宮城県の村井嘉浩知事が、二七日に「九月の入学、始業がよいのでは」という私案を示し、教育界で少なからず議論が巻き起こっているようです。実は当方、コロナ禍における公教育の在り方について近頃いろいろと思いをめぐらしておりました。で、同知事の私案を目にし、少なからず違和感を抱いたのです。以下、私見を述べようと思います。
コロナ禍の長期化を前提とするならば、「いつになったら以前のように生徒を学校に集められるのか」という問題設定そのものが現実的ではない。当方は、そう考えております。というのは、一か所に生徒を集めることそれ自体が3密を生むからです。そうなると学校が3密の新たな発生源になり、社会的に極めて危険な状況がもたらされることになります。せっかく終息しかかったコロナ禍がふたたび襲来する、というわけです。
そう考えると、学校は、生徒ひとりひとりにタブレットを配って、オンライン授業を徹底するよりほかにすべはないものと思われます。部活の復活などもってのほか、となります。オンライン授業で学校が提供できるのは主要5教科の教育サービスのみで、実技4科は基本的に無理だから、美術と体育と技術家庭と音楽は、たとえば二教科選択制とし、指導は民間機関に任せる、とするほかはないでしょう。費用はもちろん地方公共団体が出す。また、生徒の学力評価の仕方や、通知表の内容や取り扱い方も、根本から考え直さなければならなくなってくるでしょう。
こんなふうに、コロナ禍は、学校なるものの抜本的変革をもたらすのではないでしょうか。
こうやって考えを進めると、集団授業の再開時期をいつにするかといった議論は、空想にすぎないと言わざるをえなくなってきます。その意味で「9月の入学始業」もリアルに状況を踏まえたアイデアとは到底思えなくなってきます。
「九月入学始業はグローバル・スタンダードであって、留学生を受け入れるのに便利」というニュアンスの肯定論があるのも、気に入りません。コロナ禍は、グローバリズムという名のチャイニーズ・パワーの浸透がもたらしたものという側面を、当方、重く見るからです。そういう軽佻浮薄な言説を目にすると、まだ懲りないのか、という感慨を禁じ得ないのです。
文科省は、既成の枠にとらわれた堂々巡りをいい加減やめにして、公立小中高の生徒たちのオンライン授業の実現に向けて早急に動き出さなければなりません。大人が空しい議論をしている間にも、子ども総体における学力低下や子ども間の学力格差の拡大はすさまじい勢いで進行しているのですから。念のため申しあげておきますが、省益の保護をやぶにらみしてはいけませんよ。
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