美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

新しい経済学のために ―――西部邁『ケインズ』を読む (美津島明)

2015年06月02日 14時27分17秒 | 経済
以下は、先日の五月三一日(日)に実施された第14回経済問題研究会(小浜逸郎氏主宰)において、私が講師として話した内容です。当日配布したレジュメ用の文章に加筆訂正をしてあります。使用したテキストは、西部邁氏の『ケインズ』(イプシロン出版企画 2005年)です。本書はもともと岩波書店の「20世紀思想家文庫」の一冊として1983年に出ました(同シリーズには、小田実の毛沢東、田中克彦のチョムスキー、坂部恵の和辻哲郎、などという名前が出ています)。83年といえば、実感的な言い方になりますが、世の中から昭和の暗さや貧しさが払拭され、時代の空気が一変する出発点に当たる時期です。また、「ケインズは死んだ」などと叫ばれ、レーガノミクスやサッチャリズムなどといういわゆる「サプライサイドの経済学」なるものが全盛期の時代でもありました。それを思うと、本書は、一言でいえば、孤独を運命づけられていたという感慨が浮かんできます。著者ご本人の弁によれば、本書は「経済学界では予想通りに完全に無視された」そうで、世間からも忘れ去られていたのも同然の状態であったところ、イプシロン企画の河村信という人物が中心となって、『表現者』の出版元を同社が引き受けるのに合わせて復刊の運びとなったそうです。

*話の中身に入る前に、次に掲げるふたつの動画を観ていただくと、ケインズの業績と時代背景を手際よく視界に収めることができるでしょう。よろしかったら、ごらんください。ケインズとリディアの結婚が、当時週刊誌的な話題を提供したとは知りませんでした。

100人の 20世紀  ケインズ 1/2


100人の 20世紀  ケインズ 2/2


☆☆☆

はじめに
今回は、これまでのようないわゆる勉強会の形式を採らないことにします。というのは、本書に込められた、西部さんの情熱(あるいは毒)に、講師であるべき私自身が、すっかり参ってしまったからです。〈お前は、この本に込められた、私の経済学への突き詰めた問いについてどう考えるのか。そうして、どう答えるのか。お前が経済学の専門家でない、というのは、この問いから逃れる理由にはならない。なぜなら、私自身、経済学の一見堅固な城塞の内側から自分なりの流儀で脱出したところでその問いを発しているからだ〉という声をどうにも無視できないところまで、いわば追い詰められてしまったのです。けっこうマジになって読んだのですね。

では、どうするか。本書が発信するメッセージに、私自身がどう触発され、または、どう反発したのかを率直に述べるほかはない。さらには、それを提示することによって、今日参加なさっているみなさんが本書から汲み取ったものと、どう響きあうのか、あるいは、どうすれ違ってしまうのかを確かめる。そうするよりほかはないと考えます。そうするために、冒頭にあるように(僭越ながら)、「新しい経済学のために」というタイトルを掲げました。それらは、本書から私が受けとめたものに最大限のレスペクトを払うことでおのずと浮かんできた言葉です。

では、はじめます。

異形のケインズ像をめぐって
西部氏が描いたケインズ像は、ほかの誰のそれとも似ていません。西部氏のケインズ像と比べると、ほかのすべてのケインズ像は、ケインズをあくまでも経済学者の枠内で描いているという意味でひとくくりにできるのではないかとまで思われます。むろん私は、既出のすべてのケインズ論を読破したわけではありません。そんなこと、私にできっこありませんし。要するにそう思えるほどに、氏のケインズ像が独特であり、異形のものであると強く感じられる、と言いたいのです。
そしてその像が、誰によっても語られなかったケインズの本質を射抜いているような感触が残るので、読み手は、衝撃を受けることになるのではないでしょうか。その衝撃の矢は、背後から襲ってきます。

では、氏が描く異形のケインズ像とはいかなるものなのか。引きましょう。

つねに時代の中心に姿を現したにもかかわらず、彼(すなわちケインズ――引用者補)はマージナル・マンつまり境界人であった。理論と実践、学問と芸術、世俗と超俗、道徳と背徳、その他あれこれの境界線上を彼は足早に駆けぬけていった。むろん、人は誰しも、そんなふうな生き方をするものではある。しかし、生の両義性をケインズほどみごとに体現した人も少ない。市井の人々が平凡な生活の裏にひそかに隠している心理の葛藤劇を、ケインズは歴史の大舞台の上で演じた。歴史のドラマの渦中に身をあずけて、彼は及ぶかぎり多様な事柄にじつに多彩な仕方でかかわった。それは、悪くいえばカメレオンの所業であり、良くいえばカレイドスコープの現象であった。(15頁)                       

氏によれば、ここに提示された鮮やかなケインズ像は、高度大衆社会に対する彼の向き合い方や、その独特の政治性や、生の哲学の掴み方や、議論へのスタンスの取り方や、書き手として「散文的健全性」を選び取った事実や、ブルームズベリー・グループとの関わり方や、さらには、『一般理論』においてついに実現されなかったその真の狙いにまでも、くっきりとした影を落としています。二〇〇ページ足らずのエッセイでそれを描ききったところが、氏のすごいところです。あらためて言うまでもないのでしょうが、氏は、やはり並の思想家ではないとあらためて感じます。

労を厭わず、その論点のひとつひとつを順に見てみましょう。

ケインズは高度大衆社会とどのように向き合おうとしたのか
ケインズは、長期の不況や大量失業という現実を前にしての古典派経済学の無力ぶりを「長期的にはわれわれは皆死んでいる」(『貨幣改革論』)と揶揄し、そういう問題を解決するための短期的対応の重要性を強調し、政府の財政政策や金融政策の積極的役割にスポットライトを当てました。西部氏は、ケインズのそういう振る舞いを、二〇世紀に誕生し大いに勢力を増しつつあった高度大衆社会に、ケインズがどう関わろうとしたのかという視点から読み直します。

ケインズは「平凡な人間を褒めそやす」という近代の新興宗教に我慢ならなかった(中略)。他人と同じであることそれ自体に喜びを感じるような大衆の進撃を前にして、個人の独立性と多様性を守ろうとしたのである。しかも、より困難な問題を自分に課し、それを解決してゆく活動的生のうちに個人の自由を実現しようとしたのである。
 私思うに、当時の知識人の多くは、大衆の軍隊にすすんで応募して大衆の欲求に適応するだけの受動的生を送るか、あるいは往時をなつかしみながら崩れ去りつつある旧制度のなかに閉じこもろうと空しくあがいていた。ケインズという人間の面白さは、ほとんど軽率に近い大胆さをもって別の途を歩んだ点にある。つまり旧制度の門戸を自ら開けて、大衆の軍隊の真近かにまで歩み寄り、そして大衆を批判しつつ大衆のために獅子吼したのである。
 (151-152頁)

ケインズが示した、この振り幅の大きな振る舞い。生の両義性を真正面から生き抜こうとした姿。ここで西部氏は、ケインズという人物の精神の大きさやその魅力を鮮やかに描き出しえています。特に、「大衆を批判しつつ大衆のために獅子吼(く)した」という筆使いには、いい年をした私が戦慄さえも覚えるほどです。またここには、西部思想という「主観」とケインズ像という「客観」とが図式的にきれいに分けられた描写があるのではなくて、ケインズの精神の姿形をその深みにおいて描き出そうとする営みにおいて不可避的に論者の思想のエッセンスが重ね描きされざるをえないという思想のドラマが刻み込まれています。

(いささか脱線します。ここを読んで私は、宮崎アニメの、大衆との関係における危うい両義性を連想しました。宮崎アニメは、その根底に現実憎悪・現実否定の情動を根深く蔵しています。いいかえれば、大衆に牙を剥いているのです。宮崎駿は、それをお金のためにごまかそうとせずに、真っ直ぐに真摯に突き詰めようとします。その真摯な突き詰めの試行錯誤の過程が独創的な映像として昇華され、それを観た大衆は深く心を動かされることになります。このように宮崎アニメには、大衆憎悪を内包するのと同時に、大衆に深く愛されることによって大衆とともにある、という両義性が存します。そういう魔法じみたあり方の実現を可能にしているのは、その卓越した映像美と魅力的な音楽の数々です。以上、お粗末さまでした)

話を戻しましょう。西部氏は、〝高度大衆社会に対する接近と離反〝という両義性に耐え得なかった後続のケインジアンたちの精神の脆弱性を、次のように厳しく批判します。

(ケインズ経済学のオーソドックスな継承者という意味での――引用者補)嫡子のブリティシュ・ケインジアンは労働者という大衆の、そして庶子のアメリカン・ケインジアンは消費者という大衆の、それぞれイデオローグになったのである。(152頁)

西部氏としては実のところ、「なったのである」ではなくて実は「なりさがったのである」と結びたいところでしょう。なぜなら氏には、〈二〇世紀以降の高度大衆社会は、大衆の信奉する物質的快楽主義と社会的平等主義によって精神の退廃もしくはその崩壊がもたらされる病いに冒されている〉という強烈な問題意識があるからです(その問題意識が、氏のケインズ像に特有の無視し得ないバイアスを持ち込むことになってしまっているのではないか、という疑いが頭をかすめないわけではありません。そのことについては後ほど触れましょう)。

その強烈な問題意識が、西部氏をして、次のような厳しいケインズ評を展開せしめている、と言っていいのではないでしょうか。

経済学は、その幾多の偉大な成果にもかかわらず、物質的快楽主義と社会的平等主義の隠しもつ毒に鈍感でありつづけてきた。幸福と平等は経済学者にたいしつねに喜びをもたらす想念であった。このいわば知的なマーマレードの消費が、産業主義と民主主義という近代の宗教のしばしば残酷な戒律にしたがう一種の祭祀なのかもしれぬということについて、経済学が驚きの眼を見張ったことは、ほんの一部の例外をのぞいて、まずないといってよい。ケインズの驚くべき多孔的な精神もそうした驚きにはやや盲目であった。大衆に対するケインズの二面作戦に破綻が生じたのは、彼が余りに経済学者でありすぎたからではないだろうか。(153-154頁)

西部氏はここで、第二次世界大戦後において、福祉国家という高度大衆社会の「ユートピア」を招来した責任の一旦はケインズ自身にあり、その原因は、ケインズが、物質的幸福に対して懐疑の眼を決して向けようとしない「経済学の眼」を少なからず分け持っていたからである、と言っているように読めます(私が、少なからず違和を感じるのは、その地点なのですが、そのことについては後ほど述べましょう)。さりながら西部氏は、他方で次のような指摘をすることを忘れません。

大衆に近づきながら大衆を突き放す、この愛憎感情の併存のなかで大衆に対する懐疑が鍛えられる。ホイジンガ流にいえば、それは真剣で危険な〝遊び〝であった。(19頁)

これはもちろん、ケインズの精神のダイナミズムを指しての言葉です。そうしてそれは西部氏のものでもあります。それゆえ西部思想もまた、単なる大衆嫌悪や大衆憎悪で終わらないダイナミズムを有することになります。西部思想もまたケインズに勝るとも劣らないほどの、大衆をめぐる両義性との「真剣で危険な遊戯」を演じているのではないでしょうか(詳しくは知りませんけれど、あのなんともいえない愛嬌のある笑顔を思い浮かべるとそう思えてきます)。その両義性のうち、思想表現において目立っているのは大衆嫌悪・大衆憎悪の側面です。しかし西部氏は、大衆の肯定的側面を感じ取っている部分も少なからずあるように感じるのですが、そこが思想表現としてはあまりきちんと表出されていないような気がするのです。

実感レベルの話になってしまいますが、私は、日本の大衆には、仮にほかの人が見ていなくても、与えられた仕事を立派にやり抜こうとするこだわり、すなわち職人魂が根強くあると思っています。それは例えば、ラーメン屋の親父がつねに美味しいラーメンを客に提供しようと創意工夫し苦心したり、大工さんが誰に言われなくてもこだわりを持って家を建てようとしたりする、といった、日本人の、仕事を遂行するうえでのごく平均的な現場感覚を指しています。それはとても貴重なものであり、思想的営為において、それを見逃すことは大げさでなく致命傷になりうるとまで、私は思っています。というのは、それを見過ごすことは、私たちが安心して毎日を快適に過ごすことができているのはほんとうのところ何のおかげなのかをまったく分かっていないか、あるいは、分かっていてもその重要性をあえて無視しているかのいずれかを意味するからです。前者ならば無知と鈍感の極みですし、後者ならば知的驕りの極みと申せましょう。いずれにしても、思想家失格です。

いささか脱線してしまったようです。話を戻しましょう。

ケインズの「政治性」とは何か
西部氏によれば、高度大衆社会状況に対する、ケインズの両義的な構えは、その独特の「政治性」と密接な関係があります。

結局、ケインズの政治性とは、現実の政治を疑い、そして現実の政治から疑われながらも、自らの経済的認識を政治という煉獄の火によって浄化させずにはおかない、しかもそれを真剣な遊戯としてやり通そうとする精神の強靭さのことなのである。(49頁)

氏によれば、ケインズの政治性とは、いわゆる政治との関わりを「真剣な遊戯」として遂行し切る「精神の強靭さ」のことです。決して、政党に属する政治家になって政治の現場で体を張ることではないのです。ここには、いわゆる言論なるものをめぐるケインズの直観的洞察が伏在しています。彼は「〝集団と共に、しかし集団からはなれて独りでいる〝ことの矛盾のなかから言論の活力が生まれてくるということ」(139頁)をよく分かっていたのです。いいかえれば、「狭義の行動」と「深い意味での実践」との違いをよく分かっていたということです。ついでながら、この本質的に矛盾に満ちた立ち位置が被る圧力に耐え兼ねた言論人は、おおむね、同伴知識人という名の知の売春婦になるか、あるいは、状況とは無縁の、高踏派という名の知の夜郎自大になるかのいずれかであると私は思っています(少々、強烈過ぎましたか?)。いずれも、言論人の堕落形態と申せましょう。言論人には言論人の、守るべき固有の自由の領域があるのです。西部氏の言葉遣いに倣えば、ケインズは、さまざまなレベルの両義性に耐え抜く強靭さを保持することで、その自由を(矛盾した言い方になりますが)のびのびと固守した。そういう人物像が浮かんできます。

氏はここで、「政治」という言葉のニュアンスをめぐっての視線変更を鮮やかに成し遂げていると言っていいのではないでしょうか。

ケインズにおける「生の哲学」とはどういうものか
政治や経済の諸領域で両義性を生き抜くケインズを、西部氏は、「生の哲学」を体現した人物として描いています。

彼の言論活動には過剰も不足もともどもあるのであるが、それにもかかわらず鮮明に印象づけられるのは、その生のスタイルである。要約すれば、懐疑にうらづけられた活力への絶え間ない意志である。彼はその意志を明文化したことは少ない。しかし、その人生の全貌を見渡したとき、ケインズは生の哲学を相当の純度をもって実践した人なのだ、といってよいように思われる。(83頁)

では、「生の哲学」における「生」とは、いったいどういうものなのでしょうか。氏は、オルテガを援用して次のように言います。

「われわれの生は、必然的に根本的に孤独であるが、われわれは、この孤独の深底から、それに劣らず根本的な共存と社会への憧憬のなかへ浮びあがる」のである。(中略)生は、その本来の姿において、活力ある生なのであり、より高次の要求を自分に課しつづけるという意味において貴族的な生である。それは、軽信に身をゆだねた盲目の行動(ビヘビァー)ではなく、不断に懐疑を保持しつつ、問題としての生に解答を与えつづけてゆく活動(アクション)である。(82頁)

ここまで引用すれば、ケインズの、両義性を保持しつづけるという「真剣で危険な遊戯」が、生の哲学の相当な純度での実践であった、という意味がおのずと明らかになるでしょう。「不断に懐疑を保持しつつ」もいたずらに懐疑に終始するのではなく、現実と向き合って果敢に解答を与えながら、かつ懐疑を捨て去らない、というプロセスをたゆまず続行することが生の哲学の実践でもある、と言っているのですね。それを世界史という大舞台で敢行したところがケインズのすごさである、と言えそうです。それも、両世界大戦を含む激動の歴史のなかにおいてのことなのですから、それを思うと、ケインズという知性の強靭さがいかにすさまじいものであったのか、形容する言葉を探しあぐねるほどです。

ケインズの議論の流儀
ケインズの議論の流儀にも、マージナル・マンという彼の特徴がよく出ています。それを、イギリスの外交官・歴史家であったハロルド・ニコルソンの日記からの孫引きで確かめてみましょう。

彼〔ケインズ〕の心は、議論のための議論に積極的に喜びを感ずるという特殊な型の傾向を持っています。(中略)彼は、当座、自分が立証しようと努力する点だけを見て他を顧みない癖があって、きのうはそれとは非常にかけはなれた事柄を立証したという事実を考慮せずに、あすはまた別の事柄を立証しようとするということです。彼はただ一点に焦点を当てて一連の議論を集中的に展開することができます。そのため彼は、他のすべての事柄がわずかの重要性しかもたないように、ほかの人たちに思わせることに成功します。そしてそれらの事柄がケインズ自身にとって副次的な重要性をさえもっているかどうか疑問です。彼の意見は絶え間なき進歩の状態にあります。したがって、一見したところ変転きわまりない状態にあります。彼はパラドックスには決してひるみません。時々はパラドックスをそれ自体のために狙います。(97頁)

この描写から、私たちは、議論をしているときのケインズの様子をありありと思い浮かべることができますね。それを一言でいうならば、(おそらく)堅実で冷静なニコルソンの目に映る、ケインズの、議論に熱中する溌剌としたそうしてカメレオンのような姿です。ケインズは、議論の相手たちとのやり取りのなかで興味深い論点が浮かんできたら、おのずとその一点に精神が集中し、突き詰められるところまで突き詰めてやまなかったのでしょう。そうであるのみならず、同じ論点を今度は別の切り口から取り上げるきっかけが生じたならば、ためらわず、その角度からもう一度突き詰める。そうすることで、先ほどと相反する結論が出たならば、ケインズはあわててつじつま合わせをするのではなくて、そのつじつまの合わなさや矛盾やパラドクスやらに虚心に驚くのでしょう。そういうことを、相手の目の前で繰り広げる。倦むことなく繰り広げる。議論の対象の両義性を味わい尽くす。その姿が議論の相手の、ケインズは「議論のための議論に積極的に喜びを感」じているとか、「時々はパラドックスをそれ自体のために狙」っているなどという評価を生む。ケインズにとっては、「真剣で危険な遊戯」の遂行にほかならないのでしょうが。

おおむね、そういうことを踏まえたうえで、西部氏は次のように言います。

ケインズは言葉に生きる人であった。彼は活力ある生としての言論行為にみずからをかりたてて已むことがなかったのである。あえて誇張すると、政策議論はそうした生の、いってみれば、偶々の題材であったにすぎぬ。(97頁)

ここも、まるで自分自身のことを言っているかのようです。

*この箇所を扱っているとき、参加者の間から、「ケインズの肉声はどういうものだったのだろうか。早口なのか、朗々とした語り口だったのか、高音だったのか、低音だったのか」という話が出て大いに盛り上がりました。その後、参加者のひとりがメールで、ケインズの肉声を伝える動画を送ってきてくれました。ご紹介しておきます。


J.M.ケインズの肉声・金本位制停止を寿ぐ


ケインズはなにゆえ「散文的健全性」を選び取ったのか
「言葉に生きる人」であり、真の意味での「言論人」であったケインズが、自分はどういう文章のスタイルを選び取るべきか、について無自覚であったはずがありません。西部氏によれば、彼は自覚的にひとつの文章のスタイルを選びました。それが、氏のいわゆる「散文的健全性」です。その指摘は、本書の中で私が最も触発された部分のひとつです。

結論からいうと、ケインズのめざしたのは散文的健全性であると私は思う。ドクサとパラドクサを適宜に配合しながら、状況の要請する課題に解答を与え、そして状況に新たな展望を拓こうとするとき、大なる可能性で数学は無効であると彼は判断していた。まして、彼の視野には道徳や習慣やといった象徴的意味の解釈が無視しえぬ程度におさめられている。そういう解釈にとって数学的思考の寄与しうるものは多くない。(中略)現実的状況に帰還するにはやはり自然言語の助けがなければならない。(99-100頁)

文章家としてのケインズが目指した「散文的健全性」という方向は、西部氏がいうように、数学的な人工言語が散文的な自然言語を放逐してきた経済学の趨勢に逆行するものです。最近では、正当派経済学は、単なる「経済学」という呼び名よりも「経済科学」という呼び名を好むほどに、その傾向が強まっています(個人的には、不毛でふざけた話であると思っています)。

「経済学者」ケインズが、数学的人工言語を能う限り廃し、ロック、ヒューム、アダム・スミス、ベンサム、ダーウィン、ミル、マルサスの伝統に根ざした散文的健全性を選んだ理由を、西部氏は、さらに深く掘り下げます。

彼(ケインズ――引用者注)の文章は文学好きのものにはたいした感動を与えることはできないし、数学好きのものにはあまり理解されない。しかしそれはケインズが戦略的に選んだ表現法なのであった。文学と数学のそれぞれに造詣の浅くないケインズではあったが、社会のどまんなかに降り立とうとしたとき、頼りにできたのはやはり散文的健全さであった。文学や数学は散文的健全さのなかに巧みに織り込まれ、ひそかに潜伏させられたのである。(102頁)


引用文中の「社会のどまんなかに降り立つ」という文言にいささかこだわってみようと思います。ここは、〈「経済学者」ケインズは、経済について本質的な議論を十全に展開するために、まずは、「社会のどまんなかに降り立つ」ことが必要である、と考えた〉と読めます。そのためには、経済学の城塞に立てこもる数学的人工言語から意識的に距離をとり、散文的健全性を選ぶ必要があった、と。つまり、ケインズの経済学観・経済観・社会観と、選び取った文章のスタイルとは切っても切り離せない関係にある、と。ケインズの選び取った文章のスタイルには、それまでの経済学のあり方への懐疑や批判がおのずと織り込まれている、ということですね。西部氏はそう言っているように思えますし、私自身どうやらそれが正しい見方であろうととりあえずは思っています。破綻を来さない限りはこの見方を固守して先に進もうと思います。

ケインズは、ブルームズベリー・グループとどう関わったのか
正直に申し上げましょう。私は、ブルームズベリー・グループという、額に汗をしたこともない「あめんぼうのような」上流階級連中が醸成している鼻持ちならない気障な雰囲気に対して身体の底から湧いてくる違和感や嫌悪感をいかんともしがたいと思っている人間です。だから私は、同グループのメンバーに対して「あぶら虫」という罵詈雑言を浴びせたD.H.ロレンス(小説家)や、同会の雰囲気にどうにも馴染めなかったリディア(ケインズの妻でロシア人の元バレリーナ)に深い同情の念を寄せざるをえません(それらは、私が根っからの庶民である、という出自がもたらしている感覚にほかならないことを自覚しています)。

そんなわけですから、私にはブルームズベリー・グループを公平にバランスよく語り、そのなかでのケインズの位置に関して的確な論評をするなんて芸当は逆立ちしてもできっこありません(三島由紀夫にだったらそれがきちんとできそうです。これは皮肉抜きで言っています)。

ブルームズベリー・グループとケインズとの関わりについては、西部氏の言葉に虚心に耳を傾け、その中心部分を簡潔に述べるよりほかはなさそうです。

グラント(画家――引用者注)と共同で家を借りたり、さらにヴァージニア(小説家――引用者注)とウルフ(バージニアの夫――引用者注)を加えて共同で家を借りたりするという形で、彼は覚醒の拠点を確保したのである。既成の知識、既成の感覚の体制のなかで眠りこむことに対する激しい嫌悪が彼をブルームズベリーに結びつけたのであろう。 (39-40頁)

ケインズは、後に正当派経済学を古典派としてトータルに批判する精神の構えを同グループの雰囲気から汲み取り、育んだのでしょう。

ケインズをブルームズベリーからひそかに隔てていたのは、知的貴族の後裔であることについての自己認識の濃度の違いなのだ、と私には思われる。ブルームズベリーの反逆的な言動がいわば〝甘やかされたお坊っちゃん〝のデカダンスとして、つまり理性尊重の名に隠された直観や良識やの退廃として受け取られる危険を、いやそれ以上に、実際にそのようなものになってしまう危険を、ケインズは少しずつ理解していたのではないか。小説家D.H.ロレンスがブルームズベリーに浴びせかけた表現をかりれば、ケインズは自分が「このぞっとするような、うようよ集まっている小さな自我」の一員であることにも覚醒しつつあったのである。(40頁)

ブルームズベリーについて、語る資格も能力もない私としては、同グループのなかにおいても、相変わらずマージナル・マンであったケインズの相貌が見つけられたので、それで良しとするほかないでしょう。

*こんなふうに私は、ブルームズベリーについて消極的な物言いに終始したのですけれど、参加者のひとりが、同グループの中心的人物である「ヴァージニア・ウルフは、父との葛藤を描き続けた作家である」という意味のことを発言しているのに触発されるところがありました。ケインズを含むブルームズベリーのメンバーたちは、ヴィクトリア王朝期というイギリスの黄金時代を体現した父親世代に対する反抗心を不可避的に育んだ人々だったのです。言いかえれば、「私たちは、父親たちのように自信たっぷりの安定した心持ちでいることはもはやかなわない」という不安を抱えた人々だったのですね。覇権の手放しを余儀なくされつつあった大英帝国没落期の申し子と言っていいでしょう。そう考えると、ケインズの古典派経済学に対する徹底批判の根のところに、父親殺しの情動があるのかもしれない、と思えてきたりします。いささか文学的過ぎますでしょうか。


ヴァージニア・ウルフ

『一般理論』においてケインズが本当に目論んだこと
通常、ケインズが『一般理論』を世に問うた理由は、次のように語られます。〈それまでの正当派経済学は、目の前の大不況、大量失業という「豊かさのなかの貧困」に直面して、なすすべを知らなかった。せいぜい、《賃金の下方硬直性(賃金が需給の均衡するところまで下がらずに高止まりしてしまうこと)を問題視して、企業側がより多くの雇用をしたくなるところまで賃金が下がることを労働者が受け入れれば失業問題は解決する。というよりむしろ、完全自由競争においては、調整期間を経て、均衡点に価格が落ち着くことになっているので、要するになにもしないで、事態が落ち着くべきところに落ち着くのを座視すればよい》と「提言」するのが関の山だった。それに対してケインズは、有効需要という鍵概念を武器に、大量失業は、賃金の下方硬直性が原因ではなくて、有効需要の不足こそがその真因であることを明らかにし、正当派経済学の非現実性を徹底批判した。このように、大量失業の原因を明らかにし、正当派経済学を「古典派」と形容して、その理論の硬直性や非現実性を批判することが、『一般理論』におけるケインズの目論見であった〉というふうに。

西部氏は、そのようないわゆる「定説」を踏まえたうえで、ケインズの射程はもうすこし遠く、経済学に対する批判意識はもう少し深かった、という意味のことを言っています。氏はここでも『一般理論』を、自分の問題意識に即して深読みするわけです。その道筋を順次追ってゆきましょう。

西部氏は、『一般理論』を論じるにあたって、まずは第二章「古典派経済学の公準」第四節の最終段落を引用します。ちなみにその直前には、古典派経済学者はいわゆる「科学的」な誠実さに従うならば、労働者が労働組合の団結力を背景にして賃金カットを拒むことが失業問題の根本原因であると宣言せざるをえない、という意味のことが書いてあります。

しかし明らかに、古典派理論が完全雇用の場合にのみ適用されるものであるならば、それを非自発的失業――かりにそのようなものがあるとして(またいったい誰がそれを否定しえようか)――の諸問題に適用するのは誤りである。古典派の理論家たちは、非ユークリッド的世界にいるユークリッド派の幾何学者に似ているのであり、一見したところ平行な直線が経験上しばしば交わるのを発見して――現に起こっている不幸な衝突に対する唯一の救済策として――直線がまっすぐになりつづけていないのを非難するのである。だが実は、平行の公理を投げ捨てて、非ユークリッド幾何学をなんとか仕上げる以外に救済策はないのである。(159頁)


氏は、この箇所と、第一章とを重ね合わせます。第一章は、1ページ足らずしかないので全文を山形浩生氏の訳本から引きましょう。

この本に『雇用、利子、お金の一般理論』という題をつけたとき、強調したかったのはこの「一般」という前振りです。こういう題名の狙いは、私の議論や結論の特徴を、経済についての古典派の理論と対比させることです。私は古典派理論を教わってきたし、その理論は行政や学術階級の人々による経済についての発想を、実務面でも理論面でも支配しています。それはこの世代に限らず、過去百年ずっとそうでした。その古典派理論の公準は特殊ケースにだけあてはまり、一般の場合にはあてはまらない、というのが私の主張です。そこで想定されている状況というのは、あり得る均衡位置の中でも限られた点だけを想定しているのです。さらに古典派理論が想定する特殊ケースの特徴は、私たちが実際に暮らしている経済社会の特徴とちがいます。だから経験上の事実に適用したら、古典理論の教えはまちがった方向を示して散々な結果を招いてしまうのです。

(蛇足ながら、上記の「古典派」について、ケインズ自身の注があるので、次に掲げておきます。
《「古典派経済学者」というのは、リカードやジェイムズ・ミルとその先人たちを指す名称としてマルクスが発明したもの。つまりリカード派経済学に集大成される理論の創始者たちということになります。誤用のそしりを受けるかもしれませんが、私は「古典派」というと、リカードの後継者たち、つまりリカード派経済学理論を採用して完成させた人々を含めるものと常々思っています。(たとえば)J.S.ミル、マーシャル、エッジワース、ピグー教授などです。》恩師と兄弟子の名をすんなりと載せるあたり、ケインズの神経は図太いのでしょう。)

上に引いた第一章について、西部氏は、「その異様に凝縮された表現のなかに、ユークリッド的な古典派を特殊な場合としてふくむ非ユークリッド的な一般理論を仕上げようとする彼の並々ならぬ意気込みがうかがわれる」と述べます。そのうえで、ケインズにとっての、経済的な意味での「非ユークリッド空間」とはいかなるものなのかについて、次のように述べます。

彼の住まおうとした経済の非ユークリッド空間とは、つづめていえば、二重性の経済哲学だということができる。均衡と不均衡、静態と動態、慣習と変化、確実性と不確実性、慣性と期待、合理と非合理、個人と集団、競争と干渉などといった相互に関連した様々の二重性がケインズの経済学には溢れている。彼の経済学が難解になるのはそのためであるし、他方で、それが時論風の現実味をおびるのもそのためである。(中略)この二重性の経済哲学が彼の個性、価値観、学問論あるいは政治論における様々な二重性と、たとえば芸術と科学、道徳と背徳、数学と散文、自由と計画などの二重性と表裏一体をなしている。(中略)ケインズの『一般理論』には彼の多彩な活動において得られた多様な二重性の思想が流れ込んでいると思われるのである。(160頁)

これは氏自身が言っていることでもありますが、そのような二重性の経済哲学を経済の枠組みのなかに織り込んで、経済学的知見として明晰に展開するのは、至難の技です。「二重性の経済哲学に形式的な厳密性つまり数学的な表現を与えるのは当時も現在も不可能に近い」のです。というより、二重性の経済哲学それ自体が、本質的に、数学的定式化に抗するものを内包しているのではないかと思われます。逆に言えば、数学的定式化もまた二重性の経済哲学を拒む。

私は別に小難しいことを言おうとしているわけではありません。たとえば、『一般理論』のなかで最も有名な言葉のひとつである「アニマル・スピリッツ」を取り上げてみましょう。これは、ケインズによれば「手をこまねくより何かをしようという、自然に湧いてくる衝動」を指しています。あるいは、「自然発生的な楽観論」とも言っています。これは明らかに緻密で計量化可能な数学的期待とは次元を異にするものであって、それを定式化することはある意味で不可能ではないにしろ、そうする意味はあまり感じられないのではないでしょうか。どこか虚しい所業と感じるのがふつうなのではないか。それが、〈二重性の経済哲学それ自体が、本質的に、数学的定式化に抗する〉という言い方で、私が申し上げたいことです。

以上のようなことがらを踏まえたうえで、西部氏は、端的に「ケインズは、非ユークリッド的と自認するような経済哲学を構想しておきながら、それを的確に表現するのに成功していない」と断言しています。その意味で、二重性の経済哲学を経済理論に深く取り込むこと、それが、『一般理論』においてケインズが本当に目論んだことである、ととりあえず言えそうです。しかるに、氏が言うように、ケインズはその目論見を十全に果たすことができなかった。それゆえ、後続のケインジアンは、そういう困難な知的営みを引き継ぐのはそこそこにして、ケインズの思考の数理化や図形化にその知的エネルギーの多くを割いてきました。ところが、そういうことにかけては、ケインズがいうところの古典派、すなわち正当派経済学にかなわないところがあります。なにせ、彼らはそういうことばかりやってきた人たちなのですから(とびきりの秀才連中ですし)。勢い古典派は、嬉々として数理化され図式化されたケインズ経済学を自分たちの緻密な体系に積極的に取り込むようになります。そうなるとケインジアンに、勝ち目は無くなってくる。そこで、西部氏は分の悪いケインジアンに対して次のような提案をします。

ケインズの二重性の経済哲学を定着させる以外に、ケインジアンに勝目はないのではないか。彼がいくつかの新奇な術語に辛うじて託そうとした哲学的な含意を探る、言い換えればいわばケインズ解釈学というべきものに入ろうとするとき、彼のなした仕事もまた古典派にたいする解釈学として生命を保つのではないかと思われるのである。 (167頁)

ここで西部氏がつぶやくように提案した「ケインズ解釈学」が、具体的にはどういうものであるのか、なるべく想像をたくましくしてみましょう。私に浮かんでくるのは、例えば、「アニマルスピリット」「美人コンテスト」「流動性選好」「慣習」「期待」「自信の状態」などという、人間心理もしくは社会心理に対する洞察に満ちた興味深い〈新奇な術語〉を、現実の経済状況と深く丁寧に関連付けるという知的営みです。それは、端的に言ってしまえば、ケインズが目論んだ意味での本当のケインズ経済学を社会学に向けて大きく開くことです。そうすることで、社会学もまたその内容を良い意味で刷新することになるでしょう。それがうまくいけば、私たちが経済現象を見る目は確実にひとまわり豊かになるのではないでしょうか。それが、タイトルにかかげた「ケインズを開く」ことである、ととりあえず言っておきましょう。その意味で、西部氏が示唆する方向性に賛意を表するのはやぶさかではありません。ケインズは、それらの新奇な術語のほとんどを「付録」と彼自身が称した第12章「長期期待の状態」で取り上げています。その「付録」に着目することが、どうやら、ケインズの本当の目論見を救い出す道のようですね。

西部氏の高度大衆社会に対する問題意識への違和感
西部氏に、〈二〇世紀以降の高度大衆社会は、大衆の信奉する物質的快楽主義と社会的平等主義によって精神の退廃もしくはその崩壊がもたらされる病いに冒されている〉という強烈な問題意識があること、および、ケインズが物質的幸福に対して懐疑の眼を決して向けようとしない経済学の眼を分け持っていたことを批判的に取り上げていることは、すでに述べました。そうして、それに対して、自分は少なからず違和感を抱いている、とも。最後に、それに触れておきましょう。

私は、全体としての大衆が物質的に豊かになることを無条件で肯定する者です。「武士は食わねど高楊枝」という考え方や清貧という生き方を、個人が倫理として大切にすることについては何の文句もありませんが(どうぞご勝手に、ということです)、そういう個人倫理を社会全体に投影した物言いに対しては、ちょっと待てよと言いたくなるところがあります。大衆が物質的に豊かになることはとてもいいことじゃないか、何を了見の狭いことを言っているのだという思いを禁じることができないのです。

渡辺京二氏は、『近代の呪い』(平凡社新書)のなかで、次のように言っています。

これだけは人類に贈った近代の恩恵といえるものがただひとつあります。それは衣食住の豊かさであります。(138頁)

現代の社会が過去のどの社会よりすぐれている点といえば、衣食住における貧困を基本的に克服したことです。(139頁)

ご存知のように渡辺氏は、強烈な反近代の情念の持ち主です。そういう氏が、近代の実現した大衆レベルの物質的豊かさをきちんと肯定的に評価する。そのうえで、近代がもたらす問題点をとことん論じる。そこに私は、渡辺反近代思想の健全性や大きさを見ます。そういう視点をないがしろにすると、論が現実の社会や人間の営みのリアリティと根本的なところで齟齬をきたすことになってしまう。だから私は、大衆の物質的幸福の増進に対して懐疑の眼を向け、否定的言辞を弄したがる言説をあまり高くは評価できないのです。西部氏の物質的幸福観に対して違和感を抱かざるをえない所以です。

まとめると
さはさりながら、マージナル・マンとしてのケインズに鮮烈な光を当て、『一般理論』の隠された豊かな可能性に着目した氏の慧眼には感服します。私としては、西部思想に対する、自分自身における否定的評価と肯定的評価との併存にあまり矛盾を感じませんが、西部的視線からは、少なくとも、両義性を帯びた評価と目されてしまうのかもしれません。しかし、人間は本質的に両義的存在であると言ったのは西部さんご自身じゃないですか、ととりあえず抗弁の真似をしておきましょう。

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