見田宗介氏のひどい文章を見つけました (美津島明)
今日は、中三生に国語を教えました。生徒二人を相手に、長文問題と取り組みました。長文問題の題材は、見田宗介氏の文章でした。で、これがひどい文章だったのですね。
ひどいというのは、その内容を指しているのではありません(ちなみに内容は、リベラルを称する戦後知識人の定番である、経済成長否定論です。そういう論調に対して、私はかなり厳しい見方をしていますけれど、いまはその当否を問わないでおきます)。
私が「ひどい」と思うのは、氏が、論理的に筋の通らぬ文章を書いている点です。次にその文章を引きます。そのほぼ冒頭に「このこと」とあるのは、前段落の「貨幣が人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、『所得』が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる」事態を指しています。言いかえれば、貨幣経済が、自然と豊かな交流をしていた伝統的共同体を取り込んでそれらを解体してしまい、貨幣が唯一の価値の尺度になってしまうことを指しています。
人はこのことを一般論としてはただちに認めるだけでなく、「あたりまえ」のことだとさえいうかもしれない。けれども、「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、この「あたりまえのこと」を理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。(「現代社会の理論――情報化・消費文化社会の現在と未来――」より)
上の赤色が、論理的に筋みちが通っていないうえに、「てにおは」の使い方が間違っているし、言いたいことを性急に詰め込もうとするがゆえに意味が通らなくなるという、目の当てられないことになっている箇所です。
ここは、
「に立脚し、それを理論の基礎としているので」
と記されるのが正しいのです。当論考を読む限り、氏は、お金がたくさんあること=豊かさとするのが「あたりまえのこと」であるという考え方に異を唱えたがっているわけですから、もしも、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」が「あたりまえのこと」に立脚していないのならば、それは、氏にとって、とても喜ばしいことであるはずですね。でも氏は、どうやら、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」に文句をつけたがっているようですから、そんなことは考えにくい。
私は、氏の揚げ足をとって、喜んでいるわけではありません。
生徒の能力を育成するうえで、国語という教科に課せられていることの核心は、「論理的思考力を育むこと」である、と私は考えています。国語教師のなかには、「いや、それは数学が受け持つべきことであって、豊かな情操を育むことのほうが国語の場合重要である」という意見があることでしょう。
私は「豊かな情操を育む」ことの重要性を軽視するわけではありませんが、それを妙に重視することは、ややもすると、教師が独りよがりや自己満足に陥りがちになることにつながりやすいと思っています。「論理的思考力と豊かな情操とは、相補的・相乗的な関係にあるものであって、敵対的な関係にあるものでは決してない」という確固とした学力観に立脚するならば、「豊かな情操は、論理的思考力という太い幹から枝分かれし開花した鮮やかな花々である」という見解に落ち着くのではないかと思われます。
まあ、込み入った話はそれくらいにします。論説文は、話の筋みちをきちんとたどれば、筆者の言いたいことにちゃんと到達できるものでなければならない、という点には、ご賛同いただけるのではないでしょうか。また、そういう良質の文章を丁寧に読ませることの効用が決して小さくないことにも、ご賛同いただけるのではないでしょうか。
逆に、そうではない文章で、生徒の頭を悩ませることが、おそらくマイナスの効用をもたらすことも論を俟たないでしょう。そういう文章ばかり読ませていたら、頭の悪い生徒に仕上がっちゃうかもしれませんね。
だから、見田氏の当論考をテキストに載せるのは、極めて不適切なことであった。そう言いたいわけです。むろん、私は授業のなかで、以上の話を生徒たちに噛みくだいて言ってきかせました。
ここで、小中学校の国語の批判をしたくなってきましたが、それはまたの機会に、ということで、とりあえず筆を置きます。
今日は、中三生に国語を教えました。生徒二人を相手に、長文問題と取り組みました。長文問題の題材は、見田宗介氏の文章でした。で、これがひどい文章だったのですね。
ひどいというのは、その内容を指しているのではありません(ちなみに内容は、リベラルを称する戦後知識人の定番である、経済成長否定論です。そういう論調に対して、私はかなり厳しい見方をしていますけれど、いまはその当否を問わないでおきます)。
私が「ひどい」と思うのは、氏が、論理的に筋の通らぬ文章を書いている点です。次にその文章を引きます。そのほぼ冒頭に「このこと」とあるのは、前段落の「貨幣が人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、『所得』が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる」事態を指しています。言いかえれば、貨幣経済が、自然と豊かな交流をしていた伝統的共同体を取り込んでそれらを解体してしまい、貨幣が唯一の価値の尺度になってしまうことを指しています。
人はこのことを一般論としてはただちに認めるだけでなく、「あたりまえ」のことだとさえいうかもしれない。けれども、「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、この「あたりまえのこと」を理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。(「現代社会の理論――情報化・消費文化社会の現在と未来――」より)
上の赤色が、論理的に筋みちが通っていないうえに、「てにおは」の使い方が間違っているし、言いたいことを性急に詰め込もうとするがゆえに意味が通らなくなるという、目の当てられないことになっている箇所です。
ここは、
「に立脚し、それを理論の基礎としているので」
と記されるのが正しいのです。当論考を読む限り、氏は、お金がたくさんあること=豊かさとするのが「あたりまえのこと」であるという考え方に異を唱えたがっているわけですから、もしも、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」が「あたりまえのこと」に立脚していないのならば、それは、氏にとって、とても喜ばしいことであるはずですね。でも氏は、どうやら、「『南の貧困』や南の『開発』を語る多くの言説」に文句をつけたがっているようですから、そんなことは考えにくい。
私は、氏の揚げ足をとって、喜んでいるわけではありません。
生徒の能力を育成するうえで、国語という教科に課せられていることの核心は、「論理的思考力を育むこと」である、と私は考えています。国語教師のなかには、「いや、それは数学が受け持つべきことであって、豊かな情操を育むことのほうが国語の場合重要である」という意見があることでしょう。
私は「豊かな情操を育む」ことの重要性を軽視するわけではありませんが、それを妙に重視することは、ややもすると、教師が独りよがりや自己満足に陥りがちになることにつながりやすいと思っています。「論理的思考力と豊かな情操とは、相補的・相乗的な関係にあるものであって、敵対的な関係にあるものでは決してない」という確固とした学力観に立脚するならば、「豊かな情操は、論理的思考力という太い幹から枝分かれし開花した鮮やかな花々である」という見解に落ち着くのではないかと思われます。
まあ、込み入った話はそれくらいにします。論説文は、話の筋みちをきちんとたどれば、筆者の言いたいことにちゃんと到達できるものでなければならない、という点には、ご賛同いただけるのではないでしょうか。また、そういう良質の文章を丁寧に読ませることの効用が決して小さくないことにも、ご賛同いただけるのではないでしょうか。
逆に、そうではない文章で、生徒の頭を悩ませることが、おそらくマイナスの効用をもたらすことも論を俟たないでしょう。そういう文章ばかり読ませていたら、頭の悪い生徒に仕上がっちゃうかもしれませんね。
だから、見田氏の当論考をテキストに載せるのは、極めて不適切なことであった。そう言いたいわけです。むろん、私は授業のなかで、以上の話を生徒たちに噛みくだいて言ってきかせました。
ここで、小中学校の国語の批判をしたくなってきましたが、それはまたの機会に、ということで、とりあえず筆を置きます。
文庫本で読み易いかなと手に取ってみたことはあるのですが、正直読みづらいと感じました。
このブログで取り上げて頂いたことで、あぁ、やっぱりそのように感じていたのは自分だけでは無かったと感じることが出来、とても感謝しています。
意地の悪いコメントに負けず、頑張ってください。
陰ながら応援しています。
やめたらこの仕事
そりゃ噛み砕いた言葉でかけばわかりやすいですが、同時に誤解を生む余地を残してしまいます
論文的な文章においては正確に書くことが第一ですから、どうしても難しい言葉使いになってしまうものです
法律文が馬鹿みたいに難しい言葉使いで書かれているのと一緒です
もちろん噛み砕いた言葉で書いたわかりやすいエッセイを否定するものではありませんが、現代社会の理論はエッセイではありません
国語を教えたって?生徒がかわいそうだ(笑)
難解か、わかりやすいかが問題?
だとしたら、このような表現をとることが単なる「噛み砕いたわかりやすい」文章よりも作者の文字にしがたい感覚を伝える「わかりやすい」表現なのだと言えばいいのか。
その工夫された親切なわかりやすさから、「わかる」ことができない人が「国語」を教えているという衝撃。
ちなみに私も教養主義は嫌いです。
わざわざ親切にルビを振らなくちゃ~な言葉を使ってみせるような、「難解さ」をひけらかすような文体のものとかですね(もちろん皮肉です)。
言葉というのはもっと深いものですよ。
おっしゃることのご趣旨、よく分かります。
そのうえで、以下、申し上げます。
私が、当ブログで文章を書きアップするうえで、つねづね自分に問いかけているのは、「もっとかみくだいた言葉はないだろうか」ということです。言いかえれば、「オレの文章が分からないのは、読み手であるお前がバカだからだ」という態度をできるだけ控えようとしています。さらにそれを言いかえれば、「避けられる難解さは、できるだけ避けるべきである」となります。
その根にあるのは、戦後知識人批判です。つまり、テロの常態化に見られるように、世界史的大転換期にさしかかった現状を前にして、知識人が、デフレからの脱却・マスコミの偏向報道問題・歴史認識問題・行き過ぎた構造改革にいかにストップをかけるかという問題・グローバリズム問題・格差問題などという日本国民のみならず世界の人々の行末に関わる深刻な諸問題について、総体として、手をこまねいている状況の根には、戦後知識人の宿痾(「しゅくあ」。根深い持病)としての知的閉鎖性がある、というのが、私の基本認識なのです。
私は、およそ二十年間の読書会体験において、知的閉鎖性という「塹壕」に立てこもる人間たちのダメさをつぶさに見てきました。そのタイプの人間たちは、どうやら、(自分が勝手に想定する)自分の知的優位性や知的特権性を固持し強化するためだけに、本を読んだり、文章を書いたり、人前で意見を公表したりしているようなのです。
通りがかりさんのような秀逸な頭脳の持ち主をして、《「難解な文」になっていることは間違いありませんし、親切さを少し欠いている》と言わしめる文章は、私の目に、そのような人々が喜びそうな知的閉鎖性が深く刻み込まれたものと映ります。それゆえ、「意味が通らず、間違った日本語の使い方をしている」という激しい言い方になってしまうのを、私は避けることができかねるのです。
通りがかりさんが、秀逸な読解力の持ち主であることも、また、良質な文章の書き手であることも、さらには、悪質な動機とは無縁の、バランスのとれた精神の持ち主であることも、掛け値なしで、私は認めます。
しかし、以上の理由から、自分の見解を撤回する気には、どうしてもなれないのです。
文体には、けっこう根深い問題が伏在している。そう思います。
自分の発想の根にあるものを再認識する機会を与えていただいたことを感謝します。
ついでながら、もしも、通りがかりさんが、私の論調にかすかながらにでもシニックな響きを感じ取っていらっしゃるのなら、それは違います、と申し上げておきます。メールやインターネットは、そういう誤解を生じやすいので、ひとこと、申し添えておく次第です。
「~を理論の基礎として立脚していない」という文は、たしかに一見すると違和感があり、意味がよくわかりませんが、文法上問題はありません。もちろん決して簡単でわかりやすい文とは言い難いですが…笑
まず確認したいのは、次の二つの文についてです。
「~を理論の基礎とする。」
「~に立脚している。」
この二つの文はそれぞれ、これだけで意味が通ります。
次に確認したいのは、たとえば
「目標地点を決めたが、未だ(目標地点に)到着していない」
という文のように二つの動詞の目的語の、助詞(てにをは)以外の部分が同じ場合、二つめの(目標地点に)という部分は省略してしまうことがあるということです。
他にたとえば
「歌を聴いて(その歌に)聞き入ってしまう」
「川を見つけて(その川に)入る」
「真理を求めて(真理に)近づく」
等の場合も同様で、カッコ内を省略することがあります。
そしてそれを問題の箇所におきかえてわかりやすく視覚化すると
「(~を)理論の基礎として(その~に)立脚していない」
というふうになり、二つの動詞の目的語の~の部分は同じ語句なので、
(~に)を省略してしまうことがあるということです。
しかしそれを理解してもまだ意味不明だったり違和感が残ったりしてしまうのは、もちろん、問題がさらに複雑だからです。
実は、
「~に立脚していない」の最後の否定の部分が、「~を理論の基礎とする」の方にもかかっていることが、文の意味を捉えることをより難しくしています。
意味がわかりやすいようにそれぞれの動詞に、もし否定語をおぎなうなら
「 (~を)理論の基礎として[おらず](その~に)立脚して[いない] 」
という文になるわけです。
以上のことがあわさって「難解な文」になっていることは間違いありませんし、親切さを少し欠いているとは言えると思います。
しかし決して「意味が通らず、間違った日本語の使い方をしている」ということはないかと思う次第です。
長々とした説明を申し訳ありませんでしたが、もしご参考にしていただければ幸いです。
私が、文脈を逆にとっていたことは認めるほかありませんね。部分に拘泥して全体を見誤る好例といえるでしょう。たまにしでかしてしまいます。
それを率直に認めたうえで、なおも申し上げたいのは、「~を理論の基礎として立脚していないので」という言い方は日本語としておかしい、ということです。
つまり、私が上記で指摘したポイントのうち、《「てにおは」の使い方が間違っているし、言いたいことを性急に詰め込もうとするがゆえに意味が通らなくなる》という指摘はそのまま残る、ということです。
だからここは、「~に立脚し、それを理論の基礎としていないので」とするのが妥当であるし、意味が通りやすい。
それが、お二方のご批判・ご意見を受けとめたうえでの私なりの結論です。翻訳口調から脱した自然で美しい日本語を大切にしたいものです。
後味の良いコメントをどうもありがとうございます。
一文が長いですもんね。笑
要するに、貨幣「だけ」が尺度になってしまった「うえで」貨幣をもたないことが貧困だ、ということですよね。
それは「あたりまえ」だけどよく自覚する必要があるということですね。
「うえで」という部分をよく意識する必要がある、と。
この記事に引用されている箇所と直前の二つのパラグラフを読めば誰でもすぐトピック主の理解が可哀想なくらい間違っていることがわかるはずです。
問題の箇所とその直前の二つのパラグラフは以下の通りです。
「アメリカの原住民のいくつかの社会の中にも、それぞれにちがったかたちの、静かで美しく、豊かな日々があった。彼らが住み、あるいは自由に移動していた自然の空間から切り離され、共同体を解体された時に、彼らは新しく不幸となり、貧困になった。経済学の測定する「所得」の量は、このとき以前よりは多くなっていたはずである。貧困は、金銭をもたないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもたないことにある。貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外がある。この二重の疎外が、貧困の概念である。
貨幣を媒介としてしか豊かさを手に入れることのできない生活の形式の中に人びとが投げ込まれる時、つまり人びとの生がその中に根を下ろしてきた自然を解体し、共同体を解体し、あるいは自然から引き離され、共同体から引き離される時、貨幣が人びとと自然の果実や他者の仕事の成果とを媒介する唯一の方法となり、「所得」が人びとの豊かさと貧困、幸福と不幸の尺度として立ち現れる。
人はこのことを一般論としてはただちに認めるだけでなく、「あたりまえ」のことだとさえいうかもしれない。けれども「南の貧困」や南の「開発」を語る多くの言説は、実際上、この「あたりまえのこと」を理論の基礎として立脚していないので、認識として的を失するだけでなく、政策としても方向を過つものとなる。」現代社会の理論 p105
ここでいう「あたりまえのこと」とは、トピック主が理解しているように「お金がたくさんある=豊か」という認識それ自体のことではありません。
そのような認識が妥当する条件としてまず貨幣への疎外があること、そして貨幣への疎外が起こるのは人びとが自然や共同体から引き離されてしまった時であること。これら一連のことへの認識があるのかと問われた時に人は、そんなの「あたりまえのこと」であり、もちろん認識していると言うのだろうが、実際には認識が欠けているのではないか、と見田宗介氏は指摘しているわけです。
なので、その後のいくつかのパラグラフでは、この「あたりまえのこと」への認識を欠いた結果、どのような事態が起きているか、が書かれています。
たとえば
○自然や共同体の中で貨幣がなくとも豊かに生きている人びとの「所得が低い」からといって貧困と定義し、実際の生活も貧しいのだと解釈してしまう。
○開発によって「貨幣のほとんどいらない豊かな自然や共同体」から引き離されて実際には以前よりも生活が貧しくなってしまった人びとの「所得を向上させた」からといって、それらの人を豊かにし、救ったような気になってしまう。
これら二つの事態は明らかに誤りを含んでいますが、この誤りこそ、上で引用したパラグラフで書かれていたことへの認識の欠如からくるものであり、「あたりまえのこと」をきちんと押さえることが出来ていない結果である、と。そのように見田氏は主張しているわけです。
本来は引用した3つのパラグラフを1度読むだけでも理解可能と思われますので、私からの補足は以上です。
まぁ要するに、見田宗介氏の文章はトピック主が主張するように「ひどい文章」でも「意味が通らない」わけでも「論理的に筋が通らない」わけでも「テキストに載せるのが極めて不適切」でもなく、ごくごく普通の文章だということです。
むしろトピック主が書いた記事の方が「ひどい文章」であり「記事に載せるのが極めて不適切」なわけです。笑
すべてはトピック主の論理的思考能力、読解力の欠如が原因だと思われますが、あまりにも可哀想な理解力と酷い解釈を武器に、したり顔の批判をしている記事は、読んでいて決して心地良いものではありませんでしたので、一応この場を借りて指摘させていただきました。