年季の入った木製カウンターの向こうで、品の良いロマンスグレーのマスターが静かに珈琲を淹れている。客は、ほかにぽつんと一人だけ。昔のアメリカ映画のストリングスミュージックがゆるやかに流れている。私は窓際の席にいる。視野と死角の境でゆらめくものがある。よく見ると猫じゃらしである。店内の、清涼飲料水や珈琲ゼリーを収納した、硝子張りの三段の冷蔵庫の側面に映っている。光の角度の加減で、道端に生えているのがそのように見えるのだ。本体は、私の席からはよく見えない。茎がか細いので、その穂だけが、まるで宙に浮いているようである。六月中旬のやわらかい風になぶられて、硝子の透明なスクリーン上で、穂のまわりを黄緑色にぼおっと光らせながら、あたかも重力から限りなく自由になったかのように、心ゆくまで戯れている。それをぼんやりと見ているうち、脳裏に、昔読んだ詩の断片が浮かんできた。
空には風がながれている、
おれは小石をひろつて口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。
おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。
(萩原朔太郎「山に登る」)
枯野のような私の心にも、どうやらまだ死に切らない夢が残っているようだ。