時代劇なんかで、ときおり「そんな滅相な」というセリフが出てきますね。あれってなんだろうと不思議になったので、ちょっと調べてみました。案の定、「滅相」は仏教用語でした。世間はいいかげんなもんで、尊いお釈迦様でさえ、平気で「おシャカになる」なんて使われ方がされてしまうくらいですから、「滅相」の原義を調べてみても、世間のいいかげんさを思い知るのが関の山(関の山、も不思議ですね)かもしれませんが、まあそれはそれです。
「滅相」は、四相(しそう)のひとつだそうで、衆生相(しゅじょうそう)、有為法(作られた物)はすべて、次の四相を取るとされています。
(1)生相(しょうそう):事物が生起すること。
(2)住相(じゅうそう):事物が安住すること。
(3)異相(いそう):事物が衰退すること。
(4)滅相(めっそう):事物が崩壊すること。
(以上、「仏教大辞典」より。http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm)
これは、けっこう実感にフィットする理論ですね。たとえば、花が芽を出すのが「生相」。成長して美しく咲き誇る時期が「住相」。しぼんでゆくのが「異相」。やがて散ってしまうのが「滅相」。そう理解すれば、この世の目に触れる生き物すべてが(例外はあるのでしょうが)そのプロセスを踏んでいることが分かります。おそらく、そう気づかせることで、仏教を説く側としては、生に執着することの空しさに話をもっていくのでしょう。諸行無常、と。
この世のすべては、やがて必然的に「滅相」に至る、という峻厳で身も蓋もない真実を突きつけられる側は、「いやぁ、それはそうだろうが、ちょっとかなわんなぁ、キツイなぁ」という素朴な感慨を抱きます。おそらく、その素朴な感慨が、「そんな滅相な」という嘆きの表現を生んだのではないでしょうか。それで、「今日中に、借金を耳を揃えて返してくださいな。それが無理なら、あなたの土地家屋をいただきます」「そんな滅相な」というやりとりが成り立つことにもなるわけです。そう考えれば、「そんな滅相な」には、単純に「とんでもないことだ」という意味があるだけではなくて、「あなたのおっしゃることは、理にかなってはいます。その点、文句は言えません。しかしながら、あまりにも身も蓋もなさすぎて、到底素直に受け入れることができない」というニュアンスがこめられているような気がしてきました。
「滅相もない」は、おそらく「そんな滅相な」の派生表現でしょう。というのは、「そんな滅相な」には、滅相の原義がまだ残っていますが、「滅相もない」には、それが残っているようにはあまり思えないからです。「こんな高価なものをいただきましてありがとうございます」「滅相もございません。ほんのつまらないものです」。こんなふうに、儀礼的な場面や、年長者の営業トークなどで、過剰なへりくだりの演出をするときに使われるのがほとんどではないでしょうか。この言い方を聞いて、心がこもっていると感じる人はあまりいないものと思われます。だから、「そんな滅相な」はおもに時代劇のなかで生き残りましたが、「滅相もない」は、庶民の世界で、ほとんど死語になってしまったのではないかと思います。
*その後友人から、高知県では、いまでも日常会話で、「そんな滅相な」という言い方をすると聞きました。ただし、「滅相もない」はやはり使わないそうで、私は自分の、「『そんな滅相な』は庶民生活にそれなりに残っているが、それから派生した『滅相もない』は、「滅相」の原義が失われていて、死語化している」という「仮説」への自信をいささかながら深めることになりました(*゜▽゜*)
「滅相」は、四相(しそう)のひとつだそうで、衆生相(しゅじょうそう)、有為法(作られた物)はすべて、次の四相を取るとされています。
(1)生相(しょうそう):事物が生起すること。
(2)住相(じゅうそう):事物が安住すること。
(3)異相(いそう):事物が衰退すること。
(4)滅相(めっそう):事物が崩壊すること。
(以上、「仏教大辞典」より。http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm)
これは、けっこう実感にフィットする理論ですね。たとえば、花が芽を出すのが「生相」。成長して美しく咲き誇る時期が「住相」。しぼんでゆくのが「異相」。やがて散ってしまうのが「滅相」。そう理解すれば、この世の目に触れる生き物すべてが(例外はあるのでしょうが)そのプロセスを踏んでいることが分かります。おそらく、そう気づかせることで、仏教を説く側としては、生に執着することの空しさに話をもっていくのでしょう。諸行無常、と。
この世のすべては、やがて必然的に「滅相」に至る、という峻厳で身も蓋もない真実を突きつけられる側は、「いやぁ、それはそうだろうが、ちょっとかなわんなぁ、キツイなぁ」という素朴な感慨を抱きます。おそらく、その素朴な感慨が、「そんな滅相な」という嘆きの表現を生んだのではないでしょうか。それで、「今日中に、借金を耳を揃えて返してくださいな。それが無理なら、あなたの土地家屋をいただきます」「そんな滅相な」というやりとりが成り立つことにもなるわけです。そう考えれば、「そんな滅相な」には、単純に「とんでもないことだ」という意味があるだけではなくて、「あなたのおっしゃることは、理にかなってはいます。その点、文句は言えません。しかしながら、あまりにも身も蓋もなさすぎて、到底素直に受け入れることができない」というニュアンスがこめられているような気がしてきました。
「滅相もない」は、おそらく「そんな滅相な」の派生表現でしょう。というのは、「そんな滅相な」には、滅相の原義がまだ残っていますが、「滅相もない」には、それが残っているようにはあまり思えないからです。「こんな高価なものをいただきましてありがとうございます」「滅相もございません。ほんのつまらないものです」。こんなふうに、儀礼的な場面や、年長者の営業トークなどで、過剰なへりくだりの演出をするときに使われるのがほとんどではないでしょうか。この言い方を聞いて、心がこもっていると感じる人はあまりいないものと思われます。だから、「そんな滅相な」はおもに時代劇のなかで生き残りましたが、「滅相もない」は、庶民の世界で、ほとんど死語になってしまったのではないかと思います。
*その後友人から、高知県では、いまでも日常会話で、「そんな滅相な」という言い方をすると聞きました。ただし、「滅相もない」はやはり使わないそうで、私は自分の、「『そんな滅相な』は庶民生活にそれなりに残っているが、それから派生した『滅相もない』は、「滅相」の原義が失われていて、死語化している」という「仮説」への自信をいささかながら深めることになりました(*゜▽゜*)