月刊誌『正論』四月号に、拙文が載っていることは昨日ブログでお伝えしました。「誌上討論・大阪・桜宮高校入試中止問題 橋下裁定は『英断』か『暴挙』か」という企画のなかで、私は「暴挙」の立場で論陣を張っています。受験生とその関係者や教育委員会制度の独立性確保の立場から論じたものです。
次に掲げるのは、同じテーマに対する別論です。橋下徹大阪市長の政治思想や政治手法に焦点を当てて論を展開してみました。同じテーマに対して、焦点の当て方を変えると論じ方がどう変わるのか、興味を持った次第です。
******
これから、橋下市長の強い意向を受けての教育委員会による桜宮高校・体育科の入試中止の決定の是非に関する私見を述べます。
私は、今回の決定を非とする立場に与します。それも、ただ非とするのではなく、はっきり言えば、黙殺の立場であります。なぜ黙殺などという「不遜」な態度をとるのか。それは、この論全体を通して追々お話します。
まず言っておきたいのは、この論で「当高校の体育科を目指していた受験生がかわいそうだから反対」とか、「在校生やその保護者の声に耳を傾けない強引な意思決定だから反対」という主張はしないつもりであるということです。むろん、それぞれ十分に一定の理のある反対意見であるとは思います。この論は、そのことを理解しつつも、そこに軸足を置いていないということです。
私が非、さらには黙殺の立場に与するのは、ざっくりと言ってしまえば、自分が、政治家としての橋下徹が志向する反国家ヴィジョンに対して全否定の立場にあるからであり、その政治手法に対して強い警戒心を抱いているからでもあります。
まずは、彼の政治ヴィジョンについて。彼が国政に関わる政治家として目指しているのは、市場原理主義のユートピアの実現です。新自由主義者による「効率の王国」を作り上げることであると言いかえてもいいいでしょう。あるいは、経済社会的「勝者」が何の遠慮もなく心ゆくまで勝利を満喫し尽くすことのできるシステムを構築することである、と言えばもう少し分かりやすくなるでしょうか。
その実現のために彼は、既成の中央集権国家システムの解体を目論んでいます。なぜなら、市場原理主義を貫徹し、公正を犠牲にして効率アップを図るうえで、国家によるもろもろの規制が最大の障害物になるからです。彼は、かつて中途挫折した小泉構造改革を継承・続行したいのです。地方分権を大胆に推進し、道州制を確立することの意味合いはそういうことです。
橋下市長の、そういう過激な反国家ヴィジョンが実現されたあかつきには、一九九七年以来10数年間続いているデフレ不況で瀕死の瀬戸際にある日本経済は致命傷を負うことになり、二度とふたたび立ち上がれないでしょう。規制緩和・構造改革は、デフレ下での競争の激化を招くからです(その意味で、デフレ脱却の兆しらしきものが生じている現状のきっかけを作ったアベノミクスをむやみに批判・揶揄しようとする日本のマスコミは正気の沙汰ではないと思っています)。つまり、彼の反国家ヴィジョンは、国民経済を重視する立場から見ると、本質的に無謀であり無責任でありさらには不真面目なものなのです。そんなものに、何が嬉しくて賛同しなけりゃならんのか、というのが私のいつわらざる心情です。
「橋下にそんなヴィジョンなんてあるのか」という声がどこからか聞こえてきます。維新の会のトップとして、街頭演説で「政策の中身なんてどうでもいいんです」などと平気で言ってのける橋下氏のことだから、彼の頭のなかに国政レベルのヴィジョンなんてないのかもしれません(それについては後述します)。しかし、維新の会に集結してきたブレーンたちの顔ぶれや先の衆議院選挙の公約から判断すると、同会に新自由主義的な志向性が強烈なものとして存在することは明らかです。そういうブレーンの代表格は、小泉構造改革推進の中心人物、みなさんご存知の竹中平蔵です。だから、橋下個人におけるヴィジョンの有無は、あまり問題にならないと思います。彼が単に権力志向のかたまりのような人物であったとしても、それはどうでもいいことなのです。
次に、政治手法について。一般に政治家は、政治的な抱負を実現するために、政治力を持たなければなりません。だから政治家は、それを獲得するためにそれぞれの個性や気質や風貌やなにやらに合わせて、自分自身の政治手法を編み出します。
では、橋下市長の政治手法はどのようなものなのでしょうか。私見によれば、その核心は、メディアの徹底利用による人心の掌握です。そうすることで世間の「ふわっとした空気」(彼自身の言葉)を掴むのです。とはいうものの、メディアの徹底利用それ自体は、他の政治家たちも大いにやっていることです。
橋下流「メディアの徹底利用」の独自性・画期性はどこにあるのでしょうか。それは、人々の注目を集めそうな話題を嗅ぎ分ける、ほとんど動物的と言っていいような彼の鋭い嗅覚によってもたらされます。彼はそういう話題を嗅ぎ分けると、その渦中に捨て身で思い切りよく飛び込みます。そうして、衆人の意表を突くような極端な提言をします。そこに、マスコミがワッと銀蝿のように集(たか)ってきて、彼が騒動の台風の目になります。マスコミ・ホット・スポットの誕生です。勢い世人の好奇の目が彼に集中します。
そうなってからの橋下市長は天下無敵です。ムキになって、彼を言い負かそうとする論敵たちの愚にもつかない質問・詰問を、その立板に水のシャープな滑舌力で次から次になぎ倒し、どう見ても「橋下が正しい。橋下が勝った」という圧倒的な雰囲気を作ってしまうのです。そのときの彼は「橋下オーラ」としか形容のしようのない威光を放ちます。そうして、とても格好良いのです。
例えば、二〇一二年一月二七・二八日に放映された「朝まで生テレビ『激論!大阪市長“独裁・橋下徹”は日本を救う?!』に出演したときがそうでした。橋下市長が、香山リカなどの反橋下の論客たちを相手に一歩も引かずに、一人で彼らをなぎ倒してしまったのを目の当たりにしたとき、私は感動のあまり危うく彼のファンになるところでした。論敵たちは躍起になって橋下市長のアラ探しをしようとするのですが、そうすればそうするほどに、彼らは明らかに劣勢に追い込まれていくのです。そのときの橋下市長は、まるで愚者たちを睥睨(へいげい)する王のようでした。
橋下市長が、そういうマスコミ利用術を体得した経緯を想像してみましょう。まずは、もともと頭の回転が早くて口喧嘩が上手だったのでしょう。大阪に在住していた子どものころから「頭の良い子」として親類縁者の間で評判だったそうですから。また、弁護士としての実務経験によって、ディスカッションで勝ち抜く力に磨きがかけられたことも大きかったのではないでしょうか。民主党の枝野前経産相や仙谷元官房長官の例を思い浮かべれば、みんながみんなとは申しませんけれど、弁護士出身の政治家の、論敵を言い負かしたり、はぐらかしたり、けむに巻いたりする能力の高さは歴然としていますね。
それに加えて橋下市長は、かつてタレントとしての高い能力を示しました。彼は、二〇〇三年四月から、日本テレビ系全国ネットの『行列のできる法律相談所』にレギュラー出演するようになりました。同年七月には関西ローカルの『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)でもレギュラーとなりました。そうして、これらの番組におけるユニークな言動で全国的に知名度が上がっていったことは、みなさんもご記憶のことと思われます。彼は、タレントとして一方では下世話な話にも自然体で楽しそうに調子を合わせることができました。他方、時事問題などについて自分の意見を強く打ち出しました。とくに、光市母子殺人事件をめぐっての彼の言動はとてもスリリングで、思わず固唾を呑んで見守った記憶があります。
マスメディアにおけるそのような刺激的な経験の積み重ねによって、彼は、マスメディアを手玉にとって、不安定極まりない人心を掴む、曰く言い難い勘所(かんどころ)を体得してしまったのではないかと思われます。二〇〇七年(平成十九年)十二月に、大阪府知事選挙への出馬を表明するまでのおよそ四年間、橋下市長は、メディアに露出し続けました。浮き沈みの激しい芸能界で、それは凄いことなのではないでしょうか。
以上のような経歴の後、彼はメディアの活用法を体得した新しいタイプの政治家として力をつけて行き、あれよあれよという間に、衆議院議員五十四議席を有する政党の事実上の代表になってしまったのです。
今回の桜宮高校体罰自殺事件をめぐっての橋下市長の一連の言動においても、その、もはや自家薬籠中のものと化した観のある、マスコミ徹底利用の政治手法の威力が遺憾なく発揮されました。その白眉は、先月二八日朝のフジテレビ『とくダネ!』に彼が出場し、小倉智昭キャスターと入試中止の是非をめぐって四〇分ほどの間丁々発止のやり取りをしたときでしょう。他の出演者も小倉キャスターに加勢してなんとか橋下市長をやりこめようとするのですが、橋下市長の淀みない発言の正当性が際立つばかりで、小倉キャスターは醜態を晒すよりほかはありませんでした。メディアにおける「論争の王・橋下」は健在だったのです。要するに当番組は、維新の会の支持率保持に貢献しただけのことでした。
ここでひとつ指摘しておきたいのは、橋下市長の言動の「軽さ」です。私が彼の「軽さ」に気づいたのは、そのツイッターを目にしたときです。一四〇字足らずの彼の言葉を読み通すのに、私はいつも多大の労苦を強いられるのでした。自分には彼の文章を読み解く力が不足しているのかもしれないとも考えましたが、そのうちに、彼のツイートには中身がないことに気づいたのです。スカスカ文章なのですね。で、読んでいるうちに意識が希薄になってくる、というわけなのです。その「軽さ」は、テレビの討論番組で彼をやり込めようといきり立つ論客に勝利するうえで大いに威力を発揮します。フットワークの軽さは、頭に血が上った相手をやり込めるのに有利に働くのです。
しかし、国政レベルの話に真剣勝負で取り組む場合、その「軽さ」は致命傷になります。どうしたら日本経済はデフレから脱却しうるのかとか、中国の覇権主義の脅威や北朝鮮の核の脅威が現実のものとなりつつある今日、日本の安全保障や外交はいかにあるべきなのかとか、さらには、現有世代が次世代にどうしたら豊かで明るい日本を継承させることができるのか、といった真剣な国政レベルの問いをまともに突きつけられた場合、それらの重みに対して彼の「軽さ」はどうにも歯が立ちません。つまり、彼の政治言説はあくまでも付け焼刃なのです。もっと厳しい言い方をすれば、彼の言動はその場限りのニセモノなのです。総選挙のときの彼の街頭演説をyou tubeでたくさん聞いて、私はそのことにはっきりと気づきました。「この人は国政レベルのことは実はなにも考えていない」と思ったのです。彼には、民(たみ)の幸福に思いを到す仁がないのです。
では、地方自治のことはちゃんと考えているのでしょうか。それに対しても、私は大きな疑問符をつけざるをえません。地方自治のことを真剣に考えて全力を尽くそうとしている人が、一方では人口約二六八万人の巨大政令都市の首長を務めながら、他方では政党の事実上のリーダーとして国政に打って出ようとするとは考えにくいからです。
彼は本当のところどうしたいのでしょうか。そのアンバランスな行動から察するに、おそらく肥大化した自分の権力欲を手なずけるのに精一杯なのでしょう。地方自治と国政とに二股をかけている今の彼の姿そのものが、内なる権力欲をめぐっての必死の姿を物語っているのではないでしょうか。
私は実のところ、そういう彼が嫌いではありません。とても興味深いとさえ思っています。しかし、それはあくまでも人間学的あるいは文学的な興味であって、ひとりの政治家としてはとても困った存在であると思います。
今回の桜宮高校をめぐる彼の言動は、要するに、日本維新の会の支持率を維持しアップさせるために、彼一流の政治手法を生かして、世間に騒動を巻き起こしただけのことなのではないでしょうか。それで、彼は政治家としてポイントを稼いだのかもしれません。が、世間は彼の過激な政治的パーフォーマンスの余波のせいで大迷惑を被っています。私は、メディアや教育現場で体罰バッシングの嵐が吹き荒れている現状を言っているのです。
私は小さな学習塾を経営しています。教えの現場に長く身を置く者として、これだけは言えます。定義にもよりますが、体罰を文字通り全て禁止してしまったら、教えの現場は成り立たない、と。ある種の生徒に対しては、体罰を辞さない覚悟で教えないと、どうにもならない局面があるのです。もともと不完全な人間が、もっと不完全で未熟な人間を相手にしているのですから、それは避けようのない事態として、教える者にいつかはかならずふりかかってきます。そこで目をつぶって逃げるのは、教えの自殺を意味します。このことについてキレイごとを言う教え手を、少なくとも私は信用しません。
塾でもそうなのですから、やる気のない生徒を大量に抱え込み、悪質な生徒の対応に悪戦苦闘している公立中学校や公立底辺高校の現場では、なおさらそうでしょう。だから、関係者の方々は、世間の無責任な体罰バッシングに困り果てていることでしょう。現場の心ある教師たちの浮かない顔が浮かんでくるようです。また、部活を熱心に指導する先生たちも、さぞかし困惑していることでしょう。繰り返します。現況において吹き荒れている体罰バッシングの元凶は、橋下市長による過激なメデイア・パーフォーマンスです。
まとめます。マスコミを徹底利用することによって橋下市長が生み出す議論のヒート・アイランドに参入して、こちらがその是非を真面目に論じれば論じるほどに、彼の政治的な力が増大する仕組みになっているので、その手は桑名の焼き蛤、自分はそれを意識的自覚的に黙殺して、彼の力を削ぐことに加担するよ、ということです。映画『エクソシスト』で、老神父が若い神父に諭すでしょう、「悪魔は嘘に真実を混ぜて語りかけてくる。マトモに相手にしようとするな」と。その構えが肝要ということです。彼は、なかなか手ごわい政治家なのです。
*橋下ブームは去りました。だから、維新の会が政局における台風の目になることは、今後おそらくないでしょう。しかし、橋下の政治手法を学んだ下の世代の誰かが、それをヴァージョン・アップした形で世に打って出ることは、おおいにありえると思っています。(2013・12・10 記す)
次に掲げるのは、同じテーマに対する別論です。橋下徹大阪市長の政治思想や政治手法に焦点を当てて論を展開してみました。同じテーマに対して、焦点の当て方を変えると論じ方がどう変わるのか、興味を持った次第です。
******
これから、橋下市長の強い意向を受けての教育委員会による桜宮高校・体育科の入試中止の決定の是非に関する私見を述べます。
私は、今回の決定を非とする立場に与します。それも、ただ非とするのではなく、はっきり言えば、黙殺の立場であります。なぜ黙殺などという「不遜」な態度をとるのか。それは、この論全体を通して追々お話します。
まず言っておきたいのは、この論で「当高校の体育科を目指していた受験生がかわいそうだから反対」とか、「在校生やその保護者の声に耳を傾けない強引な意思決定だから反対」という主張はしないつもりであるということです。むろん、それぞれ十分に一定の理のある反対意見であるとは思います。この論は、そのことを理解しつつも、そこに軸足を置いていないということです。
私が非、さらには黙殺の立場に与するのは、ざっくりと言ってしまえば、自分が、政治家としての橋下徹が志向する反国家ヴィジョンに対して全否定の立場にあるからであり、その政治手法に対して強い警戒心を抱いているからでもあります。
まずは、彼の政治ヴィジョンについて。彼が国政に関わる政治家として目指しているのは、市場原理主義のユートピアの実現です。新自由主義者による「効率の王国」を作り上げることであると言いかえてもいいいでしょう。あるいは、経済社会的「勝者」が何の遠慮もなく心ゆくまで勝利を満喫し尽くすことのできるシステムを構築することである、と言えばもう少し分かりやすくなるでしょうか。
その実現のために彼は、既成の中央集権国家システムの解体を目論んでいます。なぜなら、市場原理主義を貫徹し、公正を犠牲にして効率アップを図るうえで、国家によるもろもろの規制が最大の障害物になるからです。彼は、かつて中途挫折した小泉構造改革を継承・続行したいのです。地方分権を大胆に推進し、道州制を確立することの意味合いはそういうことです。
橋下市長の、そういう過激な反国家ヴィジョンが実現されたあかつきには、一九九七年以来10数年間続いているデフレ不況で瀕死の瀬戸際にある日本経済は致命傷を負うことになり、二度とふたたび立ち上がれないでしょう。規制緩和・構造改革は、デフレ下での競争の激化を招くからです(その意味で、デフレ脱却の兆しらしきものが生じている現状のきっかけを作ったアベノミクスをむやみに批判・揶揄しようとする日本のマスコミは正気の沙汰ではないと思っています)。つまり、彼の反国家ヴィジョンは、国民経済を重視する立場から見ると、本質的に無謀であり無責任でありさらには不真面目なものなのです。そんなものに、何が嬉しくて賛同しなけりゃならんのか、というのが私のいつわらざる心情です。
「橋下にそんなヴィジョンなんてあるのか」という声がどこからか聞こえてきます。維新の会のトップとして、街頭演説で「政策の中身なんてどうでもいいんです」などと平気で言ってのける橋下氏のことだから、彼の頭のなかに国政レベルのヴィジョンなんてないのかもしれません(それについては後述します)。しかし、維新の会に集結してきたブレーンたちの顔ぶれや先の衆議院選挙の公約から判断すると、同会に新自由主義的な志向性が強烈なものとして存在することは明らかです。そういうブレーンの代表格は、小泉構造改革推進の中心人物、みなさんご存知の竹中平蔵です。だから、橋下個人におけるヴィジョンの有無は、あまり問題にならないと思います。彼が単に権力志向のかたまりのような人物であったとしても、それはどうでもいいことなのです。
次に、政治手法について。一般に政治家は、政治的な抱負を実現するために、政治力を持たなければなりません。だから政治家は、それを獲得するためにそれぞれの個性や気質や風貌やなにやらに合わせて、自分自身の政治手法を編み出します。
では、橋下市長の政治手法はどのようなものなのでしょうか。私見によれば、その核心は、メディアの徹底利用による人心の掌握です。そうすることで世間の「ふわっとした空気」(彼自身の言葉)を掴むのです。とはいうものの、メディアの徹底利用それ自体は、他の政治家たちも大いにやっていることです。
橋下流「メディアの徹底利用」の独自性・画期性はどこにあるのでしょうか。それは、人々の注目を集めそうな話題を嗅ぎ分ける、ほとんど動物的と言っていいような彼の鋭い嗅覚によってもたらされます。彼はそういう話題を嗅ぎ分けると、その渦中に捨て身で思い切りよく飛び込みます。そうして、衆人の意表を突くような極端な提言をします。そこに、マスコミがワッと銀蝿のように集(たか)ってきて、彼が騒動の台風の目になります。マスコミ・ホット・スポットの誕生です。勢い世人の好奇の目が彼に集中します。
そうなってからの橋下市長は天下無敵です。ムキになって、彼を言い負かそうとする論敵たちの愚にもつかない質問・詰問を、その立板に水のシャープな滑舌力で次から次になぎ倒し、どう見ても「橋下が正しい。橋下が勝った」という圧倒的な雰囲気を作ってしまうのです。そのときの彼は「橋下オーラ」としか形容のしようのない威光を放ちます。そうして、とても格好良いのです。
例えば、二〇一二年一月二七・二八日に放映された「朝まで生テレビ『激論!大阪市長“独裁・橋下徹”は日本を救う?!』に出演したときがそうでした。橋下市長が、香山リカなどの反橋下の論客たちを相手に一歩も引かずに、一人で彼らをなぎ倒してしまったのを目の当たりにしたとき、私は感動のあまり危うく彼のファンになるところでした。論敵たちは躍起になって橋下市長のアラ探しをしようとするのですが、そうすればそうするほどに、彼らは明らかに劣勢に追い込まれていくのです。そのときの橋下市長は、まるで愚者たちを睥睨(へいげい)する王のようでした。
橋下市長が、そういうマスコミ利用術を体得した経緯を想像してみましょう。まずは、もともと頭の回転が早くて口喧嘩が上手だったのでしょう。大阪に在住していた子どものころから「頭の良い子」として親類縁者の間で評判だったそうですから。また、弁護士としての実務経験によって、ディスカッションで勝ち抜く力に磨きがかけられたことも大きかったのではないでしょうか。民主党の枝野前経産相や仙谷元官房長官の例を思い浮かべれば、みんながみんなとは申しませんけれど、弁護士出身の政治家の、論敵を言い負かしたり、はぐらかしたり、けむに巻いたりする能力の高さは歴然としていますね。
それに加えて橋下市長は、かつてタレントとしての高い能力を示しました。彼は、二〇〇三年四月から、日本テレビ系全国ネットの『行列のできる法律相談所』にレギュラー出演するようになりました。同年七月には関西ローカルの『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)でもレギュラーとなりました。そうして、これらの番組におけるユニークな言動で全国的に知名度が上がっていったことは、みなさんもご記憶のことと思われます。彼は、タレントとして一方では下世話な話にも自然体で楽しそうに調子を合わせることができました。他方、時事問題などについて自分の意見を強く打ち出しました。とくに、光市母子殺人事件をめぐっての彼の言動はとてもスリリングで、思わず固唾を呑んで見守った記憶があります。
マスメディアにおけるそのような刺激的な経験の積み重ねによって、彼は、マスメディアを手玉にとって、不安定極まりない人心を掴む、曰く言い難い勘所(かんどころ)を体得してしまったのではないかと思われます。二〇〇七年(平成十九年)十二月に、大阪府知事選挙への出馬を表明するまでのおよそ四年間、橋下市長は、メディアに露出し続けました。浮き沈みの激しい芸能界で、それは凄いことなのではないでしょうか。
以上のような経歴の後、彼はメディアの活用法を体得した新しいタイプの政治家として力をつけて行き、あれよあれよという間に、衆議院議員五十四議席を有する政党の事実上の代表になってしまったのです。
今回の桜宮高校体罰自殺事件をめぐっての橋下市長の一連の言動においても、その、もはや自家薬籠中のものと化した観のある、マスコミ徹底利用の政治手法の威力が遺憾なく発揮されました。その白眉は、先月二八日朝のフジテレビ『とくダネ!』に彼が出場し、小倉智昭キャスターと入試中止の是非をめぐって四〇分ほどの間丁々発止のやり取りをしたときでしょう。他の出演者も小倉キャスターに加勢してなんとか橋下市長をやりこめようとするのですが、橋下市長の淀みない発言の正当性が際立つばかりで、小倉キャスターは醜態を晒すよりほかはありませんでした。メディアにおける「論争の王・橋下」は健在だったのです。要するに当番組は、維新の会の支持率保持に貢献しただけのことでした。
ここでひとつ指摘しておきたいのは、橋下市長の言動の「軽さ」です。私が彼の「軽さ」に気づいたのは、そのツイッターを目にしたときです。一四〇字足らずの彼の言葉を読み通すのに、私はいつも多大の労苦を強いられるのでした。自分には彼の文章を読み解く力が不足しているのかもしれないとも考えましたが、そのうちに、彼のツイートには中身がないことに気づいたのです。スカスカ文章なのですね。で、読んでいるうちに意識が希薄になってくる、というわけなのです。その「軽さ」は、テレビの討論番組で彼をやり込めようといきり立つ論客に勝利するうえで大いに威力を発揮します。フットワークの軽さは、頭に血が上った相手をやり込めるのに有利に働くのです。
しかし、国政レベルの話に真剣勝負で取り組む場合、その「軽さ」は致命傷になります。どうしたら日本経済はデフレから脱却しうるのかとか、中国の覇権主義の脅威や北朝鮮の核の脅威が現実のものとなりつつある今日、日本の安全保障や外交はいかにあるべきなのかとか、さらには、現有世代が次世代にどうしたら豊かで明るい日本を継承させることができるのか、といった真剣な国政レベルの問いをまともに突きつけられた場合、それらの重みに対して彼の「軽さ」はどうにも歯が立ちません。つまり、彼の政治言説はあくまでも付け焼刃なのです。もっと厳しい言い方をすれば、彼の言動はその場限りのニセモノなのです。総選挙のときの彼の街頭演説をyou tubeでたくさん聞いて、私はそのことにはっきりと気づきました。「この人は国政レベルのことは実はなにも考えていない」と思ったのです。彼には、民(たみ)の幸福に思いを到す仁がないのです。
では、地方自治のことはちゃんと考えているのでしょうか。それに対しても、私は大きな疑問符をつけざるをえません。地方自治のことを真剣に考えて全力を尽くそうとしている人が、一方では人口約二六八万人の巨大政令都市の首長を務めながら、他方では政党の事実上のリーダーとして国政に打って出ようとするとは考えにくいからです。
彼は本当のところどうしたいのでしょうか。そのアンバランスな行動から察するに、おそらく肥大化した自分の権力欲を手なずけるのに精一杯なのでしょう。地方自治と国政とに二股をかけている今の彼の姿そのものが、内なる権力欲をめぐっての必死の姿を物語っているのではないでしょうか。
私は実のところ、そういう彼が嫌いではありません。とても興味深いとさえ思っています。しかし、それはあくまでも人間学的あるいは文学的な興味であって、ひとりの政治家としてはとても困った存在であると思います。
今回の桜宮高校をめぐる彼の言動は、要するに、日本維新の会の支持率を維持しアップさせるために、彼一流の政治手法を生かして、世間に騒動を巻き起こしただけのことなのではないでしょうか。それで、彼は政治家としてポイントを稼いだのかもしれません。が、世間は彼の過激な政治的パーフォーマンスの余波のせいで大迷惑を被っています。私は、メディアや教育現場で体罰バッシングの嵐が吹き荒れている現状を言っているのです。
私は小さな学習塾を経営しています。教えの現場に長く身を置く者として、これだけは言えます。定義にもよりますが、体罰を文字通り全て禁止してしまったら、教えの現場は成り立たない、と。ある種の生徒に対しては、体罰を辞さない覚悟で教えないと、どうにもならない局面があるのです。もともと不完全な人間が、もっと不完全で未熟な人間を相手にしているのですから、それは避けようのない事態として、教える者にいつかはかならずふりかかってきます。そこで目をつぶって逃げるのは、教えの自殺を意味します。このことについてキレイごとを言う教え手を、少なくとも私は信用しません。
塾でもそうなのですから、やる気のない生徒を大量に抱え込み、悪質な生徒の対応に悪戦苦闘している公立中学校や公立底辺高校の現場では、なおさらそうでしょう。だから、関係者の方々は、世間の無責任な体罰バッシングに困り果てていることでしょう。現場の心ある教師たちの浮かない顔が浮かんでくるようです。また、部活を熱心に指導する先生たちも、さぞかし困惑していることでしょう。繰り返します。現況において吹き荒れている体罰バッシングの元凶は、橋下市長による過激なメデイア・パーフォーマンスです。
まとめます。マスコミを徹底利用することによって橋下市長が生み出す議論のヒート・アイランドに参入して、こちらがその是非を真面目に論じれば論じるほどに、彼の政治的な力が増大する仕組みになっているので、その手は桑名の焼き蛤、自分はそれを意識的自覚的に黙殺して、彼の力を削ぐことに加担するよ、ということです。映画『エクソシスト』で、老神父が若い神父に諭すでしょう、「悪魔は嘘に真実を混ぜて語りかけてくる。マトモに相手にしようとするな」と。その構えが肝要ということです。彼は、なかなか手ごわい政治家なのです。
*橋下ブームは去りました。だから、維新の会が政局における台風の目になることは、今後おそらくないでしょう。しかし、橋下の政治手法を学んだ下の世代の誰かが、それをヴァージョン・アップした形で世に打って出ることは、おおいにありえると思っています。(2013・12・10 記す)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます