の開催の継続に実のところ少なからず「貢献」していたような気がする。彼女の「F君、カッコいい」というやや唐突で充分に不自然な合いの手を、われわれはシラケながらも許容したのだった(われわれはそのくらいの優しさだったら持ち合わせていたのだ)。だから、彼女のそんな振る舞いが、われわれの共同意識の俎上に、ある種の違和感を帯びた主題として載ることはなかった。もっとも、その女性からそんなふうに言われて、F君が個人的にまんざらでもなかったのかどうかは余人にはうかがい知れないが。ついでながら、後に、F君がその女性と韓国旅行に行ったことが「発覚」した。当然のことながら、われわれの関心は男女としてのそういうことが彼らの間にあったのかどうかという一点にしぼられることになった。そこには、Fよ、お前はこんなブスと寝るほどに性的に飢えていたのか、と彼をなじる気分が紛れこんでいたことは認めなければなるまい。ところが、搦め手からじわじわと追い詰められたF君は、俄然カッと目を見開いたまま、微動だにしなくなった。だから、残念ながらそれはついに解明されることはなかった。そんなわけで、その真偽は、われわれにとっていわば「永遠の謎」と相成ったのだった。

話をもどそう。会って飲み始めてしばらくすると、われわれは、必ずと言っていいくらい、小劇場の反商業主義は是か非かというテーマに話が及び、それをめぐってやおら沸点に達し、F君の「咆え」でエンディングを迎えた。五人で、あまり売れそうにもないハード・ロックの様式美を築き上げたようなものだった。コンサート・ホールは、いつも「ゴキブリ」の居酒屋だった。一番目立つリード・ボーカルの役を演じたのは、もちろん、F君だった。ちなみに、私は、ほかのプレイヤーの演奏を引き立てるためにタンバリンを叩く役割を演じるのがせいぜい、という存在で、なかなかソロ・パートを演じるまでには至らないのだった。思えば、当時はLPレコードの中の一〇分以上のドラム・ソロが興奮を伴って歓迎されるという、無意味に過剰なことが不思議なくらいにもてはやされる時代であった。

飲みの席での、怒声の響きわたる場に参画しているときの倒錯的な快感がいかなるものであったのか。今の若い人たちにそれをうまく伝えることができるかどうか、ちょっと自信がないのだが、音楽におけるノイズがある種の精神的強度を獲得すると、たんなるノイズではなくなって、いわゆる音階を超えたもうひとつの音階になるような感じである、といえばお分かりいただけるだろうか。まあ、ろくなものでないことはいうまでもないのだが。

とはいうものの、なにもここで、F君を「咆え」の天才として称揚するつもりなのではない。それでは天才としてあまりにもマイナーすぎるし、そんなふうに褒められたとしても、当人はちっとも嬉しくないだろう。くしゃみを連発するくらいが落ちである。

私が、彼の秀逸なところとして触れたいと思っているのは、彼の、役者さんとしての演技のことである。F君の演技を目の当たりにしたのは、大学生のときではなく、社会人になってからであった。あるいは学生のときも目にしたのかもしれないが、それは記憶から飛んでしまっている。確か、彼から何度か招待券をもらったような気はするのだけれど。

その演技には、ひとつのパターンがあった。彼はどの芝居においても必ずと言っていいくらいに副主人公の役を演じていた。そして、そういう役柄でなければ表現できないペーソスを、彼はよく表現しえていた。いや、その逆である。彼独特の役者としての持ち味であるペーソスを表現するには、どうしても副主人公というポジションが必要なのであった。そういう意味では彼は、いわゆる器用な役者さんではなかった。なにせ、彼は役者さんとしての体質上の制約から、主人公を演じることができなかったのだから。

彼は、いつもヒロイン役の美少女に片思いをする役を演じていた。次に述べるのは、そういうお芝居のなかの記憶に残ったひとつである。残念ながら、題名は忘れてしまった。

ヒロインは彼の好意を受けとめはするが、その好意は、兄の妹に対するそれとして受けとめられる。そういう受けとめられ方を、彼は穏やかな諦念と一抹の寂しさを噛み締めながら受入れようとする。やがて、自分の命と引き換えに彼女を守らなければならない局面を迎えることになる。彼は、自分の命の炎が消えていく気配を彼女に悟られないようにしながら、彼女を守ろうとする。やがて、この世に悲しみをもたらすパンドラの箱をそっと包み隠すようにして、彼の姿は暗闇に消える。スポット・ライトには、ヒロインの一人ぼっちの姿が浮かび上がる。彼の命がこの世から消え失せたことに気づかないヒロインは、小声でいぶかしげに彼の名を呼び続ける。彼は、ヒロインのことを心から愛していたのだ。亡くなった彼の真摯な思いが、観客の胸に染み透る。私は、彼のそんな演技に思わず目頭を押さえるのだった。

彼の演技は、いわゆるプロの目にはたいしたものに映らないような気がする。その独特の不器用さが、通常は、評価される上での小さくはないマイナス・ポイントになるのではないだろうか。シロウトくさいとかぎこちないとかなんとかいうわけである。

しかし、彼のその独特の、微妙に不器用なところのある演技は――今から思えば、ということなのであるが――私たちの世代(五〇代半ば)の、言葉で表し難い哀しみや想いを繊細に絶妙にその身体性において表現しえていたのだった。そうであったからこそ、私は不意打ちを喰うような状態で目頭を熱くすることになったのだろう(そこに、「Fよ、負けたぜ」と舌打ちする自分がいたことも正直に白状しておこう)。その表現の微細さは、当時において、プロのすれっからしの目からは、こぼれるほかなかったのだ。しかし、F君はそのとき、時代の感性の襞にそっと分け入ることのできる、天才的な演技者の少なくとも一人だったのだ。掛け値なしに今ではそう思う。飲めば咆えるしか能がなかったF君は、役者としては実に繊細な男だった。

では、彼は天才だった、と私は断言できるだろうか。それにきちんと答えるのはとてもむずかしい。なぜなら、彼をめぐる記憶には、わが青春のおごりと錯乱と内なる怒号とが刻み込まれているからだ。要するに、いまだに冷静な判断をすることがむずかしいのである。

彼には、「天才くずれ」の称号こそがむしろふさわしい気がする。彼は、「ただの人」というにはあまりにも過剰であり、かといって、「才能のかたまり」というには、どこかこっけいなところのある、かつての私たちのシンボル、つまり「路地裏のスーパー・スター」だったのだから。

それにしても、ロックバンドのメンバーにたとえれば、タンバリンを叩くだけのような冴えない役割を演じ続けながら、よくも飽きなかったものだと、三〇数年前の自分を振り返っていまさらながらあきれ返っている。思えば、われわれが若いころには、当人たちとしてみれば十分にシラケているつもりだったものの、まだ青春なるものが存在していたのだろう。むろん、そんなろくでもないものは二度と体験したくはない。当時を振り返ると――残念ながら――懐旧の念より、むしろ焦げつくような救いがたい思いがぶり返してくる。だがそれは、青春なるものが存在していたことの裏返された証しなのだろう。青春とは、無駄なことの過剰で無償な蕩尽である、と格言めいたことを言ってとりあえずシメておこう。

ところで、ひとつつけ加えておきたい。私たちが繰り広げた「ロックコンサート」のような乱痴気騒ぎのちいさな舞台となった「ゴキブリの居酒屋」のことである。つい最近、不意に里心がついて、高円寺界隈をうろつき回り、件(くだん)の居酒屋を探してみた。ところが、いくら探してもそれらしいお店は見つからなかった。それらしい場所には、三階建てのマンションがあるばかり。オヤジさんにひとこと「あの頃の馬鹿な自分たちを優しく見守ってくださってありがとうございました」とお礼が言いたかったのだ。どうやら、その機会を永遠に失ってしまったようである。
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柳田国男『遠野物語』を読む (イザ!ブログ 2013・8・6 掲載)

2013年12月19日 07時36分57秒 | 文学
柳田国男『遠野物語』を読む



柳田国男の『遠野物語』を読んでみたい。今回取り上げるのは、第九話と第十話と第十一話である。なお、原文は文語文体であるが、読みやすさを優先して、私なりに口語訳にしてみよう。

第九話は次のような話である。

菊池弥之助という老人は若いころ駄賃をやっていた。(駄賃とは、馬の背中に物や人を乗せて輸送する職業のことをいう―引用者注)彼は笛の名人で、夜通し馬追いをするときなどには、よく笛を吹きながら歩いたものである。

ある薄月夜に、たくさんの仲間とともに浜のほうへ向かって越えていく境木(さかいぎ)峠を行くということで、例によって笛を取り出して吹きながら、大谷地(おおやち)という場所の上を過ぎようとしていた。大谷地は深い谷である。白樺の林でおおわれていて、その下は葦などが生えた湿地になっている。そこにさしかかったちょうどそのとき、谷の底から何者かが高い声で「面白いぞぉ」 と叫んだ。一同皆真っ青になってその場を走り逃げたという。


言うまでもなく、人里離れた真夜中の谷底の湿地に人がいるとはまず考えられない。ましてや、そんなところから上を通りかかる人を驚かせるような大声を張り上げる者がいることもちょっと想像しにくい。解釈はいろいろとできるだろうが、不思議な話であるとひとまず素直に受けとめておこう。

次に第十話。これはごく短い。

弥之助はある山奥に入り、茸(きのこ)を採ろうとして仮小屋を造って泊まっていたところ、深夜に遠いところから「きゃー」という女の悲鳴が聞こえてきたので胸がどきどきした。里へ帰ってきたところ、女の悲鳴が聞こえてきたのと同じ夜、同じ刻限に、自分の妹が息子に殺されたことがわかった。


では、弥之助の妹が息子に殺された顛末はいかなるものであったのか、という流れで、第十一話に続く。当話は、『遠野物語』のなかでは「やまはは」(山姥)が登場する第一一六話などとともに、最も長い話のひとつである。

弥之助の妹は、一人息子と二人だけで住んでいた。そこへとついできた嫁と、姑となった弥之助の妹との仲がうまくいかなくて、嫁は実家に戻って帰って来ないことがしばしばだった。

常日頃諍(いさか)いの絶えない嫁と姑との板ばさみにあって、おそらく気が弱いに違いない息子は、にっちもさっちもいかなくなったのだろう。そうして、とうとう我慢の限界を超えるときを迎えることになる。


その日、嫁は家にいて病気で寝込んでいたところ、昼ごろになって突然倅(せがれ)が「ガガ(母のこと―引用者注)はこれ以上生かしては置かれぬ。今日は必ず殺してやる」と言い、大きな草刈鎌を取り出してごしごしと刃を磨ぎ始めた。その有様は、とても冗談のようには見えなかったので、母はああでもないこうでもないと詫びたのだが、息子は耳を貸そうとしない。

不思議に思うのは、母の様子が息子の殺意の呪縛力の虜になってしまっているように感じられることである。「実の親に対してとんでもないことだ」と叱責するくらいのことをしてもよさそうなのに、母親は、まるでへびににらまれた蛙のようである。ここには、身近な者を巻き込むというコンプレクス(うらみ・つらみが集積したもので、いまわしい一人格を成す。ユング心理学の用語)の特徴がよくでている。また、普段はおとなしかったと思われる息子が凶暴な鉄面皮的殺人者に豹変しているところにもそれを感る。コンプレクスのせりあがりが人を二重人格者にすることはつとに指摘した。話を続けよう。

嫁も起き上がってきて泣きながら諌めたのだけれど、まったくそれに従う様子もなくしばらくたってから母が息子から逃れ出ようとする様子があったのを見て、家の前後の戸口をことごとく鎖した。母がお手洗いに行きたいと言うので、息子が自分で外から便器を持ってきて、「ここで用を足せ」と言う。夕方になると母はついにあきらめて、大きな囲炉裏のかたわらにうずくまってひたすら泣いている。

コンプレクスは、タチが悪いことに、親から子へと敷き写される。母親が息子を強く叱責できないのは、そのことへの直接的な感知があるからなのではないかと思われる。つまり、息子が自分に対して殺意を抱くのはいたしかたがないと思ってしまうだけの長年にわたる根深いものが母親の側にあって、それが図らずも息子に敷き写されたことを母親が理屈ぬきに察知したということである。それはなにも、自分が嫁をさんざんいじめてきたので、そのことを息子が恨むのはしかたがないと母親が思っているといいたいのではない。いよいよ息子が犯行におよぶ場面である。

倅は念入りに磨いだ大鎌を手にして母に近寄ってきて、ます左の肩口を目がけて勢いよく横に払って斬りかかると、鎌の刃先が囲炉裏の上に吊られた火棚に引っかかってよく斬れない。その時に、母は深山の奥で弥之助が聞きつけたような叫び声を上げたのだ。二度目には右の肩から切り下げたのだが、それでもなお死に絶えなかった。そこへ近所の人たちが驚いて駆けつけ、倅を取り押さえてすぐに警察官を呼んで引き渡した。警官がまだ棒を持っていた時代のことである。母親は息子が警官に捕らえられ引き立てられていくのを見て、滝のように血が流れているのにもかかわらず、「私は恨みを抱かずに死ぬのだから、孫四郎は許してやってくださいませ」と言う。これを聞いて心を動かさぬ者はいなかった。孫四郎は引き立てられていく途中にも例の鎌を振り上げて巡査を追い回したりしたので、狂人であると判断されて放免された。それから家に帰り、今でも生きていて里で暮らしている。

「警官が棒をまだ持っていた時代」とあるから、これは明治初年のころの出来事である。『遠野物語』が自費出版されたのは明治四三年だから、どんなに昔の出来事であったとしてもたかだか三十数年前のことなのである。柳田がはしがきで「此は是目前の出来事なり」「此書は現在の事実なり」と胸を張るのはもっともであると言えよう。本書に登場する人々は皆実名なのである。

孫四郎は狂人であると判断されて放免されたのだったが、柳田もそう判断したのかどうかは微妙なところだ。文学仲間の水野葉舟が柳田の家に連れてきた、遠野郷出身で小説家志望の佐々木鏡石(本名 喜善)の語る興味深い話の数々に関して「一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」と宣言した執筆態度からすれば、微妙であるほうがよいのは理解できる。私はもちろん彼を狂人とは思わない。孫四郎の凶行はコンプレクスの自律性に彼の人格が乗っ取られた結果であると考えるので、一時的錯乱状態に陥っていたと判断する。コンプレクスは、いわば一人格を形成するのである。凶行後の彼を周りの人々はとんでもないことをしでかした狂人と見ただろうが、孫四郎は自分の犯した凶事に関してどこかで腑の落ちなさを感じてその後の人生を送ったように感じる。もちろん、そのことはだれにも打ち分けていないだろう。柳田の簡潔な筆致は、孫四郎の、心のひだにはさがったそういう思いにさえそこはかとなく触れえている。

最後に、コンプレクスとル・サンチマンとの違いにふれておこう。

ル・サンチマンをあえて日本語にすれば、コンプレクスと同様に「うらみ・つらみ」となるだろう。そういう意味では、コンプレクスとル・サンチマンとは一見類義語のようである。だが、両者には大きな違いがある。コンプレクスが無意識の領域における「うらみ・つらみ」であるのに対して、ル・サンチマンはたぶんに意識的自覚的なそれなのである。だから、コンプレクスが自我を乗っ取ろうとする(あるいは自我をおびやかすものとして存在する)のに対して、ル・サンチマンは自我を強化するように働く。あるいは、自我の核になることさえある。例えば、子どもによる親の仇討ちは、ル・サンチマンの典型例である。子どもは、自分が親の敵討ちをするために生きていることを十分に自覚しているのであるから。

それに対して、親殺しはコンプレクスのイメージに適っているように思われる。というのは、親を殺すために生きていることを十分に自覚している子どもというのはイメージとしても極めて想定しにくいであろうから。親は思わず知らず不覚にも殺してしまっているものなのではなかろうか。少なくとも、そういう側面をたぶんに有するのではないだろうか。親殺しとコンプレクスとがとりあえずつながったところで、論がようやく一巡したようである。

それにしても、孫四郎の妻は凶行に及んだ良人のもとを立ち去ったのだろうか。それとも、彼を哀れに思って踏みとどまったのだろうか。もはや杳として知れない。

*****

『遠野物語』のなかで、私がもっとも酷愛するのは、次にその冒頭を引用する九九話である。男女の、特に女性のエロスの奥ぶかさと哀切さとが、柳田国男の簡潔な筆致によって印象深く描かれているのである。なお今回は、原文があまりにも美しいので、口語訳にしないでそのまま掲げたい。できうることならば、読者よ、じっくりと味読していただくことを乞い願う。

土淵(つちぶち)村の助役北川清と云ふ人の家は字火石(あざひいし)に在り。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽したる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田ノ浜へ壻(むこ)に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

三陸沿岸は、リアス式海岸が続いている。海岸に山肌が迫り、鋭く入り込んだ湾の奥に村落が点在する。旅人にとっては風光明媚なその地形が、大津波来襲の原因ともなる。その沖合いは世界有数の海底地震多発地帯である。しかも深海であるため、地震によって発生したエネルギーは衰えることなくそのまま海水に伝わり、それがなめらかに広がる大陸棚を滑るようにして海岸線に向かう。三陸沿岸の鋸の歯状に入り込んだ湾はV字型をなしているので、その海底は湾口から奥に入るにしたがって急に浅くなる。それゆえ、巨大なエネルギーを孕んだ海水が湾口から奥に進むと急激に膨れ上がり、すさまじい大津波となる。地形上の特徴から避けようもなく、三陸沿岸は津波の来襲に見舞われ続けてきた土地柄なのである。

引用中にある「先年の大海嘯」とは、恐らく一八九六年(明治二十九年)六月十五日に三陸沿岸を襲った「明治三陸大津波」ではないかと思われる。

大津波に襲われることになっていた当日の夜、三陸沿岸の村々には日清戦争から凱旋した兵士の祝賀ムードが満ちていた。彼らを迎えた家々では宴たけなわだった。それに加えて、この日は旧暦の端午の節句でもあった。男の子がいる家では親族が集まって祝い膳を囲んでいた。

午後七時三二分、そんなお目出度い雰囲気のなかで人々は、小さなゆれを感じたのだった。その日は朝から弱い地震が何度もあり、その後にこの地震が発生し、ゆれは五分ほど続いた。その十分後にまたゆれた。しかし、人々はあまり気にしなかったらしい。春以来のたびたびの小さな地震に人々は馴れっこになっていたのである。

最初に異変に気づいたのは、魚を荷揚げしていた海産物問屋の若者たちであった。沖から遠雷のような不気味な音が聞こえてきて、船が大きく傾き、海底の岩がむき出しになったという。

その小さなゆれは、実は三陸沖約一五〇㎞を震源とするマグニチュード八.五の巨大地震であった。午後八時一五分、船越湾を北上した二回目の津波が田の浜を襲ったときは九.二mに達し、さらに船越(当話の次の引用に出てくる地名)では一〇.五mになり、その勢いで、船越半島の付け根の陸上部をも直進し、山田や大沢を襲った。岩手県南部の綾里村では、津波はなんと三八.二mという途方もない高さに達したという。その結果、死者二二、〇六六人、流失家屋八、八九一戸という甚大な被害がもたらされた。その時刻がちょうど満潮だったことも災いしたとのことである。

普通、津波の死者は溺死、というイメージである。ところが、綾里村の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には、「綾里村の如きは死者は頭脳を砕き、或いは、手を抜き、足を折り名状すべからず」とあり、その惨状はわれわれの常識的なイメージをはるかに超えている。

以上、縷々と述べてきたところを背景に『遠野物語』第九九話に目を通してみると、過酷な自然環境を胸の内に深く織り込みつつ日々の暮らしを営む人々の、宿命の色に染め上げられたいとおしさが浮かび上がってくるようである。ちなみに、引用の冒頭に土淵村とあるのは、内陸遠野郷の東部地域であり、田の浜とあるのは、遠野郷から東に三陸沿岸に出たところに位置する漁村である。遠野郷の域外といえよう。船越も田の浜とほぼ同じところにある。

引用を続けよう。ここからは、北川清の弟福二の行動がクローズアップされる。

夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思わず其跡をつけて、遥々(はるばる)と船越村の方へ行く崎の洞(ほら)のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり。男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が壻に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(をうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

当時は、今とは違って、恋仲の二人が結ばれないことの方がむしろ普通であったと思われる。というのは、当人たちの結婚の取り決めが、親と親との間でなされるのが通例であったからである。当話における福二と生前の女も、どうやらお互いの家の都合で結ばれたようである。福二はいわゆる入り婿として女の家に入っている。そういう世間の常識を振り切って、親たちから結婚を許されない恋仲の二人が結ばれようとするならば、駆け落ちをするか、あるいは心中をするよりほかはなかった。二人の恋愛の成就なるものが、当時においては共同体からの決定的な離反によってなされることが避けられない場合が多かった。その意味において、エロスの情念の完遂は、道徳的な悪の烙印を押されざるをえなかったのである。共同体に背を向けた恋仲の二人は、日陰者の汚名を甘受しながらひそやかに生きていくことを余儀なくされる(たとえば、夏目漱石の『門』にも、そういう事情が深く影を落としている)。あるいは、死してなお共同体のふところに受け入れてはもらえないのである。二人は、その運命を覚悟して性愛を貫かなければならなかった。これはまた、共同体の秩序なるものが、性愛のエロスが本質的にはらむ暴力を注意深く排除することによって保たれることを意味する。言い換えれば、その暴力の野放図な受け入れは、共同体の崩壊をもたらしかねないのである。つまり、それほどにエロスのエネルギーは莫大なものなのだろう。そのことは、例えば、われわれは「オレは国のために喜んで死ねる」という言葉にはどこかしら嘘の臭いを嗅ぎ当ててしまうのに対して、「オレは愛する者のために喜んで死ねる」という言葉はそれほどの違和感を抱くこともなくすんなりと受け入れることができる、という対照的な態度にも現れているような気がする。

「名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり」の描写から、生前の妻が美貌の持ち主であることがそれとなく分かる。女の容貌についての具体的な描写がない分だけ、かえってその妖艶さが浮かび上がってくる。そうして、美人の妻を持った男の、今も昔も変わらぬ宿痾は嫉妬である。福二は、生前の女にまつわって嫉妬の念に苛まれていたにちがいない。ましてや、結婚前、妻が深く心を通わせた男がいたことも知っていたし、その男の顔を結婚後に村で見かけることもあるのだから、二人がいまだに心を通わせているにちがいないと福二が疑っていたとしてもそれはやむをえないことである。嫉妬の念は福二の心にいつも潜在していたとみて間違いないだろう。その根深い思いが、意識の覚醒し切らない深い霧の真夜中に鮮やかな悩ましい幻覚として顕在化した、と見るのが心理主義的な解釈に慣れたわれわれ現代人にとってたぶん腑に落ちやすい構えであるのだろう。むろんそういう解釈で一向にかまわないのではあるけれど、私がいまここでこだわってみたいのはそういうことではなく、福二が本当はどういう場所に立っているのか、という一事である。

端的に言えば、彼は、強固な共同体的な秩序と、それをおびやかしてやまない性愛のエロスとの接触面に立っているのである。もちろん普段の彼は共同体の秩序の内側でなんの疑いもなく生きている。ところが、霧の濃い真夜中に我知らずそんな危険極まりない場所に迷いこんでしまった。もちろん、死んだ妻を恋う心がそこへの導きの糸である。その結果、夢にまで見た妻に会うことができたのではあったのだが、それは福二が心の内でもっとも恐れていた有様の彼女であった。彼は、共同体的な秩序の内側からやってきた者として精一杯の抵抗を試みる、「子供は可愛くは無いのか」と。妻は、その言葉に対して「少しく顔の色を変へて泣きたり」と動揺する心を垣間見せるのではあるが、それ以上の懺悔の言葉を吐露したりはしない。しようがないのである。というのは、彼女が立っている場所は、共同体的な秩序から解き放たれた性愛のエロスの深淵そのものであるからだ。排除された者は排除した者を沈黙で排除し返すのだ。福二が「悲しく情なくな」るのは、それを直観的に察するからであろう。

福二は、逃げ去ろうとする二人をなおも追いかけようとするが、ふと我にかえり、彼らが「死したる者」であることに気づく。彼らをそれ以上深追いするのを断念したのではあったのだが、そのまま家に引き返すのでもなく、「夜明まで道中(みちなか)に立ちて考え」た。彼はそのとき生きながらにほとんど死と直面していたのである。もう一歩踏み込めば、彼には死が待ち受けていたものと思われる。「 道中」とは、「あちら」の世界と現し世とをつなぐ通り路を象徴しているものと見てまちがいないだろう。

いったい、真夜中から明け方まで福二は何を考え続けたのだろう。それは、自分が見たものが本当のところなんだったのかについてであるにちがいない。では、それについて明解な答えにたどりつくことができたであろうか。むろん、できなかった。はじめからできるはずもなかった。なぜなら、彼は見てはならないものをみてしまったからである。見てはならないものの本質が何であるかを探り当てることは、自分を自分たらしめる自明のものの崩壊につながりかねない。太陽と死が直視できないのと同様に、人は、性愛のエロスに忠実な人間の有様を直視することができない。それは、「こちら」側でつつがなく生きて行くために、魔物の世界として封印するよりほかはないのである。それを直視しようとした福二が「其後久しく煩ひたり」という状態に陥ったのは、だから、当然のことと言えよう。福二の妻恋いは、手ひどい痛手を蒙ってしまった。それは、倫理的であろうとすることによる痛手であるとも言えよう。つまり、共同体の秩序と性愛のエロスの接触面こそが、倫理的なもののふるさとなのであるということになるだろう。柳田の筆は、読み手をそこにまで運んで行く誘引力がある。

思えば、女は恋い慕う男とともに「大海嘯」という自然の途方もない暴力からその命を強奪されることによって、はじめて性愛のエロスに忠実な自分をわがものにすることがかなった。共同体の秩序の世界に近づこうとしないかぎり、女には永久(とわ)の静かな幸せが約束された、といっていいだろう。女は、諦念の果てに浄福をわがものにしたのである。

「こちら」側から魔物の世界として封印されるよりほかのない領域の只中に、女の物静かに満ち足りたほほえみがあるにちがいないと信じることで、私たちは、百年あまりの時空を超えて女への鎮魂の念を誘発される。次元の異なるパラレル・ワールドで、私たちと女とは今もなお共に生きているのである。それを拒否することは、人間が人間であるゆえんから目をそらす振る舞いに等しい。それゆえ、性愛のエロスの領域は実のところ倫理に敵対するものではなく、その奥の院でさえあるのだ。そこに、私は人間の心の不可思議な機微を感じ取りたい。 作中の女に対する心の底からの共感と深い同情に導かれて、そこまでたどりついた次第である。  (終わり)

〔付記〕当論考の元に当たるものを書いたのは、2011年三月十一日の東日本大震災のほぼ直前のことだった。それゆえ、個人的に感慨深い論考となった。あらためて、今回の大津波によって亡くなられた方々に哀悼の意を表したい。
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美津島明 円地文子『女坂』を読む (イザ!ブログ 2013・3・31、4・1 掲載)

2013年12月12日 00時02分46秒 | 文学
今回、数人程度でほそぼそと継続している文学系の読書会で、円地文子の小説『女坂』(新潮文庫)を読みました。私にとって、はじめての円地体験でした。



だから円地文学のなかで、この作品がどのように位置づけられるのか、皆目見当がつきません(その次に晩年の作である『菊慈童』を読んでみましたが、円地文学が想像を絶する巨峰であることを思い知りました)。

しかしながらこの作品が、日本近代文学のなかで傑出した出来栄えを示していることだけはおそらく間違いない、と私は感じました。ざっくりと言ってしまえば、ベスト・テンくらいに入るのではないでしょうか。

いきなり結論めいたことを言いかけました。順を追ってお話しましょう。

まずは、登場人物について。

主人公は、白川倫(とも)。当小説の主人公。細川藩(いまの熊本県)の下級武士の血筋を引く。当小説は、倫の二〇代から六〇代までの四〇年間を扱っています。時代で言えば、明治一〇年代から大正初期までとなりましょうか。正確には分かりません。白川家という名家における彼女の、内助の功というよりも「影の大黒柱」としての筆舌に尽くしがたい苦労が鮮明に描かれています。「倫」は、倫理の倫に通じ、倫に、人間の踏み行うべき道についてのこだわりがあることを暗示しているのではないでしょうか。「不倫なこと、没義道なことを行友の生活で見過ぎて来た倫は、鷹夫にいくら煙たがられてもそういう不倫を再び愛する孫の上に見ようとは金輪際思わないのだ」(P207)という言い方からも、そう感じます。

白川行友。倫の夫。福島県で大書記官を、その後東京で一等警視を歴任。川島県令(後、警視総監)の部下として、権勢を恣(ほしいまま)にし「わが世の春」を謳歌し続ける。川島県令のモデルは、三島通庸(みちつね・自由民権運動を徹底的に弾圧した福島県令として悪名高い人物)。ほっそりとした上品そうな風貌の下に、旺盛な支配欲を貫くためには手段を選ばぬ酷薄さを隠し持つ人物として造形されています。

須賀。行友の妾。行友の意向に従って倫が選ぶ。一五歳で白川家に入る。家は竹の皮屋を営んでいたのだが、経営難に陥り、行友に金で買われることになった。そういう哀れな境遇にわが身があることを思い知った、はじめての夜の痕跡は、次のように描写されます。

ある朝須賀が頭痛がするといって起きて来なかった。学校から帰った悦子(白川家の長女―引用者注)が折り紙を持って新座敷(行友が須賀のために、裏庭の果樹園のそばに建てたー引用者注)の次の間に入ってゆくと須賀は、
「お嬢さま」
といって床の中からなつかしそうに悦子を見上げたが、瞼が水を含んだように腫れていた。
「あら、須賀ちゃんの眼、今日は一重瞼よ」
悦子は何げなくいったが須賀は、眩しそうに手で目をおさえてあからんだ。昨夜の思いがけぬ出来ごとを悦子にのぞきこまれたように感じたのである。


私には、この描写ひとつで、円地女史が並の筆力でない作家であることが感じられます。みなさんは、この描写によって無限の想像が掻き立てられるとは思われませんか。なにゆえ須賀の眼はそんなに腫れていたのか、とか。

由美。行友のもうひとりの妾。須賀が一八歳のとき、一六歳で白川家において妾奉公をし始める。生家はその昔、大小名の用人格。須賀が自分の運命に翻弄される哀れな女として造形されているのに対して、由美は、過去へのこだわりを過剰には持とうとしない、あっさりした、強い生命力を持った女として造形されています。後に、倫の甥・岩本と所帯を持ちます。由美が白川とはじめて肉体関係を持ったことを示す次の描写も、これまた秀逸です。

白川がどこでどういう風にしたのか、ある日土蔵の壁の厚い観音開きの陰で、細い肩をふるわして由美が泣いているのを須賀は見つけた。
「どうしたの・・・・・お由美さん、どうしたの」
と肩へ手をかけて、うしろからのぞき込むと、由美はいよいよ袖(そで)の中に顔を隠してすすり泣いた。その肩のゆすれる度に一種の感覚が須賀の身体に響いてきて、須賀は言葉をきかないでも、由美の悲しんでいる原因がはっきり胸に来た。
「お由美さん・・・・・解ってよ、解ってよ、私だって同じだったんですもの・・・・・」
須賀はいいながら涙が瞼に溢れて来て鼻声になった。由美はその声で眼ざめたように須賀を見上げて、須賀の涙を一ぱい湛えた大きい瞳をみると、急に又悲しみがこみ上げて来たように須賀の胸に顔を埋めて烈しく泣き出した。須賀も貰い泣きしながら由美の細い肩を撫でさすってやったが、華奢な骨組に堅い肉が薄くしまって若竹のように強く撓(しな)う身体つきだった。小麦色の肌理(きめ)の少し粗い皮膚も男性じみて須賀にはこころよかった。


須賀の悲しみの芯に、性的な倒錯の甘美さが織り込まれていることが鮮明に描写されています。しかしながら、作者はそのことに過剰に美的な思い入れを込めようとしているわけではありません。そんなひとりよがりな目論見はまったく感じられません。作者はあくまでも、心理的なリアリティを追及するプロセスにおいて、そういう要素を取り上げているのにほかならないのです。私は、こういうところに、円地女史の達意の筆力を感じます。このことには、表現力というテーマをめぐって、微妙ながらも決定的な重要性が存すると、私は感じるのです。つまり女史は、どうやら、人間の心理を描写するうえでの絶妙な、それ以上でもそれ以下でもない正確無比の距離感を体得してしまった作家であるようなのです。私は、次の描写にかんしても同じような感想を持ちます。これは、秘匿していた持病の痔疾が露見した須賀を、倫が介抱する場面です。

倫はよろよろする須賀の肩に手をまわして抱いてやった。二人の女はもつれあうように廊下をよろめきながら歩いて行ったが、須賀を便所に入れたあと倫はふと気づくと廊下にも自分の着物の裾にも真っ赤な血が滴っていた。倫は顔をしかめてその血を見た。須賀の身体から流れた血だ。あさましい汚い感じがした。それに蔽い被(かぶ)さるように言いようのないあわれさが倫を捕えた。

行友の妾が流した血を不浄のものとして感じることと彼女に対して尽きせぬ同情の念を抱くこととが、倫に同時に押し寄せている様子の描写が鮮やかです。人が、ほかの人に対して抱く思いや情は、年齢を重ねるほどに一筋縄でいかないものになっていきます。そのリアリティが、作者の曇りない眼で的確に捉えられています。ここで特に注意したいのは、この描写に触れて、読み手には、作者の人間認識をめぐる過剰な自意識が残るのではなく、あくまでも、この小説の登場人物としての倫の心理の綾が鮮烈に残る、ということです。それは、円地女史が人間心理に関する「正確無比な距離感」を体得していることによってもたらされているのではないでしょうか。少なくとも、無関係とは言えないでしょう。これを違った風に言えば、人間音痴が圧倒的な筆力を獲得するのは逆立ちしても無理なこと、となりましょう。

道雅。白川家の長男。粗暴な知恵遅れとして造形されています。いまなら、「広汎性発達障害」と認定されるにちがいない人物です。存在するだけで周りの人々にストレスを感じさせる人って、あなたの周りにもいるでしょう?どこがどうと具体的にはっきりとは言えないけれど、とにかく我慢ならない思いを周りに抱かせるタイプの人物。そういうパーソナリティの持ち主の有り様を、「広汎性発達障害」などというラベリングが不在であった時代(本小説は一九三九年に上梓された)に、的確に描写しえた女史の、曇りなき人間観察眼には敬服するよりほかはありません。道雅はたとえば次のように描写されます。

食物が出れば餓えた子供のようにがつがつ食べるし、口をきけばいやな匂いのような不愉快さを必ず相手になすりつけた。道雅がそこにいるだけで、周囲の雰囲気は異様に醜くなった。

美夜。道雅の二番目の妻であると同時に、行友の愛人となる女性。道雅との間に七人の子供をもうける。ちなみに道雅は、実父と自分の妻との間の乱倫の関係に最後まで気が付きません。美夜の女性像は、次のように描かれています。

美夜は、写真にでも撮れば、須賀や由美ほどに輪郭のととのった美人型ではなかったが、華奢な骨組に川魚のような軟かい肉が繊細にまとっていて、顔も手も足も皮膚一様にどこも桜の花びらのような薄花色に匂っていた。下唇のこころ持ちつき出たゆるみ加減の受け口と細い目の尻に、笑うと得もいえぬ愛嬌がこぼれ、今にも溶けてしまいそうな危げな美しさになった。身体つきの華奢なせいか動作も軽々としなやかで、少し鼻にかかる下町訛のなめらかな言葉つきも、官員風にかたくるしい白川の邸内では珍しく晴々と聞こえる。

主要な登場人物はこんなところでしょう。ほかに、行友・倫夫婦の長女・悦子、道雅と最初の妻との間でもうけた長男で東京帝大生の鷹夫、道雅・美夜夫婦の長女瑠璃子、同じく次男の和也などが登場します。

次に、あらすじについて。

本小説は、三章仕立ての典型的な三人称小説です。作者は、この小説世界を司る神のように振舞っています。いいかえれば、描写の細部に至るまで、作家としての「見えざる手」の所在が感じられる作品であるといえましょう。

第一章

最初に、夫の行友の意向を受けての、倫の妾探しの紆余曲折と須賀に白羽の矢が立てられるまでが描かれます。次に引用するのは、妾候補としての須賀の踊りを眺めているときの倫の心理描写です。むろん、須賀は倫の側の入り組んだ事情など何も知りません。

舞台の上で顔を傾けたり、身をそらしたり、色々な艶かしい姿態をつくって、主に男女の情事を表現している須賀の実際には半分子供のような無邪気な肉体を眺めていると、倫にはこの未熟な娘が自分の邸へ連れて行かれ、あの女をなずけることの上手な良人の手で、どんな風に手ならされ、変わってゆくか、思わず眼を閉じ息をつめた。眼の前に良人と須賀のからみあった四肢が浮び、頭へ血が上って来て、倫は悪夢をはらいのけるように眼をみひらいた。眼の前に大きい蝶のように舞っている娘の運命については、切ない同情が浮び、同時に嫉妬が熱い急流になって全身をかけめぐった。

倫は、生きている間ずっとこういう切迫した思いを堪えに堪え抜いたのでした。

次は、行友による須賀の寵愛ぶりが描かれます。引用は、自由党の運動員を自らの手で銃殺し、傷を負って荒れすさんだ心をぶつけるようにして倫を抱いた行友が彼女の部屋を去る場面です。この段階では、倫は行友の心事を詳らかには知りません。

暁に白川は新座敷に帰って行った。須賀について白川は一言も倫に言わなかったが、まだ手に入れていない幼い須賀に、血まぶれのあらくれた性欲をぶつけることを怖れたのだろうと倫はひとり床に戻ってから唇をかんだ。傷ついたまま一散に自分に走りこんで来た夫にある限りの情熱を捧げた後だけに、自分の愚かさをみくびりぬいて嘲(あざ)笑っている夫の顔が食いちぎりたいほど憎く感じられる。

須賀が自分を頼りにする気持ちに一点の瑕疵をもつけないようにするために、行友は、倫の身体と心を公衆便所のように粗雑に扱っています。それだけではありませんでした。事の真相を知った後、倫は妻としての心理的な深手を負うことになります。

翌日の新聞は、白川大書記官が自由党の秘密集会を急襲した帰途、数名の壮志に狙撃され自分も薄傷(うすで)を負いながらその一人を拳銃で射殺した記事がのっていた。ピストルをうったことを白川は倫に言わなかったが、何ヶ月目に自分を求めてきたのが人を殺したあとの心身の殺伐な昂奮を処理するためだとはっきり解るほど倫は切なかった。

この章の最後は、白川が抹殺したはずの自由民権運動の志士・花島が彼の眼の前に現れて、時代の変化を告げるところで終わります。

第二章

まずは、美夜が白川家の長男・道雅に嫁ぎ、旅先の江ノ島で義父・行友と情を交わしたことが暗示され、二人がずぶずぶの乱倫関係にのめり込んでいく様が的確に描写されます。次の場面は、阿弥陀さまが拝めるという言い伝えのある二十六夜の月を愛でるために白川家に集った知人たちの眼を欺くようにして、離れの美夜のところに行友が忍び込んだことに気づいた女中の牧が、須賀にそのことをそれとなく告げ、それを倫が素早く小耳にはさむところです。

「今夜も・・・・・若奥さま、風邪をひいたってお離れにお一人・・・・・」
須賀は又声をのんだ。行友がさっき座敷をはずしたのはそこへ忍んで行ったのであろう。
倫は今二階で客を相手に碁をうっている道雅のぬっぺり白い顔にすわって動かない三白眼を思い浮かべてぞっと鳥肌立った。道雅がもしこのことに気づいたらどんなおそろしいことが捲き起こるだろう。行友の好色にこれまで幾度となく苦い塩を嘗めさせられながら、倫はまだ行友の中に自分と同じ道徳が保たれていることを信じていた愚かさに愕然とした。息子の嫁という越えてはならぬ筈の関を行友は平気で踏み破っている。行友にとっては女は一様に雌に過ぎないのだ。


この箇所から、倫にとって、美夜のことが、夫婦の絆と呼べるほどのものに破壊的な作用を及ぼしていることが分かるでしょう。

次に、由美の結婚が描かれます。行友が由美の結婚を許した事情は、次のように語られています。

由美は須賀ほどに行友が寵愛していない女であったから、美夜の出来たこのごろではもう六十に手の届く行友には由美のいることはむしろ重荷になって来たにちがいない。
 行友はそれとなく、由美に暇をとって、堅気な人妻になるように奨め、由美もその気になっていることを倫は須賀のはきはきしない、奥歯にものの挟まったような話しぶりから略々(ほぼ)推察することが出来た。


行友の、なんとも身勝手な事情であるとは思うのですが、由美はそういうことにこだわるタイプの女性ではありません。それはそれとして、過去のことはさっさと忘れ、これからを生きていこうとする前向きな性格の持ち主なのです。由美は、倫の甥の岩本と新橋界隈に小さな葛籠(つづら)屋を生業とし糊口をしのぐことになる。由美は人としてまっとうな道を歩む存在として描かれていると言っていいでしょう。むろん作者は、二人の結婚を手放しで礼賛するのではなくて、岩本が由美と結婚する意識を、江戸時代の家来がご主人様からお手つきの女をありがたく頂戴するそれと変わらぬものとしてリアルにきちんと描いています。

それに続いて、須賀の、紺野という出入りの書生に対する淡い恋情めいたものが描かれます。それは、恋情とも呼べないほどのはかない末路をたどることになります。そこに、行友の好色の犠牲者としての須賀が暗示されているように、私は受けとめました。

第三章

鷹夫が瑠璃子に対して抱く、異母兄弟としての危険なエロスが、蝶のシンボルを使って見事に表現されています。そうして、その危うさに勘の鋭い倫はいちはやく気づきます。乱倫をも辞さない好色が白川家の血であることを、倫ははっきりと意識しているのです。引用文中における瑠璃子の話し相手は鷹夫です。

「あ! 又先刻(さっき)の蝶々・・・・・」
瑠璃子は甲高い声でいって手にしていた塗柄(ぬりえ)の絵団扇(えうちわ)でさっと空を切った。
 蝶々はやっぱり二羽、烏羽揚羽(からすばあげは)が番(つがい)のようにもつれて、座敷の角の柱のあたりをひらひら舞っている。
「さっき薄(すすき)のところで君の傍にひらひらしてたのと同じじゃないか」
「そうなの、私が庭へ出てからずっとまつわって飛んでいるの・・・・・お兄さま、私何だかこの蝶魔物みたいで厭なの・・・・・私に不幸を持って来る黒衣の悪魔みたい・・・・・」
「はははは」
鷹夫はからびた声で笑った。
「そらそら又来たわ・・・・・大兄さな、これ掴まえてよ・・・・・」
「掴まりゃしない、蝶の方が僕より早いよ」
 言いながら、鷹夫は瑠璃子の手から絵団扇をとって、ひらひら飛んでいる蝶を一つ大きく払うと、蝶は低く床を掠めて、瑠璃子の頬のあたりへさっと舞い上がった。
「ああ、いや! いや、大兄さま」
 瑠璃子は少女らしいけたたましい声を上げて、鷹夫の胸に顔を押しつけた。背に溢れる髪が波立ち、肩が小鳥のようにわなないている。何とも知れぬ甘い匂いが瑠璃子のより添っている身体から流れてきて、鷹夫は思わず一ひしぎに砕けそうな妹の華奢な肩を骨張った手でやさしく撫でた。


いかがでしょうか。この場面が醸し出す危険な甘味に思わずうっとりしてしまいませんか。最後の「骨張った手で」という言葉が随分効いていますね。これは、鷹夫に不意に到来した性欲とその勃起した男性器を暗示してあまりある言葉です。

この場面を遠くから一瞥(いちべつ)するだけで、倫はその危険性にはっきりと気づきます。そうして、瑠璃子をそそくさと嫁にやり、その危険性が現実のものとなるのを未然に防ぎます。鋭敏な鷹夫は、秘匿していたつもりの胸の内を祖母の倫に見抜かれていたことを悟り、以後、なにくれとなく可愛がってくれていた祖母から心理的に遠ざかります。そのことに対しても、倫は自覚的なのです。

瑠璃子を鷹夫の心から否応なしにひき放すことの出来た代償に倫はそれまで鷹夫が自分に開けひろげて見せていた裸の心を隠すようになったのを知った。

前後しますけれど、蝶のメタファは、先ほど触れた二十六夜の場面でも小道具として大きな効果を上げています。

倫の見つめる月の光にはしかし、仏の影は浮かばないで、白い蝶が二つもつれて淡い靄(もや)の中に飛び交って見えた。

これは、もちろん、行友と美夜との乱倫の交情のメタファです。蝶の白と黒との対比は、もちろん意識的なものでしょう。

話を進めることにしましょう。

行友から寵愛の限りを尽くされた美夜があっけなく若死にします。そんな彼女に対する行友の思いはあくまでも身勝手なものです。

今更死んでいく美夜の口から懺悔のような言葉をきかされるのは行友には苦々しかった。美夜は夜の闇の中で放恣な触感と匂いを溶かし流す娼婦として死んで行ってほしい。行友は漠然と美夜が死の際に自分に向ける眼をおそれてこの七日ほど病院に行っても意識して美夜と二人になることを避けていたのである。

この幼稚とも言える身勝手さや、人を愛せずに自分のことばかりにこだわる資質は、実は、長男の道雅に引き継がれているのではないでしょうか。作者にとってそれは織り込み済みのことなのではないかと、私は考えます。

いよいよ本小説の大円団にさしかかってきました。「女坂」という本小説の最後の小見出しの数ページ後で、倫は次のような感慨を述べます。

行友が八〇まで生きたにしても、自分はまだその時に七十にはなっていない。それまでの辛抱なのだ。それまでに行友に負けてはならない。自分の命が行友に勝たなければならないのだと思い、同時にその考えが夫と妻という関係で結ばれている世間一般の通念から何とかけ離れて遥かな冷たさの中に保たれているかと、わが身も凍るような寂しさを感じるのであった。

当作品の登場人物が述べている。「白川家の栄えているのは行友の器量よりも、倫の縁の下の力持ちがほんとうの根になっているのだ」と。まったくそのとおりというよりほかにありません。そのために払った倫の代償はとてつもなく大きなものでした。そのことが、直前の引用から、ここまでお読みいただいた皆さまにもお分かりいただけるのではないでしょうか。

ところが、運命の女神は倫に微笑むことを拒み、彼女に死病を賜ります。倫の痛切な胸の内は察するにあまりあります。倫は、病の床に伏すことになり、二度と起き上がることができなくなります。

そうして、私たちはこの小説の最も大事なところに立ち会うことになります。それについては、どうやら話が長くなりそうなので、稿を改めようと思います。


*****

前回の最後のところで、「私たちはこの小説の最も大事なところに立ち会うことになります」と申し上げました。では、「この小説の最も大事なところ」とは、いったいどこを指すのでしょうか。それは、次の引用の箇所です。死の床に伏した倫(とも)が、臨終の間近に迫った二月の末の夜に、決然として激しい言葉を言い放つ場面です。引用中に登場する豊子とは行友の姪で、藤江とは道雅の三人目の妻です。

「豊子さん」
 今までうつらうつら眠っているようだった倫が大きく眼をひらいて枕の上の顔をこっちへふり向けて呼んだ。豊子が返事をしながらにじり寄ると、藤江はあわてて姑(しゅうとめ)の頭をおさえた。余り急な強い動かし方で吐き気が来るのを怖れたのだったが、倫はうるさそうに頭を振って藤江の支えている手を払いのけた。感情を露骨に出したことの殆どない倫のそういうあらくれた動作に二人はぎょっとして、倫のこめかみのげっそり落ちた白髪まじりのそそけた鬢(びん)のあたりを気味悪くみつめた。倫は頭こそ上げなかったが半身をもち上げるほどの力の籠った声で一気に言った。
「豊子さん、おじさま(行友のこと)のところへ行ってそう申上げて下さいな。私が死んでも決してお葬式なんぞ出して下さいますな。死骸を品川の沖へ持って行って、海へざんぶり捨てて下されば沢山でございますって・・・・・」
 倫の眼は昂奮に輝いて生々していた。それは日頃の重くたれた眼瞼の下に灰色っぽく静まっている眼(まな)ざしとは似ても似つかぬ強さにあからさまな感情を湛えていた。


ここに、倫の行友に対する長年の溜まりに溜まった欝情を一気に晴らそうとする倫の「鬱憤ばらし」を読み取ろうとするのは、誤りとは言えませんが、それだけで終わってしまっては、倫の思いの表面を撫でただけのことにしかなりません。倫の一世一代の啖呵が私たち読み手に与える衝撃の根拠はもっと深いところにある、というのが私の見立てなのです。

ではその根拠は、どれくらい深いところにあるのかといえば、それは、私たち人間が人間であることの根底に触れるほどに深いところにあると私は考えています。

それを説明するために、私は本作品からひとまず離れて、ヘーゲルの『精神現象学』に触れることになります。別に奇を衒った物言いをしようとしているわけではないので、安心してお付き合いください。

ヘーゲルは『精神現象学』で、家族にとって「弔う」とはどういうことなのかについておおむね次のように述べています。すなわち、家族という共同態の、メンバーに対する最後の義務は、「弔う」ことである、と。別言すれば、家族が、そのメンバーの死を自然の破壊力のなすがままに放置することは決して許されることではなくて、死者を「弔う」ことによって家族共同体のうちにすなわち人間の側に引き寄せて永遠に安らぐように配慮しなければならないと言っているのです。この言い方は、多くの人の腑にすとんと落ちるものがあるのではないでしょうか。

ではなにゆえ、「弔う」ことは家族の義務なのでしょうか。その根底にはなにがあるのでしょうか。それについて、ヘーゲルは次のように述べています。

死者は、その存在がその行為や否定的な統一力から切り離されるから、空虚な個物となり、他にたいして受動的に存在するものでしかなくなって、すべての低級な理性なき生物や自然の元素の力の餌食となる。理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっているのである。無意識の欲望や元素の抽象的な力にもとづくこうした死者陵辱の行為を防ぎとめるのが家族であり、家族はみずから行為を起こすことによって血縁者を大地のふところに返し、不滅の原始的な個たらしめる。それによって、死者は共同世界の仲間に引きいれられるので、この共同世界は、死者を思うさま破壊しようとする元素や低級な生物を配下におさめ、その力を配下におさめ、その力を抑制するのである。

ヘーゲルはここで、人間の本質を徹底して反自然的なものとして描いています。私には、「人間の本質は人間そのもの以外に考えられない。自然にそれを求めようとするのは悪しき抽象化である」というヘーゲルの肉声が聴こえてくるように感じられます。「地球に優しい」ことが絶対の正義のようになってしまった当世において、「反自然的」などという言葉は、誤解や曲解や半可通的な情緒的反発を招きやすいのでしょうが、ヘーゲルのみならず私としても、ここは譲れないところです。

人間は、どこまでも反自然的な存在なのです。人はひとりで生まれてひとりで土に帰っていくのではありません。人は人々の只中から生まれ、人々の只中へ帰っていくのです。それが人間の宿命なのです。人間は、森羅万象を「意味」として把握するほかない、言い換えれば、人間のあらゆる実践は、自分が世界をどう把握しているのかの表出・表現としてあるほかない、という避けようのない事実に、そのことはあからさまに露呈されていると私は考えます。

死は、人間の本質としての反自然性を根底から揺るがしかねない重大時です。なぜなら、ヘーゲルがいうように、死をきっかけに「理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっている」からです。それは平たく言えば、野放しにされた死体は野犬の餌になりかねないし、腐食作用によって、不可避的に単なる物質に還元されるほかない、というようなことでしょう。そのことによって、人間の本質としての反自然性は脅かされることになります。人間はあくまでも人間であるという共同幻想が破壊の危機に直面するということです。だから、人間が人間であり続けようとするかぎり、すなわち、死者が自分ではどうにも保持し得ない人間性を保持しようとするかぎり、家族は、死者と化したメンバーを「弔う」ことによって、自然の破壊力から自分たちの元に彼を取り戻さなければならないのです。理屈以前に、人間はそういう営みを延々と繰り広げ続けてきました。

「弔う」ことについてここまで考えたところで、私たちは、倫の一世一代の啖呵に戻りましょう。念のためにもう一度、倫の言葉を引用します。

「豊子さん、おじさま(行友のこと)のところへ行ってそう申上げて下さいな。私が死んでも決してお葬式なんぞ出して下さいますな。死骸を品川の沖へ持って行って、海へざんぶり捨てて下されば沢山でございますって・・・・・」

倫はここで、行友から弔われることを断固拒否しています。その意味するところは、深甚なものがあります。倫は、行友による自身への弔いを拒否することによって、行友を頂点とする白川家の共同態に死者として参画することを拒んでいるのです。さらには、行友の自分に対する人間的な振る舞いを根底から拒否しているのです。露骨に言えば、「行友よ、お前には私を人間的に扱う資格などない」と決然として言い放っているに等しいのです。これは、自分の死体が自然の暴力に晒されることを代償にして、行友の人間性を根のところから否定することを意味します。

それゆえ、豊子から倫の言葉を伝え聞いた行友は、次のような状態になるのです。ちなみに、これは本作品の結語です。

四十年来、抑えに抑えて来た妻の本念の叫びを行友は身体いっぱいの力で受けた。それは傲岸な彼の自我に罅裂(ひびわ)れる強い響きを与えた。

ここで倫は、忍従の果てに、強い個人として佇立しています。しかしながら、行友が倫の事実上の遺言を実行することは、世間体から言ってもありえないでしょう。その意味では、倫の意思は踏みにじられる運命にあります。あくまでも倫は行友に対して敗北を喫するのです。さりながら、その敗北は、倫にとって全身全霊を込めた拒否の果てにやってくるものです。そのことを、行友はだれよりもよく分かっているはずです。だから、行友には、倫によって与えられた自我の罅裂れを取り繕う術は残されていないのです。それほどには、倫は行友に痛棒を喰らわすことに成功しています。

行友による形だけの弔いを、根のところで拒んだ倫の魂が、行友を頂点とする共同態に参画することはついにないでしょう。倫の墓はできるのでしょうが、そこに倫の魂はないのです。

和辻哲郎は、その『倫理学』(岩波文庫)で次のように言っています。

否定の運動において根源より背き出るという方向が悪であり、根源へ還る方向が善である。

因習で成員をがんじがらめにし、女性としての尊厳を愚弄し続けた旧社会という「根源」から背き出て、そこに還ることをきっぱりと拒否する倫の精神は、上記に従うならば、悪としか称しようがありません。倫はとても強い人なので、それでもかまわないと言いそうな気もしますが、それでは倫の魂が浮かばれない、という思いがどうしても残ってしまいます。

心ある読み手が、倫を弔おうとするよりほかはないような気がします。そういう心を手向けることで、その存在を善と化すよりほかはない気がするのです。つまり、倫が還って行く「根源」とは、この小説に深く思いを致した読み手の心の共同性以外にないのではないかと思うのですね。そういう思いを読み手に抱かせるほどに、この小説は倫のリアリステックな造形に成功している、と言えるのではないでしょうか。 (終わり)
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 林芙美子『浮雲』のラスト・シーンについて

2013年12月09日 05時56分49秒 | 文学

新潮文庫 662円

当作品は、成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』の原作です。また、林芙美子女史晩年の作でもあります。1949年の十一月から1950年の八月まで雑誌『風雪』に、同年九月から51年の四月まで雑誌『文学界』に連載されました。その約二ヶ月後の六月二十九日午前一時、女史は心臓麻痺のため死去しました。享年四十七歳。人生五十年の当時においても、若死にと言っていいでしょう。

たまたま私は、映画『浮雲』を原作よりも先に観ました。それに深い感銘を受けたことが、おのずとその原作への興味につながりました。映画『浮雲』が一般公開されたのは1955年の一月十五日。原作の完成から四年弱の月日が経っています。主人公の幸田ゆき子を演じたのは高峰秀子で、その恋人の富岡兼悟を演じたのは森雅之です。この二人の演技の絶妙な掛け合い・やりとりが、この映画の深い味わいをもたらしていると言っていいでしょう。高峰・ゆき子の断ち切り難い恋情の執拗さ・激しさを懐深く受けとめる森・高岡の言葉少ない演技の奥深さには、尽きせぬ魅力があります。その場限りの言い訳に終始し、弁護の余地がないほどに甲斐性のない薄情な男を演じながら、女心を吸引してやまない魔力を発散する圧倒的な存在感を観る者に感じさせる森雅之は、映画における演技なるものの奥義を体得した俳優なのではないでしょうか。そこには、理屈では割り切れないものがあるように感じます。

「映画『浮雲』の一番印象に残るシーンをひとつ」と言われたら、十人のうち九人は、ゆき子のデスマスクのラスト・シーンを挙げるのではないでしょうか。かくいう私自身もその一人です。

ゆき子は、富岡への、煩悩と痴情まみれの、腐れ縁としか形容しようのない恋情を断ち切ろうと思ってもどうしても断ち切れず、延々ともがき苦しみ続けました。そんな彼女が、富岡との道行の果てに、当時の「国境の島」屋久島で病魔の暴力によって図らずも命を奪われてしまいます。その臨終の場に居合わせることがかなわなかった富岡が山から戻り、人払いをして、ひとりでゆき子のデスマスクと向き合います。富岡は、ランプを引き寄せてゆき子の蒼白の顔を照らし出し、おもむろにゆき子の口紅に手を伸ばして、その唇に紅を引きます。そのときのゆき子のデスマスクは、聖性を帯びた崇高美を体現しています。煩悩から崇高美への無言の昇華は観る者に強い印象を与えます。富岡は、自分が失ったもののかけがえのなさにはじめて気づき、肩を落とし、全身を小刻みに震わせます。その孤独な無言の後ろ姿を写して映画は終わります。

では、この場面を原作はどう表現しているのでしょうか。まずは、ゆき子の孤独な臨終の場面から。ゆき子が下の引用文中で触れている仏印の思い出とは、営林署の職員として戦争のさなかに仏印(ベトナム)に別々に渡った二人が高原のダラットで出会い、恋に落ち、蜜月の日々を送った熱帯の甘味な記憶のことです。恋の陶酔のさなかで富岡は、内地に戻ったら、親も妻子も捨ててお前と結婚するとゆき子に誓ったのでした。しかし、内地に戻った富岡を待っていたのは、彼だけを頼りにする親や妻子とのどうしようもないしがらみでした。そこから、富岡はどうしても抜け出すことができなかったのです。それを仕方のないことと半ば諦めながらも、ゆき子は、ダラットの陶酔の日々をどうしても忘れることができなかったのです。

・・・・ゆき子は、胸もとに、激しい勢いで、ぬるぬるしたものを噴きあげて来た。息が出来ない程の胸苦しさで、ゆき子は、ぐるぐると軀を動かしていた。両手を鼻や口へ持って行ったが、噴きあげるぬるぬるはとまらないのだ。息も出来ない。声も出ない。蒲団も毛布も、枕も、噴き上げる血のりで汚れた。(中略)仏印での様々な思い出が、いまは、思い出すだにものうく、ゆき子はぬるぬるした血をうっうっと咽喉のなかへ押し戻しながら、生埋めにされる人間のように、ああ生きたいとうめいていた。ゆき子は、死にたくはなかった。頭の中は氷のように冷くさえざえとしながら、軀は自由にならなかった。


ゆき子は、「生埋めにされる人間のように、ああ生きたいとうめ」きながら死んでいったのです。そこにはまるで神も仏も救いもなにもないかのようです。次は、富岡がゆき子のデスマスクとひとりで向き合う場面です。ちょっと長くなります。

ゆき子は、相当苦しんだとみえる。四囲の血の汚れが、富岡の眼をとらえた。富岡は、何をする気力もない。次の部屋の火鉢に、しゅんしゅんと煮えたっている湯を金盥(かなだらい)にうつして、それにタオルを浸し、富岡は、ゆき子の顔を拭いてやった。いつも枕もとに置いているハンドバッグから、紅棒を出して唇へ塗ってやったが、少しものびなかった。タオルで眉のあたりを拭っている時、富岡は、何気なく、ゆき子の瞼を吊るようにして、開いてみた。ゆき子の唇がふっと動いた気がした。「もう、そっとさせておいて‥‥‥」と云っているようだ。(中略)ランプをそばによせて、じいっと、ゆき子の眼を見ていた。哀願している眼だ。富岡はその死者の目から、無量な抗議を聞いているような気がした。ハンドバッグから櫛を出して、かなり房々した死者の髪を、くしけずって、束ねてやった。死者は、いまこそ、生きたものから、何一つ、心づかいを求めてはいない。されるがままに、されているだけである。(中略)二人の昔の思い出が、酔った脳裡を掠め、富岡は、瞼を熱くしていた。(中略)風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を点じ、枕許へ置きに行った。面のように、表情のない死者の顔は、孤独に放り出された顔だったが、見るものが、淋しそうだと思うだけのものだと、富岡はゆき子の額に手をあててみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を払いのけた。富岡は、新しい手拭も、ガーゼもなかったので、半紙の束を、屋根のように拡げて、ゆき子の顔へ被せた。


ひとりぼっちでゆき子の死を悼む寡黙な富岡の姿が、感傷を交えぬ淡々とした筆致で描かれています。この冷静な筆致に、私はリアリスト林芙美子女史の尋常ではない物書き魂を感じます。

ここで、ひとつ気になることがあります。映画『浮雲』のゆき子の死には無言の救いがありました。そういうものが原作のゆき子の死には見当たらないような気がするのです。それはそれでかまわないといえばそうなのですが、ちょっと引っかかるところがあるので、そのことにこだわってみようと思うのです。

まずは、ゆき子が死んだ場所がなにゆえ屋久島であったのか、について。林芙美子の紀行文「屋久島紀行」(www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/4989_24353.htmlで閲覧できます)を読み解きながら、そのことを考えてみましょう。

この紀行文は、1950年の七月に「主婦之友」に掲載されました。結果的に屋久島行きは、雑誌連載中の『浮雲』終末部の舞台の取材旅行ともなりました。おそらく、屋久島を見聞して林女史は、さまよえる魂の持ち主ゆき子の死に場所を屋久島にすることに心を決めたのでしょう。

では、屋久島の何に林女史は心を動かされたのでしょう。林女史は詩の形でこう述べています。

一切の強欲の軋轢の苦役から

放免せられてゐる山々

一寸きざみに山へ登りつめる廣い天と地
鋭利な知能を必要とはしない自然
老境にはいつた都會を見捨てて

柔い山ふところに登りつめる私

私はその楽しみの飽くことを知らない


また、屋久島の山々の威容については、次のような描写もあります。

山々は硯を突き立てたやうに、の上にそそり立つてゐる。陽の工合で、赤く見えたり、紫色に見えたりした。私達は、その山にみとれてゐた。


次は、屋久島の大自然とそれに溶け込んでいるかのような島民の穏やかで素朴な人情との美しい描写です。

嶮岨(けんそ)な山壁を見てゐると、何事もない、人跡絶えた島にも見える。千年近い屋久杉があの山中に亭々とそびえてゐるのだ。海沿ひは年中温暖な土地と見えて、どの樹木も夫婦木のやうに、根元から二本に分れて大きくなつたものが多い。松は本土のやうにひねくれた枝ぶりを持たない。みな空へむかつて、箒のやうに繁つてゐる。村の娘達は、すれちがふたびに、旅人の私達に、丁寧にあいさつをして通り過ぎて行った。


島の子どもたちや娘たちの描写には、筆者の尽きることのない深い共感がこめられています。

バスは道いつぱいすれすれに、の軒を掠め、がじまるの下枝をこすつて遲い歩みで走つた。私はしつかりと窓ぶちに手をかけて、暗い道に手を振つてゐる子供達を見てゐた。かあつと心が焼けつくやうな氣がした。家々に歸り、子供達は、二つの眼玉を光らせたバスのヘッドライトを夢に見ることだらう。私は時々窓からのぞいて、暗い道へ手を振つた。

(中略)

子供は繪になる生々した顔をしてゐた。娘は裸足でよく勤勞に耐えてゐる。私は素直に感動して、この娘達の裸足の姿を見送つてゐた。櫻島で幼時を送つた私も、石ころ道を裸足でそだつたのだ。



   屋久島は山と娘をかかへて重たい島

   素足の娘と子供は足の裏が白い

   柔い砂地はカンバスのやうだ

   遠慮がちに娘は笑ふ

   飛魚の頃の五月

   屋久島のぐるりは銀色の魚の額ぶち

   青い海に光る飛魚のオリンポスだ。


これを屋久島賛歌と称することを躊躇すべきもっともな理由が私には見い出せません。と同時に、ここに私は、林女史自身の再生への祈念を読みとりたいと思います。屋久島の風土に、女史は永遠を見出しているのです。

事後的な言い方になりますが、屋久島を訪れた女史に残された余命はおおよそ一年ほどでした。心のどこかで女史は、自分の来し方行く末を強く意識していたものと思われます。それは、自分に即して人間の魂の問題に思いを馳せることでもあります。そういう実存的でもあり普遍的でもある、女史の身体がらみの生死観の核心にある琴線におそらく屋久島の独特の風土が触れたのでしょう。

「ゆき子の死に場所は屋久島である」という確信を得た女史の姿が、私には浮かんできます。

そこで、最後の疑問です。ならば、ゆき子の死に筆者の再生への祈念が投影されなかったのはなぜなのでしょう。なにゆえ、筆者は救いのない形でゆき子の死を描いたのでしょうか。

ゆき子は、血まみれで苦しみながら死んで逝きました。ここで私は、次のような普遍的な事実に突き当たります。

赤ん坊は血まみれで生まれて来ます。そうして、胎内で母の心音を聴くことで得られていた平和が破られたことに全身で反応し産声という名の悲鳴を上げてこの世にその姿を現します。それが偽らざる生の原風景であります。そこに人間の生の悲劇性を読み込むのは、間違っているというわけではないのでしょうが、いささか感傷への傾きが過ぎるところがあるように感じられます。そういう感慨を超えたところに、この厳粛な事実は存在しているのではないかと思われます。

そこから振り返るならば、ゆき子が血まみれで苦しみながら死んで逝ったことは悲惨であるとも、救いがないこととも言い切れなくなってきます。そこでわれわれは、黙るよりほかにない次元に触れているのではないでしょうか。

その「黙るよりほかにない次元」から、血まみれで苦しみながら死んで逝ったゆき子と血まみれで悲鳴をあげながら生まれて来る赤ん坊とが二重写しになるのではないでしょうか。

そうとらえるならば、ゆき子の死と再生の地屋久島とが深いところで沈黙のうちにつながるのではないかと思われます。その二つが永遠の相においてつながると言いかえてもいいでしょう。

映画『浮雲』で、ゆき子のデスマスクが沈黙のうちに崇高美を体現するのは、成瀬監督に、そういうつながりへの感知があったからなのではないでしょうか。ここで、原作のゆき子の死と映画のゆき子の死とが、見かけの違いを超えて、少なくとも私のなかではつながります。

最後に、富岡とゆき子には、仏印という外地から内地への引き上げ者という側面があることを付け加えておきます。激変した敗残の戦後日本には、外地から戻った二人が生きていける場所はもはや残されていなかった。だから、二人はともによろよろともたれあうようにして彷徨いながら、日本の南の果ての屋久島にたどり着くほかなかった、という意味合いも、この小説の結末にはあります。そこは、当時の日本でいちばん仏印に近い場所だったのです。

これを読んで、映画『浮雲』にも興味をお持ちになったならば、下に全編が収録されていますのでご覧ください。約126分です。はじめにしばらくCMが続きますが、あわてずにお待ちください。
v.youku.com/v_show/id_XMjQ4MzQzNjIw.html
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