君がため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国のゆく末
二月八日の「夕刊フジ」に幕末の長州藩士・長井雅楽(うた)の記事が出ていました。歌人・田中彰義さんの紹介記事です。心に残ったので、その肖像を書きとどめておきましょう。
その人となりについて、記事から引きながら、おりにふれつけ加えます。
1819年に生まれた長州藩士・長井雅楽。4歳で父を失ってからは藩校の明倫館で学び、萩城下一の英才と言われた。藩主・毛利敬親(たかちか)からも信頼され、息子である定広(さだひろ)の後見人にもなっている。
付け加えれば、明倫館で学んでいるとき、雅楽は敬親の小姓となっています。これは、将来の出世を約束されたのも同然の待遇でした。また、定広はいわゆる若殿で、その後見人になったことは、敬親の雅楽に対する信頼の厚さを物語っています。
1858年には直目付(じきめつけ)に任命された。これは藩主直属の仕事で、藩政全般を監査し、藩主に上申をする役割だった。
世に出た雅楽は、順風満帆の滑り出しだったのです。ところで、世は幕末。世論は、開国か攘夷かで喧々囂々(けんけんごうごう)の状態でゆれていました。長州藩も、何かしらの形で、藩論を天下に示さねばなりませんでした。おそらく、藩主・敬親の求めがあったのでしょうが、雅楽は、1861年「航海遠略策」を藩に献上します。一言でいえば、それは公武合体・開国進取を主張する内容でした。具体的には、次のような内容です。
「朝廷は諸外国と結んだ条約を破棄して鎖国に戻せというけれど、今、条約を破棄すれば戦争になる。そのとき、長い平和に慣れた武士団は敗れ去るだろう。今はむしろ積極的に外国と貿易をし、国力を高めるべきときだ。それを朝廷が幕府に命じることで、君臣の関係も正されていく」
藩主はこの雅楽の建白を認め、これが長州藩の藩論となります。そこで藩主は、雅楽を伴って、朝廷・幕府双方をめぐりました。朝廷側の当時の重鎮・正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)は雅楽の建白書を一読、大いに賛意を表し、それを孝明天皇に上奏しました。すると、天皇も大いに満足し、これを支持しました。のみならず天皇は、次の歌を藩主・慶親(敬親)に下賜しています。
国の風 ふき起こしても 天津火の 本の光に かへすをぞまつ
ちなみに、仲介役の三条実愛は、長井に対してじきじきに次の歌を与えています。
雲居にも 高く聞こえて すめみ国 長井の浦に うたふ田鶴(たず)の音(ね)
*「すめみ国」は、「すめらみ国」(皇御国)と同じで、天皇が治(し)らす国という意味。
これらの歌から、長井の策を目にした天皇や実愛が、それに深く心を動かされ喜んでいる様子を感じ取るのは、私ばかりではないでしょう。
次に江戸に上り、老中の安藤信正に建白書を見せたところ、彼もこの策に賛同したのでした。つまり、当時の朝廷と幕府の両方から、雅楽の策は賛同され受け入れられたのです。
長井の策が正論であり、後の明治維新政府の基本路線の先駆けとなるものであることは、後世の私たちからすれば、よく分かりますね。長井の論は、翌1862年の春頃まで確かに我が世の春を謳歌したのです。
けれども、時代は尊皇攘夷の方向へと傾いていた。藩内でもこうした機運が高まり、次第に尊皇攘夷派の攻撃の矛先は雅楽へと向かった。反幕派の公卿たちも動き、雅楽の建白書には朝廷を誹謗する文言があると指摘しはじめた。押し寄せてくる時代の激流の中で、朝廷は結局、雅楽の策を不採用とした。
ここには詳細を記しませんが、「雅楽の建白書には朝廷を誹謗する文言がある」というのは、むろん「言いがかり」の類です。しかしその「言いがかり」は、雅楽を追い詰めるための智謀としてのそれでした。論者によっては、その首謀者は長州藩の尊王攘夷派の急先鋒・久坂玄瑞としているようです。結局長井は、久坂ら尊王攘夷派との政治闘争に負けることになります。
1863年、雅楽は潘の責任をすべてとらされるかたちで、切腹を命じられる。藩の進路を見誤らせた、というものだった。藩を思い、国を思って生きてきた雅楽はさぞ無念だっただろう。藩の中には雅楽を支持する藩士も多くいた。
けれども、このままでは藩論が真っ二つに分かれ、内乱となってしまう。それを見越し、案じた雅楽は、あえて過酷な運命を受け容れ、自ら身を引く道を選択したのだった。濡れ衣であることは誰の目にも明らかだ。それでも雅楽は藩命に従った。
掲出歌はこの時、詠まれたものだ。最後まで国の行く末を案じ続けた思いが素直に伝わってくる。雅楽は、「今さらに何をか言はむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば」という歌も残している。
文久三年(一八六三年)の二月六日、萩城下土原(ひじはら)の自宅において、長井の切腹は実行されました。そのとき長井は、掲載歌とともに、次の漢詩も作りました。
君恩に報ぜんと欲して業、未だ央(なか)ば
自ら四十五年の狂を愧(は)づ
即今の成仏は吾が意に非ず
願くは天魔と作(な)りて国光を輔(たす)けん
気にかかるのは、「狂」と「天魔」です。四十五年の人生は、「狂」に貫かれていて、自分はそれを愧じるというのです。およそアポロ的な知性の持ち主というイメージが強い雅楽にふさわしくないような言葉です。おそらく雅楽は、余人からはうかがい知れないような激情を内に秘めていて、強力な知性でそれをどうにかこうにか押さえ込んできたのではないでしょうか。そういう「狂」を自覚するがゆえに「成仏など自分には似合わない。仏教の修行を妨げる天魔になってこの世にとどまり国の行く末を見守りたい」という言葉が自ずと浮かんできたのではないかと思われます。自らの血で書かれた鬼気迫る詩とは、こういうものを指していうのではないでしょうか。
雅楽の激情の所在は、彼の切腹の様子をつぶさに描写したものを読むと如実に知ることができます。雅楽の切腹の一部始終を見届けて藩主に報告する正使は国司信濃(くにししなの)、副使は目付上席糸賀外衛(とのえ)でした。また、介錯は親戚の福原又四郎という二一歳の青年で、前日に雅楽が選びました。又四郎は古田松陰の門をくぐったことのある青年で、松陰から、「外見はやさしく見えるけれども、才知があってこれを補っている。そして一度正しいと思ったことは絶対にゆずらない」と評されました。以下は、井沢元彦氏の文章から引きました。http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/nagai.htm許しを得て、雅楽が世阿弥の謡曲『弓八幡』(ゆみやわた)を歌い終えたその直後の場面です。
その謡曲の一くぎりがすむと、長井は静かに肩衣を脱ぎ、(切腹刀を載せた――引用者補)三方を引きよせ、白紙を指先に巻いで首と腹をぬぐったという。そして、残りの白紙で短刀をつつむようにして持ち、刃先一寸を余して右手にかまえ、左の手で三方を背後にまわした。こうした儀式の進行と型は、長州藩において後の模範になったようである。
それから、長井は帯を下げて腹部をくつろげ、ゆっくりとそれを撫でおろすようにして左の脇腹をさぐり、その手を右手の拳の上に置くと、一気にそこに突き立てた。そして右の方に向ってきりりと一直線に刃を走らせたのである。そこで、切先をかえして上方に抜き、そのまま頚動脈に持ってゆくのだ。
ところが、長井は、あまりにも深く刃を突き立て過ぎたようだ。気性の激しい人物には、往々にしてこのことがあるようである。そのために、思いもかけないほど多量の血液がながれ出てきた。長井は、その腹部を左手でかばったまま、右手だけで咽喉をはねようとしたのだ。
しかし、腹部の重傷が彼の右手を狂わせた。刃は急所をはずれたようである。介錯なしに自決したいという一念は、それほどの痛手にも屈せず左手を腹部から右の拳に戻すと、いま一度と血糊のふき出している咽喉首に突き立てた。そして、その刃をはねるようにして抜くと、その短刀を畳の上に突き、ゆらりとゆるいで前方に伏せた。型の通りにいったのである。
ところが、このときも急所を外れていたようだ。長井は、ぐっと首をあげ、最後の力をふりしぼるようにして身体を起した。正坐にかえったのである。そしてじっと局囲を見廻したという。
また目が正使から副使の糸賀に向けられたとき、糸賀は背筋を走るような悪寒におそわれて、頭をあげることができなかったという話も残っている。
又四郎は、ここで介錯の役目を果すときがきたと思った。彼はすぐにその側に進みよった。そして左の小脇に長井の身体を抱き、右手にその短刀を持たせて、これを助けながら一気に咽喉をはねさせようとしたのである。
しかし、長井は左の手を振った。一人で死ねる、まだよいという意志表示なのだ。又四郎は手を放した。長井の意志とは反対に、もう身体が動かないのである。手が徒らに宙に舞っている。又四郎は、長井から渡された刀を抜こうとした。
しかし、あくまでも自分の手で死のうと最後の力をふりしぼっている叔父の心を思うと、ここで首を打ち落すことがためらわれた。彼はもう一度、叔父の身体にかぶさるようにして坐り、そしてその短刀を咽喉首に向けてあてがってやった。
そのとき、長井はまだそれだけの力が残っていたかと思われるほどの勢で、自分の気管を絶ち切ったのである。彼の呼吸はそこで絶えた。しかし、身体はまだ坐ったままであったという。又四郎が、その身体を静かに横にして、両手を合掌させた。切腹の作法が型の通りに終ったのである。
これを読んで、私は、その生々しい描写に圧倒されるとともに、「もののふ」の最期とはこういうものではないかという感慨を抱きました。「もののふ」としてじつにあっぱれな最期であり、ここまで剛毅な姿をとどめた切腹はきっとまれなものなのではないかと感じたのです。最後の力をふりしぼり、介錯の助けを拒み、自分だけで切腹を完遂させようとしたところに、「この死は、敵の勢力の奸計に陥れられたことによるのではなくて、あくまでも自分が選びとったものなのだ」という一念を命を賭けた振る舞いによって貫き通そうとする雅楽の強靭な意志を感じるのは、おそらく私だけではないでしょう。
このように、武士としていろいろな意味で傑出していて、また尽きせぬ人間的な魅力にあふれてもいる長井雅楽は、激動の幕末史のなかのまごうことなき敗者です。そうして敗者は、勝者によって歴史の表舞台から片隅に追いやられ、やがて闇から闇に葬り去られるのが常です。雅楽もまたそういう憂き目に遭い続けてきた人物のひとりであることは間違いないでしょう。私はそのことを惜しむ者のひとりです。と言っているうちに思いついたのですが、雅楽は、又四郎に介錯の役柄を期待したのではなくて、自分の死に様の一部始終を後世に伝えることを期待したのではないでしょうか。とするならば、雅楽は、いま私が述べた歴史の冷徹な「鉄則」を知悉していたことになります。その意味で、最期の雅楽は、歴史の神に渾身の力で抗おうとしたのではないかと、私は考えます。