美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

雪かきと近所付き合いと人倫感覚

2014年02月26日 02時56分48秒 | 戦後思想
*ちょっと前の文章ですが、そのまま掲載します。日にちの計算が合っていないところはご容赦願います。

雪かきと近所付き合いと人倫感覚

先週末に続き、一昨日から昨日にかけて、関東地方はまたもや記録的な大雪が降りました。紙面には「気象庁も読み間違えた『ドカ雪』」なんて文字が踊っていましたね。むろん、わが家の前にも大量の雪が降り積もりました。

わが家は、県道沿いに建っていて、家の前には2m弱の幅の歩道があります。そこに降り積もった雪が凍って固まってしまうと、道行くひとびとが滑って転ぶ危険があります。それで、家の前だけですが、人ひとりが通れる幅だけ、先ほどシャベルで除雪しました。先週も同じことをしました。

そういうことをしていて、ひとつ、どうにも腑に落ちない思いが湧いてきました。わが家のまわりには、歩道沿いに五、六軒家が並んでいます。そのなかで、歩道の雪かきをしているのは、先週も今週もわが家だけなのです。別に威張っているわけではありません。お互いほんのちょっとだけ雪かきをすれば、道行くひとびとが安心して気持ちよく歩くことができるのに、その「ほんのちょっと」をどうしてもしようとしないのです。私には、その気持ちがいささか分かり兼ねるところがあります。

「関係ない」?あるでしょう。自分たちもその歩道を利用するでしょうに。「面倒くさい」?安全に歩けるようにするのが、そんなに面倒なことでしょうかねぇ。

「近所の人たちとなるべく顔を合わせたくない」。なるほど、それなら話が分かりやすい。要するに、そういうことなのでしょう。私だって、別に顔を合わせたくなるような隣人がいるわけではありません。にしても、合わせたら合わせたで、申し訳程度にぺこりとお辞儀をすればいいだけのことではないですか。「それもイヤ」?これもおそらく図星でしょう。なんともチンマイ世の中になってしまったものです。そういう殺風景な情況を「個人主義の流布」などというもっともらしい言葉で飾り立てることに、私はあまり賛成できません。

単刀直入に言ってしまいますが、近所づきあいにおける人倫とは、おそらく「向こう三軒両隣」の精神なのではないでしょうか。「たとえば玄関の前を掃除するとして、自分の家の前だけを掃除するのではなくて、隣との境をちょっとだけはみ出して掃除するんです。お互いそうすれば、気持ちいいし、和気藹々とした雰囲気がかもしだされるし、街全体がキレイになるし、いいことだらけになるでしょ?」。これは昔永六輔さんが言っていたことです。ここに「向こう三軒両隣」の精神の真髄が語られていると言っていいでしょう。(昔は、永六輔さんのような隣近所の物知りじいさん的なテレビタレントがけっこういましたね)。

そういう心構えのひとびとが少しずつでも増えれば、世の中は、余計なお金をかけずとも随分暮らしやすくなるような気がします。昔の人もおそらくそんなふうに考えたので、「向こう三軒両隣」という言い方が知恵ある言葉として流布し定着したのでしょう。

私は、藤井聡さんが唱導している「国土強靭化」にもろ手を挙げて賛成している者です。これって、国民経済を充実させるマトモな公共事業を積極的に推進するのにモッテコイのグッド・アイデアですね。というのは、人間は何よりも自分の命が大切なので、「あんたね、いい気になって公共事業を悪者扱いしてるけど、そんなに死にたいのかい。大地震が起ころうと、トンネルがどんどん崩落しようと、橋が次から次に落ちようと、道路がガタガタになろうと、水道管が破裂しようと、とにかくかまわないから公共事業を削れって、いつまで言い続けるんだい?」と詰め寄られると、たいがいの人はさすがに黙ってしまうでしょうからね。

思うに、国土強靭化のココロというのは、実は「向こう三軒両隣」の精神の復権なのではないでしょうか。「情けは人のためならず」の復権といっても、「袖触れ合うも他生の縁」の復権であるといっても、それは同じことです。つまり、日本人としての世間道徳の復権ということです。これまで日本人が当たり前のことを当たり前のようにして行うことで世の中を住みやすくしてきたごくふつうの振る舞いがなるべくふつうにできる物質的な条件を整えることが、実は国土強靭化の趣旨なのではないでしょうか。

「情けは人のためならず」と思うからこそ、何を措いても、いま苦しんでいる東北の被災者を無条件に救おうとするのでしょうし、それを少し広げて考えれば、「地震大国・日本」において、未来の被災者の苦しみを少しでも減らし和らげるために、日本列島の耐震構造・防災システムを高度なものにするよう手を尽くことにもなるのでしょう。

その意味で、国土強靭化の精神と真っ向から対立するのが、竹中平蔵流の構造改革の精神です。構造改革の根にあるのは、「われわれは、これまでの旧態依然とした日本人のままではダメだ。根本的に日本を改造してアメリカのような自己責任社会にしなければ日本はとんでもないことになる」という考え方です。竹中平蔵の言い草を聞いていると、なんとも落ち着かなくなってきたり、息苦しくなってきたりするのは、彼が、日本人としての自然体の世間道徳を否定し破壊する衝動をむき出しにするからです。素手の状態にある人々に理不尽なストレスをかけてくるのですね。彼がなぜかくも日本を敵視するのか、よく分からないところがありますが、それはとりあえず措きます。そういうことに興味はありませんからね。

この十数年間、構造改革の断行に次ぐ断行は、日本人としての自然体の人倫感覚をすっかり荒廃させてしまったかのようです。その点景として、我が家の周りの雪かきの惨状がある、と言えそうな気がしなくもありません。

私たち日本人は、「自由」とか「平等」とか「人権」などという言葉を振りかざされることに非常に弱い一面があるような気がします。〈岩盤突破で、企業間の「自由な」競争を実現するべき〉と言われると、あまり強く反対できなくてついつい規制緩和や構造改革を甘受してしまってわざわざ自分たちが住みにくい世の中を作ってしまうし、〈男女「平等」は大切だ。女性の社会進出は素晴らしいことだ〉と言われると、そうかなぁと怯み、ラディカル・フェミニズムの文化破壊工作にまんまと引っかかってしまうし、TPP問題で〈「自由」貿易はすばらしい。国家の垣根を超えて企業が「対等」に競争できるルール作りは推進されなければならない〉と推進派から強く出られると、ヘタをすれば、国家主権をグローバル企業に献上する振る舞いさえもしかねないのです。まったくもって馬鹿げています。

どうしてそういうことになってしまうのか。その歴史的淵源を探し求めれば、大東亜戦争でアメリカにボロ負けしたことによる敗戦コンプレックスに行き当たるのではないかと思われます。つまり、アメリカにボロ負けしてしまったのは、日本人が、人間的にも道徳的にもアメリカ人に劣るからである、といういわれのない劣等感の呪縛からいまだに解き放たれていないのではないか、ということです。

だから、自分たちの身体に宿る自然体の人倫感覚が、なんとなく「自由」や「平等」や「人権」といった舶来製の理念よりも劣っているような気分に陥るのではないでしょうか。そうであるがゆえに、そういう言葉を振りかざされると、そこはかとなく違和感は覚えるものの、なんとなく押し切られてしまうのではないかと思われます。端的に言えば、米食よりもパン食の方が高級な気がする、という漠然とした感覚が払拭できないのですね。

そういう心性が根付いてしまっているからこそ、戦前の日本近代史を真っ黒に塗りつぶしてしまう、いわゆる「自虐史観」が、たびたび問題視され痛烈に批判されながらも、なおも優勢を占めてしまっているのではないでしょうか。また、いわゆる「根本病」的な考え方が受け入れられやすいのも、自分たちの身体に宿る自然体の人倫感覚を物事を考える拠点にできない心性があるからなのではないかと思われます。「根本病」とは、あの石橋湛山によって、日本人の欠点を指摘した言葉として提示されたものです。

日本人の一つの欠点は、余りに根本問題にのみ執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われる。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考うる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。

(昭和11年「改革いじりに空費する勿れ」石橋湛山全集10巻から)

この言葉に触れると、私は、口を開けば二言目には「構造改革」と言いたがるいまどきの経済学者やエコノミストの誰それが浮かんできます。彼らは、「根本病」の使徒であり、百害あって一利なしの空疎なデマ・ゴークなのですね。私は、「構造改革」という言葉を口走る連中を絶対に信じません。彼らは、日本人の弱点を悪用する不逞の輩です。私は、『新約聖書』の口ぶりを真似て、命の続く限り「蝮のすえたち、構造改革びとよ。汝らに災いあれ!」と呪いの言葉を吐き出し続けたいものだと思っております。構造改革論者の最も許しがたい点は、意味もなく、日本人が長い歴史の中で育んできた人倫感覚を目の敵にして、それを木っ端微塵にしようとするニヒリズムを内に秘めているところです。それゆえ実は、構造改革論とフェミニズムとは、きわめて相性がいいのです。

翻って考えてみるに、石橋湛山が「根本病」を指摘したのは戦前です。とするならば、「根本病」は、近代日本の宿痾である、とどうやら言えそうです。その近代的宿痾が、敗戦コンプレクスによって補強されてしまったのが戦後なのだとすれば、それは相当に根深い社会病理であるということになりそうです。

スローガン的に言挙げすれば、「常識感覚に帰れ」ということになりましょうか。それを信じて悪い理由はどこにもないのではありますが、崩壊の瀬戸際にあるものに帰るのは、言うは易く行うは難き典型例ではあります。しかし、その難事をあえて実行することがかなわないとなると、めぐりめぐって結局のところ、対米ボロ負け状態が続くことだけは確かです。であるがゆえに、その難事を実行するための現実的条件を少しでも充実させるために、国土強靭化は、なんとしても実地に移されなければならないのです。安倍内閣がもっと大胆にやりたくてうずうずしている「第3の矢」など犬に喰われてしまえ、なのです。また、なんとなく実施されてしまいそうな形勢の法人税減税路線なんていうものは、国民経済を弱体化させるだけの下策にほかなりません。この路線の存在それ自体が、消費増税の必要性の根拠など実はなにもなかったことを雄弁に物語っています。

念のために言っておくと、対米ボロ負け状態が続いているのは、100パーセント日本人のせいであって、アメリカにはまったく責任がありません。アメリカは、ごく普通に国益を追求しているだけのことなのですから、文句を言われる筋合いはないのです(逆に言えば、アメリカ政府がグローバル企業やウォール街に乗っ取られようとどうなろうとこちらは知ったことではありません)。だから、日本側がいくら反米意識を強化しても、ボロ負け状態からの脱却にはまったくつながりません。むしろ、ボロ負け状態をこじらせるだけでしょう。そういう愚か者の道を、私たちは、間違っても選ばないようにしたいものです。

単なる雪かきの話をしようと思っていたら、あちらこちらと道草を食ったような、とりとめのない文章になってしまいました。でも、まあ、ちかごろ私が考えていることがけっこう素直に出ているような気もしますので、そのままアップしておきますね。
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